第9話 安らぎの中で
木の葉が紅に色づく頃、彼女の黒髪の香りが漂っていた。
でも、どことなく憂いのある瞳は常にどこかを見つめているようだった。
僕は母さんに彼女を紹介するために家に連れていった。
彼女の心にそっと灯りをともしたいと思ったから。
「由香里さん。よければ、僕の実家へ行ってみないかな? 僕の母さんに由香里さんを紹介したいんだ」
「このような私でいいのでしょうか?」
「もちろんだよ。きっと母さんと親しくなれるよ」
そして、彼女を僕の家へと案内した。
「母さん、紹介したい人がいるんだ。僕が交際している桐沢由香里さんだよ」
「初めまして、桐沢由香里と申します」
「まあ、素敵なお嬢さんじゃない。拓真にはもったいないくらいだよ」
「いえ、とんでもありません」
彼女は震える声だったけど、母さんは目を細めて笑顔で答えたんだ。
さっそく、夕食を友にすることになった。
「拓真、夕食は何がいいかい?」
「母さん、由香里さんに聞いたらどう?」
「そうね。由香里さんは何がいいかしら」
「お気遣いありがとうございます。私は頂けるだけでも嬉しいです」
「いいんだよ。何でも言ってね」
「そうだよ、由香里さん。遠慮しなくてもいいよ」
「それでは、お鍋料理が食べてみたいです。家族で食べた記憶がないのです。以前から食べてみたいと思っていました」
「ああ、いいね。でも、材料があったかしら」
「母さん、なんでもいいって言ったろ」
僕と母さんは冷蔵庫を開けてみた。でも、材料らしいものはなかったんだ。
「由香里さん。豆腐と白菜しかないけど……」
「いえ、構いません。それでは最後にご飯を入れて、おじやにしたら、どうですか?」
「由香里さん、いいねえ、ご飯ならあるけど、拓真、材料を買っておいで」
「大丈夫です。お母さま」
「あら、お母さんでいいんだよ」
そして、夕食が始まった。
しかし、彼女の瞳から頬を伝わるものがあった。
「あら、どうしたのかい?」
「そうだよ。由香里さん」
「羨ましいです。こんなに温かい料理を食べたのは初めてです。私の家はシェフが作る料理なのですが、いつも一人で食べていました。いつも寂しい思いをしていて……拓真さんが羨ましいです」
「そうだったのかい、それは辛かったのね」
「はい……お母さま」
「由香里さん、うちは確かに貧しいけど、いつも母さんと一緒に食べている。決して豊かではないけど……」
「ほら、そろそろ豆腐がいいように煮えたよ。由香里さん食べてごらん」
「はい、ありがとうございます」
触れ合う時間は短かった。でも、彼女に笑顔が戻ってきたんだ。
「そろそろ、帰らないといけません。今日はありがとうございました」
「おや、もう帰るのかい?」
「そうなんだよ。由香里さんには門限があるんだよ」
「そうかい、こんなお粗末な料理でごめんね」
「いえ、こんなに美味しい料理を食べたのは初めてです」
「それはよかったよ。また、いつでもおいで」
「はい、ありがとうございました」
彼女は帰っていったけど、後ろ姿が何かを語っているように思えた。
僕が帰り道送っていくと、紅の葉が静かに落ちていった。
僕はその夜は眠れなかった。
由香里さんの家庭環境のことを思うと、
確かに恵まれた生活とは聞いている。
僕はそういった点では決して裕福ではないけど、
母さんがいる。
優しい母さんがいる。
でも、父さんはいない。
そこが由香里さんと異なるところだけど、
由香里さんの話を聞くと、どうやら、父親の愛情を受けずに育ってきたとのこと。
僕にしてあげられることは何だろう。
由香里さんのそばにいてあげることだろうか。
僕は無力感に襲われた。
翌日になって。
公園に、そっと花が置いてあった。いつものように――
しばらくすると、由香里さんが現れた。
でも、表情は暗く僕はうまく声をかけてあげられなかった。
「拓真さん、昨日はありがとうございました」
「いや、あれでよかったのか、あの夜考えたんだ」
「どうしてですか?」
「なんだか、由香里さんの後ろ姿が寂しそうだったから」
「拓真さん、実は私には決められた人がいるのです」
「決められた人とは?」
「私は拓真さんのことを想っています。でも、父は私に定められた人を押し付けようとしています。そのことを考えるといてもたってもいられなくて……」
「定められた人とは、もしかして、結婚相手のこと?」
「はい……ごめんなさい。今まで黙っていて……」
「それは……」
「でも、でも、私は拓真さんのそばにいたいです。拓真さんは私のことをどう想っていますか?」
「もちろん、由香里さんを愛しているよ。そうに決まっているじゃないか」
「本当ですか?」
「もちろんだよ。でも、僕がなんとかするよ」
「どうやって……? 私の父は国政に影響を与えるくらいの力をもっています。いざとなったら、拓真さんが危険な目に遭うはずです」
「それでもいいよ。それでもいい。僕が由香里さんを守るよ」
「無理だと思います。だから……」
「それ以上は言わない。必ず僕がなんとかする。それは信じて。近いうちにお父様に話に行く。由香里さんは僕のことを信じてほしい」
「わかりました。昨日は幸せでした。豊かな生活ではないかもしれませんが、私は幸せでした。また、お母さまと3人で一緒に過ごしたいです」
「それなら、僕がなんとかするから、待っていて」
「はい」
気づくと胸の中に壊れかけた欠片を僕はそっと抱きよせていた。




