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「絹。わかってるな」
綺麗に結い上げた銀杏髷の、涼やかな顔立ちの男がそう絹に囁く。
男は旦那の弟の喜之助であった。絹は旦那の妻でありながら、その弟と関係を持っていた。
「本当にやるのかい?」
「勿論だ。俺と一緒にいたいだろう?兄が死ねば俺が店の跡取りだ。親父は俺が商いに向いていないと言っていたが、その親父もすでにいない」
父の大旦那は喜之助の遊楽ぶりを知っており、店の経営に携わることを敬遠していた。そのため番頭も外の者で、喜之助は常にそのことに腹を立てており、絹を誘ったのも兄への復讐の思いからであった。
絹はそんなことができる女ではなかったが、情熱的な喜之助の誘いに負け、次第にその関係におぼれるようになっていた。
「絹。俺はお前を心の底から好いている。兄などにもう触れてほしくないのだ」
「喜之助」
不貞な女はそれを信じ、男の胸に体を預けた。
「………」
頭の中でぐわんぐわんと鐘が鳴っている。
(私?)
ベッドの上で目覚めた花埜は、板目の天井を見つめる。
(自分の部屋だ?私、いったい?)
花埜は混乱していた。
(夢。あれは夢。私は花埜。絹じゃない。なんで私、ベッドで寝てるんだろう?どこまで夢?田倉くん?馬貴?)
夢みたいな出来事が続いており、彼女は何が夢なのか判断がつかなかった。
ベッドから降りると、扉を開け、隣の部屋をノックする。返事がなかったので、襖を開けると、そこはいつものようにもぬけの殻だった。
(やっぱり夢よね?変な夢)
花埜は学校に行く支度をしようと部屋に戻ろうしたが、トントンと台所で物音がして、足を止める。両親は出張中で一週間は戻ってこないはずだった。
(何?)
少女は緊張しながら、そろりそろりと廊下を歩き、台所に近付く。
(馬場先生?!)
台所にいたのは数学教師の馬場だった。母のエプロンをつけ、鼻歌を歌いながらフランパンを器用に動かしている。
(え、じゃあ、夢じゃないの。あれは馬貴?)
反射的に壁にへばりついた花埜は呼吸を整えながら、昨日のことを思い出す。
(え、でもなんで田倉くんがいないの?しかも私落ちたんじゃ?)
「花埜ちゃん!」
「!」
ふいに声をかけられ、少女はびくっとと体を揺らす。
「あ、ごめんね。驚いた。御飯できたよ~。料理って楽しいね!」
見上げると馬面の男は二コリと花埜に笑いかけている。
「さあ、食べて。大ちゃんは先に出かけたよ。着替えたり、学校の準備があるからだって。花埜ちゃんは時間があるから、僕とご飯食べて行こうね~」
(えええ??!)
「驚かない。驚かない。昨日、あれからのことを説明してあげるから」
(おいしい)
「そう?よかった」
厚焼き卵を頬張った花埜に馬貴は嬉しそうに笑う。
「お弁当も作ったんだ。大ちゃんに渡しといてね」
(え!なんで私が!)
「花埜ちゃん、文句あるなら口に出すように」
つぶらな瞳を向けられ睨まれる。意外に迫力があり、花埜は溜息をついた。
「変な噂たったら嫌なので、馬貴が届けてください」
「え?僕、いやあ。そのほうが余計変な噂立つでしょ?」
(確かに。男性教師と男子高校生。昨今は腐女子がはやってるみたいだし)
「わかりました。でも渡すだけですから」
「はいはい。お願いね」
(面倒だけど、しょうがない。だいたい今更人の目を気にすることもないし)
人と極力かかわらないようにしている少女は自分が「変人」と周りから思われていることを知っていた。しかし、それを否定する元気もなく、面倒なのでそのまま放置していた。
(イジメられてるわけじゃないし)
「花埜ちゃん、本当、あなたは暗いよね。高校生ってもっと溌剌としてるもんじゃないの?」
(そうかな?思ったけど、馬貴ってちょっとというか、かなり感覚がずれてる)
「花埜ちゃん、また文句垂れてる。そんなに口に出したくなきゃ、本当に大ちゃんに心を読める力あげちゃうからね」
「や、やめてください!」
(それだけは嫌だ。自分の思考を他人に読まれるなんて、馬貴だけで十分だ)
「じゃ、言葉に出すようにね。さあ、花埜ちゃん、昨日あったことを話してあげよう」
馬貴は、満足そうに笑い甘口の厚焼き卵を頬張ると、少女が落ちて気を失った後の話をし始めた。