第9話 ユキの仕事①
外回りから戻った俺は、たまたまユキの部署の前を通った。
何気なく視線を向けた、その瞬間だった。
「ユキちゃ〜ん、これミスしてるよ〜? ほらほら、“叱られてるうちが花”って言うだろ〜?」
上司が書類をひらひらと揺らして、軽い調子で笑っていた。
「は、はいっ……! すみません……ありがとうございます……!」
ユキは、お礼を言った。
謝罪と感謝がごちゃ混ぜになったような、息を詰めた声で。
周囲の同僚たちがクスクスと笑う。
「ユキちゃん真面目だよね〜」
「いじりがいあるっていうかさ〜」
「頼みやすくて助かるよな〜」
軽い。
あまりにも、軽い。
その笑いの輪の真ん中で、ユキは笑っていた。
ーー紙みたいな薄い笑顔で。
(なんで……お礼なんて言うんだ……?
なんで……こんなのが“笑い”になるんだ……?)
胸の奥が煮え立つように熱くなる。
足が床を踏みしめていた。
「……おい──」
その肩に触れようと手を伸ばした途端。
レオナが飛びつくように、俺の腕を掴んだ。
『ダメ!!』
いつもの眠そうな声じゃない。
張り裂けそうな、必死の声だった。
「レオナ、離せ……!」
『ダメ!! 今行ったって、ただの“彼氏の感情論”にされる!
証拠がないと誰も動かない!
ユキは今、“自分が悪い”って思い込んでるんだよ!
守り方を間違えると、逆に追い込んじゃう!』
胸がぐらりと揺れた。
怒りと焦りが一気にせり上がってきて――
その瞬間。
ズキン、と胸の内側を誰かに握られたような痛みが走った。
「っ……」
視界が一瞬にじむ。
足元がぐらりと歪んだような感覚。
(な……んだ……今の……)
息が白く濁ったように乱れる。
レオナが俺の顔をじっと見つめた。
『……コウくん、それ……寿命……。
本当に……削れてる……』
その声は、泣きそうなくらい弱かった。
だが、次の瞬間、また職場の声が耳に刺さる。
「ほらユキちゃん、気にすんなって〜」
「ユキちゃんならできるって!」
上司が背中をポン、と叩くと、
ユキはまた薄い笑顔で頭を下げた。
「ありがとうございます……! 頑張ります……!」
(……違うよ……)
胸がぎゅっとつかまれたように痛む。
(ユキ……こんなんじゃなかった……
同じ部署にいた時は……)
思い出すのは、あの自然であたたかい笑顔。
気を遣いながらも、自分をすり減らすような笑顔ではなかった。
(今の笑顔は……“ごめんなさい”って言ってる顔だ)
拳を握る手が震える。
『ねぇ、コウくん……』
レオナの声が静かに落ちてきた。
『ユキ、叱られてるんじゃないよ。
“叱られる自分が悪い”って思い続けてるんだ』
喉が焼けるように熱くなる。
(ユキ……お前……どれだけ一人で抱えてきたんだよ……)
その痛みと無力感を抱えたまま、
俺は部署の前をゆっくり離れた。
背中越しに、ユキの笑顔が焼きついたままだった。
(……少しずつ近づいている……
ユキが死ぬ“本当の理由”に──)
そう思わずにはいられなかった。




