『日常』のはじまり1
チュンチュンと雀が鳴く音が聞こえた。瞼を開ける前から明るい光が差し込んでいるのがわかる。
大はゆっくりと目を開けた。視界に広がるのはかなり近い、少し薄汚れたクリーム色の天井。
(寮の部屋だ)
少年は体を起こした。眼下に見えるのは薄緑の絨毯。自分がいるのは二段ベッドの上だった。
(戻った。俺の部屋だ)
大はベッドの梯子を伝い、下に降りる。ルームメイトの中本はまだ寝ていた。掛け布団に包まって幸せそうな笑みを浮かべている。
自分の机まで行くと、椅子に制服のシャツとパンツがかけられている。
(夢、全部夢だったのか?)
そう思えるくらい、何も変わっていない自分の部屋だった。
机の上の置時計は午前八時半を指している。
(八時半?!遅刻じゃんか!)
「中本!おきろよ。遅刻だぞ!」
はっと我に返り、ルームメイトに声をかける。彼も大同様推薦できている生徒だった。遅刻は三度まで許されるが、それ以上すると注意を受ける。そして更生しないと退学だ。
「田倉ぁ?うるさいなぁ!今日は土曜だろ?寝かせてくれよ!」
「土曜?そっか。悪かったな」
「まったく」
大は頭をかきながら誤魔化し笑いを浮かべる。中本は怒っていたが布団を頭からかぶってまた寝てしまった。
(土曜日か、土曜)
日付などまったくわからなかった。しかし、あれが夢ではないことは、腕にある傷が証明している。が、突然生き返り、花埜も同じように生き返ったのか、駿志と理璃香がどうなったのか、知りたかった。
(まずは八島に会おう)
大はそう決めろと服を着替える。普段は確認しないのに、ロッカーに付属している鏡で自分の姿を確認し、部屋を出た。
寮から出て、花埜の家に向かう。徒歩で十分ほど歩いたところに彼女の家はあった。腕時計を見ながら歩く。家に到着したのは午前九時過ぎで、早すぎだよな、不審者だと思われる。そう思ったが他に行き先が浮かばなかった。
家の前でうろうろしていると、がらっと玄関のドアが開く音がした。
(やばっつ)
慌てて後ろを向いて、顔を見られないようにする。が、無駄な努力だった。
「あれ、田倉くん?こんなに朝早くどうしたんだ?」
「……おはようございます。すみません。こんな早くから。八島に、いえ、花埜さんにちょっと質問がありまして」
「……家にあがるといい。ちょうど朝食を食べるところだ。君も一緒に食べよう」
「え、それは、ちょっと」
「遠慮しない。昨日も食べていっただろう。まあ、3人も4人分も変わらないから」
玄関の門を開けられ、新聞を取り出しながら父親は笑う。
大はかなり戸惑いながらも、誘われるまま玄関に入った。
「田倉くん!?」
妻は昨日と同じように夫が連れてきた少年を見て、驚きの声を上げる。
(きっと新邑先輩のお兄さんは昨日も来たんだ。よくあげてもらったよな。今日もだけど)
「さあ、手を洗って、ここに座って」
夫は妻の様子にかまわず、手を洗うように洗面所を指差す。大は背中に刺さるような花埜の母親の視線を感じながらもおとなしく洗面所に向かった。
ドアを閉めて、中に入り気持ちを落ち着かせる。
母親の気持ちはわかる。しかし父親の気持ちが理解できなかった。朝早くから訪ねてきた娘のクラスメートに警戒することなく、家に入れた。しかも朝食までご馳走するとは。
疑問がとけないまま、居間に戻ると花埜が椅子に座っていた。大は隣に座るとおはようと声をかける。彼女は何か言いたげだったが、挨拶を返すだけで他に聞いてくることはなかった。
「ご馳走様でした」
食パンとスクランブルエッグ、ハムを平らげ大は母親に頭を下げる。まだ少し警戒しているようだが、美味しそうにご飯を食べた大に少しだけ心を許して笑顔を見せた。
「……二人とも。今日は昨日とちょっと様子が違うね」
父親は母親が食器を持って席を外した隙にそう口にした。そして読んでいた新聞をひざの上に置き、二人の顔を交互にじっと見る。
「君達は何か隠しているだろう。何があったのか。話してくれないか?」
穏やかな声でそう聞かれ、大は花埜に相談するように目配せする。
話すべきか、心を決めかねる。頭がおかしいと思われるのは嫌だったし、もしかすると再び花埜と会えなくなるかも知れない。
迷っている大に対し、花埜はじっと目を閉じた。そして唇を噛むと口を開く。
「お父さん。信じられないかもしれないけど、昨日は私ではなかったの」
(八島?!)
花埜が話し始めことは予想外で、大は驚きを隠せなかった。
そんな彼の前で、話すことが嫌いだった少女は、ゆっくりだが、これまでのことを父親に話して聞かせた。
「そんなことが……」
父親は大きな溜息をつく。信じられない話。だが獣に操られたカラス、とりつかれておかしくなった娘の様子を間近に見ていた父親は信じたようだ。いつの間にか台所から戻ってきていた母親も彼に寄り添うにして、話を聞いており、頷く。
「大くんには本当にお世話になったんだね。ありがとう。君が頑張らなきゃ、この親不孝娘は帰ってこなかった」
「いや、俺は全然。最終的には八島が決めたことですから」
そう、最終的に清吉の後押しもあり彼女が決めた。自分は何もしていない。
お礼などされることはないのだと大は手を大げさに振って自分への礼を否定する。
「花埜。お母さんはすごく悲しいの。わかる?あなたは私達がどう思うか考えなかったの?」
それまで黙っていた母親が静かに、しかし幾分怒りの感情を表し、娘に問いかける。
花埜は黙ったまま俯いている。
「私、あなたが一度死んだとき、もう駄目だと思ったのよ。私も死んであなたの傍にいこうと思ったの。それなのにあなたはっ」
嗚咽を漏らし、母親は言葉を詰まらせる。
「時絵……」
夫は妻にテッシュペーパーを渡し、その肩を抱いた。
「花埜。私達は怒ってるわけじゃないんだ。ただ悲しいんだ。お前は私達の愛しい娘なんだ。だから、母さんはお前が戻らなくてもいいと考えたことがさびしいんだよ」
「お母さん……、お父さん」
花埜はそう呟いて再び黙る。
「花埜」
ふいに母親が立ちあがり、座っている少女の頭を包むように抱きしめる。
「ずっと、私達の気持ちを誤解してたのね。あなたがしっかりしてたから、大丈夫だと思って、私達あなたに構わなすぎだったの。大事にしてることも伝えなくて」
母親の涙が瞳から零れ落ちる。少女は俯き、その表情はわからない。
「ごめんね。私達の方が謝らないといけないわね」
「そうだな。花埜にそう思わせたのは私達だから」
「……そんなこと、」
涙をこらえた声を少女が漏らす。
大は親子の様子を黙って見ていた。両親がいない少年にとってはとても羨ましく、眩しい光景だった。