第2話 違和感だらけの朝
1回目のループ
そこは真っ暗だった。辺りは何も見えない。
でも、まるで深い水の底から、薄い光へと引っ張られるように意識が浮かび上がった。
(……ここは……?)
まぶたを開いた瞬間、胸がざわついた。
そこは見慣れた天井、見慣れた部屋。
なのに、すぐに分かった。“何かが違う”と。
空気が澄みすぎている。淀みが一切ない。
昨日の部屋にはなかった温度がある。
俺は上体を起こし、思わず呼吸が止まった。
その理由はすぐに分かった。
(……髪が……)
数日間、洗う気力もなくべたべたしていた髪が、
指を通すとすっと流れる。
整えられた寝癖のない髪だ。あとそれは顔を触ってすぐに分かった。
(ヒゲ……全部剃ってある……?)
諦めたように放置していた無精髭も消えている。
そして今着ている服も違った。
涙で濡れたTシャツではなく、柔らかい部屋着。
「……嘘だろ……」
俺は慌てて部屋にある鏡へ駆け寄った。
そこに映るのはーー
死んだような目をした“昨日の自分”ではない。
健康な肌色、まっすぐな目。クマのない目。
普通の、数日前の“五十嵐コウ”。
(俺……戻ってる。本当に……)
にわかには信じられなかった。まずは確認しないといけない。真っ先にスマホを確認した。
そこに映っていたのは、ユキが死ぬ、1カ月前の日付だった。
「…………っ」
呼吸が乱れ、視界が涙で滲む。
(本当に……戻ったんだ……レオナの言った通り……)
胸の奥が熱く脈打ったその瞬間ーー
「コウくーん、起きてる?」
声が、世界の中心で響いた。聞き間違えるはずがない。その声はもう二度と聞けないと思った声なのだから。
棺に眠っていたはずの人の声。
「……ユキ……?」
気がついたら足が勝手に前へ出ていた。
廊下を歩きながら、涙が頬を伝う。
俺はリビングの扉を開けた。
「おはよ……コウくん?」
台所に立つユキが、振り返った。
ユキは薄水色のエプロンを着ている。俺がプレゼントしたエプロンだ。
湯気の向こうから気恥ずかしそうな、柔らかな笑顔が見える。
味噌汁の匂いもする。嘘じゃない。
ーー生きている。ユキが生きている!!
「ユキ……!」
(夢……じゃないよな? ほんとに?)
どうしても信じられなくて、思わず自分の頬をつねった。
「いッ……!」
鋭い痛みが走る。夢じゃない。
ーー現実だ。
本当に、戻ってきたんだ!!
胸の奥から、熱いものがこみ上げる。
呼吸が乱れ、涙が滲んだ。
(ユキが……生きてる……!
本当に……!)
まだ頭は追いついていない。
でも胸だけは、確実に理解していた。
ーーこれは奇跡でも夢でもない。
ーー“やりなおし”が始まったんだ。
(夢みたいだ、本当に……)
俺は堪えきれずに、思わずユキを抱きしめた。
「ひゃっ……!?」
ユキが小さな悲鳴をあげる。
その肩がわずかにすくむ。
ユキの体温が、腕の中で確かに息づいている。
「……よかった……よかった……
本当に……本当に……!」
「えっ、え……コウくん……どうしたの……?
ほんとに……?」
ユキの手は震えていた。
抱き返すでもなく、そっと宙に浮いたまま。
そのときだった。背後で、気配が揺れた。
レオナが、リビングの入り口に立っていた。
ぴょこ、と跳ねるクセも忘れたみたいに、
ただーー立ち尽くしていた。
緑の瞳がゆっくりと揺れる。
『……ユキ……』
その声は、
今まで聞いたことがないくらい静かで、
なにかを失いかけた子どもみたいに震えていた。
『……ほんとに、生きてる……』
まるで信じられないものを見ているように、
レオナはユキをじっと見つめていた。
その視線には、
“仕事”でも“役目”でもないーー
どこか懐かしさと、小さな安堵と、
少しの寂しさが混じっていた。
ユキはもちろん気づかない。レオナの姿は、俺にしか見えてないから。
(……おい。なんだよ、その顔……)
問いかけようとした瞬間、
レオナは小さく微笑んだ。
『ーーよかったね、コウくん』
ただそれだけを言い、
またいつものようにぴょこ、と跳ねた。
でもその足取りは、
いつもより少しだけ重たかった。
ふと、抱きしめているユキに目を配ると身体が少し震えている。
(……緊張してる……?
拒絶に近い……強張り……)
あの時も、こんなサインがあったのに。
俺は、何一つ気づいていなかった。
そして朝食の席で、俺はある違和感に気がついた。
(……あれ?)
椅子に座った瞬間、コウは気づいた。
テーブルの上にーー
昨日の夜のコップがそのまま置きっぱなしになっている。
調味料も片付けられていないまま、端に寄せられている。
(ユキ……いつもなら絶対こんなことしないのに)
ユキは、片づけが得意だった。
どれだけ忙しくても、
食事のあとには必ずテーブルを拭いて、
「散らかってると落ち着かなくて……」と笑っていた。
それなのに今朝の食卓は、
“少しだけ乱れて”いる。
ほんの少し。
普通なら気づかない程度の乱れ。
だがコウの胸に、ざらりとした違和感が残った。
そして違和感はそれだけじゃなかった。
……味噌汁の味が薄い?
料理上手なユキらしからぬ、ぼんやりとした味。
「ユキ……大丈夫?」
「え?うん、大丈夫、大丈夫……少し寝不足かな?」
笑ってごまかす声が、わずかに掠れていた。
(……なんでこんなことにも気づけなかったんだ、俺……)
その時テーブルに置いてあったスマホが震えた。
一瞬だけ画面に浮かぶ文字。
『お前の小説つまんな』
『下手くそ』
ユキは弾かれたように画面を伏せる。
「ユキ……今の……」
「え? あ、うん……」
ユキは笑おうとするが、頬の筋肉が引きつっている。
「ほんとに、大丈夫だから」
声が震えていた。
胸の奥が締めつけられる。
(……こんなもの、受けてたのか……
ユキは……ずっと一人で……?)
その時、胃の底に鉛が沈んでいくような感覚が確かにあった。
(まさか……
これが、ユキの自殺の原因なのか?)
唐突に、一本の線がつながった気がした。
(そうだ……きっとこれだ……
小説、好きだったもんな……
こんな誹謗中傷、つらすぎるよな……
これがーー自殺の元凶だったんだ!!)
そう思ったその時だった。
『成功したね。ちゃんと戻れたよ』
子供のような軽い声が聞こえた。レオナの声だ。
リビングをぴょこぴょこはねている。だけど、その足音は一つもしない。
床はまったく揺れない。
レオナは楽しそうに笑う。そして俺とユキをじっと見ている。
朝食後、ユキが片付けをしている時に俺はこっそりレオナに尋ねた。
「ユキの自殺……あの誹謗中傷……
それが原因だったのか……?」
『ふふ、どうかな?』
レオナは首をかしげる。まるで何かを試すような視線だ。
「それを確かめるのは、コウくんの役目だよ」
心を見透かすような瞳。
緑色の奥で淡い光が揺れる。
「寿命のカウントは……もう始まってるよ?」
そう話すレオナの声に、
思わず背筋がひやりと冷えた。
(そうだ、ユキを救うんだ……絶対に。
間に合わせる……今度は絶対に)
身支度を整え、仕事に向かう時だった。玄関で靴ひもを結ぶ手が震える。
でも心は固まっていた。
(ユキが死ぬまでーーあと七日。
俺が変える。俺が……)
玄関の扉をガチャリと開ける。レオナがぴょこっと跳ねて、
嬉しそうに笑った。
「じゃあーー
コウくんの“やりなおし”を始めよっか。
失敗したら、ユキはまたいなくなる。」




