第17話 初めて触れる“ユキの核心”
玄関のドアを開けた瞬間、温かい匂いがした。
いつもの味噌汁の湯気、生活の香り。
大好きな人がいる家の匂いだ。
なのに俺の呼吸は荒れていた。
「……っ……は」
胸が焼けるように熱い。
走りすぎて、膝も笑ってる。
けど、それどころじゃない。
リビングに入ると、ユキがキッチンの前でマグカップを両手に持っていた。
「あ、コウくん? 早かったね。びっくりした」
柔らかく笑うユキ。
その笑顔が、いまだけやけに遠く感じた。
俺は息を整えることもできないまま、言った。
「……ユキ」
「うん?」
「ごめん。俺、嘘ついたんだ」
マグカップを持つユキの指がぴくりと震えた。
「嘘?」
「“友達に会いに行く”って言っただろ。
……違うんだ」
ユキの眉がかすかに寄る。
「……え? じゃあ……誰に」
喉がひりついた。
でも、逃げるわけにはいかなかった。
「ユキの……お母さんに……会いに行ったんだ」
その瞬間だった。
カシャンッ。
ユキの手から、マグカップが落ちた。
床で砕け散る音が、部屋中に響く。
ユキの顔がみるみる蒼白になっていく。
「……え…………え……?」
唇が震え、瞳孔がひらく。
さっきまでの柔らかい表情は影も形もなくて。
そこにいたのは、まるで幼い少女のように怯えた、弱々しいユキだった。
「なんで、なんで会ったの……?」
「どうして、なんで……?」
「言ってよ、言ってよコウくん!!」
声が裏返って震えている。
怯え、混乱、拒絶、そして“恐怖”。
(こんな、こんな反応、初めて見る……)
胸が締めつけられるほど痛かった。
レオナがそっとユキの背中に寄るように小さく呟く。
『……コウくん……ユキ、今すごく怖いんだよ……』
ユキは震える指を胸の前で握りしめていた。
「なんで。なんでそんなことするの……?」
その瞳から、今にも涙がこぼれそうだった。
(ユキ……お前……
“母親”って言葉だけで、ここまで苦しむのか)
俺は踏み出した。
もう、逃げない。
ーーユキの“核心”に触れるために。
ユキは震えたまま後ずさった。
「どうして、なんで……お母、さんに……」
声が震えて、途切れる。
両手は胸の前でぎゅっと握りしめられ、肩は小刻みに震えていた。
喉の奥が焼ける。
でも、これ以上苦しませるつもりじゃない。
ただ、守りたかった。
だから俺は、そっと一歩近づいた。
「ユキ、大丈夫だよ。話そう。
ちゃんと、向き合いたいんだ」
そう言って、そっと肩に手を伸ばす。
その瞬間
バンッ!!
「やめてえっ!!」
俺の手は振り払われた。
力なんて強くない。
だけど、衝撃で心臓が跳ねた。
ユキの顔は涙と恐怖で歪んでいた。
「さわらないで……っ
やだ……いやっ」
完全に怯えている。
まるで“大きな何か”から逃げようとする幼い子みたいに。
「ユキ……?」
「ごめん……ごめんね……
私、ちがうの、ちがうの……っ
悪いの、私だから……っ」
(違う。違うんだユキ……)
声を届かせようともう一歩踏み出す。
「ユキ……!」
だがユキは一瞬で表情を崩し、
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
泣きながら後ろへ下がり、そしてユキは。
バタッ!
玄関のドアを開けて、逃げた。
靴も雑に履いたまま。
息も整えず。
ただ逃げるだけの走り方。
「ユキ!!」
思わず叫んだ。
追いかけようと足を踏み出したとき、
レオナがソファの上から全身で叫んだ。
『コウ君っ!! 追いかけて!!』
声が震えていた。
焦って、泣きそうなほど必死だった。
『このままだと……
またユキ、壊れちゃう……!』
その言葉が、胸に突き刺さる。
「……ユキ!!」
俺は全力で飛び出した。
廊下を駆け抜け、階段を下り、外へ走り出す。
冷たい空気が胸を刺す。
呼吸がひどく苦しい。
寿命が削れている影響かもしれない。
それでも。
それでも走った。
「ユキーー!!」
ただその名前を呼び続けながら。




