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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

愚かなハッグ

作者: 留之田 英



森の奥の小屋に、冷たい風がひと筋吹き込んだ。

戸を押し開けた女は、オイルランプ片手に、音を立てぬように歩み寄り、寝台に横たわる老婆の枕元へ腰を下ろす。


老婆は短くふっと息をもらし、薄く柔らかな笑みを浮かべた。

「……少し、思い出にでも浸ろうか」


女はその手をそっと握りしめ、静かに答える。

「えぇ」


夜は深く、薪の火は小さく燃えている。

やがて老婆の瞳が遠くを見つめるように揺らぎ、静かに目を閉じた――。


――あれは、遠い昔のこと。

 村の広場に鐘が鳴り響き、人々の視線が私へと集まっていた。


白い純白のドレスを纏い、痣のある左目は花やら布やら宝石やらでびっしり飾り立てられた。

それは隠すためではない。あえてそうすることで、火傷のような痕すらも、一生背負っていく私の一部ということを印象付けたかったからだ。


 私は背筋を伸ばし、堂々と歩いた。

 群衆のざわめきが次第にやみ、ヒュっと息を飲む音がはっきりと鮮明に聞こえた。

 ――その一瞬、私は確かにこの村でいちばん美しい花嫁だったのだ。


 視線の先には、これから夫となる男が立っていた。硬い表情、笑顔の裏の不気味なそれ、気づいていたはずなのに、私は見ないふりをした。


『あははっ姉さん!』


あぁ、私のかわいい妹……。

 ただ、あの子を救うことだけを胸に抱いて。


 バカで愚かだったと思う。



――私の人生の過ちはあの日からだった。




淡々と近いの言葉を述べ、おとぎ話のようなロマンチックなものでは無い、なんの熱も感じられないような口付けを交わした。


 夫となった男は、すぐに本性を露わにした。彼は魔女狩りの役人。異端を見つければ容赦なく火にくべることを生業とする者。

 そんな男の隣に、自ら「魔女」と名乗ってきた女が座しているのだ。


最初から私の未来は決まっていたのかもしれない。


日々は冷たく、苦しかった。

 機嫌が悪ければ拳が飛び、気まぐれに髪を引き抜かれ、食事の皿を床に叩きつけられた。

 私が捨てきれなかった魔術書を見つけた夜には、理由を問うことすらせずに殴りつけた。

 

痛みは次第に、血肉よりも心を蝕んでいった。


 それでも私は耐えた。

 ――妹を守るためならと。

 この身がどうなろうとも、あの子がこの苦しみを受けなくてよかったと思うばかりだった。


 ある夜、街に鐘の音が響き渡った。

 悲鳴と怒号が混じり合い、阿鼻叫喚の大惨事、窓の外は炎で真紅に染まっていた。

 火薬庫が爆ぜ、家々に燃え広がったと人々は騒いでいた。


 だがその惨事を招いたのは――夫自身の失態だった。

 酔った勢いで松明を倒し、火の手を止められぬまま広場に広がったのだ。

 それでも男は膝を折ることも、過ちを認めることもなかった。


 「……おまえのせいだ」


 低く吐き捨てられた言葉のあと、拳が私を捉え飛んできた。

 「魔女め、街を焼き払ったな!」

 殴るたびに吐き散らされるその罵声は、きっとあなたが生涯背負ってきたもの何よりも重かった。

 頬を裂かれ、唇が切れ、言葉の刃がグサグサと私を突き刺して視界は赤と黒に沈んでいく。


 やがて私は鎖につながれ、冷たい牢に放り込まれた。 無様で惨めで仕方がなかった。

 次に目を覚ましたとき、そこにいたのは無数の見知らぬ目――。

 「魔女を裁け!」「あの女が街を燃やした!」

 罵声と唾が降りかかる中、私は十字架に縛り付けられていた。






 鉄の鎖が手首に食い込み、背を荒縄が十字架に縛り付けていた。

 空は煙で覆われ、視界の端まで赤く揺れている。

 熱が頬を舐め、髪の毛先が焼け焦げる匂いがツンと鼻の奥についた。


 「魔女を燃やせ!」「呪いを絶て!」

 群衆の怒号は渦を巻き、罵声と唾が降り注ぐ。

 私は歯を噛みしめた。


どうして私はここにいるの?どうして魔女だと言うだけで差別されなければいけないの?


どうして普通に生きたいだけなのに見せしめに焼かれなければいけないの?


 ――あぁ、でも……妹を守れてよかった。だけど、あの子には見られたくないな……。優しい子だからきっと最期まで自分に責任を感じてしまう。


あなたはいつか何気ない家庭を築いて、老婆になるまで幸せに生きてほしい。


 だが、神は私の声など聞いてくれない。その耳に届いたのは――聞き慣れた声だった。


 「……お姉ちゃん!」


 心臓が跳ね、私は必死に目を凝らす。

 群衆の背後、必死に看守に押さえつけられる小さな姿。

 妹がそこにいた。涙で顔を濡らし、声を張り上げていた。


見られた。鎖と縄で十字架に縛り付けられ、群衆に罵られる惨めな私の姿を。


 「殺して! ねえ、違うの! あいつを……っあいつを殺して!!」


 群衆の怒号にかき消されそうな叫び。

 その言葉の矛先が誰を指しているのか、私は確かめる余裕もなかった。

 ただ耳に届いたのは「私を殺せ」という罵倒だった。


 最愛の妹までもが、自分を見放した。

 その事実が胸を引き裂き、痛みが顔まで上り、目に到達した時、頬を伝って涙が一筋こぼれ落ちた。


 ――あぁ、私がこれまであの子のためにしてきたことはすべて無駄だったのだ。


 炎が唸りを上げ、熱が肺を焼こうとしたそのとき。

 世界が、白い光に包まれた。





 白い光は、すべてを呑み込んだ。

 炎は掻き消え、熱は霧散し、群衆の罵声さえも一瞬凍りつく。


 「な、なんだ……眩しい!!」「神の御業か?」「いや、魔女の呪いだ!魔女を捕らえろ!」「でも眩しくてどこにいるかわからねぇ!」


 混乱に包まれる声の渦の中で、鎖が唐突にほどけ落ちた。

 焼けただれた腕が自由を得る。私は力任せに縄を断ち切り、十字架から転げ落ちるように地へと降りた。


 裸足の足裏に石畳の冷たさが突き刺さる。

 それでも構わなかった。

 私はただ走った。背後で人々が叫び、鐘が鳴り響き、松明が追いすがる。

 私の足は恐怖に震えたがそれでも走った。


 闇の森を抜けようと、枝に足を裂かれ、血に濡れながら。

 息が切れ、肺が凍り、足がもつれそうになっても止まらなかった。


 どれほど走ったのか分からない。

 気がつけば、深い森の奥――誰の足も踏み入れぬような荒れた土地に、小さな小屋がぽつんと佇んでいた。人が住んでるような気配は無かった。


 私はその扉を押し開け、中へ転がり込む。

 そこでようやく膝を折り、地に崩れ落ちた。


 ――それが、私の逃亡の果てだった。









 姉は美しい人だった。

 身も心も綺麗な人で、幼い頃は私に本を読み聞かせてくれた。


 ――魔女だったのは、私だった。


 それでも尚、姉は見捨てなかった。

 両親ですら忌まわしいと目を逸らした私を、姉だけは抱きしめてくれた。

 自分の髪を赤く染め、「魔女は私だ」と偽り、差別も嘲りもすべて姉が引き受けた。


 だから私は、婚約を強いられたとき、泣きながら姉に「嫌だ」と零してしまったのだ。

 あの人が、代わりに嫁ぐと決めてしまうとも知らずに。


 姉があの男に連れ去られてからの日々、私は震えて過ごした。

 役人がもし私の秘密を嗅ぎつければ、私は十字架に縛り付けられて焼かれてしまうのだから。

 でも、姉は優しく微笑んだ、

 「大丈夫。魔女は私だって、そういうことになっているでしょう?」と。


 あの日、火刑台に縛られた姉を見たとき、私の心は引き裂かれた。


あぁ、優しいあの人、どうして私に降りかかるものを全て代わりに降りかぶってくれるの?どうして私を守るの?あなたに利益なんてひとつもないくせに。

本当は私のために生きてほしく無かった。どこかで素敵な人を見つけてただ、普通に、幸せに生きてほしかっただけなのに。


 彼女が私の代わりに立っている。その事実に耐えられなかった。


 だから叫んだのだ。

 「殺して! あいつを殺して!」と。

 それは姉への罵倒なんかじゃない。

 憎むべきは、あの男――姉を地獄に突き落とした役人ただ一人だったのに。


 炎が姉を包み込んだあの瞬間、私は願ってしまった。

 ――どうか、死なないで。

 たとえ、この命を代価にしても。


 私は禁じられた術を使った。

 黒い頁を開き、己の血で印を刻み、神に背を向ける力を呼び起こした。

 その代償に、私の時は止まった。

 どれほど季節が巡ろうとも、この身体は歳を取らない。


 姉を救うためだけに、私は人としての未来を失ったのだ。



……だから私は、止まった時を抱えたまま、今ここにいる。


 気がつけば、涙が頬を濡らしていた。

 寝台の上で静かに目を閉じる姉の手を、私はぎゅっと握りしめる。


 「ごめんなさい……お姉ちゃん」

 震える声が、夜の小屋に落ちた。

 「あなたを苦しめたのは私。すべて、私だったのに……」


 老婆はゆっくりと瞼を開け、薄い笑みを浮かべる。

 その手が、か細くも優しく、私を抱き寄せた。


 「……泣かないで」

 掠れた声が、胸に沁みる。

 「あなたも、私も……最後まで愚かなハッグだったわね」


 その言葉に、堰を切ったように涙があふれ出す。

 夜は深く、薪の火は小さく燃えている。

 二人を包む静けさの中で、ただ嗚咽だけが響いていた――。



 やがて、姉の呼吸は浅くなり、胸の上下は小さな波のように揺れていた。

 その音を聞き逃すまいと、私は耳を澄ませ、手を強く握りしめた。


 「……ありがとう」

 ほとんど風のような声が、私の名を呼んだ気がした。


 その瞳が、静かに閉じられる。

 長い長い物語が、ついに終わりを告げたのだ。


 私は泣きながら、姉の温もりを抱きしめた。

 窓の外では、夜明けの光が森を照らし始めていた。


 ――それは、愚かなハッグたちの、最後の夜明けだった。

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