第10話 冷えたベンチ
この物語は、長い旅になります。
今回は第一章の終わりです。
ここから先も、静かに続いていきます。
もしよろしければ、お付き合いください。
まだ、二人には光が消えていません。
僕たちは何事もなかったかのように、二人の時間を育んでいった。
しかし、それは悲しみの序曲にすぎなかった。
「拓真さんはクラシック音楽は好きですか?」
「いや、僕は今流行りの音楽しか聴かないよ」
「そうですか……」
「どうしたの?」
「実は今週の日曜日にショパンのリサイタルがあるのですが、でも、あまりお好きでなければ……」
「いや、大丈夫だよ。由香里さんと一緒だったら、それだけで楽しいよ」
「本当ですか? 拓真さんがそう言ってくださると思ってチケットを二枚購入したのです。ごめんなさい。勝手にしてしまって」
「いや、大丈夫だよ。行こう、行こう」
「はい」
「ショパンは夜にささやく作曲家だったのです。私は大好きなのです」
「そうなんだ。由香里さんは詳しいな」
「いえ、今はやさしくささやいてくれる人がいますから……」
リサイタル当日。
「拓真さん、ここのホールです」
「初めてで緊張するなあ。高かったんじゃない」
「いえ、いつも拓真さんからご馳走していただいているので、このくらい平気です」
「ありがとう」
「えっと席はあの辺です」
「楽しみだなあ」
「席はあそこ……」
「お嬢様、お待ちしておりました」
「佐藤さん、どうして……?」
「これも、仕方ないことなのです……お嬢様ならお分かりでしょう……」
「帰りましょう。拓真さん」
それだけではなかった。
「先輩、今日の現場はどこですか?」
「……」
「どうしました? 先輩?」
「いや、今日は僕だけみたいなんだ…… 詳しくは社長に聞いてくれ」
「社長、どうしましたか?」
「拓真君、悪いが今日までなんだ」
「どうして、社長……」
「悪いがそういうことだ」
「僕が何をしたのですか?」
「すまない……」
僕はやり切れない思いに満ちた。
そして、翌日、由香里さんからの突然の申し出だった。
「拓真さん。もうこれ以上…… 詳しい事情は聞いています」
「大丈夫だよ。由香里さん。必ず僕がなんとかする」
「いえ、拓真さんに迷惑がかかりますし、拓真さんが苦しむだけです」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「私が身を引くしか……」
「それじゃ、何も解決にならないじゃないか」
「仕方ないです」
「僕は由香里さんと別れるということは想像できない」
「それは私も同じ気持ちです。でも……父は冷酷な人です。目的ためなら手段を選ばない人です。拓真さんが危険な目に遭うのは目に見えています…… 悲しいですが、無理です。それでは……」
「待って」
地面に落ちていたのはいつもの花だった。
公園のベンチに行くと、いつもある花がなかった。
そこには、あの家の男性が立っていた。
そして、僕に1通の手紙を渡した。
「お嬢様から頼まれました」
男性の目はどこか遠くを見ていた。
そして、僕の胸はざわめいた。
僕は家に帰り手紙を読んだ。
拓真さん
拓真さん、突然ですが、
ごめんなさい
ごめんなさい
私は決めました。
それは私にとってこれ以上にない辛いことです。
もう、私は拓真さんのそばにいることはできません。
それは、愛しているという言葉でいいのかわかりませんが、
拓真さんに、辛い思いをしてほしくないのです。
先日もお話しましたとおり、私には決められた人がいます。
でも、信じてください。
拓真さんのことは忘れません。
何があっても忘れません。
そして、愛しています。
愛していますという言葉が軽いくらいです。
私は幸せでした。
拓真さんと過ごした時間が幸せでした。
拓真さんが私のすべてでした。
もうこれ以上は伝えるのが辛いです。
どうか、こんな私を許してください。
拓真さん
拓真さん、私はもうこれ以上
これ以上書いたら
拓真さんが怒りますよね
私は決めました
拓真さんともう別れることのない世界へいきます
きっと許してくれないと思います
もっとしっかりしろ
そう怒りますよね
でも
ごめんなさい
こんな私を許してください
由香里
僕は自分の無力さを感じた。
でも、時間は待ってくれないと思ったんだ。
そして、手紙を書いた。
由香里さん
生きてください。
どうか生きてください。
僕のことはどうでもいいですから
生きてください
それがすべてです
拓真
そして、僕は翌日にいつも現れる男性へと手紙を渡した。
必ず渡してもらうようにお願いしたんだ。
すると、男性は静かに目を細めてうなずいた。
さらに翌日、男性は由香里さんからの手紙を僕に渡したんだ。
拓真さんへ
お手紙ありがとうございます
でも、拓真さんとは別れたくないです
でも、拓真さんから怒られますから、言うとおりにします
でも、拓真さんのことが忘れられません
でも、いったいどうすればいいのですか
でも、もう会ったら駄目なのです
わからないです
わからないです
拓真さん
拓真さん
何度書いても、私の心は拓真さんだけなのです
もう、手紙は書かないでください
私はもう、苦しいです
もう、苦しいです
由香里
僕はなすすべもなかった。
でも、足取りはいつも公園のベンチへと向かっていた。
しかし、そこには花はなかった。
彼女の楽し気な笑顔も
彼女の柔らかい香りも
彼女の柔らかい温もりも
なかった。
あるのは、冷えたベンチと、行き場のない僕の影だけだった。




