2
みゃーみゃーと子猫が頼りない声で鳴きながら清吉の足元に寄り添う。
保健室から逃げ出した清吉は、吉谷と呼び止める同級生を無視して、学校を出た。吉谷の記憶を探れるとはいえ、自分が生きてきた時代とあまりにも異なる現在の様相に清吉は戸惑いを隠せなかった。
足早に街を抜けると、公園に逃げ込む。人が多くいる場所ではなく、人が入らない森の部分に足を踏み入れ、木の根っこに腰掛ける。そして、その幹に寄りかかりながら目を閉じる。
するとどこからともなく、子猫が鳴きながら現れ、清吉を呼んだ。
清吉は目を開けると、あの頃と唯一変わらない猫の姿に安堵を覚え、猫を抱える。ふわりと柔らかい感触が伝わり、記憶が蘇った。
茶色と黒と白色のふわふわしたものが見え、気になって近づくとそれは小さな子猫だった。子猫は親に捨てられたのか、はぐれたのか、一匹で生きていくにはまだ小さくで、放っておけば死ぬのは間違いなかった。
それはみゃーみゃーと頼りなく鳴きながら、清吉の足元にすり寄る。どうしたものかと思いながらも清吉は腰を降ろして猫を撫でた。すると子猫は嬉しそうにごろごろと喉を鳴らして清吉の手に頭を押し付ける。
「清吉」
ふとそう声がかけられ、清吉は顔を上げる。そこにいたのはおかみさんの絹で、清吉は慌てて立ち上がった。
絹は一年前に問屋の旦那の元に嫁いだ女性で、清吉と同じ年頃だった。旦那が一目ぼれをして、半ば強引に結婚をしたと使用人の中での噂だった。白い肌に細面の顔の、物静かな女性で、旦那はそれは大事に扱っていた。
「どうしたんだい?お使いの途中かい?」
絹は微笑を浮かべて清吉に近づく。
「はい!」
清吉は絹に、仕事を怠けて油を売っている思われたと緊張して返事をする。しかし、そんな男の足元では、事情を知らない子猫がみゃーみゃーと鳴いており、清吉の努力を無に帰す。しかし絹は咎めることなく腰を下ろすと猫の頭を撫でた。
「かわいい子だね。あたいが飼ってもいいかい?」
絹は子猫を抱きかかえると清吉を見上げた。その笑顔がとても美しく、清吉は声を失う。
「旦那さんも屋根のねずみが煩いから猫が欲しい言っていたところだ。丁度いい」
「お、おかみさん」
清吉はなんといっていいかわからず、ただ絹に呼びかける。
子猫が無事に拾われたことが嬉しく、安堵していたのは確かだったが、何か別の感情は心に浮かぶのがわかった。
「清吉、なんだい?この子はあたいが連れて帰るから、お前は仕事に戻るといい。使いの途中だろう?」
「は、はい!」
そう言われ清吉がはっと気がつく。正確な時間はわからないが、この小さな子猫を見てしまい、ここでかなりの時間を費やしていた気がした。
「問屋に戻ったら、猫を見にくればいい。心配ない。旦那さんもあたいも猫は好きだからね」
清吉にとって、この時は初めて絹とまともに会話をした時だった。そしてこの時見た絹の笑顔が清吉の心に色濃く残り、それ以来、絹にある種の想いを抱くようになっていた。
「コマ」
清吉は膝の上に乗り、ごろごろと喉を鳴らす子猫の頭を撫でながら、あの猫の名を呼ぶ。
男は絹が好きだった。
だから、あの時、絹の言葉に従った。
気がつくといつの間にか周りが薄暗くなっていた。木々の隙間から差し込む光はその輝きを失い、空を見上げると黒い雲が太陽を覆い隠していた。
「雨が降るか……」
湿った匂いが漂い始めていた。しかし、清吉は木の根っこに腰かけたまま、動こうとしなかった。