表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

はるかな旅の空

作者: おさ いの

 海を見ていた。紺碧の海。

 白い砂浜に老人は座っていた。足についた砂を少し払いながら、細くなった足を見た。

 老人は、ここに座って、海を見るのが好きだった。

 長い、長い旅だったような気がする。

 旅を始めた時、老人は、筋肉で張りのある太い腿をしていた。腕を曲げるだけで、力瘤がふくれて、胸の筋肉がピリピリと震えていた。

 あれから何年たったのか。

 太陽が、老人の少なくなった髪を通して、頭の地肌を焼いていた。何か、ぼーっとなるような感じがしていた。

 目を細めて、微笑んでいるように見えたが、流れる汗が、涙にも見えた。


 庄吉は、不貞腐れていた。先程、母親のおていから怒鳴られて、渋々、父親の太市が耕す畑に出てきた。

 畑仕事が嫌いなわけではない。ただ、働いても、働いても暮らしが良くなるわけでもない。ただ、黙々と土と向き合う父親を嫌いではないが、同じ人生をこれから過ごす事に、何か不満があって、今日も遅くまで布団の中で物思いにふけっていた。

 小さい頃から、ぼーっと考える事が好きな少年だった。家の裏手のちょっと小高い丘というよりも瘤のような所で、草の上に寝転んで、青い空を見るのが好きだった。

 色々な形をした雲が、東の方に流れていく。おにぎりや、魚や、お坊さんや、剣を持った武士や、そんな形。そして、物語を作っていた。

 大きくなっても、物語は、空想の世界であった。空想の世界は、自分を変身出来た。自分は物語の主人公であり、自由で解放的で、沢山の色に囲まれ、沢山の匂いに満ちていた。そして、その物語には終わりがなかった。

 黙々と土と向き合うのではなく、自分の思い描く世界に、自分を置く事が出来た。物語は、変化し、飛躍し、自由であった。

 しかし、空想の世界は、捉えどころがなかった。ふわふわと、雲のように流れていった。そして、ふわふわと流れてきた。青い澄みきった空の下に。

 現実の世界で、自分が今、すべき事は、何か。それは、わかっていた。

 父親の太市は、最近、腰の痛みを訴えていたが、何か治療出来るわけでなし、今日も痛みをこらえて畑に出ていた。

 倒れるまで働かなければならない。生きるということは、土と向き合い、土と語らい、土をねぎらい、土を次の世代に残すことである。次の世代もその次の世代に土を残していく。それぞれの人生は倒れた時に終わるが、土と共に生きることは永遠に続いていく。

 そんな太市を手伝いながら、おていは、息子の庄吉に腹を立てていた。

 二十年前、隣村から嫁いできて、懸命に働き、夫を支えてきた。五年前、ボケ症状のあった姑が亡くなった時、ちょっと楽になった事に、罪悪感を感じて、より一層、夜遅くまで働いてきた。仕事に限りはない。

 嫁いで二年目に庄吉が生まれた時、姑が泣いて喜んだ時は、おていも嬉しくて、幸せを感じていた。

 姑のボケ症状が始まったのは、そのすぐ後だった。乳飲み子の庄吉を背中に、姑の世話をし、太市の畑仕事を手伝い、懸命に生きてきた。

 庄吉は、すくすくと大きく育ってくれたが、その後、子を授かる事はなかった。

 余計に、おていは、一人息子である庄吉に期待していた。庄吉は、大きくなったら、父太市を手伝い、嫁をもらう。自分達は、孫に囲まれて、貧しいながらも、幸せな老後が待っている、と信じていた。それがささやかな夢であり、夢の全てであった。

 それが何という事か。庄吉は、体は大きく逞しく育ったのに、何を考えているのか、ぼーっとしている子になってしまった。

 怒鳴れば畑に出て、太市を手伝うが、そのうちに、畦に寝転んで、草を口にくわえ、ぼんやりと、空を見ていた。

 村の人は、畦道を通りながら、首を振って、黙って通り過ぎていく。

 あげんな息子に嫁は来ない、おていさんは、あんなに働き者なのに、太市どんは、ちっとは、庄吉を叱れば、いけんかならんどかいな

と、噂をしていたものだった。

 今日も庄吉は起きてこない。朝の陽は、いつの間にか、高くなっていた。

 おていは、突然、鍬を放り出すと、家に帰り、庄吉に怒鳴った。悲しくて、悲しくて、おていは怒った。庄吉は、のそっと起きると、おていを見ることもなく、畑に出て行った。

 毎日が、この繰り返しだった。

 おていは、太市が何故、息子を怒らないのかを、聞いた事があった。

 「庄吉は、体がふとかだけじゃなかが。なんかどでかいことをすっかもしれんど。ほっとかんや。よか子やっで。」

 そうだろうか。そう思いたくなかった。おていは、人と同じ人生で満足で、それ以上の人生はわからなかった。

 生活が苦しくても、それが当たり前の事と思っていた。夫がいて、子供がいて、毎日の暮らしがある。土と向き合う暮らしがある。

 今日も陽が昇り、そして又、山際に沈んでいく。静かな、心満ちた生活。自然に囲まれ、自然に生かされる。自然の中に、ささやかでも心満ち足りた人生がある。

 ありがたい。この生活が続きますように。今日も、明日も、来年も、ずっとずっと、続きますように。

 息子は、この村から、どこに行く事も出来ない。今の時代、村を離れる事は、ご法度だった。

 自由を束縛された封建時代。それで社会の秩序が保たれていた。封建制度とは、生産者である農民を身分的に支配する社会経済制度である。

 村を離れるなど、そんな事は、考えても、実行して生きて行くことは出来ない。

 土と暮らす農民にとって、ただ人並みの生活で、人並みに家族と暮らす。それだけがこの時代の生き方であり、望みであった。


 「かあちゃん、おいは、出ていっでな。」

 秋の取入れが大方終わり、冬支度を始める頃のちょっと寒さを感じる夜に、突然、庄吉が話し始めた。

 「なんちな。どこせいっとか。」

 「わからん。じゃどんから、出ていっでな。もう、決めたでな。明日、いっでな。」

 「なんをゆうとっとや。村を出りゃー、つかまっち、どげんなっか、わかっどが。」

 「そのうっ、必ず、帰ってくっで。」

 庄吉は、もう聞く耳もたずで、布団に入ってしまった。

 太市は、だまって、ただ、わらじを編んでいた。どうしたものか、おていはもう何も考えられず、庄吉の横になった背中を見ていた。


 月はまだ高く照っていた。この峠から先は庄吉にとって始めての道であった。

 両親が寝入ったのを確認して、庄吉はこっそりと家を出た。両親の悲しい顔を見ることは出来なかった。

 何も持たず、ただ一目散に走った。家を振り返る事はなかった。家の裏山の細い道を駆け、峠まで一気に走ってきた。

 何の為に、何をする為に、何をしようとして、家を出たのか。庄吉は、ただ、夢を追いかけていただけ。どこかにある夢を、ただ追いかけたかっただけ。

 峠を下る途中で、庄吉は、獣道に入った。峠を下りた先の部落を通れば、逃亡が分かってしまう。誰にも知られず、とにかく早く遠くに行かねばならない。

 獣道はそのうち判然としなくなった。笹の藪をこぎ、進んでいくと、崖下に川が流れていた。流れる水の量は、多い。

 「なむさん、なむさん」

 つぶやきながら、庄吉は、草をつかんで、崖を下った。百メートル位の崖は、所々に足場があり、なんとか降りることが出来そうであった。

 半分位、降りた時、ふと、手元に、一輪の白い花が咲いているのが見えた。穢れのない白い花。

 こんな所に、と思いながら、手を伸ばそうとした時、小さい足場が崩れた。あっと思う間もなく、庄吉の体が崖から離れた。

 「あっ!白か花を、ちぎっしもた!」

 ただ、そう思った。それだけだった。それからの記憶が、何か遠くに消えてしまった。


 ピッピッ。ビー。

 規則正しく音が鳴っていた。

 ここはどこか。自分は何をしているのか。横になっているのがわかった。

 あの時、確か崖から落ちたはずだ。そうだ。あの時の白い花はどうしたんだろう。

 探そうとして、庄吉は、静かに目を開けた。

 突然、まぶしい光で、一瞬、何も見えなかったが、そのうち、次第に目が慣れてきた。

 広い部屋に、白い天井、白い壁、見た事もない機械、いや、機械などという言葉も知らない。それが、部屋に何台かあり、規則正しく音を発していた。

 ピッピッ。ビー。

 そして、お地蔵様のような、人間の半分位の大きさの何かが、せわしなく、機械を操作していた。庄吉が見ているのに気づき、そのお地蔵様が、すっと近づいてきた。

 何か手らしきものが、庄吉の額にさわり、お地蔵様の胸にある光が点滅した。

 「気がつきましたか。よく眠っていましたね。話せますか。あなたの名前を教えて下さい。」

 ちょっとキンキンする声で聞いてきた。

 「庄吉。」

 反射的に返事をしたが、驚きで、目を見開いたままであった。

 「ショウ…?むずかしいです。ショウにしましょう。ショウ。どこか痛いですか。ああー。ごめんなさい。自己紹介が遅れました。私は、あなたのお世話をします、ピーテンです。痛い所がありますか。」

 「うんにゃ。じゃどんから、ここはどこな?はんな、ないごて、しゃべがでくっとな。」

 「むずかしいです。ことばを正しく話して下さい。」

 「...」

 その時、白い壁が扉のように開き、黒い服を着た若い男と女が、部屋に入ってきた。

 「おおー。気がつきましたか。Pテン。健康状態は?」

 「問題ありませんが、むずかしい言葉を話します。名前は、ショウというそうです。」

 「ショウ。アースサーティーにようこそ」

 「アースサーティー?お殿様の名前は?」

 「お殿様?やっぱり。こちらのデータによると、あなたは、約三百年前から、時空を飛んできたようです。あちらに戻る事は出来ません。理論的には可能ですが、コストとエネルギーが膨大にかかるでしょう。あなたは、ここで暮らすしかありません。わかりますか。」

 「...」

 「彼の名前は、ビージュ。私は、メーサよ。奇跡ね。あなたは、幸運ね。あなたがここに来たのは偶然よ。判らない事は、このPテンに聞いてね。今、忙しいの。又、来るわね」

 「Pテン、頼むよ。」

 二人はそう言うと、部屋を出て行った。Pテンは、片目をつぶり、庄吉を起こした。


 あれから4年が過ぎた。おていは、今日も、太市と二人で畑に出ていた。

 その後、庄吉の消息は全くない。

 庄吉失踪の噂は、すぐに広まった。里の役人も取り調べの為、何回か村に登って来た。しかし、見た者が全くいない為、うやむやにされた。形式上、谷に落ちて行方不明とされた。

 本当は、役人はそれどころではなかった。

 戦争になるという。しかも、エゲレスとやらの異人と戦うという。藩主久光の命で、藩全てに、臨戦態勢が敷かれた。

 村人一人の失踪について、どうこうしている場合ではない。藩の存続をかけた戦争だという。太市とおていは、一応、形式的にお叱りを受けただけであった。

 世の中は、村の生活に関わりなく、大きく動いていた。

 大政が奉還されたという。といわれても、おていには、よく分からなかった。殿様が島津様でそれ以上は分からない。徳川将軍様から朝廷の天皇様に、政権が返上された、といわれても、この山奥では、どうでもいい事であった。

 ただ、役人が右往左往しているという事で、何か世の中が大きく変化しているらしい、ということを感じることが出来た。

 庄吉。息子はどこに行ったのか。あの子にかぎって、死んだなんて信じられない。あんな頑丈な子が簡単に死ぬわけが無い。

 世の中が大きく変化しているなら、庄吉はどこかで生きていけるかもしれない。いや、きっと生きている。庄吉は、きっと生きている。

 そう信じていた。信じようとした。そうでなければ、自分が生きていけない。生きる意味がない。

 夫の太市は、あの時以来、腰がますます悪くなった。庄吉がいなくなってから、畑仕事が辛くなったという。気落ちしているのは、傍目でよく判っていた。おていは、

 「庄吉は、ふとかことをしっせー、帰ってくっで。はんな、そいまで、きばらんごて。もうちっと、きばらんごて。」

 と、太市を励ます毎日であった。

 今日も、山に陽が落ちようとしていた。静かな山奥の暮らしは、いつもと同じ繰り返しであったが、心の寂しさは埋めようがなかった。空は、茜色に染まり、雲がゆっくりと流れていく。

 そうだった。息子は、空を見るのが好きな子だった。きっとどこかで、同じこの空を見ている。空を見て、故郷を思い出しているに違いない。きっと大きな事をして、故郷に帰ってくるに違いない。

 おていは、着物の袖で汗を拭いた。いや、涙を拭いていたのかもしれなかった。

 “庄吉!”


 分厚いガラスを通して、海の中が見える。計器を見ながらショウは、ふと母親を思い出した。そして父親を思い出した。

 あれから6年。故郷を思い出す事はほとんどなかった。気持ちの余裕が全くなく、言葉を覚え、生活を覚え、機械の取り扱いを覚え、とにかく、“この世界”で生きることに精一杯であった。

 「ショウ、J2の気圧は?」

 メーサの声に気づき、答えた。

 「1.8。ちょっと不安定だけど。」

 「なにか考えていたの?」

 「いや、何も。」

 庄吉こと、ショウは、計器が少しぼやけて見える事に気づき、目をこすった。

 なんという変化だろうか。自分が生きてきた世界が、遠い昔で、今、自分がいるこの世界が、幻想の世界で、一体、自分が生きているのか、それさえもよく判らない、そんな毎日だった。

 母は、泣いただろうか。父の腰の具合はどうだろうか。今年の芋の収穫は?村に役人が来ただろうか。

 いや、あの世界は、遠い昔、三百年前の世界。過去の世界で今はもうない。

 何故?自分は一体誰なのか?ここで何をしているのか。あの白い花は?

 「ショウ、眠くなったの。ぼんやりしているみたい。」

 メーサの声で、少しはっとし、再び計器を見つめる。それから、ショウは、メーサの横顔をそっと見た。髪が少し目にかかり、頬の小さいほくろが唇の横に見えた。

 ショウは、メーサと同じ施設管理部門に配属された。ショウの粘り強さと確実さが、適任とされた。並んで仕事をする事が多かった。

 同い年ということもあって、メーサは、いろいろとショウに話をした。アースサーティーの話、友達の話、そして、将来の夢。

 ショウは、聞き役であったが、うれしかった。若い女性など縁がなかった。土と向き合う毎日だった。

 それが、ここに来てから、毎日のようにメーサと話をする。男としての本能からか、ほのかに彼女を想う気持ちがあったが、自分が生きていることに自信が持てなくて、彼女に見つめられると、すぐに、うつむいていた。


 アースサーティー。

 海中、約二千八百メートルの空間。放射能を完全に遮断するH8で覆われた空間。気圧など生活環境は、原子力で調整され、温度は、一年を通して二十度を維持している。

 この空間の快適な環境は、とても海の中とは思えない。

 東棟G室では、あらゆる野菜の栽培をしている。レタスやキャベツなど葉物だけでなく、じゃがいもや人参など根菜類も、1年中、収穫出来た。

 温度、湿度や照明時間、そして土質など全ての環境要因は、区域毎に、自動的にコントロールされている。害虫などもちろん皆無であり、間引きすることもなく、全ての苗が育っていた。収穫も都度、自動的に行われる。

 F室には、花がいつも咲いている。生物遺伝学の応用で、地上では存在しなかった色の花も栽培されていた。以前は、蝶々も飛んでいたが、数年前から、昆虫は、全てE室に隔離された。

 ここF室から、時々、メーサは、花をつんで、ショウの見つめる計器の前の白い花瓶に飾ってくれた。どちらかというと、メーサは、赤系統の花が好きで、白い花瓶に挿すと鮮やかに見えた。

 D室は、蛋白やビタミンなどあらゆる栄養成分の合成室で、野菜と混合して、料理が作られる。特に、ミネラルや微量成分の製造の研究は進み、又、力を入れている分野であった。

 西棟A室では、排泄物の浄化処理が行われている。微生物を利用し、最終的に真水迄処理する。余分の微生物は、野菜室の土壌改善に使用される。勿論その過程で病原微生物のチェックが行われる。

 微生物のコントロールは、生死を左右する課題であり、細心の注意が払われている。単に、分子の合成ですべてが解決されるわけでなく、微生物を有効利用する技術の向上は、今後の快適な生活に資する重要な課題となっている。


アースサーティーは、三十二年前にこの海底に設置された。いや、脱出したと言ったほうがいいかもしれない。

 記録によると、三十二年前、日本の上空で水爆が落とされることを感知した防衛システムのコンピューターが、瞬時に指令を出し、アースサーティーで、たまたま勤務中の四十七名の研究員と共に、この深海に設置された。沈められた。いや脱出した。

 何の為に。何故。どうして水爆が。誰が。この空間は、一体何なのか。そして、これからどうしようとしているのか。世界は、どこに行ったのか。いや、ここが世界の全てなのか。

 

ビージュは、今、アースサーティーの最上階にある小さな図書館にいる。

 そこには、椅子が数脚と机が2つ。ソファーが一つある。右側の壁に設置された緑のボタンを押すと、メニューの一覧表とボタンが出てくる。

 ビージュは、いつものように、ココアのボタンを押して、それを受け取ると、再び、ゆっくりと椅子に腰掛けた。

 目の前を深海に住む鮫が泳いでいった。厚さ三十センチの超防圧ガラスの向こうは、暗い海である。時々、深海の生き物が通り過ぎるが、真っ暗な先には何も見えない。深海だから、生きる事が出来る生物は、わずかしかいない。

 静かな深海は、気分がいいときは、気持ちが静まるが、時々、耐えられない気分の時もある。暗闇に押しつぶされそうになる。

 上部のガラス面の少し下の、小さい赤いスイッチを入れると、ガラス面は、一瞬にして、全体を覆う大きな画面に変わる。青い澄みきった空と、お花畑。遠くには、氷河を抱いた山々が見える。もちろん、画面は好みに応じていろいろと切り替える事が出来る。

 しかし、ビージュは、何も写さずに、深海を見ている事が多い。

 今日は、ここ図書館には、誰も来ていなかった。時々、非番の人が来ている事があったが、話を交わすことはあまりなかった。

 ビージュは、机の上の本を開く。本は、机の下の黄色のボタンを押すと、机の上が画面となり、本の検索が出来る。検索した本は、中央の壁にある棚に出てくる。

 あらゆる本が、あるという。小さなチップに入れられた膨大な本は、瞬時に印刷されて出てくるが、読み終えた本は、その下のダッシュに放り込むと、瞬時に消えてしまう。いや、消えるのではなく、原子に戻るというか、次の印刷を待つ。

 このアースサーティーには、廃棄されるものは、何もない。息さえも循環されて使用される。完璧に閉鎖された空間である。


 十四年の研究が実り、最後の点検中であった。

 人間が生き残る為の、わずかな空間。選ばれたわずかな人間が、脱出し、そしていつの日にか、再び地上に戻り、理想の社会を作ろう。

 あらゆる手を尽くした。外交は行き詰っていた。国連は、とうの昔に形骸化されていた。拡兵器を初めとする武器の貿易は盛んに行われ、それを使いたくてうずうずしている国が沢山あり、テロリストが暗躍していた。

 世界を、地球を想う雰囲気は、既に、全くなかった。自己を主張するだけであった。自己の正当性は主張し、他者に圧力を加えることで、意味を持つ。違いを認めるわけにはいかない。違いを認めることは、自己を失うことにつながる。

 これからは、力のあるものだけが、生きていける。この地球上で生きる価値のある者は、選ばれた人間だけである。それは、自分達だけであり、そうでなければならない。

 世界の指導者達には、理想を語る者は、誰一人としていない。地球上で共に生きていく仲間として、思いやる気持ち、違いを乗り越えて、共に助け合う気持ち。それは、昔の理想論になってしまった。世界は、緊迫していた。行きづまっていた。

 もう後戻りが出来ない。もうこの現実を変えることは出来ない。そう判断した政府は、秘密裏に研究を進めた。早くしなければ間に合わない。早くしなければ希望も夢もすべて失ってしまう。


 アースサーティー。

 未来を託す。これでしか生きて行く事は出来ない。命を繋ぐには、わずかであっても、託せる空間が必要である。

 人選は終了していた。丁度百名。それが、定員であった。命を繋ぐには、あまりにも少ない。しかし、それが限界である。

 今の科学では、これでも途方も無い研究といえた。全てを循環し、数百年は、耐えるという構造である。

 その先は、わからない。いや、それを考える必要は無いのかもしれない。神がいるとすれば、それが人間に与えた時間である。そう思うしかない。

 人種と宗教と。

 偏見に満ち、誤解から生じた社会は、追いつめられていた。国を超えて、戦いはエスカレートしていた。

 神は、何を命じたのか。暖かなぬくもりのある社会を目指していたのではなかったのか。神が作りたもうた人間は、神の声を聞いたのではなかったのか。神は、何を人間に命じたのか。啓示は、何を教えてくれたのか。

 憎悪に満ちた世界は、理想から程遠いものになってしまった。我が政府は、唯一、理想的な憲法を守り抜き、世界に働きかけた。

 あらゆる違いをありのままに受け止め、苦しみも悲しみも、そして、喜びもありのままに受け止め、それを超えて、社会を、世界を作る事をめざした。

 我々は、地球上で生きている。ここを廃墟にしてはならない。

 世界に訴えた。

 共に生きていこう。宇宙で唯一、自然豊かな、水でおおわれた、この地球上で生きていこう。

 しかし、政府は、結局、アースサーティー研究の結論に達した。内向きの結論である。しかも、わずか百名に人類の未来を託すしか、選択がなかった。理想は、挫折し、封印された。

 いつの日か、きっと。

 時間はない。秘密裏に、研究スタッフが選ばれた。

 ビージュの父、達麻だるまと、母、観音かんのは、若き研究スタッフのリーダー的存在であったという。大学の生物電子力学専攻の二人は、ライバルとして、研究を競った。

 大学院で更に研究していたある日、アースサーティーの研究スタッフとして選ばれ、秘密裏に研究施設に来た。

 一時的なつもりであったが、この研究施設を出る事は許されなかった。ここから出ることが出来たものはいなかった。研究が秘密である以上、スタッフを外部に出す事が出来ない。

 七年の間に、精神的に追いつめられ、命を断つスタッフが相次いだ。その穴埋めで彼らが選ばれた。

 それまで研究は、なかなか進まなかったが、二人の革新的なアイデアから、一気に完成に向けて動き出した。それから更に七年、ついに完成した。

 彼らには、世界の動きは、詳しくは分からなかったが、もう限界であることが彼らにも見えていた。政府は、百人をリストアップし、最終点検後、即座に実行に移す事を決めていた。


 その日、47人のスタッフは、最終点検中であった。最終点検は、10日位、かかると推測された。その後は。もう開放される。皆、そう信じていた。いや信じたかったのかもしれない。

 いつもと少し違う和やかな中にも、緊張した雰囲気であった。62名のスタッフ中、昨夜、夜勤の15名を除き、全員での最終点検は、朝早くから始まり、4時間が過ぎていた。

 そろそろ昼食の時間。交代で昼食をとる。今日のメニューは何かな、と考えている時、それは、起きた。一瞬であった。


 ビージュは、ココアを飲みながら、父母が語ってくれた、アースサーティーの歴史の始まりを思い出していた。

 「ちょっと砂糖が濃いいなー」

 壁に埋め込まれた“オホ”にウィンクしながら、再び、本に目を移した。

 歴史は繰り返すと言うが、この歴史は繰り返しようが無い。47名の苦難の歴史が綴られたこの本は、アースサーティーでのベストセラーである。

 技術的な問題はほとんどなかった。それぞれの施設区域や、機械やロボットに、名前をつける位であった。

 問題は、心であった。精神面での問題は、まだ完全に研究が進んでいたわけではなく、見切り発車の形での最終点検であった。苦難の歴史は、心との葛藤であった。もちろん、精神学者も数名いたが、実際にはほとんど役に立たなかった。理論的には、克服していたが、実際には、手探りでしかなかった。

 この狭い空間で、人の心は耐えられるのか。何年、耐えればいいのか。いや、ここでは、感情を出してはならないのではないか。じっと耐えるだけしかないのか。人として生きていきたい。生きている意味を知りたい。自分が存在する意味を知りたい。

 達麻と観音は、研究仲間であり、ライバルであったが、恋人同士ではなかった。そのような対象としてお互いを見た事がなかったが、研究者としては、お互い認め合う間柄であった。

 ”歴史”が始まった時、最初に、精神学者が勧めた対策は、全てのメンバーに結婚を勧める事であった。

 夫婦で研究スタッフでいた人はいなかった。というより、全員、独身であった。研究スタッフは、独身者だけで、結婚が認められていなかった。

 しかし、“歴史”が始まると、結婚が奨励され、義務付けられた。若い適齢期のスタッフがほとんどであったが、結婚の相手としてお互いを感じるというより、異性に対する愛情という感情を、再び、呼び覚ますことが、困難であった。

 それ程、研究に没頭した毎日であった。冷静に、懸命に、それぞれのテーマに基づき、考え、形にし、完成することしか、頭になかった。

 封印された感情は、心の奥底に沈んでいた。

 二人は、そんな中で、最も早く、感情を取り戻す事が出来た。

 人を愛す事、人に愛される事。生きる喜びを感じる事。それを伝える事。愛する子供達に。

 自然に二人は意識し合い、結婚した。

 アースサーティーでの結婚第一号として、この本に書き記された。新しい歴史が始まる。新しい空間で、命を繋いでいく。地上に戻れる日まで。

 “精神学的な最初の研究成果”として、ビージュが生まれたのは、翌年である。これも本に書き記された。“研究成果として。”アースサーティーで生まれた最初の子として。未来を象徴する存在として。

 理想の社会を、新しい命に託していく。いつの日か地球上に戻り、青い空の下で微笑む。

 新しい命。新しい宇宙の星。水青き星。


 ビージュは、ココアを飲みながら、暗い海を見つめた。アースサーティーにおける象徴として、自分の存在が大きい事を自覚してはいるが、苦痛でもある。

 今、このアースサーティーにいるメンバーが地上に戻れる可能性は全くない。悩み多き青春は、ぶつける対象がなく、両親を超える技術者になることにすべてを尽くした。

 二十歳を過ぎると既に技術者として、リーダー的存在となり、技術部門では、若くして責任ある立場になった。

 だから何が出来るというのか。この狭い空間でどう生きていくか。限界がみえても明るくふるまい、冷静でなければならない。

 海を泳ぐ鮫は、自由である。深海にいさえすれば、地上の影響は受けない。どこまでも泳いでいける。あの背中に乗って、深海の探検をしてみたい。心が躍る経験をしてみたい。


 おていは、太市の着物の破れを繕っていた。昼間のことを思い出して、ちょっと微笑んだ。昼間、おかつが、赤ん坊を連れて見せに来たからである。

 おかつは、おていの遠縁にあたり、山を一つ越えた同じ部落の出であった。昨年、隣の一人息子、源一と結ばれた。源一は、庄吉の3つ下で、弟のように庄吉は可愛がっていた。

 その源一が、おかつと結婚すると知り、おていは、喜んだ。

 「うえん(上)かあちゃん、見っくいやい。もぞかどー。」

 おかつがそう言いながら、おていの家に来たのが、昼過ぎであった。

 「んだもしたん、もぞかなー、源一さーに似とんなー、とうちゃん、見らんや。もぞかどー。」

 おていは、太市に呼びかけた。

 「あー。」

 返事をしたが、太市は縁側に腰掛け、空を見ているだけであった。

 「じっちゃんとばっちゃんが、おっで、良かったなー。こん子は幸せもんじゃーち、源さんが言うてくれたやでー。」

 おかつは、そう言いながら、乳首を赤ん坊にふくませた。まだぎこちない仕草であったが、幸せに満ちた、若い母親の乳房はぱんぱんに膨らみ、輝いて見えた。

 源一の両親とは、隣同士ということで、親しく、親類同様に付き合っていたが、おかつが嫁に来ると、すぐに相次いで亡くなった。人が増えると、食い扶持が減ってしまう。しかし、幸せなはずであった。

 それが、何ということか。ちょっと風邪をこじらせた二人は、若い二人に、道を譲るように、逝ってしまった。

 いや、若い二人に、命を繋いだのかもしれない。務めを果たした。彼らの命は、若い二人の中に生きている。

 人は、そうやって、何十年、何百年、生きてきた。人の営みは、次の世代に譲ることで、終わりを迎えるのかもしれない。

 必ず、迎えに来てくれる。そう信じる事が出来るから、静かに待つ事が出来る。あの世が存在することなど、誰も信じていない。

 死ねば、土に戻っていくだけ。形は何も残らない。いっとき、魂がその辺をうろついているかもしれないが、そのうち、それは、消えて無くなってしまう。

 なのに。迎えに来てくれる。矛盾があっても、そう信じることで、自分が生きていたことを、実感した。

 若い二人に命を繋いで、源一の両親は、幸せに、命を閉じた。

 源一は、痩せていた。小柄ではなかったが、ちょっとみすぼらしい感じの少年だった。

 村の小さいお寺で、生臭坊主の空寛和尚が、毎日、村の子供たちに、読み書きを教えていた。坊主も食べていかなければならない。こんな小さな村では、葬式だけで、食べていけない。わずかなお金であるが、払える子供だけに教えていた。

 源一は、境内の庭の片隅にすわり、坊主が他の子供達に教えるのを毎日、聞いていた。庭の地面に字をなぞらった。雨の日は、本堂の縁の下で、寝転がって聞いていた。

 源一の熱心さと頭の良さに気づいた和尚は、そのうち、夕方、源一だけに教える時間をつくった。読み書きだけでなく、お経を教え、商売の事まで熱心に教えた。山奥の坊主が、何故商売など多くの知識を持っているのか。

 空寛は、大阪の大きな問屋で長男として生まれたという。それが何故か家を飛び出し、日本中を旅したという。そして、京都の小さい寺で修行したという。何故坊主に。それは、わからない。

 そのうち、その寺からもいなくなり、ある日、この南の山奥の小さな村に来て、住職のいなかった小さい寺に居座ったという。

 子供達に教える以外は、生臭である。村の人達からは慕われていたが、尊敬までされる存在ではなかった。

 源一は、いじめられっ子でもあったが、どこからともなく、いつも庄吉が来て、助けてくれた。3才下の源一は、兄のように庄吉を慕った。

 源一にとって、庄吉は不思議な存在でもあった。いつもぼーっとした感じであるが、何か大きなものを庄吉に感じた。自分とは違う何かを感じ、まぶしいものを見るように庄吉を見ていた。

 源一は、畑に出るより、学ぶ事が好きであった。時々、庄吉に習った事を、畦道で寝転がって、話してみるが、庄吉は、関心があるのかないのか、ただ、空を見ていた。


 あれは、何年前だったか、両親と一緒に畑でまだ終わらない芋の収穫作業をしていた。

 隣は、大方、終わっていたが、まだ少し残っていた。しかし、誰も畑に出てこない。何か異変を感じた母親が、源一に隣の様子を見に行くよう言ったのが、昼前のことであった。

 三百メートル位の細い道を登り、隣の家に来た。そこで源一は、家の台所の土間で、泣いているおていと、縁側に坐り、空を見ている太市を見た。

 庄吉はいない。いなくなった。自分の兄と慕った庄吉は、どこに行ったのか。どこに旅立ったのか。

 源一にとって、世界は、両親と、彼らが耕す狭い畑だけであった。和尚が話してくれる世界もあったが、それは、漠然として、実感がわかなかった。源一は、当然、これからもずっと、ここで、畑を耕し、暮らしていく。

 しかし、そんな世界が、もっと広い事を、坊主は教えてくれた。

 何か、広大な世界が広がって見えるような気がした。それがどんな世界かわからない。行ってみたいとも感じたが、漠然としすぎていて、両親のいるこの実感出来る世界から離れる事は出来ない。

 源一は、3日前、坊主から聞いたその世界を、畦道に坐り、草を口に加えた庄吉に話した。空を見ていた庄吉は、関心があるのかないのか、ただ空を見ていた。

 庄吉が家にいないのに気づいた源一は、庄吉が“別の世界”に旅立ったとすぐに思った。

 ”そうか、行ったんな。もう、行ったんな。心配すんな。上んとうちゃんとかあちゃんは、おいが、世話すっで、心配すんな。あんちゃんは、ふとか人間やっで、いっきゃい。そいがよかが。”

 表に出た源一は、青い空を見上げた。大きな体をした、いや、そのように見えた雲が、東に流れていくのが見えた。


 ビッーピー。又、脇を後からくすぐっていた。

 「こら!Pテン!」

 「ショウ!又、ボーッとしてましたよ。早く、データを書いて、私に渡して下さい。私、忙しいです。」

 ショウは、苦笑いしながら、最後の計器からデータを読み、データをインプットして、チップをPテンの背中に、差し入れた。

 Pテンに全てを教わったといってもいいかもしれない。この地蔵様のようなロボットから。

 この世界を。アースサーティーの歴史。科学の基礎から、この一つ一つの計器の読み方まで。

 言葉を覚えるのがもっとも辛かった。新しい言葉や表現を覚えるたびに、“自分の言葉”を失っていくような気がした。“自分の世界”が遠ざかっていく気がした。幻想の世界にいる自分が、現実を受け入れることを拒否していたのかもしれない。

 Pテンは、無理強いせず、根気良く繰り返し、教えてくれた。

 Pテンは、人気者である。第二世代の全ての子供の教育係でもあった。教育だけでなく、遊びを通じて、子供達と共に過ごしてきた。Pテンは、第二世代にとって、親以上の存在であったかもしれない。

 しかしながら、所詮、機械である。古くなる。故障はしないが、最近、少しバッテリーの交換が早まってきた。

 新しいロボットが完成した。ビージュが開発した新しいロボットQテン。Pテンの数倍の能力があるといわれるが、ショウにとって、いまいちなじめなかった。Pテンより一回り大きく、又外観は、より人間らしくなった。Qテンは、第三世代を受け持つ事になる。

 ショウは、Pテンの頭をポンと軽くたたきながら、廊下に出た。丁度、7号室から、メーサが出てきたところであった。

 「アラ、ショウも今終わったの、一緒にコーヒー飲みに行かない?」

 「あー。」

 誘われるまま、ショウは、メーサの後を歩いた。なにかいい匂いがしたが、誰かに気づかれないよう、ちょっと横を見て歩いた。

 南棟青廊下。この廊下は、両サイドに暗い海が見えた。通称、ウミロウといわれていた。約20メートル。その向こうに広間があり、休憩中の人が、数人、飲み物を飲み、語らっていた。

 メーサとショウは、空いた席に座り、テーブルの上のボタンを押した。すぐにメニューがテーブルの画面に出てくる。メニューを見ながらメーサは言った。

 「コーヒーでいいわよね。何か食べる?」

 「いや、さっき食べたから。」

 「そう。じゃー私は、お腹すいたから、ちょっとケーキでも食べようかな。」

 ケーキとコーヒーは、テーブルの真ん中からすぐに出てきた。メーサは、ショウがコーヒーを飲むのをみながら、クスッとした。

 「まだコーヒーは苦い?あれから何年かしら。」

 「…。」

 「もうすっかり仕事を覚えたわね。ちょっと仕事が遅いけど。」

 「あー、Pテンのおかげさ。」

 「Pテンも、そろそろね。認められるかしら。あなたの嘆願書。」

 「さー?」

 「精神分析委員会に送られたらしいわよ。初めてのケースだから。」

 「そう。」

 「私は認めるべきだと思うわ。私も小さい時からPテンと遊んだわ。ここで生きるって、そうでしょう。無駄は、ここの寿命を縮めるって、判っているわ。でも私達も生きてるのよね。」

 「まーね。」

 「Pテンとの思い出が沢山あるの。とっても楽しかったわ。生きてるのよね、私達、ここで。」

 「そうだね。」

 言いながら、ショウは、コーヒーを少し口にふくんだ。


 定員百名。それ以上は生きられない世界。

 アースサーティー。

 歴史が始まった時、“住民”47名。大方、結婚し、子供も生まれたが、何故かというか、不思議にも、“住民”が百名を超えることは無かった。短命である。何故か、原因は判らない。しかし、百名に近くなると、誰かが亡くなった。

 もう第一世代は誰も生きていない。歴史を語る人はいなくなった。歴史は本の世界になった。チップの中の歴史。

 閉じ込められた空間の世界は、息苦しいのか。いや、そんなことはない。酸素は充分調整されている。生活環境は、物質的には、充分であった。全て、整えられていた。プログラムは、正常に動いていた。何も不足している物はない。

 愛情さえ取り戻せた。それぞれ、幸せな生活である。人間社会の問題を全て研究されつくしたプログラムである。問題があるはずがない。精神的な問題もクリアーされたはずである。結婚という成果で。

 まだ、地上に戻る事は出来ない。地上は、まだまだ生きる世界が戻っていない。

 しかし、あと数十年か、数百年か、きっと、戻れる日が来る。その時は、プログラム通り、社会が、理想の社会が出来る。

 人種を超えて、宗教を超えて。人がいがみ合う世界など、過去の事。そんな世界が待っている。待っているはずである。


 くしゅん!メーサは、くしゃみをしながら続けた。

 「だって、そうでしょう。Pテンだって」

 「僕にはわからない。僕の嘆願書は、Pテンのためじゃーないんだ。僕が生きていけるか、それを聞きたかったんだ。僕が存在しているか、生きているのか、聞きたかったんだ。」

 「生きていけるわよ。生きてるわよ。だって、私、…」

 ちょっと頬を赤らめて、メーサはうつむいた。


 ビージュは、自分の部屋で書いていた。最高委員会から、頼まれた。“この世界”の歴史を書くことを。

 「それは、歴史委員会の仕事でしょう。私は、次世代機械委員会のメンバーですよ。まして、文才はないし。」

 と断ったが、

 「君は、アースサーティーの歴史なんだよ。歴史が新しい歴史を書くべきだ。」

 と説得されて、書かざるを得なくなった。

 ”まー自分の個人的見解で少し書いてみるか”

 という気にもなって、つい受けてしまった。今、原稿画面を見ながら、ちょっと後悔していた。

 ふと、メーサの事が気にかかった。最近、彼女はよくくしゃみをしているなー。さっきも、南棟のサロンを通りかかった時、ショウと話しながら、くしゃみをしていた。

 メーサは、ビージュの5才下。妹のように可愛がってきた。

 五年から六年の間で、第二世代が生まれ、育ってくるに従い、あっという間に、第一世代が死んでいった。彼の両親、達麻と観音も同じである。

 ちょっとした異変が体にあって、何が原因かわからないまま、死んでいく。皆、安らかに。命を繋いだ責任を果たせた。そんな安堵感が、死ぬ人、皆にあった。

 メーサが大きくなり、年頃になり、美しくなり、ベージュは、彼女を想う気持ちはあったが、言い出せないでいた。

 そんな時だった。ショウが突然、この世界にやってきた。なにか、ゆったりした、気持ちの大きいショウに惹かれていくメーサを、兄として、見ていた。

 精神分析委員会からは、早く結婚を考えるよう、“指示”があった。

 適齢期を過ぎたベージュは、委員会のもっとも頭の痛い存在である。何故なら、彼は、このアースサーティーの歴史だから。命を繋ぎ、歴史を繋ぐ、象徴である。

 このままでは、研究が実らない証拠になってしまう。何かきっかけがほしい。考えた末、歴史委員会に要請した。

 歴史を書くことを。彼自身の歴史を。自分を振り返ることで、自分自身を取り戻し、研究だけでない、自分の感情を表す事を、期待して。

 ベージュは、電子ペンを持って、書き始めた。原稿画面は、自動的にめくられていく。Qテンについてである。自分には文才はない。事実としてのQテンの研究を書くことで、歴史を振り返ろうと思った。

 Qテンは、Pテンに替わるロボットとして研究、制作された。しかしながら、全く新しい発想で設計された。Pテンの延長では、容量に限界がある。

 より人間に近いロボットにより、子供達の教育をより充実させていく。心の教育を。完全でなければいけない。容量は大きくなければいけない。

 自信があった。自分は、達麻と観音の子である。出来ない筈は無い。メーサの事が頭に浮かぶたびに、余計に研究に没頭した。そして、Qテンは、完成した。完璧である。そう思った。

 ふと書く手を止めて、外を見た。海を見た。この先に未来がきっとある。輝く未来がきっとある。その時、何か赤い物が海の中で光った気がした。


 源一は、東京にいた。

 江戸と呼ばれた時代が終わった。ペリーとやらの黒船が、日本を変えてしまった。日本という感覚すらなかった。異国の人が来て、慌てて日本という自分の国を意識するようになったに過ぎない。

 開国だ、いや攘夷だと騒ぎがあり、錦江湾にも黒船がやってきて、薩摩は、コテンパンに負けてしまった。そのうち、薩摩藩すらなくなってしまった。

 しかし、西郷や大久保など旧薩摩藩士が日本の政治を動かしているという。長州や薩摩の外様の下級藩士が実権を握り、日本という国を動かす。この三百年、考えられない事であった。

 力のあるものが実権を握る。戦国の世ではない。刀は不要である。才覚のある者がその力を発揮出来る。世襲はない。士農工商など、そんな身分制度はなくなった。

 開国の世の中である。異国の制度や知識を取り入れ、追いつく為に、必死に走り始めた。中国の清の二の舞はごめんだ。属国の屈辱は、日本の歴史にはない。

 新しい“物”を積極的に取り入れ、日本に合わせて改善していく。そのままの形では、日本の風土に合わない。

 天皇を戴いた日本は、世界に君臨出来る素質を持っている。実力以上の自信を持って、新しい時代が始まっていた。

 そんな噂を寺の空寛和尚から聞いた。もうすっかり年取った坊主だが、世間の情報は、いち早く知っていた。

 志布志に知り合いの船主がいて、時々、新鮮な魚を丁稚に持たせていた。必ず世間の情報を書き添えて。生臭坊主は、生臭であるが故に、世間に未練があるのか、世間の動きを知りたがった。

 源一も、世間を知りたかった。自分の力を試してみたかった。そう思うようになってきた。

 この畑にしがみついて、2人の子供と、よく気が利いた妻と、隣のおじさんとおばさんと。幸せだった。食べるものは少ないが、飢える事はなかった。

 不満はなにもない。妻は、よく働いてくれた。隣の年寄りを、自分の両親のように世話してくれる。世話になった庄吉の両親である。粗末には出来ない。

 和尚から話を聞いた時、久しぶりに、庄吉を思い出した。

 今、どこにいるのか。庄吉あんちゃんの事だ。きっと東京にいるに違いない。一旗上げて、きっと帰ってくる。

 ”自分もあんちゃんのように、世界を知ってみたい。”

 そんな気持ちがどんどん膨らみ、もう堪えきれなくなってしまった。和尚の知り合いの船主に、頼み込んだ。何故、和尚が志布志の船主と知り合いなのかは判らない。古い付き合いらしい。

 「山猿がいくとこじゃなか。」

 船主からは断られた。

 日南や高知を経由して、薩摩の物産を大阪に運んでいたが、年に1回、江戸に荷を運んだ。和尚の頼みとはいえ、みすみす若者の人生を台無しにすることはない。

 “あんな所。”と船主は思う。

 貧しい。大隈の山奥はあまりにも貧しい。しかし、静けさに包まれた自然がある。山に夕日が沈む時、空が焼け、そして深い青色の空に変わっていく。誰にも邪魔されることなどない。

 静けさと、ゆったりとした時間。それは、今は東京と呼ばれる所には、もうない。

 が、和尚は再三、頼み込んできた。源一の何が和尚を動かしているのか。

 “あの痩せこけた山猿に何が出来る。維新の世の中とはいえ、山猿は山猿。”と船主は思っていた。

 しかし、結局、源一は、和尚の口添えで、船に乗せてもらう事になった。

 ”あん、やせごろは、見込みがあっど。連れていってくいやい。”

 和尚の再三の頼みに、断りきれず、船主はしぶしぶ承知した。

 その話を源一はおかつに言った。おかつは、目に涙を浮かべて、言った。

 「はんが、人生じゃが、好きにしやい。子供んしは、おいが育つっで。好きにしやい。上んとうちゃんとかあちゃんは、おいが世話すっで。はんな、好きにしやい。好きにしやい。」

 そういうと、台所の土間に行き、夕食の準備を始めた。竈の煙が台所に立ち込め、おかつは咳き込んで、着物の袖を目にあてた。

 庄吉さんはいなくなってしまった。そして源一さんもいなくなってしまう。年寄りと、女と子供だけが残ってしまう。

 しかし、子供がいる。子供が命を繋いでくれる。それでいい。女には、大きな望みなど考えも出来ない。でもそれでいい。繋げれば。

 源一は、心の中で手を合わせた。

 ”庄吉あんちゃん、おいも行っでな。”


 おかつに感謝しながら、源一が住み慣れた村を出たのは、4月の初めだった。丁度桜が満開で、山はピンク色に所々染まっていた。九十九折の山道を下り、海岸に出ると、そこからは、海岸沿いの道が志布志まで続く。広い海が静かであった。

 源一は、深呼吸して胸一杯に海の空気を吸う。それは、山の空気と違い、少し生暖かい。庄吉もこの空気を吸ったはずだ。

 ”きっと帰ってくる。きっと迎えに来る。“

 もう振り返らなかった。志布志まで、真っ直ぐに目を見据えて源一は歩いた。

 船の中では、水夫の下働きをする条件であった。片道だけである。

 「こんやせごろは、使いもんにならんが」

 と、水夫達に笑われながらも、歯を食いしばって働いた。船酔いでふらふらであったが、東京湾に入った時、気力が戻ってきた。

 和尚の話の世界が目の前にあった。新しい世界。

 “自分が生きた証しを記したい。自分には出来る。やせごろでも、山猿でも、出来る”

 源一は、自分に言いきかせた。

 わずかなお金をもらって、港で放り出された。

 庄吉はどこにいるのか。源一は、行商から始めた。東京中を歩き回った。体の大きい庄吉が働きそうな場所を、力仕事をしている所を訪ね歩き、両国の相撲部屋まで訪ね歩いた。

 源一自身、行商以外にも、いろいろな仕事をした。といっても体を動かす仕事はあまり出来なかった。歩く事には少し自信があった。

 彼には才覚があった。頭を使い、ほんの小さい利益から、少しずつ、大きな仕事が出来るようになった。港で荷を受け、売り歩く。人より安く、人より早く、人より喜んでもらえる物を、売り歩いた。お得意さんが少しずつ増えた。信頼される商売。

 山猿は、東京の言葉も覚えた。そして、店を構えるまでになった。人も使い、売上が伸びていく。

 ”おかつ、待たせたな。迎えに行っでな。“

 そう決心出来たのは、4年目の春だった。


 若旦那の衣服を着た源一を見て、おかつは目を瞠った。戻ってくるとは思ってもみなかった。しかも丁稚を2人も連れていた。

 ”上んとうちゃんとかあちゃんも連れっいっでな。”

 と言う。東京に行く。いやこの村を出ることすら思いもしなかった。

 おかつは、すぐに、隣に走った。太市は相変わらず、廊下に座って空を見ていた。おていもすっかり年を取っていたが、まだ畑に出て働いていた。

 「ほんのこんな。源一さーがな。連れっいっくいやい。庄吉に会いたか。探すっで。会うまで、け死んごたなか。連れっいっくいやい。」

 おかつは、驚いた。おていが、行くと言うとは思っていなかった。大体、自分が行くとも決めてなかった。

 いいのか、この家を出て、この畑を捨てて、この村を出て。隣村から嫁いで、ここから離れたことはない。いくら世の中が変わったといっても、東京。夢にも見ようがない所、東京。


 最近、B棟の1―53の圧力メーターが不安定である。正常の範囲内ではあるが、針がよく振れる。上には報告済みなので、結論を持ってくるだろう。

 ショウは、計器盤の下の花瓶に目を移した。花はない。白い花瓶は、それでも清楚にそこに立っている。もう三年になる。花がそこから無くなって。

 「ショウ、最近どうだい。」

 一週間前からここに配属になったジロームが尋ねる。

 「ううーん、ちょっとね。」

 「相変わらず、王様だけかい。守ってばかりじゃ、上達しないよ。」

 「ああー、そうだね。」

 ジロームがここに配属されて、将棋を教えてくれた。勝負事は自分には馴染めない。しかし、気分を紛らすにはいいように思える。

 「嘆願書が認められたって。僕も嬉しいよ。Pテンには、思い出が一杯あるからね。しかし、委員会が認めるとは思わなかったな。」

 「ああー、そうだね。」


 三年前、メーサは、突然亡くなった。

 「くしゅん。」

 メーサは、時々、くしゃみをするようになった。少しは、ショウも心配していたが、メーサの屈託無い笑い声を聞くと、まさかと思っていた。

 その日は早番で、仕事が終わり、Pテンにチップを預け、廊下に出た。

 「ショウ。」

 「ああー、ビージュさん、今日はもう終わりですか。」

 「…ショウ、来てくれ。」

 ビージュは、目を伏せながら、ショウに促した。

 エレベーターで下に降りる。別のエレベーターに乗り換える。ここから下には、降りたことが無い。

 何か悪い予感がして、ビージュを見た。何かうつろな表情のビージュを見て、少し身震いがした。

 その部屋には番号がなかった。壁の前に立つと、静かに扉が開いた。真っ白な空間。人が数人ベッドの周りを囲んでいる。見た事がある人ばかりである。ちょっと会釈をしながら、ベッドに近づき、ショウは、目を瞠った。

 「メーサ!」

 息を呑む。それ以上言葉が出なかった。今日はちょっと気分が悪いから、といって、メーサは休みを取っていた。

 ”くしゅん。風邪ね。直らないのよね。”

 と言っていた。

 白いドレスを着ていた。手を合わせ、上を向き、ちょっと微笑んで見えた。ベッドには、透明のカバーが掛けられ、遺体に触る事は出来ない。原因不明である。感染があるかもしれない。

 突然の死。

 繰り返す原因不明の死は、全員を不安な気持ちにさせたが、アースサーティーの“歴史”でもある。これが自然の死、皆がそう思い込もうとしていた。原因は、わからない。

 ただ、共通していることは、いつもと違う何かが起きる。それはいろいろで、つかみようがない。後から、そういえば、という感じである。

 初期、特別班が作られ原因究明にあたったが、その後、解散した。事実を認める事から、歴史を見つめるという方針になったという。

 メーサは、額に少し髪がかかり、上を向いていたが、目が開く事はもう無い。

 ビージュとショウだけが、最後に残った。

 「メーサは、君を好いていたよ。君を待っていたように思うけどね。君が言ってくれるのを。」

 「そうですか。」

 「君はメーサを…。」

 「はい、いいえ、ええ。だけど、僕は生きてるんですか。わからないんです。でも、もういいんです。わかっても、わからなくても、もう、いいんです。」

 「そうか、もう、いいのか、いいよな、メーサは、生きてるさ、君の心の中で生きてるさ。そうだろう。」

 「はい、いいえ、ええ。」

 「不思議だね。人間って。一人では生きていけないから。だから、好きになるんだね。好きになるから、生きてるって思えるんだよね。だから死んでも生きてるんだよね。好きな人の心の中に生きてるんだよね。生き続けるんだよね。」

 透明のカバーが少しずつ白くなってきた。

 もう戻っていく。どこに。原子の世界に。そこは、天国それとも極楽?それとも…新しい宇宙の星?


 中央委員会は、認めた。認めざるを得なかった。

 メーサの死がきっかけである。委員会は、三年間、悩み続けた。それまでは、原則を変えることは出来ない、の一点張りだった。Pテンの廃棄が決まっていた。嘆願書で法律を変えるなら、この狭い社会は混乱してしまう。そんな当たり前の意見が全員の意見であった。

 しかし、メーサの死は早過ぎた。前例がない。原因は不明である。それはもういい。原因はわからないでいい。

 しかし、早過ぎる死は、これからも続くのか。不気味である。このままでいいのか。何かしなければ。メーサの死は、特別である。ある程度の年令まで、健康プログラムは、完璧である。そう誰もが信じていた。

 しかし…。

 法律は変えられた。第二世代が全員亡くなるまで、Pテンをなんとか動かしていこう。Pテン延命の研究チームが作られた。ビージュがリーダーとなった。

 そう、ショウの嘆願書が認められた。Pテン延命の嘆願書である。

 Pテンは、ショウにとっては、生きた証しであった。ショウに関する全ての記録がPテンの中にある。ショウには、アースサーティーの“戸籍”はない。アースサーティーの歴史には、残らない。

 やはり、ここは、現実なのか。生きた証しは、現実であって、あの畑の土の匂いが幻想なのか。

 嘆願書が認められたのに、ショウは気分が晴れなかった。


 「どうしていくのかね。これから。」

 ジロームは覗き込むように、ショウを見る。

 「アースサーティーの循環が崩れてしまうよね。だけど早くも死にたくないし、ノンノに結婚を申し込もうと思っているんだけど。どう思う?やっぱりおかしいね。この圧力。ひどく振れてるよ。」

 「あー、指示通りに調整したんだけど。ひどく振れてるね。ひどいね。おかしいよ。ちょっと報告に行ってくるよ。これは、直接の方がいいから。」

 ショウは、すぐに廊下に出た。丁度、ビージュが子供を抱いて、歩いていた。

 「やー、ショウ、こいつ歩いたんだよ。昨日。」

 にこにこしながら子供を降ろした。

 「いや、すみません。急な報告で」

 子供がよちよちするのを見ながら、ショウは走った。


 メーサが亡くなって一年後、ビージュは結婚した。メーサの友達のハルと。そして、一年後、男の子が生まれた。歴史は、次の歴史を繋いだ。アースサーティーの歴史を。

 しかし、ショウにとって、アースサーティーの歴史など、どうでもいい。Pテンの嘆願書が認められても、まだ、生きているという自信が持てない。

 ”幻想”の中を走りながら、ショウは、メーサの声を聞いた気がした。

 「なんだって?」

 メーサの必死な声に聞き返した。


 港は、活気づいていた。

 太市は今日も、港に行き、船をみながら、砂浜に腰を降ろしている。おていは、番台にどっしり坐ったおかつを横目に、店を出て、太市を探した。いや探すまでも無い。いつもここに来て船を見ている。

 東京に来てもう一年になる。源一は、太市とおていの為に、敷地の中に離れを作ってくれた。

 時々、おかつの子供たちが来て、町の様子の話をしてくれる。実の祖父母のように接してくれる。ありがたい、と思いながら、庄吉はどこにいるという気持ちを抑えられない。

 東京に来た頃は、地理もわからないのに、歩き回った。庄吉に似た後姿を見ると、走って近づき、顔を覗き込んだ。

 そのうち、歩き回る事が少なくなった。太市のボケ症状が出てきた為、その世話に時間を取られるようになった。

 太市は、港に来て、いつも船を見ている。食事が合わないのか、急に痩せてきた。店の者は、親子はやっぱり似るものだ、と噂していた。痩せた店の主人源一と似てきたらしい。

 源一には感謝しているが、庄吉に会いたい。自分の子に会いたい。しかし、自分ももう、終わりそうな気がする。もういい年だし、もう迎えに来る。あの世から。太市の手を引きながら、言った。

 「はんな、海が好っやなー。海は良かいなー。広かでなー。」


 廊下の赤い非常警報が点滅していた。警報があちこちで鳴っていた。

 「何なんだ、これは、どうしたんだ。」

 南棟青廊下ウミロウを走りながら、海を見た。赤い光が見えた。それが流れているように見えた。

 「そうか、そうだったのか。何故気づかなかったんだ。」

 自分の世界に閉じこもってしまっていた。アースサーティーと心の世界に。皆が自分の世界を向いていた。第三世代、第四世代に繋げるのか。関心は、それだけだった。

 しかし、プログラム通り、近海の調査はしていたはずだ。何故気づかなかったんだ。何人かが走ってきた。

 「フェへはどこだ!」尋ねた。

 「わからん、早く逃げろ!」

 「逃げろって、どこに?」

 と、聞いたときには、走っていった。

 中央制御室。誰もいない。

 「どうしたんだ。なんで誰もいないんだ。」

 制御盤の全ての警報は鳴り響いていた。メーターを見る。振り切れているメーターもあった。

 何故気づかなかったんだ。地球は、地殻変動を起こしていた。そうだ、地球に住んでいるんだ。地球に住んでいて、地球を見てなかったのか。いや、そんなはずはない。

 ショウは、中央制御室を走り出た。何人かが走っていく。

 「フェヘを知らないか?」

 答は無い。皆、必死に走り去った。

 ショウは、非常シュートで十メートル下の中央委員室に向かった。

 扉を開ける。

 五人居た。中央委員のメンバーが揃っていた。ショウを見て、フェヘが言った。

 「どうする君は?どこに行く?」

 「えっ!いえ、村に。」

 「無理だ。推力が足りない。そこまで戻れない、君には責任はない。全て、中央委員の責任だ。圧力はおかしかった。いや、もういい。終わったことだ。プログラム通り指示を出した。全員、脱出する。」

 「エッ!どこに?脱出って?」

 「Pテンは、教えてなかったのか。そうか君には、プログラムが無いからな。Pテンも教えられなかったのか。もう時間がない。行くんだ!X―101に行くんだ。予備がある。一人しか乗れない。行くんだ。」

 「どこに?どこに行くんですか?」

 「行くんだ、我々も脱出する。どこまで戻れるか、アースサーティーの始まりには戻りたくないが、行くんだ。それぞれの歴史を作るんだ。そうさ、アースサーティーは終わらない。新しい歴史を探すんだ。後は、衝撃に耐えられるか。きっとあるさ、緑色に覆われた大地が。もう会うことは無い。生きるんだ。いいな。」

 ショウに念押しして、5人は出て行った。

 中央テーブルを見る。指令済みの下に、X―番号と名前が書いてある。

 そうか、そんな設備があったのか。脱出する。どこに。何のために。いつの時代に。どうやって。行けるのか。行くしかない。

 ショウは走った。床が揺れる。転びそうになりながら、廊下の案内表示を見る。

 X棟。ここから近い。廊下の脱出シュートを探した。X棟への脱出シュートは、すぐに見つかった。101の番号を探した。廊下には扉はない。ただ番号の表示だけがある。

 壁を押した。突然、体が浮かび、丸い機械の中のシートに体が坐った。自動的に、頭に蓋がかぶさり、目の前の赤い点滅が青に変わる。…年の表示がくるくる回っている。

 ”何年なんだ。”

 とにかく5つのボタンを押した。

 ”あっ!しまった。花瓶を忘れた。”

 白い花瓶が落ちていくのを見た気がした。

 ”あっ!割れてしまう。”

 衝撃がきた。胸が締め付けられる。

 ”落ちてしまう!メーサ!”


 おていは、太市を見た。むしろに横たわった太市は、水をすって膨らんで見えた。

 昨日も太市は、おていが、ちょっと目を離した隙に、いなくなった。

 ”まこて、またや。”

 そう思いながら、番台のおかつを横目に見て、浜まで歩いた。

 ”どけいったろかい?”

 いない。いつものように砂浜に座り、海を見ている太市がいない。悪い予感がして、小船の上で網を片付けている漁師に聞いてみた。さっきまで居たらしい。

 ”どけいったろかい?”

 探し回った。

 「えー、あんじいさんや。行ったで。どうしてん、船を貸せ。言うて。いつも断っとたけど、今日は、金まで出してな。そこまでいうんやったらしょうがなか。ちょっとやで。いうて、貸したで。大丈夫かいな。」

 おていは、へなへなと砂浜に座り込んでしまった。

 ”とうちゃんな、ないごて、いったんな。ないごて、海が良かったんな。”

 浜は、大騒ぎになった。大店の源一のおやじがいなくなった。浜に繋がれていた小船が一斉に沖を探した。しかし、見つけ出さずに夜となった。

 次の朝早く、浜から連絡があった。打ち上げられたという。

 安らかな表情であった。逞しかった顔が、痩せて、そして、ボケた顔になっていた。

 しかし、今、砂浜の筵に横たわる太市の顔は、安らかに見えた。まるで、庄吉に会ってきたかのように。

 庄吉に会ったのか。庄吉に会えたのか。海で会ったのか。海にいたのか。毎日、太市は砂浜に座り、海を見ていた。会いたかったのか。庄吉に。息子に。

 何故かわからないが、おていには、そう思えた。

 陸を探しても見つかるはずが無い。海にいた。太市にとって、おていにとって、命を繋ぐ庄吉は、海で生きていた。そうに違いない。きっと生きている。太市がおていに与えてくれた命。きっと生きている。


 ”ショウ!ショウ!”

 メーサが呼んでいる。暑い。まぶたを通して、太陽が目に焼きつく。足がざらざらする。

 ”花瓶は!白い花瓶は!”

 と言おうとしたが、喉がふさがっている感じで声が出ない。

 「チンチョン!チンチョン!」

 子供の声がした。誰?と思いながら目を開ける。太陽の光が一度に入ってきた感じで、まばたいた。

 自分は横になっている。手を握ってみた。ざらざらした感触があった。唇をなめて、声を出そうとしたが、塩辛さがして、咳き込んだ。

 「チンチョン!ネーム、ネーム?」

 「…しょうきち」

 「チョウ?チョウ。」

 そういいながら、子供が走っていく。ざらざらした白い土の上を。

 音が聞こえる。ザーッという規則的な音。少し目が慣れてきた。ザーッという音は、大きな水がこちらに向かって、又、向こうに行ってしまう。

 体を少し起こしてみた。水は白くくだけながら、こちらに向かったり、あちらに行ったりしていた。

 その向こうに小さい島が見えた。その横には、もっと小さい島が。その向こうに青い空が見える。

 青い。こんな青い空があるのか。

 ざらざらした白い土は、遠くまで続いている。その向こうに高台があり、その上になにか尖った建物が見えた。

 そうだ、灯台だ。確かアースサーティーの図鑑にあったように思う。

 ここはどこなのか。アースサーティーは?あの時、もう押しつぶされた。あるはずがない。深海の圧力に耐えられなかった。全てが押しつぶされた。

 ”花瓶は?白い花瓶は?”

 ちょっとあたりを見回してみた。きらきら光る白い土の上には何もない。いや、あの黒い子供の足跡が残っている。

 “黒い。あんなに黒い人間がいるのか。夢を見ているのか。”

 ”自分は、生きているのか。ここは、あの世とやらの場所なのか。やはりそうか。そうだったのか。自分は死んでしまったのか。やっと死んでしまったのか。“

 “ここには、父と母がいる。太市とおていがいる。やっと呼んでくれた。良かった。”

 ”ここにメーサはいるのか。別の所なのか。あの世はいくつもあるのか。”

 何かボーッとする。暑い。白い土も暑い。

 ”あの黒い少年は、どこに行ったのか。”

 ザーッという音を聞きながら、気持ちが良かった。まるで母のおていのお腹の中にいた時に聞いたような気がする。いやそんな音を覚えているはずがない。しかし、そうに違いない。

 ”かあちゃん!やっと会えた!おいのかあちゃん。”

 そのまま意識を失った。

 「マミー!カム!カム!」


 夏、戦争が始まった。隣の国、清と戦っているという。港からも、若者が戦争に出て行った。

 源一は、忙しい。戦争特需で、物が動く。物が動くが人が足りない。おかつも源一を手伝って忙しい。源一の店は、人気があった。新鮮で、安い。主人は信頼出来る。人が寄ってくる。又、忙しくなる。

 そうして、月日が瞬く間に流れた。

 この忙しい時、息子達も戦争に駆り出された。二人とも源一に似て、痩せている。体も弱い。それでも戦争は、若者を引っ張り出す。

 おていは、毎日、神棚に手を合わせ、仏壇のろうそくに火を灯し、祈った。“孫”の無事を。

 太市が死んで何年になるのか。

 おていは、すっかり年老いてしまった。髪は、全て白くなった。ふっくらし、日焼けしていた顔つきは、今は、皺だらけシミだらけになってしまった。鼻の下も皺が出来、歯も抜けてきた。声を出すと息が抜けるような感じがして、奥に引きこもる事が多くなった。

 源一とおかつは、実の母のように大事にしてくれる。孫達は、実の祖母のように、慕ってくれる。着る物も、食べる物も、何不自由ない生活であった。

 こんな幸せな人生があったのか。

 今日は、まだ残暑で暑かったが、久しぶりに気分が良く、廊下に出てみた。空を見上げた。雲が東に流れていく。

 庄吉。そうだった。庄吉は、よく、空を見上げ、雲を見ていた。あれから、庄吉の事を思い出さない日はない。

 突然、旅に出た。

 ”帰ってくっで。”

 と言って出ていったが、結局、帰ってこなかった。

 そして夢にも思わなかった東京まで来てしまった。庄吉に会うために。あの山奥から。

 こんな世界があったのか。こんな喧騒に満ちた世界があったのか。庄吉は、こんな世界に夢を追ったのか。しかし、庄吉に会えなかった。

 心残りがしていたが、そんな罰当たりな、こんなに大事にしてもらって、贅沢な。“息子”と“嫁”と“孫”に囲まれた毎日。

 極楽、極楽。ありがたや、ありがたや。

 おていは、外に向かって手を合わせた。命を繋ぐ事が出来た。源一にそしてその息子達に。そう思えるようになった。そう思うことで、幸せを感じるようになっていた。


 おかつは、泣いた。大声で人目もはばからず、泣いた。

 源一は、番台に座り、目もうつろに、帳面をめくる。

 ついこの間、息子達を送ったばかりである。痩せてはいたが、立派な兵士の姿である。ここまで育てた。戦争はきっと勝つ。清は、国が大きいだけで、中はズタズタになっている。負けるはずが無い。

 息子達が帰ってきたら、店を譲るつもりだった。この仕事は、才覚がものをいう。若い才覚に任せよう。自分は若隠居し、子供たちを見守る。そう思っていた。

 なのに、ついこの間、息子達を送ったばかりなのに、もう死んだという。二人共。戦争が始まったばかりなのに、なんの活躍もしないで死んだという。

 今日は、店を閉めた。とても仕事をする気にならない。

 何の為に、東京まで出てきたのか。自分の力を試したい。そう思った。畑で汗を流して、それもいい。しかし、和尚から聞いた世界は、何か、魅力に感じた。自分が生きた証しを、この世界に遺す。息子達に伝える。そして、自分は身を引こう。そう思っていたのに。

 おていは、仏壇の前に坐り、手を合わせた。

 ”なむあみだぶっ”

 泣きたかった。いや泣いていた。しかし、涙が出ない。年を取ると涙も出なくなるのか。赤ん坊の時から、彼らを見てきた。二人共、源一に似て痩せていたが、頭が良かった。

 和尚は、もう年取っていたが、源一に教えたように、色々な事を彼らに教えた。源一が迎えに来た時、和尚も喜んだ。自分がしたかった事を、源一に挑戦させた。子供達もやってくれる。和尚は、そう思い、嬉しかった。源一は、自分を繋いでくれた。生きた証しが遠い東京にある。そう思った。

 おていは、慕ってくれる“孫”達を可愛がった。源一に似て、賢い少年から青年になった。店の仕事も習い始めていた。腰を低く、信頼が一番。源一は、教えた。自分の全てを息子達に伝えた。

 しかし、戦う前に死んでしまった。戦場にすら行けなかった。船が沈んだという。別の部隊に配属されていたのに、同じ船に乗っていた。

 そんなに簡単に死ぬのか。若者が、世間様に何の奉公もせずに死んでいいのか。

 天皇様の為に戦うんだ。日本の国を守る為に戦うんだ。

 そう言って、向かったのではなかったのか。

 それが何もしないで、海の中に、沈んだというのか。暗黒の世界ではないのか。海は。いったい海に何がある。そんな所に、息子達は行ってしまったのか。

 源一は、帳簿をめくった。涙が落ちて、帳簿の字がかすんで見えた。

 おていは、廊下に出て、空を見上げた。東京の空にも雲が流れている。どこかで庄吉はこの雲を見ているだろうか。


 「チョウ、チョウ!」

 少年が呼んでいた。小船を砂浜から離そうとして押していた。今日も漁に出よう、と声をかけてくれた。チョウは、一緒に押しながら、少年を見る。

 少年の名前は、パリー。あれから、五年になる。まだ幼かった少年は、伸び盛りの少年になった。一人前に、父親の遺した船で、漁に行けるようになった。

 チョウは、言葉を覚えた。英語だという。最初は、全くわからず、パリーに笑われた。

 ここは、カリブ海にある“セントルシア”という名前の島らしい。この小さい島の一番南の町、ビューフォート。それが、ここの地名である。これだけわかるにも苦労した。

 まだ甘え盛りのパリーには、チョウはいい父親のようで、祖父のようで、そして遊び相手だったのかもしれない。

 浜の近くのバラックである。彼だけのバラックを隣に作ってくれた。木のベッド以外、椅子が一つ、年間、シャツ1枚で過ごせるが、それで少し寒い日もある。

 近くには、町があるが、ここは、貧しい。野菜を売る行商の女達が、道路端に店を並べる。わずかな小さい魚を、野菜に換えた。野菜を食べると、落ち着く気がする。

 庄吉は、ショウになり、チョウになった。

 あれから何年たつのか。旅をしてきた。はるか未来の海底で暮らした。そして今、小さいカリブの島だというセントルシア。

 畑はまだあるだろうか。もう父は畑に出るには年老いたはずだ。母は、まだ父の着物を繕っているのか。

 山に囲まれた生活は、静かな毎日だった。夕日が山際で輝く。その後は、漆黒の夜が長かった。

 チョウは、目を細めて、パリーが網を海に流すのを見ていた。パリーの父親は、チョウがここに来る直前に死んだという。船だけを残して。

 チョウは、パリーにとって、父親でもあったかもしれないが、魚の取り方も船の漕ぎ方も知らなかった。言葉は苦労したが、なんとか片言で意志の疎通は出来るようになった。

 Pテンは、パリーに替わった。あの地蔵様のロボットが、黒い肌の元気な少年になった。

 かなり沖合いにきてしまった。網を上げてみるか。チョウは立ち上がり、海の下を覗きこんだ。

 アースサーティーは、どこに沈んでいたのか。暗黒の海。しかし、ここは、紺碧の海。薄い透明の緑の温かい海。あの真っ暗な冷たい海とはまるで違う、まぶしいばかりの明るい海。

 どこに来たのか。はるか旅して、ここで何をしているのか、何のために。

 網を上げた。小さい、極彩色の魚が沢山入っている。

 「チョウ、沢山だよ。やっぱりたまには、少し沖にもこなくちゃね。」

 パリーは明るく言った。性格が明るい。ちょっと小柄ではあるが、明るい性格と要領の良さがあった。

 チョウは、網を引き揚げながら、腕を見た。随分と細くなった。細くはなったが、筋肉はまだ少し残っている。

 そうだった、村を出るとき、腕を曲げると力瘤が大きく、胸の筋肉がピリピリしていた。畑で鍛えられた体は、たくましかった。

 もう何年になるのか。又、チョウは思った。この繰り返しである。

 小さい島マリアの横の、また小さい島、というより岩礁の横を過ぎて、櫓をパリーに渡した。ここから先は、比較的波が穏やかである。それでも風が強い所なので、注意はしなければならない。

 ここに来て随分と日に焼けた。山で焼けるのと全く異なる。海で焼けるのは、肌の奥まで、ヒリヒリとする。それでもパリーの黒さには、かなわない。

 時空を飛んで、今度は、年をとった。もう父太市より年取った年令に思える。肌にしみが増えた。肌が焼けたこともあるが、それよりも年のせいに違いない。白髪が増えた。眉にも白い毛が増えた。

 時空を飛んで、アースサーティーに行った時、一瞬だった。しかし、ここセントルシアに来るまでは、長い旅をした気がする。こんなに年を取ってしまった。


 アースサーティーを脱出してから、ずっと夢を見ていたように思う。

 暗い海から出ると、急に沢山のキノコ雲を見た。赤黒いキノコ雲は、もくもくと上がっていく。時々ピカピカと光り、沢山の叫び声が聞こえる。

 急に目の前を爆撃機が通り過ぎた。何か信号を送っている。パイロットが、こちらを見て、にたりと笑った気がした。

 と思ったら、白い山が見えた。氷河を抱いた山だった。そうだ、あの図書館で見た山だ。ここにあったのか。3人がその山を登っていた。空を見上げて自分を見た。

 やー、と挨拶をしようとしたら、少年が畦道に寝転び、考え事をしていた。なになに、考えてる事は、何かな、と頭の中を覗いてみた。

 花が咲いていた。一面のお花畑。笑い声が聞こえた。若い女性の声。どこかで聞いたことがある。

 ”メーサ。そうだ、メーサの声だ。”


 気がついた時、自分はもう老人になっていた。父よりずっと年取っている自分がわかった。

 浜に船を着けた。パリーの母サンシャが笑顔で走ってきた。

 「パリー、偉いわね。今日は沢山ね。チョウ、疲れたでしょう。もう年なんだから、無理しないでね。」

 いつも優しく接してくれる。この五年間、自分を父親のように接してくれた。気持ちが沈んでいる時、サンシャの声がすると、救われる気がした。

 この島は、暑いが、空気が乾燥していて気持ちが良かった。ここは、パラダイスなのか。


 三十年位前まで世界で戦争があったという。アメリカという国が、ここに航空基地を構えたという。

 飛行機。鋼鉄の物体が空を飛ぶなど信じられなかった。しかし、アースサーティーの図書館には、図鑑があり、飛行機が写っていた。

 図鑑でしか見たことの無い飛行機が、轟音を響かせながら、いま、浜にいる自分の頭上を飛んでいく。

 アメリカ軍はもういない。戦いの相手は、日本もその一つであったという。自分が生きた日本は、最強の国を相手に戦ったという。

 何の為に?芋を食べながら戦ったのか。芋を食べた記憶しかない。日本など国の名前も知らなかった。国は、薩摩の名前だけだった。


 この国の人達は、昔、アフリカから来たという。奴隷として。

 何の為に。生きる価値があったのだろうか。生きることに価値を見出すのか。生きることに、未来を夢見たのだろうか。

 このどこまでも青い空と、明るい緑色の海を見ながら、いつか、人種の差別のない、理想の国を作りたい。そう思ったに違いない。

 その思いが実ったのか、小さいながらも一つの独立した国として、始まったという。新しい島の歴史が。

 一体、世界には、いくつ歴史があるのか。いくつ歴史を作れば、理想といわれる世の中に行き着くのか。


 あれから、おていの様子がおかしい事に、おかつは気づいていた。息子が二人共、逝ってしまった。源一までもが精彩を無くしてしまった。白髪が増え、すっかり年寄りみたいになってしまった。

 清との戦争で好景気だったが、店は商売がうまくいかず、番頭の佐吉に暖簾わけをし、奉公人の半分を引き取ってもらった。

 源一は、真面目に仕事をしているが、仕事に対する意欲をもう持っていなかった。ただ、生きている。息をしている。そんな感じで、時々、帳面を見たまま、動かないことが多かった。むしろ、おかつが動いていた。奉公人に指示をし、なんとか店を動かしていた。

 おかつは、おていの様子から、太市と同じ様子である事に気づいた。

 朝、食べ終わると、いつのまにかいなくなる。探しに行くと、いつも浜に座り、海を見ていた。そして何かつぶやいていた。この時代では、おていは長く生きた。

 「お迎えが来ますように。お迎えが。じいちゃん、はよ、来っくいやい。庄吉もそこにおっどが。はよ会わせっくいやい。はよ、来っくいやい。」

 太市を呼んでいた。一緒に生きた太市を呼んでいた。

 「かあちゃん、もう来てくるっが。とうちゃんが来てくるっが。もうちっと、まっとかんや。な、帰っど。家に帰って、待つが。」

 そう言って、おていの手を引いて帰る毎日であった。

 あの山奥から連れてきてしまった。静かな山郷だった。畑と向き合う毎日は、辛かったが、源一との生活は、幸せだった。

 二人の息子に恵まれた。命を繋いでくれる。息子は嫁をもらい、孫に囲まれて、孫のしぐさに微笑んで、向かいの山に沈んでいく陽を拝み、人生を終えるはずだった。

 今思うと、あの時は、おかつの人生のほんの一瞬だった気もする。しかし、今は、あの時が輝いて見える。

 東京は、食べる物を与えてくれた。こんなに食べるものが世の中にあるとは、思ってもみなかった。

 ここにこそ生きがいがあったのか、そう思って、懸命に都会に馴染んだ。東京の言葉を話し、商売を覚えた。二人の老人の世話をし、子供を育てた。ここに幸せがあったのか。と思っていた。

 しかし、逝ってしまった。戦争に行って、戦いもせず、息子達は、逝ってしまった。

 戦争で日本は何を得たのか。なのに、又、戦争が始まった。今度は、ロシアだという。十年しか経っていないのに、又、戦争を始めている。

 何を得る為に。誰の為に。天皇陛下万歳と言って、若者は、本当に死んでいくのか。

 おていの手を引きながら、細くなったおていの手を引きながら、おかつは思う。そんなはずはない。

 ”とうちゃん、かあちゃん、ごめんな、先にいっでな”

 そう言って死んでいくに違いない。命を繋げない事を詫びながら死んでいくに違いない。そうでなければ、残された親は、この寂しさに耐えられない。

 おていが立ち止まった。

 「空がきれいかなー。はんが、こまんか子を抱いてきた日も、こげんな空やったなー。雲がもくもくっち。よか日じゃったなー。」

 「じゃっどなー、じゃったいなー。」

 おかつも空を見上げた。


 おていは、時々、自分が自分でないような、何か、人に動かされているような、そんな気分の時を感じていた。さっき仏壇の前で拝んでいたのに、いつのまにか、おていに手を引かれている。

 自分の息子でなく、自分の息子がもらった嫁ではなく、なのに大事に世話してくれた。息子を、庄吉を探しに東京まで来たのに、会えなかった。

 さっき海を見ていた気がする。その向こうから、太市と庄吉が呼んでいた気がする。

 「なんや、太いっどんも、庄吉も、そけおったんなー。海におったんなー。」

 今日も話が出来た。良かった。空を見上げた。

 「空がきれいかなー。はんが、こまんか子を抱いてきた日も、こげんな空やったなー。雲がもくもくっち。よか日じゃったなー。」


 雲がもくもくと水平線から湧き上がっている。

 久しぶりに、チョウを誘い、海に出た。チョウは、すっかり年老いた。チョウを初めて浜で見た時、この間、亡くなったばかりの父が姿を変えて戻って来たと思った。

 言葉を教えた。英語とパトワ語である。この島では、公用語は英語であるが、普通は、皆、パトワ語で話をした。老人には、難しかったようだ。

 遠いアジアのチャイナから来たように見えて、この島に少し住んでいる彼らと違うように見えた。船が難破して、この島に打ち上げられたのか。何故、この島に来たのか、言葉がわからず何もわからない。

 しかし、それは、もうどうでもいい。彼を父のように慕い、彼に見守られて自分は成長した。肌の色は違っても、父として接してきた。

 今日は波が静かだった。大西洋からの風が強い海であるが、今日は凪いでいた。

 「チョウ。今日は駄目かもね。」

 「うーん、こんな日もあるさ。パリー、もう、すっかり一人前になったなー。」

 「ああー、チョウのお陰さ」

 パリーは思う。

 彼が来てから、というより、戦争が終わってから、この国が独立してから、随分、世界が変わったように思う。

 アメリカ軍がいなくなって、町は一時すたれたが、それでも少し活気が戻ってきた。大きなスーパーが出来て、物が豊富に出回るようになった。

 しかし、漁師は貧しいことに変わりない。小さい船に、人生を託す。漁師の勤めを果たして、生きがいを感じる。天気が悪い日は、友人とドミノをして遊んだ。時間は、たっぷりある。時間はゆっくり流れていく。

 ここは、パラダイス。

 皆が言う。豊かな自然、青い空と、紺碧の海。

 チョウにとって、この島の生活は何だろうか。

 時々、ラジオを聴きながら、微笑む時がある。どこの国の言葉か知らないが、その時、一番、表情が和らいで見える。チョウには、家族がいたのだろうか。

 いや、チョウの家族は、ここにいる。現実をありのままに受け止めて、未来に向かえばいい。大西洋は、広い。この海の広さに未来を見れば、それでいい。

 チョウは、充分に生きた。それは、額の皺に刻まれている。少し猫背になってきたチョウの背中に、声をかけた。

 「チョウ。今日は海がきれいだね。」

 「あー。空が青い。こんな、青い空がどこまで続いてるのかね。」

 「チョウ。故郷を思い出す?」

 「そうね。故郷を、忘れる事はないよ。でも今はここに住んでいる。それでいいんじゃないかな。ここは、パラダイスだからね。今を生きれば幸せなんじゃないかな。生きてるだけで幸せなんじゃないかな。」

 チョウは、遠く海を見ていた。


 おていは、今日も浜に来た。海を見ていた。太市と庄吉に会いに来た。

 太市は、今日も畑を耕していた。もくもくと土と向き合う太市は、たくましかった。おていを見て、太市は微笑んだ。

 「とうちゃん、又、庄吉は起きてこんが。」

 「よかが。ほっとかんや。よか子やっで。庄吉は、体がふとかだけじゃなかが。なんかどでかいことをすっかもしれんど。ほっとかんや。よか子やっで。」

 「じゃらいなー、よか子じゃらいなー」

 幸せとはこんなことなのに違いない。今年は、少し収穫が少ないかもしれない。来年もきばらんなら。

 「庄吉を起こしてくっで。」

 おていは、太市に声をかけて、家に向かった。家まではほんの少しの距離。

 おていは、海に入っていった。

 「はんが人生じゃが、はんが好きにしやい。庄吉、庄吉!」


 海を見ていた。紺碧の海。

 白い砂浜に老人は座っていた。長い長い旅だったような気がする。しかしその旅は終わりに近づいている事を、老人は、知っていた。

 老人の脇に、まだ幼い少年が坐っている。ピースである。パリーは、老いてきた母を助ける為に早く結婚した。すぐにピースが生まれ、こんなに大きくなった。

 ピースは、“グランパー”といって、自分を慕ってくれる。祖父ではないが、そういってくれる少年を孫のように思うときがある。

 老人は、足についた砂を少し払いながら、細くなった足を見た。

 老人は、ここに座って、海を見るのが好きだった。空を見た。そこには、色々な形をした雲が、東の方に流れていく。おにぎりや、魚や、お坊さんや、剣を持った武士や、そんな形。

 長い、長い旅だったような気がする。旅した自分は幻想を見ていたのか。ここにいる世界が現実で、あの暗黒の中の空間は幻想だったのか。

 「メーサ!」

 久しぶりに彼女の名前を呼んでみた。砂遊びをしていたピースは、首を傾げながら老人を見た。

 旅を始めた時、老人は、筋肉で張りのある太い腿をしていた。腕を曲げるだけで、力瘤がふくれて、胸の筋肉がピリピリと震えていた。

 あれから何年たったのか。母は、泣いただろうか。泣いたに違いない。しかし、結局は、自分を許してくれたように思う。

 「はんが、人生やが、好きにしやい。」

 後で、そういってくれたに違いない。好きにしようと思った人生が、思ってもみなかった人生になってしまった。

 太陽が、老人の少なくなった髪を通して、頭の地肌を焼いていた。何かぼーっとなるような感じがしていた。目を細めて、微笑んでいるように見えたが、流れる汗が、涙にも見えた。

 ゆっくりと、海が、水平線が立て向きになるのを見た。

 「グランパー?グランパー!」

 遠くで声がした。走っていく少年の足が見えた。

 そうだった。ピースだった。自分の命はピースが繋いでくれる。

 お迎えなど来ない。そう思うようになっていた。あの世など、天国など、極楽など、そんなものはもうどうでもいい。あろうがなかろうが、それは、空想にすぎない。

 自分の生きてきた世界は、存在していた。そこで自分は生きてきた。信じる事が出来る。生きた証しがある。

 ピース。ピースが命を繋いでくれる。

 はるかな旅の空を見た。どこまでも青い空を見た。

 遠のく意識に、急に光が差し込んできた。

 自分は、消滅する。死は、消滅して生を終える。いや、原子に戻るのか。原子は、存在する。死は消滅に違いない。

 消滅するからには、そこには、苦しみなどあるはずがない。楽しみもない。いや、あるもないも何もない。生きて命を繋いだ。それだけだ。それだけで、人生を終えた満足を感じる。そう思うようになった。

 大きなまばゆい光は、沢山の大きな円を描き、輝き続ける。光は、沢山の色があるようで、ないようで、わからない。

 暖かい。とても心地良くて、気持ちが静まる気がする。何か聞こえるようで、何も聞こえなかった。静かだった。

 ふと、自分がその光の中心に吸い込まれていくのを感じた。吸い込まれながら、メーサを感じた。

 心の中にメーサを感じた。


 「やっと、来たんだね、やっと、会えたんだね。」

 母のおていが、ささやいた。

 花瓶を持っていた。

 白い花瓶。

 白い花が挿されていた。

 あの白い花。


 「マミー!マミー!」      

(完)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ