5
「お疲れ様です」
4月に入り野球部に何人か新入生が入部してきた。しかし、まだ片付けは2年生の役目であり、大は同級生と新入生とともに、ボールを集め、ベースを回収する。バットとミットはすでに3年生が元の場所に戻してあったので、片付けは早めに終わった。
「じゃ、明日~」
「田倉先輩お疲れ様でした」
(先輩か)
その言葉をくすぐったく思いながら、大はじゃあなとユニフォームで帰る後輩達に手を振る。
着替えるか迷ったが、大は急いだほうがいいとロッカーから鞄を掴むと部室を出た。
(門限は8時。今日は絶対、無理だよな。裏から帰るしかない)
学生寮に入っている大はそんなことを考えながらも慌てて図書館へ向かう。
今日はもう遅いから明日からの計画だけを花埜と話し合うつもりだった。
(そういえば、今日初めて言葉を交わした気がする)
今日、一緒に落下するまで、大は花埜と話したことがなかった。
昼休み、たまたま旧校舎近くを通ったら、屋上で身を投げようとしている花埜を見た。思わず、止めなきゃと思い、屋上まで駆け上った。
(でも、あれはきっと自殺じゃなかったんだ)
大はよくよくあの時のことを思い出し、そう気がつく。しかし、あの時は本当に自殺するかと思った。クラスの中で花埜は一人だけ浮いていた。いじめではないのだが、その人を寄せ付けない雰囲気に誰も話しかけようとしなかった。だから自殺を考えたのではと大は想像してしまったのだ。
(でも本当、無口な子だよな)
そう思った時、ふとひそひそ声が聞こえた。聞き覚えのある声で、大は日が落ち、視界の悪くなった校舎を見渡し、二つの影を見つけた。
(吉谷先輩?!海山先輩?!)
大は思わず隠れるように壁に張り付く。二人は囁きあいながらキスを交わしていた。
(うわああ。初めて見た)
大は自分が真っ赤になるのがわかった。生キスを見たのは初めてだった。
しかし、二人がいる道を通らないと図書室には行けないと、大は勇気を振り絞って壁から体を起こす。
「あれ?」
思わず間抜けな声が出る。先ほどまでいた二人の姿はそこにはなく煙のように、消えていた。
「気のせい?」
大は首をひねって少し考えたが、急がないと図書室へ向かった。
「ここで友達待つの?」
「はい」
図書室の扉の鍵をしめる司書の牧にそう言われ、花埜はこくんと頷く。
「うーん。先生は勧めないけど。待ち合わせがそうなら仕方ないわね。遅くならないように」
牧は鍵を閉め終わり、鍵束をじゃらじゃらさせて手を振ると、花埜に背を向ける。
(だったら、中で待たせてくれてもいいのに)
花埜は恨めしそうにそう思ったが、6時半まで開けてくれただけでもありがたいことだと溜息をつく。
(遅い、何してるんだろう?部活ってそんな遅くまでしてるの?)
万年帰宅部の花埜にとって部活動の時間はよくわからなかった。しかし、このまま帰るわけにはいかないと、図書室の壁に寄りかかり、天井を仰ぐ。
(帰ろう)
10分ほど待ってみたが大が来る気配はなく、花埜は溜息をつくと図書室を離れ、廊下を歩き始める。足が廊下の床に触れる度にひたっと音がして嫌な気持ちになりながらも階段をなんとか降り切る。そして新校舎1を出ようとした時、不意に後ろから抱きしめられた。
「!」
花埜は腕の中から抜け出そうと抵抗する。しかし腕はびくともせず、彼女は首を捻り自分を抱きしめた者の顔を見ようとした。
(馬場先生!?)
それは数学教師の馬場だった。小さなつぶらな目が顔の端っこについており、鼻が長く、馬に酷似した顔だった。しかも色白で生徒からは陰で白馬の王子じゃなくて、馬の方を指して『白馬』と呼ばれている教師だった。
「花埜ちゃん、誰だかわかる?僕だよ~」
「?!」
その馬場らしくない口調に花埜はぞわっと鳥肌を立てた。彼の普段の堅い性格からは、とてもでないが考えられないような話し方だった。
(もしかして……?)
しかし心当たりのある口調で、花埜の脳裏に、ある人物、いやある者の姿が浮かぶ。
「八島!」
が、花埜が口を開く前に、馬場の体が吹き飛ばれた。
「うお!?」
馬場を突き飛ばした張本人が驚いた声を上げる。それもそのはず、馬場の体は廊下を飛び数メートル先の壁にぶち当たっていた。それはまるで映画の中の世界のようだった。
「ひ、ひどいな。大ちゃん」
壁からむくりと起き上がり、何のダメージもなさそうな馬場が恨めしそうに言葉を漏らす。
「え、あ?大ちゃん?!」
馬場の言葉に大が顔を歪める。そして白馬にちゃんづけで呼ばれる筋合いはないと寒気を覚えた。
「二人ともわからないの?僕だよ。僕!」
やれやれと馬場は肩を大げさにすくめながら、ゆっくりと二人に近付く。
その仕草に大と花埜は顔を見合わせた。そして花埜は自分の予感に確信を持つ。大も同様らしく、うんと頷く。
(馬貴だ!)
「馬貴さん!」
「やっとわかってくれたみたいだね!」
白馬――馬貴は二人が自分に気づいてくれたことが本当に嬉しかったらしく、ひひんと嘶きそうな勢いでそう言い、笑った。
「欲食」
そう声がかけられ、柚実――欲食は顔を上げる。
するとキスを交わしていた相手、吉谷が力なくその場に崩れる。
「殺したのか?」
「まだだよ。殺しちまうと面倒なことになるだろう?」
欲食は唇を手の甲で拭い、髪を振り払う。
制服の襟元が乱れ、首元は虫に刺されたの痕のように真っ赤になっていた。
駿輔――神通は、その痕を目を細めて見て、眉をひそめた。しかし、顔を上げると学校の方に視線を向ける。
「欲食。地獄から使いが来てるようだ。向こうはまだわしらの正体には気がついていないようだが、わしらを探しているはずだ」
「使い……。あれか」
欲食は真っ赤な舌で唇をぺろりとなめると、夕方練習中に見た少年を思い出す。
「お前も会ったのか」
「まあね。私が見たのは可愛い少年だったよ。食べてしまいたいくらいだ」
「少年、二人いるのか?わしが見たのは少女だった」
「二人がかりねぇ。まあ、いいけど。どうするんだい?このまま放って置くつもりかい?」
「まさか。奴らがわしたちの正体を知らないうちにこちらから仕掛ける」
「どうやるつもりだい?」
「霊を使う。あの学校には面白いものがいるようだ。直接仕掛けるとわしらの正体が明らかになるからな」
「それは賢い案だね。あたいは賛成だよ」
欲食は淫靡な微笑を神通に向ける。唇は濡れたような光沢を放ち、頬がほんのりと蒸気して桃色に染まっている。潤んだ瞳は請うように彼を見つめていた。それは、神通の忘れていた色欲を掻き立てるが、今はそのような感情に振舞わされる時ではないと、顔を背ける。
闇が完全に街を覆っていた。空には雲が立ち込めており、月も星も見えなかった。
制服姿の二人は街から離れた公園に佇んでいた。人影はなく、しんと静まり返っている。
神通がまず空に飛び上がる。その後を追い、欲食が吉谷をその場に放置したまま、後を追う。そして二人は学校に向かって真っ暗な空を駆け抜けた。