Saturday In The Work
月曜日が嫌いという人間は結構聞くが、土曜日が嫌いというのはあまり聞かない気がする。
まあ、週休二日制が浸透してきた今では多くの人間にとっては休日だし、そうでない人間にとっても土曜日が特別忌まわしい日になるというのはそうないのだろう。
俺はといえば、土曜日が大嫌いだ。何故ならそれは、学校が休みになるため平日に後回しにしていたような掃除やら洗濯やらを片付ける必要があるから。そりゃ、平日にも少しずつこなしてはいるのだが、汚れの溜まりやすい部分の掃除だとか布団カバーみたいな大きな物の洗濯はどうしても休日に行う必要があるのだ。
なんで俺がそこら辺を全部担当する羽目になっとるんだと思わないでもないが、実際問題として聡子さんはそこそこ忙しい人で、月一程度のペースで土曜日にも出勤していたりする。龍樹はよい子だがこの件に関してはお手伝い以上の戦力にはならず、クソ親父は全く役に立たない。毛ほども役に立たない。毛も無い。
嫌だ嫌だと言うても何の解決にもならんので、最近はもう諦めて土曜の午前中はただひたすら家事をこなすマシンと化すことで、なんとか残りの時間を自由に使えるよう確保している。ただ、大抵は疲れて土曜の午後とか何もする気にならないのが難点だが。
「だぁーっ。疲れた」
「おう祐介、丁度良いからコーヒー淹れてくれ。インスタントでいいから」
第一弾の洗濯物を干し終わった所で一旦小休止を取ろうとした俺の目論見は、親父の一言で脆くも崩れ去った。「てめーでやれ!」と返そうかとも思ったが、聡子さんも一緒に居るのを見て言葉を飲み込む。
こういうのはちゃっちゃと終わらせた方が精神衛生上よろしいので、ちゃっちゃと3人分のコーヒーを用意して、リビングに戻る。我が家では砂糖とミルクは龍樹以外は各自で入れることになっている。ちなみに、その龍樹は朝から友達と遊びに出掛けていて、真琴ちゃんはまだ寝ている。
コーヒーを飲みながら、これからの予定をどうするか考えていく。とりあえず一番手強いのは、昨日真琴ちゃんが着ていたボロ一式だ。流石に他の洗濯物と一緒にするのは躊躇われたのだろう、洗濯機の横にデンと脱ぎ捨てられていたそれは「原材料:泥」と言われれば納得してしまいそうなほど汚れており、少し持ち上げただけで辺りが埃まみれになった。
とりあえずは留め具らしき金物を全部外して、バスタブの風呂の残り湯に漂白剤と共にぶち込んで漬け置きしてあるのだが、果たしてそれで汚れが落ちるかどうかは甚だ怪しい。そもそもタグの類が見つからなかったので生地が何で出来ているのかも定かでなく、もしかしたら漂白剤は不味かったかも知れない。ただまあ、あれをクリーニングに出すのは店に対する営業妨害以外の何物でもなく、一旦は家で汚れを落とす必要があろう。
あんなもんどこで着るんだよと思わなくもないが、逆に言えばあんなボロボロになるまで着ていたのだから何かしら愛着があるのかも知れない。もし色落ちとかで酷いことになったら、命をかけて土下座するしかあるまい。俺の命がぼろきれより軽くないことを祈るばかりである。
親父と聡子さんはさっさとコーヒーを飲むと、時計を見ながら出掛ける準備をしている。確か今日は聡子さんは休みの日だし、夫婦水入らずでどこかに行くという話も聞いていない。別に逐一俺に断りを入れる必要も無いのだが、飯をどうするかは聞いておく必要がある。
「二人とも、どっか出掛けんの?」
「ああ、真琴ちゃんが帰ってきたから、それ関連の手続きにな。市役所や学校は休みだけど、警察とかはやってるだろうから」
成る程。そりゃ1年半も行方不明になっていれば、捜索願だの何だのは出していただろう。
我が家で車を運転するのは親父一人だから、付き添いで行くのも納得だ。聡子さんも免許は持っているのだが、周囲から「龍樹を可愛いと思うならお前は運転するな」と強く言われてペーパードライバーになっているらしい。
昼飯は適当に済ませるから用意しなくて良いとの言質を取って、二人を送り出す。
「祐介さん、急な事で戸惑うかも知れないけど、どうか真琴の事もよろしくお願いしますね」
「ああ、はい。何とか頑張ってみます」
出掛け際に聡子さんに改めて頭を下げられたので、生返事を返しておいた。正直な所、真琴ちゃんとはよろしくするとか以前にまず俺の生存権を獲得する所から始めにゃならん気がする。
流石に聡子さんが居なくなった途端に俺を抹殺するような短絡的な思考はしていないと信じたいが、彼女の行動基準が分からないので何とも言えない。扱いが新しく出来た義妹というより我が家にやって来てしまった殺人マシーンだが、まあぶっちゃけ俺にとってはそんなものだ。昨夜の出来事は忘れたくても忘れられない。
そう考えると、彼女の許可を得ずに着衣を洗濯したのは不味い気もするが、そもそもアレをどうにかしないと俺の休日はいつまで経っても始まらないわけで、悩ましい所である。
過ぎてしまったことを悩んでも仕方がないので、家事を再開することにした。コーヒーカップを洗って元の場所に仕舞い、風呂場の様子を見に行く。
バスタブは何というか、沼だった。そりゃ、元々風呂の残り湯だったわけだから澄み切った水面とはほど遠かったが、その時と比較するのもおこがましいほど水が濁っている。てか、わずか1時間足らずの漬け置きでここまでとは、一体どれだけやれば汚れが落ちきるのか考えるだけで頭が痛い。
汚れが再度布地に付くと落とすのが難しくなるので、一旦バスタブから引き上げ、湯を捨てた。水気を軽く絞り、再度バスタブに放り込んで水を張る。ここで、驚きの事実が判明した。どうにも、この着衣一式は元は白ないしクリーム色系をしていたようだ。元の染料の色らしき物が見えないので、漂白剤を入れすぎた可能性は低かろう。
汚いのであまり触らなかったのだが、どうにもフード付きマントと裾の長い貫頭衣のような上着に、腰紐で縛るタイプのゆったりとしたズボン、ノースリーブシャツと褌みたいな下着のセットのようだ。改めて、近頃の女子中学生はおろか現代日本人からはほど遠い服装に思える。
いろんな染みとかが着いていてまだ汚いが縫製はしっかりしているらしく、布地にも意外と擦り切れている部分などは見当たらない。コスプレ衣装にしては出来が良すぎるようにも見えるし、一体こんな物どこで手に入れたんだろうか。
まあ、詮索は後だ。思ったよりも汚れ落ちが良さそうなので、衣類をバスタブから大きめのタライに移して手もみ洗いを始める。サブサブする度に水が濁っていくのが、一周回ってなんだか楽しくなってきた。
何度かタライの水を入れ替え、どうにかこれなら洗濯機に入れても問題無かろうと判断出来るまでになった所で、生地を軽く絞って風呂場横の洗濯機置き場に戻る。はたしてコイツを洗濯機にかけて良いのか迷ったが、手洗いで丸一日を潰す気にもならないので、折衷案として大きめのネットに入れて上物洗いコースにすることで自分の中で折り合いを付けた。
目立つ汚れにスプレーの漂白剤をバシュバシュかけていると、脱衣所のドアが開く。後ろを振り返ると、そこには目覚めたばかりなのだろうボサボサ頭の真琴ちゃんが立っていた。一晩経ってもその眼光にいささかの衰えも無く、ぶっちゃけ怖い。可愛らしいパジャマも雰囲気を和らげる役には立って居らず、むしろ胸についたウサギのワッペンが幾多の冒険者の首を刎ねてきた怪物に見える始末だから、どんな物かおわかりいただけると思う。
「ええと、おはよう」
「おはよう。……なにしてる?」
おはようから永眠まで直行しなかったことに、心の中で安堵する。昨夜の聡子さんからのオーダーがまだ効力を発揮しているのか、それとも敵味方識別装置に保留対象として組み込まれたのかは分からないが、いきなり襲われることは無いようだ。会話が出来れば、歩み寄りも不可能ではないと信じたい。
「見ての通り洗濯だけど…… もしかしてこれ、洗濯機はマズい奴?」
「……知らない。というか、それ捨てといて。日本じゃそんなの着れないし」
日本で着られない物を、一体どこで着ていたというのか。謎は深まるばかりだが、訪ねるのもそれはそれで怖いので触れないでおく。生き残るには臆病すぎるくらいが丁度良いって誰かが言ってた。
捨てといてと言われたものの、濡れた物をそのまんまゴミ袋に突っ込むとカビるので、とりあえず洗濯機は回すことにする。生地はしっかりしてるっぽいので、後で汚れの少ない所だけを切り取って雑巾にでもすれば良かろう。
逃げるように脱衣所を後にし、家の掃除に取りかかった。
旧愛川家、現岡家は庭と駐車場がある2階建て住宅で、まあかなり立派なお家である。
新参者の俺にも自分の部屋が与えられる程度には間取りに余裕もあり、つまりは掃除がスゲー大変だ。一応は平日にも片付けやちょっとした掃除をするようにはしているが、それを差し引いても面倒くさい。聡子さんはずっと働いていたわけで、再婚前はどうしていたのかと尋ねたら、週に2回ほどお手伝いさんに来てもらっていたとのことだ。さもありなん。
元々掃除が好きではないのもあり、ひたすら心を無にして必要なことを必要な分だけ行うことに集中する。俺にとって掃除とはそういう作業だ。生きた文化女中器のように機械的に、埃を落としたり掃除機かけたり雑巾かけたりちょっとしつこい汚れにメラミンスポンジかけたりして何とか一通り掃除を終えた頃には、時刻は既に正午近い。心は停止していても体は働いていたわけで、ぶっちゃけ疲労困憊である。
今から2階にある自分の部屋に戻っても、龍樹が帰ってくればまた昼飯の準備だの色々やるために降りてこなければならんので、それが面倒で台所で休憩を取る。普段踏み台代わりに使っている椅子に腰掛け、牛乳と砂糖を馬鹿みたいにぶち込んだインスタントコーヒーを啜っていると、なんとなくひとごごち着いた。
ふと冷蔵庫が目に入り、今ある食材と今朝のチラシにあった特価品を頭の中で並べて、そういや晩飯どうすっかなーと考えた。休憩中もつい家事のことを考えてしまう、こういうのもワーカーホリックとか言うのだろうか。
そういえば、昨夜に真琴ちゃんのリクエストに応えるとかそんなことを言った気がする。彼女が帰ってきたお祝い的なのもした方が良いだろうし、そう考えると夕食は彼女の好みを聞いてから考えるか。ケーキも用意した方が、どうせならデザートも彼女の要望を聞くかなどとつらつら考えていると、いつの間にか目の前に真琴ちゃんが立っていた。
めっちゃビビった。心臓に悪いので、もう少し気配を発しながら行動して欲しい。
「ごはんは?」
「リビングのテーブルに、今朝の分を用意してあったと思ったけど」
「それは食べた。昼」
「えーっと、龍樹が帰ってきたら用意しようと思ってたんだけど、早いほうが良い?」
「……なら、それでいい」
どうやら、俺には給餌器としての存在価値は認められているようだった。まあ、「貴様の施しは受けん」等と言われてもそれはそれで面倒なだけなので、素直に喜んだ方が良いのだろう。
しかし、朝はそれなりに遅かったのにもう昼飯を要求してくるあたり、実は腹が減っているのだろうか。人間、腹が減れば攻撃的になるのは自然な現象なので、彼女の満腹度は俺の生存率と直接的に関わってくる可能性が大いにある。確認しておいた方が良いだろうと思い、台所を出ようとしていた彼女に声を掛けた。
「もしかして、腹減ってる?」
「……………………そんなことは無い」
返答までにかなり間があった。
なんなの? 腹ぺこキャラと思われるのはプライドが許さないの? なのに昼飯の事を聞いちゃううっかり属性を発揮しちゃったの?
考えてみれば、昨夜は元々4人分で余らせるつもりだったのを5人で食べたわけだし、今朝はとりあえずで聡子さんと同程度の量を用意しただけなので、実際には彼女がどれくらい食うのか把握できていない。中学生女子でも運動をしていれば量を食うのは別におかしくないし、あれだけのパワーを発揮するためには当然エネルギー補給は必要だろう。食事が足りていないとしても不思議ではない。
「あー、なんと言えば良いかな。ぶっちゃけ、これから飯の用意するの俺なんで、出来ればどれくらいの量を食いたいのか教えといて貰えると助かるんだけど」
「大丈夫。平気。足りてる」
「……えっと、じゃあ、余った飯で焼きおにぎり作るんだけど、それも要らない?」
「それは食べる」
真琴ちゃん、君はもう少し言動に一貫性を持たせることを覚えた方が良い。ああいや、やっぱこれ以上面倒くさくなられると困るからいいや。そのままの君で居て。
レンジでチンしたご飯にから煎りしたゴマとジャコを混ぜ、濡らした手で三角おにぎりの形に形成する。丼一杯分くらいの飯を固めた巨大おにぎりになってしまったが、まあ良いだろう。焼きおにぎりはデカイのにかぶりつきたい派だ。何個も握るの面倒いし。
フライパンに醤油とほんのちょっとバターを垂らし、そこにおにぎりを入れて表面を焼き固めていく。レンチンご飯なので焦がし過ぎないようにだけ気をつけていればよく、醤油とバターを足しながら適宜ひっくり返していくと、程なくして焼きおにぎりは完成した。焦げた醤油の香りが食欲をそそる一品である。
そのまま皿に載せて、真琴ちゃんに差し出す。
「でかくない?」
「デカイ方がかぶり付いた時に幸せ感あって良いじゃん。多けりゃ残して良いよ」
「もったいない。全部食べる」
答えたかと思うと、直に皿から取って齧り付く真琴ちゃん。皿を持ってリビングに行くという選択肢は無かったのかね、キミ。
人の食事シーンをジロジロ見ているのも失礼なので、とりあえず皿を置いてフライパンはキッチンペーパーで簡単に汚れを取る。どうせ昼飯を作るのに使うので、こんなもんで良いだろう。
そういえば真琴ちゃんの朝飯の食器をまだ片付けていないことを思い出し、シンクに見当たらないので恐らくリビングに出しっ放しなのだろうと当たりを付けて、取りに行こうとしたその時。
「ただいまー」という元気な声と共に、玄関から廊下をドタドタと走ってくる音が聞こえてきた。我が家の王子様のご帰還である。
「あーっ、ねーちゃんオニギリくってるー! いーないーなー!」
「だーっ! たっくん、ストップ! 止まれ、お前はいかにも泥んこだ!!」
想像以上の汚れっぷりで台所に入ってこようとする龍樹を、寸前で抱き上げてインターセプトする。俺の服も泥だらけになったが、調理の場に泥が入るよりは万倍マシだ。
諦めきれないのか、なお台所に侵入しようとあがく龍樹。いや、抱き上げられた状態で足動かしても進まないから。てか、兄ちゃんの腹に良い感じに多段ヒットしてなかなか痛いから。
「おーにーぎーりー」
「たっくんの昼飯は別に用意するから。てか、その前に兄ちゃんとシャワー浴びて綺麗になろうな」
「ふぉえわわ、わふぁひわ」
「真琴ちゃんは、まず飲み込んでから喋ろうな」
「おーなーかーすーいーたー」
「ふぉあ、ふぁふひをいわわっふぇう」
「だー、もう! わがまま言う子は昼ご飯抜き!!」
途端に、抗議の声はピタリと止んだ。君ら姉弟はそういう所はそっくりなんだな。てか、真琴ちゃんはその上で昼飯まで食う気なのか。
何にせよ、静かになった今がチャンスなので、龍樹をそのまま風呂場へ連行する。泥だらけの服を脱がせ、あからさまに土が付いている部分だけ洗い流して、あとは洗濯機に放り込む。その際、真琴ちゃんのマント一式を干し忘れてたことに気付いたが、それは後で良いだろう。
ここまで来れば流石に龍樹も観念し、大人しくシャワーを浴びてくれる。手で石けんを泡立てて龍樹の汚れを洗い落とし、シャワーで流した後にタオルで水気を拭き取る。体が小さいので、協力的でさえあればそんなに時間は掛からない作業だ。
風呂から出ると同時に台所へスタートダッシュを決めようとする彼を捕まえてもう一度水気をよく拭き取り、服を着せてから解放した。素晴らしい速さで台所へと駆けていくが、残念ながら兄ちゃんが台所へ行かない限り、君の昼飯は永遠に完成しないのだよ。
俺はと言えば自分の汚れた服と使ったタオルを洗濯機に入れ、しっかり洗いコースを選んで洗剤を投入しておく。そして一旦自分の部屋に戻り着替えた。ついでに、真琴ちゃんのマント一式をベランダに干しておくのも忘れない。
改めて台所の前まで戻ると、玄関から続く廊下に龍樹の足跡がきっちりと刻まれていた。あれも、後で拭き掃除する必要があるだろう。その前に昼飯の準備をしないと、流石に飢えた群衆が暴動を起こしそうだったが。
龍樹は自身のおにぎり権を強硬に主張したが、空のおひつを見せると現実を理解したようで、野菜たっぷり塩焼きそばでの妥協案を受け入れた。
焼きそばはあまり手間の掛からないメニューである。野菜を刻み、一度そばだけを炒め、それから野菜とシーフードミックスを炒め、野菜に火が通ったタイミングでそばを投入して中華スープの素と水を入れて蒸し焼きにする。丁寧にやっても10分かからない。
「焼きそば、美味いか?」
「うん、おいしー!」
「そうか、そりゃ良かった」
幸いにして塩焼きそばは龍樹に好評で、ほっと一安心である。ちなみに、口には出さないが真琴ちゃんにも好評だったようで、俺換算で3人分を用意したのが、全て無くなった。
俺は当然1人分しか食っていないし、龍樹も腹が減ってるとは言え俺1人分は食わないわけで、残りは全て真琴ちゃんが消費したことになる。朝飯と焼きおにぎり、それに焼きそばを考えると流石にかなりの量で、これを1日3食食べるとすると相当な物になる。
材料費に関しても、もしかしたらちょっと工夫しないと渡されている生活費をオーバーする可能性がある。まあ、ここら辺は後ほど聡子さんと親父を交えて相談しよう。流石に、年頃の娘に飢えろとは言わないと思うが。
洗い物を片付け、追加の洗濯物を干し、更に龍樹の残した足跡を拭き掃除し終わると、どっと疲れてリビングにへたり込んだ。やっぱ土曜日は好きになれん。
「にーちゃん、あそぼー」
「兄ちゃんまだ用事があるから、姉ちゃんと遊んでなー」
「えー」
いや、「えー」とか言わないの。今、姉ちゃん凄い怖い目で兄ちゃんを睨んでるからな。てか、なんで俺が睨まれにゃいかんのですかね?
「兄ちゃん、まだこれからアイロン掛けして晩飯の買い物に行くから、たっくんと遊んでる時間無いなー」
「そんなの、あしたでいーじゃん」
「いやでも、今日は姉ちゃん帰ってきたお祝いするから、ご馳走作らないといけないしなー。明日にすんのは無理だなー」
「うー。じゃあがまんする」
「よしよし、良い子だ」
流石に、姉のお祝いとなれば我が儘を言うべきで無いと悟ったのだろう、聞き分けてくれた。龍樹の頭をなでた後、真琴ちゃんの方に押しやる。アイロン掛けの必要性に言及されなくて助かった。
アイロンとアイロン台を用意してから、聡子さんのブラウスと俺と親父のシャツを取りにベランダに向かう。生乾きのウチにアイロンを掛けると、皺の伸びが良いのだ。
……で、無事にアイロン掛けを終え、買い物に出たのは良いのだが。
「にーちゃんにーちゃん、おかしかっていいー?」
「今日はご馳走の材料一杯買うから、お菓子は無しなー。そんかわり、晩飯にデザート付くから」
「やったー!!」
なんで二人とも付いてきてるんですかね?
何故かは分からんが、「これから晩飯の買い物行くけど、食いたい物ある?」と聞いたら、二人とも一緒に行くと言い出してこの有様である。たっくん、君ははしゃぎすぎると疲れて兄ちゃんが背負って帰る事になるから、ちょっと自重してな。
まあ、龍樹が付いてきたがるのはいつもの事なので、困ると言えば困るが仕方ないと言えば仕方ない。問題は俺の横を歩く真琴ちゃんだ。何というか、平和な町中にあって一人、核戦争で荒廃した時代の荒野を歩くがごとき緊張感を纏っている。恐らくは龍樹が付いてくると言い出したのでそれに付随してきたのだろうが、それにしてももう少し周囲に溶け込めない物か。
ついでに言うと、龍樹はいつものお出かけルックで問題無いのだが、真琴ちゃんは明らかに身の丈に合っていないダボダボのダッフルコートを着ており、目つきと相まって不審者っぽさが半端ない。てか、そのダッフルコート見覚えがあるんですけど。
「あー、言いにくいんだけど、そのダッフルコートってもしかして……」
「借りた」
「ああ、やっぱ俺のか。ああいや、貸すのは全然構わないんだけど、ぶっちゃけサイズ合ってなくてスゲー変」
俺も平均身長に少し足りない程度の背丈しか無いが、それでも真琴ちゃんとは恐らく10cm以上違うから、サイズが合わなくて当然ではある。
元々俺にも少し大きめのダッフルコートは真琴ちゃんの膝元まで隠しており、その下に素足が覗いているのでぶっちゃけ露出狂の痴女っぽい。怖くて口には出せないが。
「1年半で背が伸びたから、前の服が入らなかった」
「ああ、成る程」
1年半前に失踪したなら、今ある冬服は2年前に買った物だ。流石に、成長期で2年前の服を着るのは厳しい物があろう。もし入ったとしても丈が足りないだろうし、この11月も中旬に差し掛かった頃にヘソ出しルックで歩くより、ダボダボコートの方がまだマシか。まあ、分からんでもないが、そこまでして付いてこないでも、とも思う。
この状態の真琴ちゃんを連れ回すのはイジメにしかならないので、最安値店巡りは諦めて一番近い食料品店で買い物を済ますことにする。幸い、他の店と比べて明らかに品質が劣るというようなことは無いので、値段に目を瞑れば晩飯の買い物には問題が無い。
「真琴ちゃん、何か食いたい物とかある?」
「ごはん」
「あー、えー…… 君が帰ってきたお祝いだから、もうちょっと贅沢な物を言ってくれて良いよ? 作るの俺だから、そんな凄い物は出来ないけど」
「しばらくお米が食べれなかったから、思いっきりごはんが食べたい」
「ああ、成る程。白いご飯が良い? それとも炊き込み系?」
「なんでもいい」
なら、ちらし寿司だな。ご飯物だし、寿司だから晴れの日のご馳走としては申し分ない。この季節だし、ちょっと豪勢に鮭とイクラとか混ぜとけば見栄えも良かろう。
メニューさえ決まれば後は楽ちんで、それぞれのコーナーを回って材料をひたすら籠に入れるだけだ。全部をこの店で揃えるのであれば、特に迷う事も無い。
途中、龍樹がコーヒーゼリーを食いたいと言い出したが、真琴ちゃんに了解を取ってデザートをそれにすることで妥協させた。コーヒーゼリーは基本コーヒーにゼラチンと砂糖を溶かして冷やし固めるだけなので、デザートの中では特に楽な部類だ。ナイス、たっくん。
「おお、今日はちらし寿司か。豪勢だな…… って、流石に作り過ぎじゃないか?」
「うっる、せー。文句、あんなら、てめーで、準備、してみろ、って」
親父の指摘に、肩で息をしながら応える。正味な話、ちらし寿司という料理を甘く見ていたと言わざるを得ない。
いや、ちらし寿司自体は、今まで何度も作ったことはあるのだが、問題は量だ。真琴ちゃんのお祝いで彼女を飢えさせるのは本末転倒なので、多めに作ろうと思ったまでは問題無かったのだが、未だに彼女がどの程度食えば満足なのか把握できていないのは問題だった。
と言うわけで、とりあえず十分なマージンをと思って1升ほど飯を炊いたのだが、この量の飯をかき混ぜるのは俺にとって全く未知の領域であると言うことを失念していた。元々親父との二人暮らしで、ちらし寿司でも精々4合もあれば余った。再婚してからも、聡子さんも龍樹もそこまで量を食うわけでは無いので、それでも5合あれば十分足りた。
それがいきなり1升に増えたわけで、まず団扇で扇ぎながら寿司酢と飯を混ぜ、そして更に具と寿司飯を混ぜる。元々一日の家事で疲れていた体には、それらの肉体労働はかなり荷が重かった。牛肉とジャガイモのしぐれ煮とかキンピラゴボウとかすまし汁とか、他の物を先に用意しておいて本当に良かったと思う。
その甲斐あって、ちらし寿司はかなり良い出来だと思う。見た目は鮭イクラの赤色に錦糸卵の黄色とサヤエンドウの緑が非常に鮮やかだし、味見をした限りではかなり美味く出来ていた。
今日のこの場は真琴ちゃんの帰還祝いであり、主役は彼女だ。
大人達はグラスにビール、子供はジュースを注いで、静かに掲げる。
「えっと、じゃあ、改めまして。真琴、おかえりなさい」
「ねーちゃん、おかえり」
「真琴ちゃん、おかえり」
「おかえりなさい」
「えっと、その…… た、ただいま」
聡子さんに続いて、皆が真琴ちゃんにお帰りを言う。真琴ちゃんも、少し恥ずかしそうにしながらそれに応えた。
その後、静かにグラスを打ち鳴らして乾杯し、一家5人のささやかな宴は始まった。談笑しながら、各人が思い思いの料理を皿に取る。
果たして、ちらし寿司は非常に好評だった。真琴ちゃんも感想こそ口に出さないものの、矢継ぎ早におかわりをしている所から気に入ってくれていることが見て取れる。これなら、仲良くするのも出来るんじゃないかって希望も湧いてくる。
だから、1時間後に空になった寿司桶を見て俺が心の中で悲鳴を上げた事なんて、全然大したことじゃなかった。ゼンゼン、タイシタコトジャナカッタ。