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惰性の果てに

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/13

第一章 空白


 ──自分には生きている価値がない。


 ずっとそう思ってぼんやり生きてきた。窓の外を見れば、灰色の空が広がっている。今日が何曜日なのかさえ、もう分からない。カレンダーは三ヶ月前のままめくられずに壁にかかっている。


 鏡を見るのはいつぶりだろう。洗面所の鏡には水垢がこびりついて、自分の顔がぼんやりとしか映らない。それでいい。どうせ見たくもない顔だ。


 見目が良いわけでもなく、突出した才能もない。一言で言えば、『凡庸』。学生時代、成績は中の下。運動神経も平均以下。目立つこともなく、かといって同情されるほど酷くもない。ただ、そこにいるだけの存在だった。


 二ヶ月前の面接を思い出す。

 小さな会社の事務職。


 求人票には「未経験歓迎」と書いてあった。


 狭い応接室。

 向かいに座る、四十代くらいの男性。


「履歴書、拝見しました」


 男性が書類をめくる。


「──職歴が、多いですね」

「はい」

「どれも、半年から一年で辞めていますが」

「──すみません」

「すみませんじゃなくて」


 男性が眼鏡を上げる。


「なぜ続かなかったんですか?」

「その──合わなくて」

「合わない?」

「はい──」


 沈黙。

 男性がため息をつく。


「あなた、何がやりたいんですか?」

「──」


 答えられなかった。

 何がやりたいのか。

 分からない。


「──特には」

「特には?」


 男性の声が、冷たくなる。


「うちは、やる気のある人を探してるんです」

「──はい」

「あなたには、それが感じられない」

「すみません──」

「今日は、これで」


 男性が立ち上がる。


「結果は、また連絡します」


 連絡は来なかった。


 そういうことが、何度もあった。

 面接にすら辿り着けないこともある。

 書類選考で落ちる。


 「またのご応募をお待ちしております」という定型文。


 俺には、何もない。

 アピールできるものが、何もない。


 友人もいない。

 正確に言えば、かつてはいた。高校時代、なんとなく一緒にいたグループ。大学でできた、サークル仲間。でも、卒業してからは音信不通だ。年賀状も来なくなって久しい。LINEのグループも、いつの間にか通知がオフになっていた。彼らが結婚した、子供が生まれた、昇進した──そんな報告を目にするたび、画面を閉じた。


 恋人もいない。

 いたこともない。


 ついでに家族とも疎遠だ。

 両親は地方で暮らしている。年に一度、盆か正月に帰省していたが、それすらもう三年していない。母からたまに電話がかかってくる。「元気にしてる?」「仕事は?」──適当に嘘をつく。「うん、元気だよ」「仕事も、順調」。母は信じているのか、安心したような声で電話を切る。罪悪感が胸をチクリと刺すが、すぐに消える。感情さえも、もう薄れている。


 仕事もパッとしない。

 新卒で入った会社は一年で辞めた。上司と合わなかった。いや、合わせようとしなかった。


 次の会社は派遣。契約が切れた。その次は契約社員。業績不振でリストラ。安定しない職を転々とし、今は無職だ。履歴書は真っ白に近い。いや、真っ黒か。職歴欄を埋める短期の仕事ばかり。


 ハローワークに行くのも面倒になった。求人サイトを眺めても、応募する気力が湧かない。貯金は底をつきかけている。家賃と光熱費を払えば、手元に残るのはわずか。でも、それでいい。どうせ使う場所もない。


 趣味もない。

 好きなものもない。


 昔は何か好きだったはずだ。音楽?映画?読書?でも、いつからか何を聴いても、何を見ても、何を読んでも、心が動かなくなった。感動することもない。笑うこともない。泣くこともない。


 休日はスマホを延々と弄ってSNSやニュースサイトなんかをスクロールしている。


 親指が勝手に動く。画面が流れていく。誰かの幸せそうな投稿。美味しそうな料理の写真。旅行先での笑顔。「いいね」の数。それを見ても、何も感じない。ただ、スクロールし続ける。


 SNSは見る専だ。

 自ら発信することはない。


 なんに対してもこだわりがない。

 食事も服装も、何もかも。


 朝、昼、晩の区別もなくなった。腹が減ったら食べる。それだけ。コンビニのおにぎり、カップ麺、菓子パン。栄養?バランス?そんなこと考えたこともない。


 服はいつも同じ。洗濯したものを着る。汚れたら洗濯機に放り込む。買い物に行くときは、とりあえず匂いのしないものを選ぶ。それだけ。おしゃれ?何それ。


 自分には生きている意味がない。

 だが、死ぬ勇気もない。


 死について考えたことはある。何度も。でも、実行には移せない。痛いのは嫌だ。失敗したらどうしよう。迷惑をかけるかもしれない。


 遺体を発見した人がトラウマになるかもしれない──そんなことを考えているうちに、結局何もしない。


 自分はなんのために生きているのだろう。

 ただ息をしてここに存在しているだけの存在。


 ──惰性で生きている。

 毎日が同じだ。変化がない。起きて、食べて、スマホを見て、寝る。それだけの繰り返し。


 そんな俺の生活は、自分でも気づかぬうちに破綻していた。

 部屋は荒れ果てている。自分自身も荒れ果てている。心も身体も。いつからこうなったのか。


 気づいたらこうなっていた。戻れない。戻り方も分からない。


 ──セルフネグレクト。


 俺がその言葉を知ったのは、スマホのニュースサイトをぼんやり眺めていた時だった。


 『増加する孤独死 背景にセルフネグレクト』


 記事をタップする。文字が流れる。


 『セルフネグレクトとは、自分自身への世話を放棄すること。食事、入浴、掃除などの日常生活行為を怠り、健康や安全を損なう状態』


 ああ、と思った。

 これは俺のことだ。

 自分の世話すら満足にできない。

 いや、しようとしない。する気力がない。


 記事は続く。『孤立、失業、精神的ストレスなどが原因とされ、最悪の場合、孤独死に繋がる』


 ──孤独死。


 その文字を見て、何も感じなかった。恐怖もない。悲しみもない。ただ、「ああ、そうなんだ」と思っただけ。


 それは、諦念にも似た感情だった。


 俺は、生きている価値のない人間。

 社会の歯車に乗れなかった人間。

 必要とされていない人間。


 スマホのメモ帳を開いた。

 指が勝手に動く。文字が打ち込まれていく。

 なんとなく、遺書を書いた。

 両親に向けて。


 『お父さん、お母さんへ

 こんな形で文章を残すことになって、ごめんなさい。

 でも、これは遺書というほど大袈裟なものではありません。

 ただ、言葉にしておきたかったことを書いておきます。

 僕は、うまく生きられませんでした。

 才能もなく、努力もできず、人と繋がることもできませんでした。

 二人が望んだような息子にはなれなかった。

 申し訳ありません。

 でも、それは二人のせいではありません。

 僕自身の問題です。

 ただ、僕という人間が、この世界に合わなかっただけです。

 今まで育ててくれて、ありがとうございました。

 生きている価値のない僕を、ここまで生かしてくれて、ありがとう。

 もう、疲れました。

 さようなら』


 文章を読み返す。涙は出なかった。感情が湧かなかった。


 死ぬつもりはなかったが、積極的に生きていくつもりもなかった。


 このまま餓死でもできたらいいな、なんて軽く考えていた。


 食料を買いに行くのをやめよう。水だけ飲んで、後は寝ていよう。そうすれば、いつか眠るように死ねるかもしれない。痛みもなく、苦しみもなく。


 そんなことを考えながら、スマホを置いた。


 天井を見上げる。白い天井。照明の傘に埃が積もっている。視界がぼやける。


 ああ、このまま消えてしまえたらいいのに──。




第二章 通知


 それから数日が経った。

 いや、一週間かもしれない。もう分からない。


 食料を買いに行かないと決めてから、何も口にしていない。水だけは飲んでいる。蛇口をひねれば水は出る。それだけで生きている。


 空腹感はもうない。最初は胃が痛かったが、今は何も感じない。身体が軽い。ふわふわしている。意識が遠のく。


 このまま死ねるだろうか。

 そう思いながら、ぼんやりと天井を見つめる。

 その時、ドアがノックされた。


 コンコン。


 誰だ。

 起き上がる力もない。無視する。


 コンコンコン。


 しつこい。


「すみませーん。隣の部屋の者ですけど」


 女性の声だ。


「ゴミ、廊下に出しっぱなしになってて、カラスが荒らしてるんですよ。迷惑なんで片付けてもらえませんか」


 迷惑──。

 ああ、そうか。俺は迷惑な存在なんだ。

 当たり前だ。


「すみません、開けてください。管理人さんに連絡しますよ」


 管理人。

 家賃、滞納してたな。


 もう何ヶ月だろう。

 追い出されるかもしれない。

 でも、それでもいい。どうせ行く場所もない。


 ノックが止んだ。

 諦めてくれたのか。


 静寂。

 また、一人。


 スマホが鳴る。

 着信。

 母からだ。

 無視する。


 また鳴る。

 しつこい。

 電源を切る。


 静寂。

 天井を見つめる。

 意識が遠のく。


 ──このまま、消えてしまいたい。




第三章 督促


 ドアを叩く音で目が覚めた。

 ノックじゃない。叩いている。


「開けてください!管理会社の者です!」


 男の声。


「家賃を三ヶ月滞納されています。このままでは法的措置を取らざるを得ません」


 三ヶ月。

 そんなに経ったのか。


「中で何かあったんじゃないかと心配しています。お返事だけでもください!」


 返事──。

 声が出ない。喉がカラカラだ。


「開けないなら、警察を呼びますよ」


 警察。

 面倒なことになる。


 起き上がろうとする。身体が動かない。

 力が入らない。


「最後の警告です!」


 ドアを叩く音が激しくなる。

 這いつくばって、玄関に向かう。


 ドアノブに手をかける。

 鍵を開ける。


 チェーンはかけたまま。

 ドアを少し開ける。


「──っ、いらっしゃったんですか」


 中年の男性が立っていた。スーツ姿。険しい顔。


「家賃の件ですが」


「すみません──」


 声がかすれる。


「もう少し、待って──」


「お待ちできません。既に三ヶ月です。今週中に全額お支払いいただけないなら、退去していただきます」


 今週中。

 無理だ。金がない。


「払えないなら、保証人の方に連絡します」


 保証人──父だ。


「待って、ください」


「じゃあ、払えるんですか?」


「──払えません」


 男性が溜息をつく。


「では、保証人に連絡します。それと、部屋の中、確認させてください。異臭の苦情も来てるので」


 異臭。

 ああ、そうか。俺の部屋、臭いのか。


「今は──」


「今、確認します」


 男性がドアを押す。チェーンが外れそうになる。


「お願いします、待って──」


 でも、男性は聞かない。

 ドアを強く押す。

 チェーンが外れる。

 ドアが開く。


 男性が中に入ってくる。

 そして──。


「──なんですか、これは」


 男性が絶句する。

 ゴミの山。

 散乱した服。


 異臭。

 腐った食べ物。

 カビだらけの食器。


「これは──完全にゴミ屋敷じゃないですか」


 男性が鼻を押さえる。


「こんな状態で住んでたんですか?」


 俺は何も答えられない。


「退去してください。今すぐに」


「今すぐは──」


「今すぐです。この状態、他の住人に迷惑です。それに、あなた自身も──」


 男性が俺を見る。

 その目に、嫌悪が浮かんでいる。


「とにかく、保証人に連絡します。荷物をまとめてください」


 そう言い残して、男性は出て行った。

 ドアが閉まる。


 一人。

 また一人。


 でも、もう終わりだ。

 ここにもいられない。


 実家に帰るのか。

 この顔で両親に会うのか。


 無理だ。

 どこにも行けない。

 どこにもいられない。


 俺は──。




第四章 着信


 スマホが鳴る。

 父からだ。

 無視する。


 また鳴る。

 母からだ。

 無視する。


 また鳴る。

 父。

 無視する。

 鳴り続ける。


 もう──。


 電話に出る。


「もしもし──」


『何やってんだ、お前!』


 父の怒鳴り声。


「すみ──」


『すみませんじゃない!家賃も払えないのか!なんで連絡しない!』


「すみません──」


『いいか、今すぐ荷物をまとめろ。迎えに行く』


「いや、その──」


『その、じゃない!どうするつもりだ!このままホームレスにでもなるつもりか!』


 ホームレス。

 ああ、そうなるのかもしれない。


『返事をしろ!』


「──帰りたくないです」


『なんだと?』


「帰りたく、ない──」


『甘ったれるな!お前、いくつだと思ってるんだ!』


 受話器から父の怒鳴り声が響く。


 耳が痛い。

 頭が痛い。


「すみません、すみません──」


『すみませんじゃない!いいか、明日迎えに行く。準備しとけ!』


 電話が切れる。


 明日。

 実家に帰る。

 両親の失望した顔を見る。


 説教を聞く。


 あの狭い実家で、また暮らす。

 無理だ。

 嫌だ。


 でも──。

 他に、どうしようもない。

 部屋を見渡す。


 ゴミの山。

 こんな部屋で生きてきた俺。

 こんな人間に戻った俺。


 情けない。

 惨めだ。

 生きている価値がない。


 スマホのメモを開く。

 遺書を読み返す。


『お父さん、お母さんへ──』


 涙が出た。

 止まらない。


 ごめん。

 ごめんなさい。

 こんな息子で、ごめんなさい。




第五章 最後の夜


 ──夜。


 荷物をまとめる──といっても、何もない。


 服が少し。

 スマホの充電器。

 それだけ。

 他は全部、ゴミだ。


 明日、父が来る。


 その前に──。


 部屋を見渡す。

 数年間、ここで生きてきた。

 いや、生きていたのか。


 ただ、息をしていただけだ。

 窓の外を見る。


 夜空。

 星が見える。

 綺麗だな。

 そう思った。


 その時、壁の向こうから音が聞こえた。


 テレビの音。

 笑い声。

 隣の部屋だ。


 あの女性──ゴミのことで文句を言ってきた隣人。


 当たり前だ。俺が迷惑をかけたんだ。


 でも──。

 どんな人なんだろう。

 笑い声が聞こえる。

 楽しそうだ。


 羨ましい。

 俺も、あんな風に笑える人生だったら──。


 違う。

 俺は、自分でこうなったんだ。


 誰のせいでもない。

 自分のせいだ。

 布団に横になる。


 明日。

 実家に帰る。

 それから、どうなるんだろう。

 仕事を探せと言われる。

 ちゃんとしろと言われる。


 でも、できない。

 俺には、できない。

 何もできない。

 何の価値もない人間。


 ──消えたい。

 そう思いながら、目を閉じた。




第六章 朝


 インターホンが鳴る。


 父だ。

 時計を見る。朝の9時。


 起き上がる。

 身体が重い。


 玄関に向かう。

 ドアを開ける──。


「おはようございます」


 父じゃない。

 隣の女性だった。

 二十代後半くらい。眼鏡をかけている。


「あの、この前はきつい言い方してすみませんでした」


 ──え?


「ゴミの件で──つい、イライラしてて」


 女性が頭を下げる。


「いえ、俺が悪いんです──」


「あの、大丈夫ですか?顔色、すごく悪いですけど」


「──引っ越します。今日」


 女性が驚いた顔をする。


「引っ越し?」


「はい。迷惑かけて、すみませんでした」


 そう言って、ドアを閉めようとする。


「あ、待って」


 女性が手を伸ばす。


「あの──何かあったんですか?」


「何も──」


「……嘘」


 女性がまっすぐ俺を見る。


「何もないわけないですよね。その──」


 言葉に詰まる女性。


「私も、一人暮らし始めた頃、部屋が荒れたことあったんです」


「──え?」


「仕事が忙しくて、心も荒れて。気づいたら部屋がゴミだらけで」


 女性が苦笑する。


「だから、なんとなく分かるんです。あなたの部屋の様子を見て」


「──」


「辛かったんじゃないですか」


「その……」


 少し迷ったあとで、彼女は言った。


「……勝手なこと言ってたら、すみません」


 その一言で、涙が溢れた。

 止まらない。


「すみません、すみません──」


「謝らないでください」


 女性が優しく言う。


「一人で抱え込まないで。誰かに話して」


「でも──」


「私でよければ、聞きますよ」


 なんで。

 なんで、この人は──。


「お時間、ありますか?」


 女性が聞く。

 インターホンが鳴る。


 ──今度こそ父だ。


「──すみません。ないです……」


「……そうですか」


 女性が名刺を差し出す。


「これ、私の連絡先です。もし、話したくなったら、いつでも連絡してください」


 名刺を受け取る。

 桜井美咲──と書いてある。


「ありがとう、ございます」


「いえ。お元気で」


 桜井さんが微笑んで、去っていく。

 インターホンが再び鳴る。

 ドアを開ける。


 父が立っていた。

 険しい顔。


「──行くぞ」


「はい」


 荷物を持つ。

 部屋を出る。

 振り返る。


 数年間過ごした部屋。


 ゴミの山が見える。

 ドアを閉める。

 父の車に乗る。


 無言。

 車が走り出す。


 窓の外を見る。

 流れる景色。


 ポケットの中で、名刺を握りしめる。


 ──桜井美咲。

 ──もし、話したくなったら。


 その言葉が、胸に残っていた。




第七章 実家


 実家に戻って、三ヶ月が経った。

 毎日、父に怒鳴られる。


「仕事を探せ」


「いつまでゴロゴロしてるんだ」


「お前、本当に情けないな」


 母は何も言わない。

 ただ、悲しそうな顔で俺を見る。

 その顔を見るのが、一番辛い。


 ハローワークには何度か行った。

 でも、面接まで辿り着けない。


 履歴書を見られて、「また連絡します」と言われて終わる。


 連絡は来ない。

 部屋に閉じこもる。

 実家の自分の部屋。


 狭い。

 息が詰まる。


 スマホを見る。

 SNS。


 誰かの幸せそうな投稿。

 画面を閉じる。


 ポケットに、あの名刺が入っている。

 何度も取り出しては、しまう。

 連絡しようか。


 でも、何を話す?

 結局、何も変わってない俺。

 こんな俺が連絡したって、迷惑なだけだ。


 窓の外を見る。

 灰色の空。

 雨が降っている。


 ──生きている意味が、分からない。

 ただ、息をしている。

 惰性で、生きている。


 その果てに──。

 何があるんだろう。


 答えは、まだ見つからない。




第八章 破綻


 俺はとうとう起き上がれなくなった。


 スマホを手に取るのすら、重い。

 スマホを見る気力すらなくなった。


 ──それでもまだ生きている。


 両親が毎日部屋まで来る。

 父は顔を真っ赤にして文句を垂れる。

 母は困ったように食事を部屋に運んでくる。


 食事は、喉を通らなかった。

 スープやお茶しか受け付けなくなっていた。


 俺は空想の世界に逃げた。

 最近流行りの、異世界転生もの。

 俺のようなパッとしない主人公が、現実世界で死に、異世界で生まれ変わる。


 俺にはチート能力があり、誰にも負けない力を持っている。

 困った人を助けて回り、村で「勇者」として崇め奉られる。周囲からの感謝、尊敬、敬愛の眼差し。

 ああ、本当にそうだったらどんなにいいだろう。現実世界の俺は、こんな有様だというのに。


 今が何月何日何曜日か。

 ──分からない。


 部屋の時計で時間だけは分かる。

 朝か夜かはカーテンから差し込む光で判断する。


 ──桜井美咲。


 唐突に彼女のことを思い出した。

 電話してみるべきか。


 俺は死ぬべきなのか、なんて相談して、はいそうですね、なんて言われるわけがない。

 適当に励まされて終わるだろう。


 ──それでも。

 生きている限り、俺はこのままではいけないことは確かだった。


 気づけば、念のためにスマホに登録しておいた彼女の電話番号に指が当たり、電話がかかってしまった。




第九章 電話


 コール音が響く。

 切ろうか。いや、もう遅い。

 二回、三回──。


「はい、桜井です」


 女性の声。あの時の、優しい声。


「あ、その──」


 声が震える。何を言えばいいのか分からない。


「もしもし?」


「すみません、隣に住んでいた──」


「──ああ!」


 桜井さんが声を上げた。


「覚えてます。お元気でしたか?」


 元気──元気なわけがない。


「いえ、その──」


 言葉が出てこない。


「大丈夫ですよ。ゆっくりでいいです」


 彼女の声は穏やかだった。急かさない。ただ、待っている。


「俺──もう、ダメなんです」


 声が詰まる。


「何も、できなくて。生きてる意味が、分からなくて──」


 涙が溢れる。


「辛かったですね」


 桜井さんが静かに言う。


「一人で、ずっと抱えてたんですね」


「すみません──こんな電話、迷惑ですよね」


「迷惑じゃないですよ」


 きっぱりと言う。


「お電話くださって、ありがとうございます」


 ──ありがとう?


「あの、もしよければ、直接お話ししませんか?」


「でも──」


「無理にとは言いません。でも、話すことで少し楽になるかもしれません」


 沈黙。


「今、どちらにいらっしゃいますか?」


「実家です。地方の──」


「そうですか。では、オンラインでもお話しできますよ」


 オンライン。


「顔、出したくないです──」


「大丈夫です。音声だけでも構いません」


 また沈黙。


「明日の午後、お時間ありますか?」


 明日──。


「あります」


 気づけば、答えていた。


「では、明日の2時にビデオ通話のリンクを送ります。カメラはオフで大丈夫ですから」


「はい──」


「それまで、無理しないでくださいね」


 電話が切れた。

 スマホを握りしめる。


 明日。

 明日、話す。


 少しだけ──ほんの少しだけ、胸が軽くなった気がした。




第十章 カウンセリング


 翌日、午後2時。


 部屋のドアに鍵をかけた。

 父や母に聞かれたくない。


 スマホを見る。

 桜井さんから届いたリンクをタップする。

 接続中──。


「こんにちは」


 桜井さんの顔が画面に映る。

 眼鏡をかけた、穏やかな表情。


「こんにちは」


 俺の声は画面に届いているが、カメラはオフだ。


「お時間作っていただいて、ありがとうございます……」


 俺が言うと、彼女が微笑む。


「今日は、ゆっくりお話ししましょう。何でも話してください」


「何でも──って言われても……」


「じゃあ、今、一番辛いことは何ですか?」


 一番辛いこと。


「全部です……」


 自嘲気味に笑う。


「生きてることそのものが、辛いです……」


「そうですか」


 桜井さんは驚かない。ただ、頷く。


「いつから、そう感じるようになったんですか?」


「いつから──分かりません。気づいたら、こうなってました」


「そうなんですね」


 彼女はメモを取りながら聞いている。


「今、お仕事は?」


「してません。無職です」


「そうですか。以前は?」


「転々としてました。どこも続かなくて──」


「続かなかったのは、何か理由が?」


 理由──?


「俺が、ダメだからです」


「ダメ?」


「何やってもダメなんです。才能もないし、努力もできないし……」


「努力ができない、というのは?」


「やる気が出ないんです。何をやっても意味がないって思ってしまって」


 桜井さんが頷く。


「それは辛いですね」


 否定しない。


 「甘えだ」とも「頑張れ」とも言わない。

 ただ、「辛いですね」と言う。


「──はい」


 涙が出そうになる。


「あなたは今、うつ状態にあるかもしれません」


 うつ。


「病気──ですか?」


「病気というより、心の状態です。でも、専門医の診察を受けた方がいいかもしれません」


「病院──」


「抵抗がありますか?」


「あります。精神科とか、行きたくないです」


「そうですか」


 桜井さんは押し付けない。


「では、まずは私とお話ししていきましょう」


「──いいんですか?」


「もちろんです。私はカウンセラーですから」


 微笑む彼女。


「少しずつ、一緒に考えていきましょう。生きる意味とか、そういう大きなことじゃなくて」


「じゃあ、何を?」


「今日、何を食べたか。今、何が見えるか。そういう小さなことから」


 小さなこと──。


「そんなこと、意味あるんですか?」


「あります」


 きっぱりと言う。


「今は、大きな意味を探さなくていいです」






 それから、週に一度、桜井さんとオンラインで話すようになった。


 最初は、何を話していいか分からなかった。


 でも、彼女は上手に引き出してくれる。


「今日は何を食べましたか?」


「窓の外、何が見えますか?」


「昨日と今日で、何か違うことはありましたか?」


 そんな、本当に些細な質問。


 でも、答えているうちに──少しずつ、変化が生まれた。


 窓の外を意識するようになった。

 空の色。雲の形。鳥の鳴き声。


 食事を、少し意識するようになった。

 味を感じようとした。


 まだ起き上がれない日も多い。

 父に怒鳴られる日も続いている。


 でも──。


「今日、カーテンを開けたんです」


 そう報告すると、桜井さんは嬉しそうに笑った。


「素晴らしいですね」


 カーテンを開けただけ。

 それだけのこと。


 でも、彼女は「素晴らしい」と言ってくれた。






第十一章 小さな一歩


 二ヶ月が経った。

 まだ仕事は探していない。


 父は相変わらず怒鳴る。

 母は相変わらず悲しそうだ。


 でも──変化はあった。


 起き上がれる日が増えた。

 食事を、少しずつ食べられるようになった。

 シャワーを浴びる回数も増えた。


「今日、散歩したんです」


 桜井さんに報告する。


「家の周りを、10分だけ」


「すごいですね!外に出られたんですね」


 外──。

 久しぶりの外の空気。


 太陽の光。

 風の感触。


 それだけで、涙が出そうになった。


「世界は、まだそこにあったんだなって思いました」


 俺が言うと、桜井さんが優しく笑った。


「世界は、ずっとそこにありましたよ」


 そうか。

 世界は変わってない。

 変わったのは、俺の見方だけだ。


「桜井さん」


「はい」


「俺──まだ生きる意味は分かりません」


「そうですか」


「でも、少しだけ──生きててもいいかなって思えるようになりました」


 桜井さんの目が潤む。


「それは──本当に大きな一歩です」





 その夜、母が部屋に来た。


「ご飯、食べる?」


「──うん」


 久しぶりに、自分から返事をした。


 母が驚いた顔をする。

 そして、嬉しそうに笑った。


「じゃあ、準備するね」


 母が部屋を出る。


 スマホを見る。

 桜井さんから届いたメッセージ。


「焦らなくていいです。あなたのペースで」


 ──ありがとう。

 初めて、誰かにそう思えた。


 窓の外を見る。

 夜空に、星が輝いている。

 綺麗だな。


 そう思えた自分に、少しだけ驚いた。




第十二章 父との対話


 三ヶ月目。


 リビングで父と二人きりになった。

 気まずい沈黙。


 父は新聞を読んでいる。

 俺はスマホを見ている。


「──なあ」


 父が口を開いた。


「お前、最近少しマシになったな」


 マシ──?


「……」


「カウンセリングとか、受けてるのか?」


 父は知っていたのか。


「……うん」


「そうか」


 また沈黙。


「──悪かったな」


 ──え?


「怒鳴ってばっかりで」


 父が新聞を置く。


「お前が、そんなに苦しんでたこと、知らなかった」


「──父さん」


「俺も、どうしていいか分からなかったんだ」


 父の声が震えている。


「息子が部屋に引きこもって、何も話さなくて──」


「……ごめん」


 父が俺を見る。


「お前は、悪くない」


 その言葉に、胸が詰まった。


「でも──」


 父が強く言う。


「生きてるだけで、いいんだ」


「お前が生きてて、それだけで──父さんは嬉しいんだ」


 ──涙が溢れた。


 父も泣いていた。

 初めて見る、父の涙。


「……ありがとう」


 俺は言った。


 父が頷く。

 二人で、泣いた。





 ──夜だった。


 カーテンの隙間から入る街灯の光が、部屋の床に細い線を作っている。


 今日は外に出られた。


 コンビニでパンを買えた。

 父の言葉も、まだ胸に残っている。


「生きてるだけでいい」


 あの言葉はきっと嘘じゃない。

 父は本気だった。


 ……なのに。

 天井を見つめながら、ふと思う。


 ──それでも、俺がいない方が合理的では?


 感情ではなく、計算だった。


 俺は働いていない。

 家族に心配をかけている。

 生きているだけで金もかかっている。

 俺がいなければ、静かになる。


 胸は痛まなかった。

 涙も出なかった。


 ただ、静かに。


 「消える」という選択肢が、棚の上に置いてあるように見えた。


 手を伸ばせば届く距離に。


 桜井さんの顔が浮かぶ。


「焦らなくていいんです」


 その声を思い出して、

 ふと、別の考えが浮かぶ。


 ──俺は、この人に依存しているだけなのでは?


 桜井さんとの通話がなくなったら?

 父がまた冷たくなったら?

 もし母が倒れたら?


 俺は、一人では立てない。


 それなら最初から──。

 そこまで考えて、呼吸が浅くなる。


 違う。

 これは、病気の声だ。

 そう思おうとする。


 でも、完全には否定できない。

 布団の中で、指を強く握る。


 死にたいわけじゃない。

 でも、生きる理由も、まだ薄い。


 時計を見る。

 午前二時四十七分。


 朝まで、あと数時間。


 今は何も決断しない。

 ただ、今夜は選ばない。


 それだけを決める。

 目を閉じる。


 胸の奥に、まだかすかに残っている温度を確かめる。


 父の手のぬくもり。

 コンビニで会計をしたときの、ほんの少しの達成感。


 それらを、ひとつずつ思い出す。

 完璧な希望じゃなくていい。


 今夜は、消えない。

 朝まで、選ばない。


 ──それでいい。




第十三章 再会


 半年が経った。


 俺は、少しずつ外に出られるようになった。


 散歩の時間が延びた。

 近所のコンビニに行けるようになった。

 図書館にも行くようになった。


 まだ仕事は探していない。


 でも、焦らないことにした。

 桜井さんが言った。


「回復には時間がかかります。焦らず、一歩ずつ」


 その言葉を、信じることにした。





 ──夜は、音がない。


 静まり返った部屋で、冷蔵庫の低い唸りだけが続いている。


 今日はうまくやれた日だった。


 外に出た。

 桜井さんと挨拶を交わした。

 父と普通に話せた。


「順調ですね」


 桜井さんの声が、やわらかく蘇る。


 ──順調。


 その言葉が、喉に引っかかる。


 ──順調って、何だろう。


 俺は、まだ何者にもなれていない。


 それなのに、「順調」。

 それは、甘やかされているのでは?

 胸の奥に、冷たい声が広がる。


 これは回復じゃない。

 ただ周囲が優しくしてくれているだけだ。


 父も、母も、桜井さんも。

 みんなが下駄を履かせてくれている。

 本当の俺は、何もできないままの、空っぽな人間だ。


 布団の中で天井を見つめる。

 もし明日、桜井さんとの繋がりが切れてしまったら?

 もし「ここまでですね」と言われたら?


 俺は、一人で立てるのか。


 答えはすぐ出る。

 立てない。


 その瞬間、ぞっとする。

 俺は回復しているんじゃない。

 依存先を変えただけだ。


 家族から、カウンセラーへ。


 “支え”があるから立っているだけ。

 それがなくなれば、崩れる。


 それなら最初から──。


 俺がいない方が、合理的では?

 指先が冷たくなる。


 今回は衝動ではない。

 泣きも、混乱もない。


 ただ、静かな計算。


 生き続ける重さと、消える軽さを、天秤にかける。


 迷惑。医療費。時間。心配。


 数字のように並べる。

 圧倒的に、赤字が大きい。


 胸がひどく静かになる。

 これは正しい判断では?


 そのとき、不意に思い出す。

 コンビニのレジ。


「袋はご利用ですか?」


 あの、なんでもない問い。

 俺はちゃんと答えた。


 震えながらも、自分で財布を出した。


 ほんの小さなこと。

 でも、俺がやった。


 胸の奥で、かすかな反論が起きる。

 それでも。


 それでも、俺はまだ弱い。

 完璧じゃない。

 立派じゃない。

 社会的価値もない。


 沈黙。


 そして、初めて本音が浮かぶ。


 ──それでも、生きてみたい気持ちが、少しだけある。


 ほんの、爪の先ほど。

 消える方が合理的だと分かっているのに。


 それでも。


 その小さな矛盾が、俺を苛立たせる。

 弱いくせに、未練がある。

 情けない。


 涙が出る。

 死にたいから泣くのではない。


 生きたい気持ちが、まだ消えていないから泣くのだ。


 布団の中で丸くなる。


 今日は決めない。

 合理性にも、絶望にも、従わない。

 未練の方を、ほんの少しだけ残す。


 明日も、たぶん不完全だ。


 でも今日は、「消える方が正しい」と言い切らなかった。


 ──それだけでいい。





 ある日のカウンセリングの終盤だった。


 それからも俺は、オンラインで桜井さんとのカウンセリングを続けていた。


 相変わらずカメラはオフのままだ。


「最近は、声が元気になってきましたね」


 桜井さんが穏やかに言う。


 その瞬間。

 胸の奥で、何かが弾けた。


 ──元気?


 俺は、まだ夜に計算している。

 消える方が合理的かどうか。

 それなのに。


「……分かりません」


 声が少し硬くなる。

 桜井さんは、いつものように待つ。

 その“待つ姿勢”が、急に腹立たしく見える。


「簡単に言うんですね」


 気づいたら言葉が出ていた。


「順調ですね、とか。良くなってますね、とか」


 喉が熱くなる。


「俺がどれだけ世間から取り残されているか、分かりますか?」


 部屋の空気が変わる。

 止まらない。


「働いていない。何も返せていない」


 呼吸が荒くなる。


「“生きてるだけでいい”って、綺麗すぎませんか?」


 沈黙。

 桜井さんは、遮らない。

 それがまた、苛立ちを煽る。


「俺が壊れる前に、誰も気づかなかった」


 父も。母も。会社も。


「今さら優しくされても、遅いです」


 涙が落ちる。

 怒鳴っているわけではない。

 でも声が震えている。


「なんで、あのとき止めたんですか。俺は死ぬべき人間なのに。この世にいてはいけない存在なのに」


 これは桜井さんに向けた言葉ではない。

 でも、今ここにいるのは彼女だけだ。

 しばらくして、桜井さんが静かに言う。


「怒っているんですね」


 その一言で、胸の奥が崩れる。

 怒っている。

 そうだ。


 俺は悲しいだけじゃない。

 傷ついただけじゃない。


 怒っている。

 俺を助けなかった世界に。

 俺が壊れるまで放っておいた社会に。


 そして──。


 何も言えなかった自分に。

 嗚咽が漏れる。


 桜井さんは言う。


「怒っていいんです」


 その言葉に、今度は違う感情が湧く。

 怒ってもいい?


「……悔しいです」


 やっと出た本音だった。


「俺の人生がこんな風に壊れたのが、悔しい」


 部屋の中に、その言葉が落ちる。

 綺麗じゃない。

 前向きでもない。


 でも、初めての『生きた感情』だった。





 桜井さんに怒りをぶつけた翌朝。

 目が覚めた瞬間、後悔が押し寄せる。


 ──言いすぎた。


 布団の中で、昨日の自分の声を思い出す。

 最低だ。

 桜井さんは何も悪くない。


 それでも。

 あれは嘘じゃなかった。


 怒っていた。

 悔しかった。


 生きていることが、

 うまくいかなかったことが。


 スマホを見る。

 新着メッセージが一件。


「昨日は大切なことを話してくれて、ありがとうございました。怒りも、悔しさも、大事な感情です」


 それだけだった。


 責めない。

 評価しない。

 励まさない。


 ただ、受け取る。

 胸の奥が、少しだけ緩む。


 俺はまだ、

 働いていない。

 立派でもない。

 自立もしていない。


 それでも。


 昨日、怒った。

 悔しいと言った。

 ちゃんと、生きていた。

 窓の外を見る。

 空は曇っている。


 でも、今日はカーテンを開けた。


 ──それだけでいい。


 今夜も、たぶん迷う。

 合理性も、絶望も、またやってくる。


 怖くなる。


 俺はあの場所を、安全地帯にしすぎた。

 なくなったら困る場所にしてしまった。


 それが一番怖い。


 だから。

 予約変更の画面を開く。


 理由の欄。

 少し迷って、「体調が優れないため」と打つ。


 送信。

 画面が静かに切り替わる。


 ──キャンセルが完了しました。


 胸が、すっと軽くなる。

 同時に、ひどく寒くなる。

 自分から、支えを手放した。


 強くなったわけじゃない。

 ただ、怖くなっただけ。


 部屋は静かだ。

 今日は誰も話を聞かない。


 誰も整理してくれない。

 俺は俺のまま、放っておかれる。


 その事実に、少しだけ安堵する。

 そして少しだけ、震える。


 これでいい。

 一度、自分だけで立ってみる。


 うまくいかなくても。

 崩れても。


 誰かの言葉なしで、どこまで行けるか。

 試してみる。


 それが、逃げなのか、自立なのかは分からなかった。


 でも今は、あの優しい場所から、少し離れたかった。





 キャンセルを送信してから数日。

 朝起きても、何も感じない。


 食欲もなく、布団の中でただ目を閉じる。

 声をかけられても、反応が薄い。


 街を歩く人々の笑顔も、テレビの明るい声も、全て遠く感じる。


 胸の奥にぽっかり穴が開いたようで、昨日まで怒りで溢れていた自分が嘘のようだ。


 ──やっぱり、あの場所に行けばよかったのか。


 でも、もう遅い。

 予約をキャンセルしたのは自分だ。


 思考が堂々巡りを始める。


 「自分は弱い」

 「また依存してしまう」

 「誰も助けてくれない」


 小さな焦燥が、身体を締めつける。


 夜、ベッドに横になると、涙が勝手にこぼれる。


 でも誰もいない。

 誰にも見せられない。


 ──怖い。


 怖くて、苦しくて、孤独。


 でも、同時に、その孤独が、少しだけ自分を試す時間でもある。


 自分で立ってみろ、という無言の問いかけ。





 三日目の夜。


 スマホを手に取り、予約画面を開く。

 指が震える。


 でも、今度は違う。

 キャンセルじゃなく、予約を入れる。


「……やっぱり、話したい」


 理由欄には、何も書かない。

 ただ「予約」を選ぶ。


 送信ボタンを押す手が少し軽い。

 胸の奥に、少しだけ希望が差し込む。


 怒りも、怖さも、孤独も、全部抱えたまま、でも自分で助けを選んだ。


 あの場所に入るのは明日。

 怖い。でも、自分で選んだ。


 それだけで、少しだけ前に進めた気がする。





 翌日、スマホの通知を見て、深呼吸を一つ。

 心臓が、早鐘を打つ。


 ──怖い。


 オンラインを繋ぐ。


「こんにちは。お久しぶりですね」


 ──桜井美咲。

 声だけで、少しだけ安心する自分がいる。


「……はい」


 彼女はにっこり笑うでもなく、淡々と見つめてくる。


「どうしましたか?」


 言葉が出ない。出す気力もない。

 胸の奥で、昨日までの孤独と怒りが渦巻く。

 でも、指先は机に置かれたペンに触れる。


 ──自分でここに来た。

 その事実だけが、確かにある。


「……怖いんです。全部、怖い」


「怖いんですね」


 彼女は言葉を繰り返すだけで、急かさない。

 それだけで、少し心がほぐれる。


「仕事も、家族も、生活も……全部、うまくいかなくて……」


 吐き出すのは短く、ぎこちない言葉だけ。

 でも、口から出した。それだけで、少しだけ軽くなる。


 彼女は黙って、ただ頷く。


「無理に前に進まなくてもいいです。まずは、今のあなたを確認することから」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。


 ──温かい?

 こんな感覚、久しぶりだ。


 怒りも孤独も怖さも、まだある。

 でも、自分で助けを選んだ。


 そして今、少しだけ、自分を取り戻す一歩を踏み出した。





 沈黙の中で、天井を見つめる。


 確かに、俺はまだ弱い。

 支えがなければ立てない。


 でも。


 支えがあることは、悪いことだろうか。


 父も。

 母も。

 桜井さんも。


 俺が頼んだわけじゃない。

 でも、手を差し出してくれた。


 それを掴んでいるだけだ。

 それだけで、生き延びている。


 ──それでもいいのかもしれない。


 完璧じゃなくていい。

 自立していなくてもいい。

 今は、借り物の足で立っている。


 いつか自分の足になるかどうかは、分からない。


 ──でも。


 今夜は、選ばない。

 消える方を、選ばない。


 布団の中で、ゆっくり息を吸う。


 胸の奥の温度は、

 まだ消えていなかった。


 それだけで、今は十分だと思った。




第十四章 惰性の先に


 それから俺は、少しずつ変わろうとした。


 簡単なアルバイトを始めた。

 まだ正社員にはなれていない。


 給料も少ない。

 将来も不安だ。


 でも──。

 生きている。


 それだけで、十分だと思えるようになった。





 ある日、実家の庭で父と話した。


「お前、変わったな」


「そうかな」


「ああ。前より、顔が明るい」


「そうかもしれない」


 空を見上げる。

 青い空。

 白い雲。


「父さん」


「ん?」


「俺、まだ生きる意味とか、分からないんだ」


「そうか」


「でも──生きててもいいかなって思えるようになった」


 父が笑う。


「それで十分だ」





 夜、桜井さんにメールを送った。


「今日、父と話しました。

 前より、楽に話せるようになりました。

 少しずつですが、変わってきている気がします」


 すぐに返信が来た。


「素晴らしいですね。

 その調子で、焦らず進んでください。

 いつでも応援しています」





 窓の外を見る。

 夜空に星が輝いている。


 俺は、惰性で生きていた。

 何の目的もなく、ただ息をしているだけだった。


 でも──。

 惰性の果てに、見えたもの。


 それは、絶望だけではなかった。

 小さな希望。

 温かい言葉。

 支えてくれる人。


 そして──。

 生きていてもいい、という許し。





 まだ終わらない。

 これからも、辛いことがあるだろう。

 挫折することもあるだろう。


 でも──。

 もう一人じゃない。


 それだけで、前に進める。

 惰性の果てに見つけた、生きる理由。


 それは、「生きていること」そのものだった。




第十五章 後退


 それは、突然だった。


 朝、目が覚めない。

 正確には、目は覚めている。でも、起き上がれない。


 身体が鉛のように重い。


「──また、か」


 天井を見つめる。


 ここ数週間、調子が良かった。


 散歩もできていた。

 父とも話せるようになっていた。

 アルバイトも続いていた。


 なのに。

 身体が動かない。

 心が動かない。


「なんで──」


 涙が出る。

 せっかく良くなってきたのに。

 せっかく前に進めていたのに。


 また、戻ってしまった。


 三日が経った。

 部屋から出られない。

 シャワーも浴びていない。

 食事も喉を通らない。

 母が心配そうに部屋を覗く。


「大丈夫?」


「──ごめん」


 それしか言えない。


 父は何も言わなくなった。

 怒鳴ることもない。

 ただ、悲しそうな顔をして、部屋の前を通り過ぎる。


 アルバイトは休んでいる。

 「体調不良」と伝えた。


 三日目に、「今月いっぱいで辞めてほしい」と言われた。


 ああ、そうか。

 やっぱり、俺はダメなんだ。


 一週間が経った。

 スマホを見る。


 桜井さんとの次回の予約が、明後日に入っている。


 でも──。

 行けない。


 こんな顔、見せられない。

 せっかく「良くなった」って言えたのに。

 また戻ったなんて、言えない。


 予約をキャンセルしようとする。

 でも、指が動かない。

 そのまま、スマホを置いた。




第十六章 波


 予約の日。

 朝から、何度も予約をキャンセルしようと思った。


 でも、できなかった。

 午後1時。


 オンラインカウンセリングの時間。

 重い身体を起こす。

 スマホのリンクをタップする。

 接続中──。


「こんにちは」


 桜井さんの顔が映る。

 いつもの優しい笑顔。


「──こんにちは」


 声がかすれる。


「今日は、お顔見せていただけますか?」


「──すみません。無理、です」


「そうですか。それなら大丈夫です」


 沈黙。


「最近、調子はいかがですか?」


「──最悪です」


 吐き捨てるように言う。


「また、起きられなくなりました」


「そうですか」


「散歩もできません。仕事も辞めることになりました」


「──」


「結局、俺は変われないんです」


 声が震える。


「せっかく良くなったと思ったのに。また、戻っちゃって」


 涙が溢れる。


「やっぱり、俺には無理なんです。生きていくことが──」


「待ってください」


 桜井さんが静かに言う。


「それは、後退ではありません」


「──え?」


「回復は、波なんです」


 画面の向こうで、桜井さんがゆっくりと説明する。


「良くなったり、悪くなったりを繰り返しながら、少しずつ前に進むんです」


「でも──」


「今、あなたは波の谷にいます。でも、谷があるということは、また山が来るんです」


 波──。


「一直線に良くなる人なんて、いません」


 桜井さんの声は穏やかだ。


「私がカウンセリングしてきた人たちも、皆さんそうでした」


 カウンセリングが終わる頃、桜井さんが言った。


「そろそろ──」


 少し間を置いて。


「隔週にしてみましょうか」


 え──?


「今は毎週お話ししていますが、二週間に一度にしてみませんか」


 頭が真っ白になる。


「──どうして」


「あなた、少しずつ自分の力で立てるようになってきています」


「でも、俺──」


「今回また調子が悪くなった時、予約をキャンセルしませんでしたよね」


「──それは」


「以前なら、連絡すらできなかったはずです」


 桜井さんが優しく言う。


「それは、あなたが成長しているからです」


「成長なんて──してません」


 声が震える。


「俺、また戻っちゃったんです。何もできなくなって──」


「でも、今こうして話しています」


「──」


「それだけで十分です」


 桜井さんが微笑む。


「隔週にするのは、あなたを見捨てるわけじゃありません」


「──」


「あなた自身の力を、信じているからです」


 でも──。

 俺には、力なんてない。


「不安ですよね」


 桜井さんが言う。


「でも、大丈夫です。何かあったら連絡してください。緊急の時は、予約外でも対応します」


「──本当に、ですか」


「本当です」


 画面越しに、桜井さんが頷く。


「あなたは、一人じゃありません」


 通話が切れた後。

 俺は、布団に倒れ込んだ。


 隔週──。

 二週間に一度。


 今まで、週に一度話していた。

 それが、唯一の支えだった。


 それがなくなる。

 いや、なくなるわけじゃない。

 減るだけだ。


 でも──。

 怖い。


 桜井さんがいなくなる気がする。

 見捨てられる気がする。


「俺は──」


 声が震える。


「一人では、立てない」


 依存している。

 桜井さんに、依存している。

 それを自覚した。




第十七章 崩壊


 次の日。

 起き上がれなかった。


 身体が、動かない。

 心が、重い。


 桜井さんの言葉が、頭の中でぐるぐる回る。


「隔週にしてみましょうか」


 見捨てられる──。

 そんな気持ちが、消えない。


 母が部屋に来る。


「ご飯、食べる?」


「──いらない」


「でも──」


「いらないって言ってるだろ!」


 怒鳴ってしまった。

 母が、悲しそうな顔をする。


「──ごめんなさい」


 小さく言って、母は出て行った。


 夕方。

 父が部屋に入ってくる。


「母さんに当たるな」


「──すみません」


「すみませんじゃない」


 父の声が、厳しい。


「お前、また元に戻ってるじゃないか」


「──分かってます」


「分かってるなら、なんとかしろ」


「できないんです」


 俺は言い返す。


「俺には、無理なんです」


「無理じゃない」


 父が強く言う。


「お前、少し前は散歩もできてたじゃないか」


「それは──」


「それは、なんだ」


「桜井さんがいたから、です」


 言ってしまった。


「桜井さんが支えてくれたから、できただけです」


「──」


「でも、もう無理です。桜井さん、隔週にするって──」


「それで諦めるのか」


 父の声が、怒気を帯びる。


「せっかく良くなってきたのに、また逃げるのか」


「逃げてません!」


 叫ぶ。


「俺は──俺なりに、頑張ってるんです!」


「頑張ってるように見えない」


 父の言葉が、胸に刺さる。


「部屋に引きこもって、母さんに当たって──それが頑張ってることか」


「──」


「いい加減にしろ」


 父が出て行く。

 ドアが、バタンと閉まる。


 一人。

 また、一人。


 俺は、布団を被った。

 父の言葉が、頭の中で響く。


「いい加減にしろ」


 そうだ。

 俺は、いい加減だ。


 何もできない。

 誰にも迷惑をかけている。

 生きている価値がない。


 夜。

 スマホのメモを開く。

 あの遺書が、まだ残っている。


 『もう、疲れました。

 さようなら』


 指が、画面に触れる。

 消す──。


 いや。

 これを、実行する──?


 頭の中で、声が聞こえる。

 消えろ。

 楽になれ。


 誰も悲しまない。

 むしろ、迷惑がなくなる。


 母も、父も。

 桜井さんも。


 俺がいなくなれば──。


 でも。

 手が、止まった。


 なんで──?


 なんで、実行できない。

 あの時みたいに、餓死を選べばいい。

 食事を断てばいい。


 でも──。

 できない。


 目を閉じる。

 記憶が、よぎる。

 母の笑顔。


「ありがとう」と言えた日。

 母が、嬉しそうに笑った顔。


 コンビニ。

 レジで、小銭を数えた日。


 店員が「ありがとうございました」と言った。


 普通のやり取り。

 でも、できた。

 自分で、できた。


 カーテンを開けた日。

 光が差し込んだ。

 眩しかった。

 でも、温かかった。


 父との散歩。

 10分だけ。

 父は何も言わなかった。

 ただ、隣を歩いた。

 それだけで、嬉しかった。


 小さな記憶。

 どれも、大したことじゃない。


 でも──。

 確かに、あった。

 俺が、生きてきた証。

 積み重ねてきた、小さな一歩。


 無駄じゃなかった──?

 そう思った。

 あの日々は、意味があった──?


 スマホを置く。

 遺書には、手を伸ばさなかった。

 消すこともしなかった。

 ただ、置いた。


 そして──。

 布団に横になる。


 今夜は、選ばない。

 明日のことは、分からない。


 でも──。

 今夜は、消えない。




第十八章 朝


 朝、目が覚めた。

 身体は、まだ重い。

 でも──。

 起き上がった。


 誰かに言われたからじゃない。

 桜井さんに言われたからでもない。

 父に言われたからでもない。


 自分で、選んだ。

 今日は、起きてみよう。

 そう思った。


 洗面所に行く。

 鏡を見る。

 やつれた顔。

 でも、生きている顔。


 リビングに行く。

 母がいる。


「──おはよう」


 母が驚いて振り向く。


「おはよう!」


 嬉しそうな顔。


 昨日、怒鳴ったことは言わない。

 ただ、笑っている。


 父もいる。

 新聞を読んでいる。

 俺を見て、少し驚く。

 でも、何も言わない。


「──散歩、してくる」


 俺が言う。

 母と父が、同時に顔を上げる。


「え?」


「散歩。10分くらい」


「──本当に?」


 母が聞く。


「うん」


 父が新聞を置く。


「一緒に行くか?」


「──ううん」


 俺は首を振る。


「一人で、行ってくる」


 父が、少し寂しそうな顔をする。

 でも、すぐに笑う。


「そうか。行ってこい」


「うん」


 玄関で靴を履く。

 重い。

 身体も、心も。


 でも──。

 ドアを開ける。


 外。

 空気が、冷たい。

 でも、気持ちいい。


 一歩、踏み出す。

 また一歩。

 ゆっくりと、歩く。


 誰かに言われたからじゃない。

 自分で、選んだ。

 今日は、歩いてみよう。

 そう思った。


 コンビニが見える。

 入ってみるか──。

 迷う。


 でも──。

 入った。


 棚を見る。

 パンが並んでいる。

 一つ、手に取る。

 レジに向かう。


「いらっしゃいませ」


 店員の声。

 若い男性。

 バーコードをスキャンする音。


「128円です」


 小銭を出す。

 手が、少し震える。

 でも、渡せた。


「お願いします」


 小さく、言えた。


「ありがとうございました」


 店員が笑顔で言う。


 コンビニを出る。

 パンを握りしめる。


 できた。

 自分で、できた。


 帰り道。

 空を見上げる。

 灰色の雲。

 でも、少しだけ青空が見える。


 家に戻る。

 母が迎えてくれる。


「おかえり」


「ただいま」


 パンを見せる。


「これ、買ってきた」


「まあ!」


 母が嬉しそうに笑う。


「一緒に食べよう」


 リビングで、パンを食べる。

 父も、母も、一緒に。

 何気ない朝食。


 でも──。

 温かい。


 父が言う。


「──昨日は、悪かった」


「ううん」


 俺は首を振る。


「俺の方こそ、ごめん」


 父が頷く。


「まあ、ゆっくりやれ」


「うん」


 部屋に戻る。

 スマホを見る。

 桜井さんにメッセージを送る。


『今日、散歩してきました。

コンビニでパンも買いました。

自分で、選びました』


 送信。

 しばらくして、返信が来る。


『素晴らしいですね。

それが、あなたの力です』


 窓の外を見る。

 空は、まだ灰色。


 でも──。

 少しだけ、明るくなってきた気がする。


 俺は、まだ完璧じゃない。

 明日、また起きられなくなるかもしれない。

 来週、また崩れるかもしれない。


 でも──。


 今日は、起きた。

 今日は、歩いた。

 今日は、選んだ。


 それだけで、いい。





 母が部屋を覗く。


「朝ごはん、食べる?」


「──うん」


 小さく答える。

 母が嬉しそうに笑う。


「すぐ持ってくるね」


 スマホを見る。

 昨夜のメモを開く。


『今夜は、消えない』


 読み返す。


 そして──。

 新しい行を追加する。


『今朝も、消えなかった。

今日も、選ばない。

とりあえず、今日一日』


 保存する。


 窓の外を見る。

 灰色の空。


 でも、雲の切れ間から、少しだけ光が見える。

 また雲が広がるかもしれない。


 でも、今は光がある。

 それを、見ていよう。


 今夜は、消えない。

 それだけでいい。


 生きる理由は、まだ見つからない。

 明日うまくいく保証もない。


 それでも。


 今夜は、選ばない。

 消えることを、選ばない。


 時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。


 午前二時五十分。

 あと数時間で、朝が来る。


 朝が来れば、

 カーテンを開けるかもしれない。

 開けないかもしれない。


 でも──。


 朝は来る。


 目を閉じる。

 胸の奥に残る、わずかな温度。


 それが消えないうちは、まだ大丈夫だと思った。


 完全な希望じゃなくていい。

 今日は、ただ延ばす。


 惰性じゃなく、自分で選んで、延ばす。


 灰色の空に、ほんの少しだけ、青が混じることを思いながら。




エピローグ 続く日常


 それから、半年が経った。

 桜井さんとのカウンセリングは、隔週になった。


 最初は不安だった。


 でも──。

 なんとか、やれている。


 調子の良い日もあれば、悪い日もある。

 起きられない日もあれば、散歩できる日もある。

 波は、まだ続いている。


 でも──。

 少しずつ、山が増えてきた気がする。


 今日は、調子がいい。

 朝、起きて、顔を洗った。


 朝食も食べた。

 母が作ってくれた味噌汁。

 温かくて、美味しかった。


「今日も散歩行ってくる」


 父に言う。


「気をつけてな」


「うん」


 外に出る。

 空は、晴れている。

 青空が広がっている。

 風が、心地いい。


 歩く。

 ゆっくりと。

 自分のペースで。


 公園を通る。

 ベンチに座る。

 スマホを取り出す。

 メモを開く。


 あの遺書は、まだ残っている。

 でも、もう読み返さない。

 消すこともしない。

 ただ、そこにある。

 過去の、俺の記録として。


 新しいメモを開く。


『今日も、起きた。

今日も、歩いた。

今日も、生きている。

それだけで、いい』


 保存する。


 空を見上げる。

 雲が流れていく。

 綺麗だな。

 そう思える。


 俺は、まだ答えを見つけていない。

 生きる意味も、分からない。

 将来も、不安だ。


 でも──。

 今日を、生きている。

 明日も、生きるかもしれない。

 それを、選び続けている。


 誰かに言われたからじゃない。

 自分で、選んでいる。

 それが──。

 俺の、生き方になった。


 ベンチから立ち上がる。

 家に、帰ろう。

 また明日も、ここに来よう。

 そう思う。


 歩き出す。

 一歩、また一歩。

 ゆっくりと。

 でも、確実に。

 前へ。


 空は、青い。

 風は、優しい。


 世界は、まだそこにある。

 俺も、まだここにいる。


 それだけで──。

 とりあえず、いい。





 惰性の果てに見つけたもの。

 それは、大きな希望ではない。

 劇的な変化でもない。

 ただ──。


 今日を選ぶ、小さな力。

 それだけ。


 でも、それが──。

 生きるということなんだ。


 波は、まだ続く。

 でも、俺は波に揺られながら──歩き続ける。


 一日ずつ。

 一晩ずつ。


 自分で、選びながら。





 俺はまだ働いていない。

 部屋も、完全には片付いていない。

 何者にもなれていない。


 それでも。


 息をしている。

 今日も、消えなかった。

 父の言葉を思い出す。


 ──生きてるだけでいい。


 あのときは、分からなかった。

 今も、全部は分からない。


 ──でも。


 消えなかった自分を、

 少しだけ許してもいい気がした。


 完璧じゃなくていい。

 強くなくていい。

 役に立たなくてもいい。

 今夜は、消えない。


 窓の外を見る。

 空は曇っている。

 息をする。

 胸が、上下する。

 まだ、ここにいる。


 ──それだけで、いい。



【完】

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