【第2章:要塞化と飯テロの攻防編】第6話:その香りは、暴力(カレーライスの脅威)
「よし、今日は『アレ』にするか」
昼時。ログハウスのキッチンで、俺は腕まくりをした。 アリスとポチ(フェンリル)が我が家に住み着いて数日が経過し、生活のリズムも整ってきた。 となれば、次にやるべきは食育だ。
俺は通販ウィンドウを開き、手早く食材をカートに放り込む。 『国産タマネギ』『ニンジン』『ジャガイモ』『豚バラブロック』。 『国産米(コシヒカリ・無洗米)』。 そして、主役である『業務用カレールー(中辛・コクの極み)』。
そう、カレーライスだ。 前世、キャンプ場で作るカレーがなぜあんなに美味いのか。それは「外で食うから」だ。 ならば、異世界の森で作るカレーは、理論上、世界一美味いはずである。
「アリス、ちょっと匂いがきつくなるけど我慢してくれよ」 「匂い、ですか?」
ソファでタブレット(動画鑑賞中)をいじっていたアリスが顔を上げる。 俺はニヤリと笑い、換気扇のスイッチを「強」に入れた。
調理開始。 まずは大量のタマネギを、あめ色になるまで炒める。 ジュワアアァァ……。 フライパンから立ち上る、甘く香ばしい香り。 そこに肉と野菜を投入し、水を加えて煮込む。 最後に、茶色い固形ルーを割り入れ、とろみがつくまでかき混ぜる。
グツグツ、コトコト。 鍋の中で踊る具材。 そして、換気扇を通じて森の外へと排出される、あの「暴力的なまでに食欲をそそる香り」。
それは、平和な異世界の森に対する、明確な化学兵器攻撃だった。
◇
一方その頃。 俺の家から風下へ数キロ離れた場所で、勇者パーティは限界を迎えていた。
「ハァ……ハァ……腹減った……」 「もう携帯食料も尽きるぞ……」
テントは半壊し、寒さを凌ぐために身を寄せ合う彼ら。 そこへ、風に乗って「それ」はやってきた。
フワッ……。
「……ん?」
最初に気づいたのは、鼻の利く斥候職の男だった。 彼は犬のように鼻をひくつかせ、虚ろだった目を見開いた。
「なんだ……この、とてつもなく美味そうな匂いは……!?」 「あ? 幻臭でも嗅いでんのか……って、うおっ!?」
勇者レオンも飛び起きた。 濃厚な脂の香り。 複雑に絡み合ったスパイスの刺激。 じっくりと煮込まれた野菜の甘い気配。
それは、カチカチの黒パンしか食べていない彼らの脳髄を、ダイレクトに殴りつけた。
「に、肉だ……! どこかで誰かが、極上の肉料理を作ってるぞ!!」 「こっちだ! 風上だ!」
理性は消し飛んだ。 彼らは涎を垂れ流しながら、ゾンビのような足取りで雪山を登り始めた。 その匂いの発生源が、自分たちが追放した「無能なおっさん」の家だとも知らずに。
◇
「……ごはんが炊けました♪」
日本の炊飯器が軽快なメロディを奏でる。 俺は炊きたての白米を皿に盛り、その上からたっぷりと黄金色のルーをかけた。
「さあ、食うぞ。これが日本の国民食、『カレーライス』だ」 「は、はい……!」
アリスが恐る恐るスプーンを入れる。 黒いルーと白い米を一緒に掬い、口へと運ぶ。
パクッ。
一瞬の静寂。 次の瞬間、アリスの目がカッ! と見開かれた。
「んんっ!? か、辛いっ!?」 「おっと、水を用意しとくの忘れてたな」 「辛い……けど、何ですかこれ!? 口の中でお肉の旨味が爆発して……辛いのに、スプーンが止まりません!」
ハフハフと息を吐きながら、アリスは猛スピードでスプーンを動かし始めた。 一度知ってしまったら逃れられない、スパイスの中毒性。 彼女はすでに、カレーの虜だ。
「わ、私もおかわり! 大盛りで!」 「いい食べっぷりだ」
足元では、ポチもガツガツと皿に顔を突っ込んでいる。 ちなみに犬にタマネギは禁物なので、こいつには『犬用・カレー風煮込み(スパイス・タマネギ不使用)』を出してある。 通販サイトにはペット用のグルメまで揃っているのだ。有能すぎる。
「ワンッ! バウッ!(訳:この茶色いドロドロ、最高だぜ!)」
一人と一匹が一心不乱に食う姿を見ながら、俺は自分のカレーを一口食べた。 口に広がる懐かしい辛さ。
「……うん。やはりキャンプ(?)のカレーは最高だな」
俺は窓の外を見た。 換気扇からは、未だに絶え間なく「飯テロの煙」が排出され続けている。
◇
「はぁ、はぁ……こ、ここだ……!」
勇者レオンたちは、ついに匂いの発生源へと辿り着いた。 だが、彼らはそこで凍りついた。
目の前にそびえ立っていたのは、見たこともないほど立派な巨大建造物だったからだ。 雪の中で威圧感を放つ、整然とした木の壁。 窓から漏れる、暖かな光。 そして何より、家の周囲を囲む、得体の知れない金属の柵(電気柵)。
「な、なんだこの城は……!?」 「こんな場所に、こんな建物……地図に載ってないぞ!」
匂いは、間違いなくあの中から漂ってきている。 胃袋が「入れ! 食わせろ!」と叫んでいる。 だが、冒険者としての本能が警鐘を鳴らしていた。
『ここはヤバい。絶対に入ってはいけない』
窓の向こうに人影が見えた。 暖かそうな部屋で、湯気の立つ皿を囲んでいる。 その光景はあまりに神々しく、そして自分たちの惨めな現状とかけ離れすぎていた。
「こ、これはアレだ……きっと『魔王の別荘』か何かなんだ……」 「そ、そうよ! うかつに近づいたら殺されるわ!」
あまりの文明レベルの差に、彼らは勝手に恐れをなした。 目の前にある極上の食事。 しかし、それを守る鉄壁の要塞。
「ぐぅぅぅ……」
レオンの腹が、悲しげに鳴り響く。 彼らは指をくわえ、匂いだけを胸いっぱいに吸い込むと、涙目でその場を去るしかなかった。
「……帰ろう。里に降りて、何か食おう……」
その背中は、来た時よりも一回り小さくなっていた。 カレーの香りは残酷だ。 満たされた者には至福を、持たざる者には絶望を与えるのだから。




