第1話 吸血貴族は乗り移るのがお好き
「はーい! 今日もミナミナが、あなたのハートに両手いっぱいの元気をお届けするよ~!」
柊雄斗は、無気力な高校生だった。
学校へ通うことも、勉強をすることも、家で生活することも。
ものを食べることも、歯を磨くことも、ベッドで寝ることも、朝日を浴びて起きることも。
生きることも。
あらゆる物事が彼の中で空転し、何を生み出すでもなくただ通り過ぎるだけ。
息を吸い、息を吐いているだけの存在。
それが彼、柊雄斗という人間だった。
それでいいと彼自身も思っていた。
自分はそういう人間だ。勉学にはげむでもなく、部活にいそしむでもなく、ただこうやって自宅のソファーに座り、テレビを漫然と眺めているだけ。
それが自分という人間なんだと思い毎日を過ごしていた。
それほど大きくはない、だがきれいで立派な一軒家のリビング。
薄い緑色のカーペットの上に置かれた白いソファーに、彼は体を預けくつろいでいた。
彼はなんとなくリビングの右手に目を移してみた。
そこにあるのはキッチン。
それなりに横幅があり、ガスコンロも三つあるため、雄斗ら家族四人分の食事を作るには十分な広さだ。
両親が親戚や近所の人から何かのお祝いの折に食器をもらうことが多く、皿やグラスはありあまるほど棚に並べられている。
だがその半分以上は一度もその役目を果たせぬまま、もう何年も使われずほこりをかぶっている状態だ。
キッチンの斜め後ろに目を向ける。そこには階段がある。
この家は二階建てで、上の階には雄斗と妹の部屋、それに物置がある。
階段の途中には踊り場があり、日中であればそこの窓から日光が差しこみ足元を明るく照らす。
段差はやや大きく、もし自分が老いたら足をふみ外して頭をしたたかに打ち死ぬかもしれないなと雄斗は夢想した。
ソファの右斜め前にはゴシック調の木製の扉がある。
それを開くと、玄関へ続く廊下。木製の直線的なフローリングが、玄関とリビングを結んでいる。
ごく一般的な洋風の出入り口。さびれたステンレス製の扉が、外界とのつながりを冷たく遮断している。
ソファの後ろにも廊下が続いている。その先には十二畳の和室。
中央にふすまがあり、二つの部屋としても使えるそのい草の香る空間は、元々雄斗の両親が使っていた部屋だ。
母が和室にこだわり、家を購入する際の条件として加えていたらしい。
だがいまは使う者のいない、寂しげな空間になり下がっている。
ひととおり周囲をながめてから、雄斗は心の中で嘆息した。
――なに考えてんだ、俺。
雄斗は自嘲した。
彼が周りを見回したのには特に理由があったわけじゃない。何となく視線を外したかっただけだ。
帰宅してからずっと色の抜けた瞳で木偶のようにながめている、騒々しいテレビの画面から。
「今日ミナミナが来てるのは、アキバから歩いて十分くらいのところにある『りんかなシティ』です! このたもくてきしょーぎょーしせつで明日から開催される二つのイベントを、しっかりくっきりたっぷり♪ リポートしたいと思いまーす!」
来る日も来る日も、家に帰れば部屋にカバンを置き、夕食時までだらだらと過ごす日々。
何も変わり映えしない退屈な日常が、彼という一高校生の肖像を覆っていた。
「今日はなんと! この『りんかなシティ』で、インターナショナルなイベントが二つもおこなわれているんです! 外国人の方もたくさん来られるということで――
あ、ハロー! キャー! いきなりフランス人? 手をふられましたよ~! ミナミナもついに国際デビューですね! 気合が入りますっ。ないすとぅみーちゅー、あいむふぁいんせんきゅー……あ、で、ひとつ目のイベントなんですが――」
普通の高校生なら、と雄斗は思う。
普通の高校生なら、友達と遊んだり、部活に励んだり、笑ったり、怒ったり、泣いたりという青春らしい時間を過ごしているのかもしれない。
だが雄斗は、そんな甘酸っぱい世界とは隔絶された蚊帳の外で、無気力にただ時間だけを消費している。
「ロボットの展示会なんですけど、じつはこれ、普通のロボットとは違うんです。説明するより、まずはみてみましょう。といってもミナミナもみるのは初めてで――あれ、ロボットってこのへんにあるんじゃなかったでしたっけ? えっ、これ? これ、人じゃ――きゃー! ほんとに? これロボットなんですかぁ!?」
何をするにも気力がわいてこない。
身を浸しているなまぬるい沼の中から抜け出せずにいるような――いや、抜け出そうともせず、ただ沈むに身を任せているような感覚。
そのまま胸が、首が、頭までうずまっていく。
息ができなくなる。意識が遠ざかっていく。
いっそこのまま死んでもいい。雄斗の気分はどこまでも白かった。
「どこからみても普通の女の子にしかみえませんよー! ミナミナ、びっくりしちゃいました。これがこのイベントで紹介されている最新型の『バイオロイド』なんですね~。ええと……
本物の人間に究極まで近づくことを目標に、アメリカと日本の開発者が十年の歳月をかけて共同開発したロボットです。外見は人間の女性に似せて、髪の毛から瞳、体型、肌の質感まで人間と同じようにつくられています。
これだけならこれまでにもマネキン人形などでつくられてきたのですが、このバイオロイドで注目すべきは体の内部。なんと内臓機能まで人間と同じ形でつくられているんです。――あ、すみません、カンペガン見でした~えへへ」
夢もなく、目標もない。
生きていて、心揺さぶられることや、感動できるようなこともない。
生きることに、なんら喜びを感じられない。
なら、生きる意味なんてあるのか?
雄斗は自問するが、答えは出ない。
自分の出した疑問の回答を教えてくれる親切な人間は、彼の周りにはいなかった。
「形だけじゃなく、胃とか肝臓とか、心臓とかが、人間と同じように働くらしいんです。だからご飯を食べたらちゃんと消化できるんですよ。特に肝臓は500以上の機能があって、これと同じ機能をもつ化学工場は作れないといわれているくらい再現が難しい器官だったんですけど、この開発に成功したのが今回の一番の功績なんですね~。
それにしても、ほんとに普通の女の子にしかみえませんよ~。どちらかというと外国人っぽい外見ですけど、黒い髪で、黒い瞳だから、日本人にもみえないことはないですよね」
進むべき道などない。それはとうに閉ざされてしまった。
いまの自分にあるのは、ただ物を食べ、心臓が動き、息をしているという事実だけ。
生きているというより、死んでいないだけ。
それがいまの雄斗の存在だった。
「他にもお掃除ロボットとか、介護ロボットとか、何よりあの大人気アニメ『超新世紀アルマゲリオン』に登場するアルマ01号機の1/1スケールのロボットとかが展示されていて、ほんっっっっっっとに神なイベントになってますから、ぜひご来場ください! ミナミナもこれが終わったら即アルマ01号機を見にいきますからっ!
――え、スケジュールが詰まってるからダメ? そんなぁ……ミナミナ、テンション急降下なんですけどぉ」
たとえば、雄斗の目の前に映っているレポーターの女の子。
短い黒髪のツインテールの彼女は、最近売り出し中のアニヲタ系アイドルだ。
彼女のようにテンションの上がるような出来事が、自分にはあるだろうか。
好きなもの、夢中になれるもの、胸を高鳴らせるものが、いまの自分には見当たらない。雄斗はそう感じていた。
そう。いまの自分には。
「ふえーん。……でも、ミナミナはそんなことでは負けません! プライベートな時間を使って必ず来ますから! それでは気を取り直して、続いては二つ目のイベントを紹介しまーす! 隣の会場なんですけど――
うわぁ、なんだかおどろおどろしいですね~。さっきのバイオロイドのスペースと違って暗い感じですが……ここではなんと! 海外からやってきたとある怪物が展示されているんです! みなさん、なんだと思いますか~? 怪物ですよ、怪物。……カッパ? カッパじゃないですよー。ピラニア? う~ん、ある意味惜しいかも。
ヒントは、血を吸う怪物です。血を吸うんですよ~、怖いですね~。……吸血コウモリ? あ、近い!」
いまの雄斗にあるものは、だだっ広い虚ろな空間。
何かで埋めようとしてもとても埋まりそうにないほど広く、深い。
――いや、思っているほど広くはないのかもしれない。
むしろ、埋めようとすればさらに淵へ落ちていく、といったほうが近い。
注ぎ込んでも、わずかに開いた底の穴から全てが流れ出ていく。
「正解は――吸血鬼でしたー! ヴァンパイアです。ドラキュラですね~。肩から血を吸われると、吸われた人もヴァンパイアになってしまうという、怖い怖い怪物です。
でもみなさん、吸血鬼は創造上のものだと思っていませんか? ところが! なんと今回、はるか東欧のルーマニアから、本物の吸血鬼が入っている棺がやってきたんです! しかも三つも! これって超衝撃的じゃないですか? ヴァンパイアなんて、ミナミナもBLの二次元でしかみたことないですよ~」
流れ落ちた情熱はどこにたまるでもなく、ただ廃液となるだけ。
何かにやる気を出そうと立ち上がっても、心の底から気力が抜けるような感覚に襲われる。
何もする気が起きず、ただ時間ばかりが過ぎ、結局今日も何もしない一日ができあがる。
「こちらのイベントでは、そのヴァンパイアの棺が本邦初公開なんです! 本物ですよ、本物! そろそろ棺がみえて……きゃー! これですかぁ? ってか鬼サイズなんですけど!? こんなのどうやってもってきたんでしょう。木張りのショーケースに入ってて、厳重ですね~。
残念ながらイベントではこの中を直接みることはできないんですけど、中の様子をうつした写真や映像などがみられる部屋が……えっ」
なぜ高校に通っているのか、最近ではそれすら分からなくなってきていた。
不登校になってもいいという気さえしていたが、そうする理由すらみつけられずにいる。
どこまでも無気力な高校生。それが現在の柊雄斗という存在だった。
「……うそ。え、ほ、ほんとですか? あっ、な、なんとミナミナ、今日は特別に、あの本物のヴァンパイアの棺の中をみせてもらえるみたいです!
うわー、で、でも怪物ですよね。とつぜん飛び出してきたりとか……いまはミイラになってるから大丈夫? でもミナミナの知ってるヴァンパイアは、死んだとみせかけてよく復活とかしていたし、ふたを開けた瞬間かみつかれたりとか……もちろん二次元での話ですけど……そしてかみつかれたミナミナは太陽に弱くなり昼間には営業できなくなりましたとさ……は、はい。みます! みますよぉ~……」
どうしてこうなったんだろう。
雄斗はこれまで何百と繰り返してきた無意味な問いを自分に向けた。
原因は分かっている。経緯も、結果も分かっている。
それでもなお、彼は考えてしまうのだった。
「え~、というわけでサプライズでヴァンパイアの棺をのぞくことになりましたミナミナです。ってか本気で怖いんですけど……でも、ここでくじけちゃいけません。ミナミナには、テレビの前のみんなのためにしっかりくっきりたっぷり、このイベントをリポートするという使命があるのですから。
勇気を出してミナミナ。あなたにならできるわ。高い壁こそ越える価値があるのよ。うん。ミナミナにはできる。だってみんなの声援があるから……! ミナミナ、すみからすみまで本物のヴァンパイアをリポートしまーす!!」
堂々巡りのまま、雄斗の思考はしだいに疲労をともなってくる。
いくら考えてもらちがあかない。もうこのへんにしておこう。それよりそろそろ夕飯を作る時間だ。
母親がいない今、毎日の食事を作るのは自分の役目になっている。
今日も冷蔵庫に残ったものが材料の簡単な夕食になりそうだな。そう雄斗は考えた。
「さぁ、棺の前までやってきました。この棺は、西暦一四〇〇年代に実際に生きていたとされる、シェーンベルク家のヴァンパイアが納められています。由緒正しきヴァンパイアなんですね。
イオネラ・シェーンベルク……あ、女の人ですか? なるほどですね~。やっぱり漆黒のトレンチコートとか着てるんでしょうか? ……ミイラだからそれは無い? そ、そうですよね~、あはは。
では、いよいよふたを開けます! っていうか緊張しすぎて口の中カラカラなんですけど」
夕食を自分で作っているだけ、他の高校生に比べればまだマシだと思うかもしれない。
だが彼にとってはそれこそ惰性だった。
夕飯作りなど最初こそ戸惑うものだが、慣れてしまえば手の抜き方も分かってくる。
作るのは、どうにでもなる自分の分と、いつ食べにくるか分からない妹の分だけ。気楽なものだった。
「これを上に引き上げればいいんですね? ではいきますよー。日本初の映像をミナミナの手でお目にかけます! しっかりみていてくださいね~。うう、緊張の瞬間です……ミナミナ、あけまーす!」
さあ、いいかげん夕食にとりかからないと。
雄斗はリモコンを手にとって、テレビの電源を落とそうとした。
そこでようやく彼は番組が佳境に差しかかっていることに気がついた。
――六百年前のヴァンパイア、本邦初公開。
画面の右上に踊るホラー調の文字をみつけ、雄斗はリモコンの赤い電源ボタンを押す指を少し止めた。
特に理由は無かった。
なんとなく区切りとして、夕食を作るのはこれを見てからにしようと、彼は思ったのだった。
人気アイドル・ミナミナが、棺に手をかける。
どうせ中にはみすぼらしいミイラが横たわっているだけだろう。それを横から学者先生が「これは学術的に非常に貴重なもので」とか言って箔をつけ、視聴者を納得させるんだろう。
そう冷めた目で雄斗は思っていた。
ミナミナは、大きな棺のふたをあけた。そして、すき間からおそるおそる中をのぞく。
「うわぁ、これが――」
カメラが暗がりになっている棺の中を映し込む。
映像には、棺の中に安置されている古代のミイラが映っていた。
完全に骨と皮だけになった、おどろおどろしい死体。
元がどんな容貌の人だったのか、原型はとても想像し得ない。
たとえ絶世の美女だったといわれても、妖艶な悪女だったといわれても、ここにあるのはただのやせぎすの女――女かどうかも判別しがたいが――ただそれだけだった。
本邦初公開、といっても所詮はそのことだけに価値があるもの。
なんとなく、ものすごく古いものをみさせられて、なんとなく、ものすごく貴重な体験をしたような気になる。
それで喜びを感じられるほど自分は幸せな人間ではないと、雄斗は番組を嘲った。
想像通りの結果。面白みも何も無い。
雄斗は胸の中で少しだけため息をつきながら、再びリモコンを手にした。
「――だ、だいじょうぶか!?」
そのとき。
あわてたような男性の言葉を耳にして、雄斗はテレビ画面を見た。
そこには、棺のそばで気を失い倒れているミナミナの姿が映し出されていた。