第12話:その「黒い水」は、毒か妙薬か
「まあ、そこに座っててくれ。今、飲み物を持ってくるから」
ゲイルと名乗る男は、そう言って私をリビングのソファに座らせた。 私は言われるがまま、その奇妙な革張りの椅子に腰を下ろした。
(……なんなの、この柔らかさは)
座った瞬間、体が沈み込むような感覚。 まるで高級なスライムの死骸でも詰めているのだろうか。 警戒して背筋を伸ばすが、室内の暖かさが私の緊張を溶かそうとしてくる。 外は極寒の冬だというのに、この部屋は春のように暖かい。
「お待たせ。ほらよ」
男が戻ってきた。 その手には、透明なガラスのコップが二つ。 中に入っている液体を見て、私は息を呑んだ。
「……ッ」
それは、漆黒の液体だった。 泥水よりも黒く、底が見えないほどの闇色。 しかも、液面からは絶え間なく気泡が湧き上がり、パチパチと不気味な音を立てている。
「どうぞ。遠慮しなくていいぞ」
男はニッと笑って、その「黒い水」を私の前に置いた。
(毒……! 間違いないわ)
私は密偵だ。数々の毒物を見てきた。 だが、これほど禍々しい液体は見たことがない。 沸騰しているように泡立っているのに、中には氷が浮いている。 熱いのか冷たいのかすら分からない、矛盾した液体。
「どうした? 飲まないのか?」
男はすでに自分のグラスに口をつけ、ゴクリと喉を鳴らしている。 そして「ぷはぁっ!」と、わざとらしいほど爽快な息を吐いた。
(……試されている)
これは踏み絵だ。 この城の主が差し出した杯を干せるか。 その度胸と覚悟を問われているのだ。 ここで飲まなければ、私は敵とみなされ、あの「光の結界」と「自動扉」の餌食になるだろう。
「……いただくわ」
私は覚悟を決めた。 エルフ族は毒への耐性が高い。多少の毒なら、解毒魔法で中和できるはずだ。 私は震える手でグラスを掴み、その黒い液体を一気に煽った。
バチバチバチッ!!!!
「んぐっ!? ……がっ!?」
口に含んだ瞬間、口内で無数の爆発が起きた。 痛い。舌が、喉が、針で刺されたように痛い。 これは毒針か? それとも小型の爆裂魔法か!?
私はあまりの衝撃にむせそうになったが、必死に液体を喉の奥へと流し込んだ。 食道を焼き尽くすような刺激が駆け抜ける。
だが――その直後だった。
「……あ、甘い……?」
痛みの後に押し寄せてきたのは、脳髄を痺れさせるほどの強烈な「甘み」と、鼻に抜ける爽やかな「香気」。 疲労した体に、爆発的なエネルギーが染み渡っていくのを感じた。
(嘘……魔力が、回復している!?)
信じられない。 あの痛みは、高密度に圧縮された魔力が弾ける余波だったのか。 そしてこの甘みは、希少な薬草や砂糖をふんだんに使ったエネルギーの塊。
「こ、これは……『エリクサー』の一種ですか……?」
私は呆然と呟いた。 これほどの秘薬を、ただの客人に出すなんて。 この男、どれほどの財力と技術を持っているというの?
「ん? いや、ただのコーラだけど」 「コーラ……? 聞いたことがない古代語ね……」
やはり、未知の魔法薬だ。 私は空になったグラスを見つめ、戦慄した。 毒だと思って警戒していた自分が恥ずかしい。 この男――ゲイルは、私の器量を試した上で、最高級の持て成しをしてくれたのだ。
◇
「ふあぁ……。ゲイル様ぁ、なんか飲むものありますぅ?」
その時、奥の部屋から気の抜けた声が聞こえてきた。 現れたのは、一人の少女だった。
ボサボサの寝癖がついた髪。 手には半分食べかけの菓子袋。 そして身に纏っているのは、ピンク色のモコモコとした奇妙な服(ウサギの耳がついている)。
だらしなくあくびをしながら、彼女はソファにダイブしてきた。
「喉乾いたぁ……。あ、コーラあるじゃないですか。私にもくださいよぉ」
少女はテーブルの上のボトルに手を伸ばす。 その顔を見て、私は目を疑った。 見間違えるはずがない。教会の手配書に載っていた、あの高潔な聖女。
「せ、聖女アリス様!?」
私が叫ぶと、少女は「へ?」と間抜けな顔でこちらを見た。
「あなた、アリス様ですよね!? 捜索願いが出ています!」 「あ、えっと……」
アリス様は気まずそうに視線を泳がせたが、その手はしっかりとコーラのボトルを握りしめている。 そして、その奇妙な服。 聖職者が着るにはあまりにふしだらで、かつ贅沢な素材の衣服。
(……なんてこと)
私は悟った。 彼女は囚われているのだ。 この魔王ゲイルによって、未知の快楽物質漬けにされ、思考能力を奪う呪いの装備(モコモコ服)を着せられ、軟禁されているに違いない。
「おのれ魔王……! よくも聖女様を!」
私の使命感に火がついた。 エリクサーの借りは返したが、聖女奪還は別問題だ。 私は懐に隠し持っていた暗殺用の短剣に手を伸ばした。




