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はじまり

新邑しんむらくん!」

 車内に海水が勢いよく入ってくる。

 女は愛しい恋人の手を掴んだ。

理璃香りりか!」

 男は彼女を旅に連れ出したことを後悔しながらも、今、彼女と共にいられることに喜びを感じていた。

「新邑くん……。私、後悔してないから。一緒にいられることが嬉しい。だから最後まで手を離さないで」

「うん」

 男は伸ばされた女の手を握り締めながら、しっかりと頷く。


 車内が海水で満杯になり、とうとう呼吸ができなくなった二人は苦しげに呻く。しかし二人が手を離すことはなかった。若い二人が乗った車は、ゆっくりと、しかし確実に海の底に沈んでいった。

 



欲食よくじき、利用できそうな魂の姿が見えるぞ」

 阿鼻叫喚の悲鳴を上げる亡者達から離れ、岩の上で座禅を組んでいた男が目を開く。男、男という言う言い方は正確ではないだろう。それは人間ではなかった。醜い顔の頭のてっぺんには黒い角が一本生えており、大きな耳の先端は鋭く尖っている。真っ赤に焼けて爛れた体はあばら骨がくっきり見える程痩せこけており、腰の周りには薄汚れた布が巻きつけられただけであった。

 彼、いやそれの名は、神通じんつう。生前、類まれた能力をもちながらも多くの者を騙し、多くの者を死に追いやった報いを受け、地獄に落とされた者である。


「本当かい?」

 欲食と呼ばれたほうは、美しい女の姿をしていた。その黒髪は背中まで伸ばされ、大鍋を燃やし続ける炎の明かりを受けて、艶々と輝いている。肌は真っ白で赤と黒の色彩の地獄の中で光をもたらしていた。

彼女は美しい人間の姿をしているが神通同様、鬼であり、生前はその美貌を使い、多くの者をたぶらかせて己の欲を満していた。その為、死後はその報いを受け地獄に落とされた者であった。

 彼らはもう何百年もこの地獄で暮らし、他の鬼同様、亡者の監視をすることで、その懲罰から逃れていた。しかし二人は現世に戻る機会を常に伺っており、神通はその力を使い、絶えず現世へ抜ける道――裁きの間を探っていた。対する欲食は閻魔大王の部下を誑かし、有益そうな情報を集めていた。

「今日から百年に一度あるかないか、閻魔の天国への出張だ。うまくいけば、今度こそ現世に戻れるかもしれないね」

 美しい鬼は妖艶に微笑む。

 神通はその笑顔を眩しそうに見ながら、待ちに待った機会がきたと心を躍らせる。


 生前、神通は、それは美しい青年だった。しかし地獄に落とされ、閻魔大王の裁きで醜い鬼の姿に変えられた。欲食も同様だったが、彼女は自分の姿を変化できる能力を持っていため、今でもその美しい姿を垣間見ることができた。


 現世にもどり、再び生を謳歌する。


 神通は何百年も思い続けていた願いを実現するときが来たと、立ち上がった。


「さあ、行くぞ」

「ああ」

 醜い鬼、しかし愛しい男に手を差し出され、美しい鬼がその手を取る。

 そうして二人の鬼は、真っ赤に燃え滾る大釜で叫喚を上げながら焼かれる亡者たちを尻目に、真っ黒の空を駆け昇った。

 

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