第19話 ユキの心
部屋に戻ると、ユキはソファの端に小さく座っていた。濡れた子猫みたいに、膝を抱えて。
俺はゆっくり深呼吸してから、コーヒーを淹れた。
豆の香りだけが、静かな部屋の空気をあたためる。
ユキは俯いたまま、俺の差し出したカップを両手んだ。
その手はひどく冷たかった。
レオナはそっとユキの横に座り、
まるで宝物を扱うみたいにその手に自分の手を重ねている。
誰にも見えないのに。
誰にも触れられないはずなのに。
ーーひどく優しい顔で。
沈黙を破ったのは、ユキのか細い声だった。
「……お母さんは……元気だった?」
「うん。ユキの写真を見て……泣いてた」
「……っ」
ユキの唇が震える。
マグカップがかすかに揺れた。
しばらくの沈黙。
ポツ、ポツ、と
雨音みたいに言葉が落ち始めた。
「本当は……知ってたんだよ。
お母さんの住所も、連絡先も。
……昔、こっそり調べたことあるの」
「ユキ……」
「会いに行きたかった。
大好きだったから……」
ユキは膝の上の指を、ぎゅっと握りしめた。
「でも……あの日の背中が……忘れられないの」
息が震える。
「……お母さんはね。
昔は、本当に優しかったんだよ」
うつむいたまま、懐かしい時間を手探りでたどるように語り始める。
「幼稚園のころは……毎朝、三つ編みにしてくれた。
“今日もかわいいよ”って笑ってくれて……それが嬉しくて」
「小学生のとき……内緒で二人でファミレスに行って、
ケーキを半分こして食べたりもした」
「雨の日……傘を忘れたら、走って迎えに来てくれたの。
タオルで頭を拭きながら、
“ユキが風邪ひいたらママ困るよ〜”って笑って……」
その声は震えているのに、
そこにあるのはたしかに“幸せな記憶”だった。
「……笑うお母さんが、大好きだったの」
ユキは言った。
そして、そこから声の色が、ゆっくりと変わっていく。
「でもね……だんだん、変わっていったの」
「お父さんによく怒られるようになって。
理由はよく分からなかったのに……
いつも、お母さんが責められてた」
ユキは膝の上で指をきつく握りしめる。
「そのとき……毎回、お父さんは私に向かって言うの」
ユキの表情が苦しみに歪む。
「――“ユキは、あんなふうになったらダメだからな”」
その言葉が落ちた瞬間、空気がぴたりと止まった。
「……それを聞くたびに、胸がぎゅっと痛くて……
息ができないくらい苦しくて……」
ユキは唇を噛み、震えながら続けようとした。
レオナがそっとその肩に触れるような仕草をする。
(……ここだ。
ユキの痛みの“最初の歪み”)
俺は息を飲んだ。
胸の奥で、バラバラだったピースが音を立ててはまった。
そして、コウはユキの手をそっと握った。
「ユキ……もう一度、お父さんに会いに行こう」
「……え……?」
驚いた瞳がこちらを向く。
「話そう。全部。
俺が一緒に行くから。
俺が……隣にいる」
ユキの瞳が揺れた。
恐怖と期待と、救われたい気持ちが入り混じっている。
「コウ君……」
握られるユキの手が、ほんの少し温かかった。
この瞬間だった。
ーーズキ。
胸の内側を、鋭い痛みが突き抜けた。
「……っ、あ……?」
足元の感覚が消える。
視界が波打ち、天井と床が反転したように揺れる。
「こ、コウ君!?」
ユキが悲鳴のような声で名前を呼ぶ。
レオナの顔が真っ青になって駆け寄ってきた。
『……来た……』
その声は震えていた。
『コウ君……代償が……
本格的に……来たみたいだね……』
小さな瞳が揺れている。
泣き出しそうだった。
コウは床に崩れ落ち、伸ばした手を掴もうとするユキの姿が滲む。
暗闇が視界の端から迫る中、ただひとつだけ確かなのは。
(ユキ……まだ、守れてないのに……)
という悔しさだった。




