第20話 答え合わせ
「もう一度お父さんに会いに行こう、ユキ。
そして……ちゃんと話そう。俺がいるから」
俺がそう言った瞬間だった。
胸の奥が、ぐしゃっと強く握り潰されたように痛んだ。
「……っ、あれ……?」
突然視界が、白くはじけた。目の前の景色がゆがんでぐるぐる回っているような感覚がする。
「コウ君!?」
ユキの声が遠くから聞こえる。 腕が上がらない。身体も動かない。
レオナがこちらを見上げ、泣きそうに叫ぶ。
『……代償が、来たんだよ……。ごめん、コウ君……!』
床が消えるように、視界が闇に落ちた。
* * *
ーー暗い。
温度も、光も、音もない空間。
その中心に、小さな光がひとつだけ揺れていた。
『……コウ君』
レオナの声が、闇の中へ小石を落とすみたいに静かに響いた。
『ここはね、ユキの心の底…… 誰にも聞こえなかった“本当の声”が眠ってる場所』
光がぽたりと滴り落ちた。
その瞬間、世界が四つの断片に砕けた
最初に映ったのは狭いリビング。
カレンダーの日付には赤いペンで大きな丸がついている。大切な“記念日”の日付。
電話の向こうから、低い男の声が聞こえた。
『……ユキは大丈夫だよ。
あの女みたいにはならないから』
(……あの女、って……お母さん?)
ユキの心の声が、ひび割れた鏡みたいに響く。
(私も……そうなるって思われてるの……?)
父の声は落ち着いていて、どこか満足げだった。
『あいつの血が入ってるから、気をつけないといけないんだ』
(私って……生まれた瞬間から“危険”だったの……?)
胸の奥で何かがきしむ音がした。
ユキはすっと立ち上がる。
その足元の椅子が、ゆらりと揺れる。
光が消えた部屋の中で、ユキはぽつりと思った。
(私……いなくてもいいよね……?
迷惑なら、消えたほうがいいよね……)
椅子の脚が、ゆっくり倒れた。
“なぁ、ユキ。一旦小説、やめないか?”
それは俺の声だった。
あの時掛けた声。
優しく伝えたはずの声なのに、ここでは刃物みたいに響く。
ユキの視界がぼやけて、スマホの画面が涙でにじむ。
(……そっか……
やっぱり私の書くものなんて……迷惑だよね……)
胸の奥に、小さな黒い穴があいた。
息がうまく吸えない。心臓が落ちていく。
(私……何かの価値ある……?
生きてていいのかな……)
ユキはふらふらと立ち上がり、浴室へ向かう。
カミソリのケースが冷たく光る。
ぽたり。
浴槽に落ちたのは、水滴ではない。
なにか温かいものだ。
(痛いのも……苦しいのも……
全部終わったら、楽になるのかな……)
浴室の白いタイルが、赤く滲む。
“……もう私を巻き込まないで。
あなたは……あの人に似てるから”
電話口の母の声は震えていた。
怒りでもなく、悲しみでもなく……諦めの声だった。
ユキは受話器を握る手を落とし、息を飲む。
(……やだ……
そんなの……そんなの……)
大好きだった。
誰よりも、母が好きだった。
だから、その一言は
“世界全部に拒絶される痛み”よりも鋭かった。
(私……全部、間違いだったの……?
生まれてきたことも……)
棚の中のか薬の袋が、ガサガサと音を立てた。
震える指が薬のパッケージを開けようとする。
(眠りたい……もう何も考えないで……)
涙と薬の匂いが混ざった空気が、部屋を満たす。
ユキはそのまま布団へ倒れ込んだ。
現実と夢の境目は、たった一枚の薄い膜になって消えた。
コウ君が抱きしめてくれた夜。
あたたかかった。
息ができないと思うほど嬉しかった。
でも。
胸の奥だけが、ずっと痛かった。
(コウ君、ごめん……
私ね……自分のこと、嫌いなの……)
(抱きしめられても……
本当は、消えたいって気持ちが消えないの……)
窓の外には夜の街灯。
その光がユキの涙を反射して、揺れていた。
次に映ったのはビルの階段。
風が髪を、服を、心までも吹き抜けていく。
下には、現実の世界。
はるか下で光る車の列。
(怖い……怖いけど……
でも……楽になりたい……)
ユキは、そっと一歩、前へ。
影が、落ちていく。
静かに、深くーー。
すべての映像が泡のようにはじけ、闇に溶けていく。
その中で、レオナの声だけが震えて響いた。
『……ねぇ、コウ君』
『ユキはね、いつも“自分が悪い”って思ってたんだよ』
『誰も悪くなかったのに……
全部、自分のせいだって……
ひとりで、ひとりで抱えてたの』
光の中にレオナの姿が浮かぶ。
涙をこらえた顔で、こちらを見ていた。
『……助けてあげてよ、コウ君。
あなたにしか……届かない声があるんだよ』
その言葉を最後に、光は溶け、世界が反転した。
「……っは……!」
俺は飛び起きた。
全身汗で濡れ、呼吸が乱れ、心臓が壊れそうだった。
「ユキ……ッ!!」
レオナが隣で泣きながら、微笑んでいる。
『コウ君……全部、見たね』
「……っは……!」
肺が勝手に空気を求め、荒く息を吸い込んだ。
視界が白くにじむ。
天井の蛍光灯がじりっと目に刺さる。
(……ここ……病院か……?)
腕には点滴がされているようだ。
胸はまだ痛み、体は鉛みたいに重い。
そのときだった。
コト、と誰かが椅子から立ち上がる音がした。
目を向けると、そこにユキがいた。
目の周りは赤く腫れて、涙の跡が乾いて光っている。
握りしめられた手の甲には爪の跡が残っていた。
「……コウ君……!」
ユキの声は震えていた。
消え入りそうな音で、でも必死に絞り出したような声。
「こわかった……
急に倒れて……呼んでも起きなくて……っ
ずっと……ずっと……!」
俺の胸の奥に、さっき夢で見た
“ユキの4つの死に方”が続けて刺さる。
息をするのが苦しくなるほど痛い。
(ユキ……こんな顔させて……)
ベッドの柵に手を伸ばすと、
ユキは一瞬びくっと肩を震わせた。
でもそれでも逃げなかった。
ゆっくり、そっと、俺の手の上に手を重ねてきた。
弱々しく。
でも確かに触れていた。
「……コウ君、いなくなったら……やだよ……」
耳を刺すほどかすれた声だった。
喉が焼けるように熱くなる。
(ああ……俺の方が守られてるじゃないか……)
夢で見たユキの影は、
全部“誰にも助けを求められずにいたユキ”だった。
今目の前にいるユキは、
涙をこらえ、震えながら、それでも触れてくれている。
俺は、ゆっくりと言葉を出した。
「……ユキ。
ごめん。
嘘ついて……勝手に倒れて……
心細い思いさせて……」
ユキの泣き跡が少しだけ揺れた。
「……でも、行かなきゃいけなかったんだ。
知っておきたかったから。
ユキの……痛かったところを」
ユキは唇を震わせ、視線を落とした。
その影が儚くて、消えそうで。
俺は続けた。
「ひとりで抱えさせない。
どんなユキでも……全部、俺が聞く。
逃げない。
ユキを形に当てはめたり……しない。
俺は……そういうのが一番怖いから」
ユキが、はっと息を呑む。
涙がひとつだけ落ちた。
そしてーー小さな声が、俺に触れた。
「……コウ君
話しても……いい……?」
その問いは、
“生きたい”
と言っているように聞こえた。
胸が熱くなる。
「もちろんだよ。
ゆっくりでいい。
一緒に……聞かせて」
ユキは小さく小さく頷き、
その肩が、ほっとしたように震えた。
ベッドの横で、レオナが涙をこぼしながら
静かに祈るように言った。
『……ここからだよ、コウ君。
ユキが生きたがってくれるように……
そばにいてあげて』




