第8話 吸血貴族はオッドアイの妹がお好き
「むっ……な、なんじゃ、この熱く湿った空気は。ひどくよどんでおる……」
中をのぞいてすぐに顔をしかめるイオネラ。
雄斗にとってはもう慣れたものだったが、初めてその部屋に入る者は得体のしれない違和感を感じるだろう。
なにしろ、ほぼ毎日カーテンもドアも全て閉め切っていて、空気がどんよりと滞留しているのだから。
暗がりの部屋の床には菓子の袋が散乱しており、脇にあるベッドには上着が散らかっている。
机にはカバンや筆記用具、プリントの類が雑然と放ってあり、もはや勉強机としての機能を失っていた。
女の子は上にTシャツ、下にショーツという下着姿の状態で、勉強机とは別に設けられたガラス板のPCデスクのイスに座っていた。
肩の下まで長く伸びた髪は黒ではなく、やや赤みがかった鮮やかな桃色。
だが髪の毛はぼさぼさで四方八方にはね、毛先は色素が変化したのかくすんだ緑色になっている。
耳には赤色のヘッドホンをあて、外界からの音を完全に遮断していた。
扉が開かれたことにも気づかず、パソコンの画面をじっと見つめたまま右手でマウスをカチカチと動かし、すばやくキーボードの操作を続ける。
これまで柊家では感じたことのない異質な空間だったためか、傍若無人のイオネラもこの光景にややひるんだ表情を見せた。
「……これは、一体何がおこっておるのじゃ……?」
あ然とした顔でイオネラが雄斗を振り返る。
だが彼も、すぐに「何」とは説明できなかった。
イオネラが現代日本の人間ならともかく、中世貴族の意識のままでは、「一日中パソコンでオンラインゲームをやりこんでいる」という現在の妹の状態を説明するのにどこから解説してよいのか分からないからだった。
「あー……とりあえず妹についてはおいおいってことで……今日は何か集中してるみたいだし、とりあえず部屋から出ねえか?」
「しかし、あやつ髪がピンク色じゃぞ? しかも先の方は変容して緑色になっておる。どうなっておるのじゃ? 妹といいながら、おぬしとは似ても似つかぬぞ。どういうわけか説明――」
そのとき。
「妹」が急にイスを回転させ、振り返った。
ようやく二人が部屋に入ってきたことに気づいたのか、妹はその視界に雄斗とイオネラの姿を入れる。
イスに上げていた両足を下ろし、ヘッドホンをとって彼女は口を開いた。
「……何のよう」
そう口にした彼女は、目鼻立ちの整った丸く小さな顔をしていた。
通常の生活を営んでいれば、同学年の女子に比べやや童顔でかわいらしい女の子、という容姿だったろう。
だが今の彼女の顔は血色が悪く、もう何日も家から――いや、この部屋からもほぼ出ていないのではと思える不健康な肌のたるみが見てとれた。
睡眠不足か、はたまた不規則な睡眠時間のためか、目の下には幾重にもクマが浮かんでいる。
しかしそれ以上に、彼女を他人に印象づける部分があった。
それは瞳。
二重のまぶたに眠そうな半開きの彼女の両目は、左目が蒼色、右目が紅色だった。
普通はまず見られない瞳の色。現代の人間が見たなら、それは「ああ、カラーコンタクトか」と気づくだろうが、イオネラはそれを目にした瞬間、驚愕し息をのんだ。
「な、なんということじゃ……あやつはオッドアイ――両の目の色が違う種族なのか? さすれば、非常に高い魔力の持ち主ということになるぞ。その力は時にわれら吸血貴族をも凌駕するという。そんな人間が、よもやおぬしの家に暮らしていようなどとは……!」
「なんかよくわからん事情で驚いているみたいだが、とりあえず引っ込んでてくれないか」
口が開きっぱなしのイオネラを後ろに追いやり、あきらかに怪しんだ目で見つめてくる妹に対して雄斗は弁明する。
「ツグミ。ちょっと急なんだけど、今日からここにいるやつがこの家で暮らすことになったから。一応紹介しておこうと思ってきたんだ」
兄の言葉を聞き、つぐみ、と呼ばれた桃色の髪の妹は一瞬だけイオネラに目線を移すと、無関心そうに首をかしげた。
「……そう」
そしてまたイスを回転させ、ヘッドホンを装着しなおしパソコンの世界へ戻る。
再びカチカチとキーボードを操作する妹を見て、雄斗はいつも通りだという慣れと、あきらめにも似たため息を小さくはいた。
ツグミらしい反応だ。驚くことはない。いつもどおりの答え。
この一年間、ずっとこうだったんだから。
雄斗はそう思いつつ、ひとことだけ言い残した。
「ツグミ。下に晩飯置いてるから。適当に食べにこいよ」
兄の言葉が届いているのかいないのか、ヘッドホンをはめたままのツグミはしばらく何の反応も無かった。
そして、思い出したようにつぶやく。
「……いい。七時からギルドのみんなと噴水前で待ち合わせてるから」
それを聞くと、雄斗は何も言わず、部屋の扉を閉じようとした。だがそれへ、イオネラが口を出す。
「待て。勝手に扉を閉じるでない。あやつは何者じゃ? オッドアイの人間など、そうそう出遭えるものではない。おぬし、平然とした顔をしておるが、この重要性がわからぬのか? わらわはオッドアイの種族であるあの女と魔力協定について――」
「そんな謎の協定とかどうでもいんだよ。とりあえずツグミには関わるな――」
「オッドアイ?」
その時。
両の目の色が異なることを示すその単語に、ツグミが突然反応した。
ヘッドホンを上げてパソコンから首だけ振り返る。
「……そう、言ったの?」
見つめるツグミに、イオネラは細まった猫目の視線を返した。
「うむ。おぬしの両目を見てな。これは尋常ならざることと思ったのじゃ」
「…………」
だが――
ツグミは、やはり目を伏せて、またパソコンの方を向いた。
「……いまからエマニュエラの森で大切なバトルが始まるから、もう話しかけないで」
「バトル?」イオネラが目をぱちくりさせる。
「ということは……戦争が始まるということか? じゃが、この国にはそんな予兆は」
「ねえよ。だからもういいだろ」
雄斗はイオネラの首根っこを引っ張り、部屋の扉をパタンと閉めた。
つままれた猫のようになったイオネラは、廊下で下ろされると何気なく自室に入ろうとする雄斗に叫んだ。
「き、貴様! 平民ふぜいが吸血貴族であるわらわのえり首をつかむなどとは、斬首ものの無礼じゃぞ!!」
「だったらもう血はやらねえ」
「……き、貴様、それは脅しのつもりか? おぬしの代わりなど、ほかにいくらでも」
「いないから、この家に住みたいって言ったんだろ?」
「住みたいなどとは言っておらぬ! おぬしが頼むから、仕方なく住んでやろうと」
「分かったから。ぎゃあぎゃあわめかずおとなしくしていろよ。さもないと今からでも外に」
「…………ふ、ふん。仕方あるまい。平民の意見に耳を貸し、良き領主としてあるのもまた吸血貴族としての務め」
「……お前、吸血貴族の身分を都合よく使ってねえか?」
雄斗はいかにも面倒くさそうな挙動で、二階の手すりに上体をもたれさせる。
「あと、俺は平民でも貴様でもねえ。『雄斗』だ。呼ぶときはそれくらい守ってくれ」
「ユウト……? 平民ふぜいをわらわが名前で呼ぶなどと、そんなことが許されるとでも」
「なら今から外へどうぞ」
「ユウト、しぶしぶじゃが承知したぞ」
ほんとに外へはいきたくないんだな、と雄斗は思った。
とりあえず、自分の部屋に戻ろう。雄斗が扉を開けようとしたところで、イオネラは口を開いた。
「ユウト、ひとつ訊きたいのじゃが」
「なんだ?」
「おぬし、なぜ妹をわらわから遠ざけようとする? 妹のこととなると、おぬし反応が明らかに過剰となるぞ」
「……んなこと、どうでもいいだろ。お前に言ったってどうせ分かんねえだろうし、とりあえず放っておいてくれりゃそれでいいんだよ」
「……ほう」
興味深そうに、イオネラは口元を上げる。
こんなことを言えばさらに追求してくるかと雄斗は思ったが、彼女は何も言わずただ察したように小さくうなずくだけだった。
このとき、イオネラには雄斗について具体的なことが理解できていたわけではなかった。
ただ、ひたすら自分の言葉を払いのける彼の様子に、イオネラは彼にとっての妹の存在がある種のデリケートな部分――触れると弱い部分になっているということを直感することができた。
いつもと違う、という雄斗の気配を察するだけの感性を、イオネラは有していたのだった。
そんなことに気づくこともなく、雄斗は「イオネラ、血を吸いたくなったらいつでも言ってくれたらいいから」と伝えた。
イオネラはそれを聞くと、得たように猫目を開く。
「おお、ちょうど血を吸いたくなっていたのじゃ。おぬし、わらわの気持ちを先回りして察するとは、臣下としてなかなかできた所業じゃのう」
臣下になった覚えはねえけどな、と思いつつ、雄斗はイオネラに血を吸わせるために自室に入っていった。