星の導き
────案の定、その日の夜も夢を見ていた。
見えているのは、いつもと変わらないコインロッカーの内装だ。
泣き続ける僕のぷくぷくとした手が、内装を引っ掻き続けている。
赤ん坊がそんな動きをしたところで、当然何かが変わることはない。
扉の向こうでは、僕の存在に気が付かない人たちが平然と歩いているのが伝わってくる。
列車の到着を伝えるアナウンスが扉越しに聞こえてくるのも、普段の夢と変わらなかった。
僕の意識の一部は、これが夢であることに気が付いていて。
ああ、またか、とだけ思っている。
ここからしばらくして僕が衰弱死するんだよな、と展開の予測までしていた。
だが、その予測は外れる。
唐突に……コインロッカーの扉が、ガチャリと開けられた。
そのことに驚く暇もなく、扉を開けた人物は、ぼんっと何かをコインロッカーに放り投げてくる。
それは、赤ん坊である僕よりも遥かに大きな物体だった。
それが投げ入れられた途端、コインロッカーの容積がいきなり引き延ばされる。
僕とその物体、両方がきちんと収まるように。
何者かは、それを投げ入れると同時に扉を閉めた。
同時に夢の中とは思えない圧迫感が僕の顔を包み、僕はそれに押しつぶされそうになる。
悪夢を見るのはしょっちゅうだけれど、ここまで内容が変化したことは無かったので、僕は驚いて目を白黒とさせた。
それでも反射的にか、僕は投げ入れられた物体の正体を確認する。
何故だか光がないコインロッカーの中でも──夢の中らしい杜撰さのお陰で──僕は対象物を観察することができた。
赤ん坊の首を精一杯に伸ばして、冷たい感触がするそれを見る。
最初に見えたのは、血色という概念が失せてしまった青白い肌。
それを包む長い黒髪と、折りたたまれた細い手足。
そして何より、胸の真ん中からにょきりと生えた登山用ナイフ。
簡潔に言えば。
羽生晶子さんの死体が、そこにあった。
「────────っ!」
絶句する。
どういう訳か、僕は晶子さんの死体と一緒にコインロッカーの中に詰め込まれていた。
彼女の胸から流れる赤黒い血が……僕の顔にまで流れ落ちる。
今まで以上の騒がしさで、僕は泣きわめく。
赤子の限界に挑むようにして、ただひたすらに泣き続ける。
しかしそれだけ泣いても、その声を聞いてくれる人はいなくて。
赤子が本来享受するべき温かさをくれる存在は、この世には存在しなくて。
やがて、僕たちは世界から取り残されていく。
その内、夢の中で時間が経過したせいか、隣にある晶子さんの死体は腐り始めた。
見る見るうちに、腐乱死体のようになっていく。
手足が黒くなり、肌は紫色になり、変なガスがコインロッカーを包んで、眼球がぼとりと床に転がった。
彼女の変化が伝染したのだろうか。
次第に、僕の手足も同じように黒くなっていく。
あっと思った時には、自分の眼球もまた、どこかに転がって消えていった。
そうして僕は、晶子さんと共に、コインロッカーの中で腐って死んでいった────。
「……ぁっ!……カハッ………ハァ…………はあ」
大粒の汗を周囲に撒き散らしながら、僕はガバリと跳ね起きる。
咄嗟に周囲の様子を見ると、そこには見慣れない部屋の光景が広がっていた。
一瞬混乱するが、幸いにしてすぐ、ここが香宮邸の一室であることを思い出す。
香宮と終夜の寝室から、更に三部屋離れた客室だ。
僕がここに泊まると決めた後に、わざわざ用意してもらったのである。
普段は殆ど使っていないこともあって、ベッドと窓、更に鏡台と机くらいしかない簡素な部屋だと紹介されたけれど、僕の基準で言えば十分過ぎる程に豪華な寝室だった。
しかしそんな立派な部屋も、今では僕が撒き散らした汗で大分汚されている。
パッと振り返ってみると、僕が寝ていた布団はぐっしょりと濡れてしまっていた。
後で謝らないと、なんてぼんやり考える……ついでに時計を見てみると、午前三時を示していた。
「五時間は寝たかな……しかし、嫌な夢だった。悪夢の内容が、アレンジされてて……」
ひとしきり状況を把握してから、僕は改めてため息を吐く。
汗塗れの顔を拭いながら、自ら額を押さえた。
先程見たばかりの悪夢を振り返りながら。
いつもなら、コインロッカーで泣いている内に自然と衰弱死して、夢の中で死んだ瞬間に目を覚ます。
しかし、今日の夢の内容は違った。
午前中に見た晶子さんの死に際の様子が、僕の中で強く印象に残っていたのだろう。
まさか、彼女と一緒に死ぬ夢を見るなんて思わなかった。
僕の無意識は、あんなことを考えていたらしい。
「何か……夢の中で彼女を汚した感じがして、申し訳ないな……」
まざまざと思い出すことができる、腐り落ちていく晶子さんの死体。
実際の晶子さんはあそこまでの状態にはならなかったというのに、夢の中では勝手に酷い死に方をさせてしまった。
何だか、彼女の死を冒涜したような気分になって……僕はまた、自己嫌悪の海に沈む。
「……喉渇いたな」
しばし嫌悪感に包まれてから、気持ちを切り替えるように呟く。
汗をかき過ぎたのか、かなり喉が干からびていた。
何か飲み物でもないかな、と思って僕はベッドから下りることにする。
寝る直前、香宮からは「リビングやキッチンにある食べ物や飲み物は好きにしていい」と言ってもらえていた。
きっと彼女には、僕がこのようになる未来が見えていたのだろう。
僕よりも僕の悪夢について詳しいんじゃないかな……なんて思いながら、ふらつく足取りで廊下に出向く。
明かりが落とされた香宮邸は、物音が全くしないこともあって、どこか幻想的な風景と化していた。
星明かりしか光源がないこともあって、内装の簡素さが更に強くなっている。
そのせいか、中を歩いているとまるで廃墟の廊下を彷徨っているような感覚に陥ってしまい、僕は足を踏み出す度に小さく背中を震わせた。
勿論、ここは廃墟などではない。
終夜たちを起こさないように静かに歩くと、やがてキッチンの様子が見えてきた。
冷蔵庫を開けてみると、煌々としたライトが僕を照らしてくれる。
──水でも飲むか……。
好きにしていいとは言われているけれど、あんまり高そうな飲み物を拝借するのも気が咎める。
水だけならそんなに高くはないだろうと判断した僕は、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
……しかし、その瞬間。
僕はうっかり、ペットボトルを床に落としてしまう。
「あっ、ちょっ……」
ガガン、と大きな音が響いた。
幸いにして蓋は外していなかったので、水が撒き散らされることはなかったけれど、かなり派手にペットボトルが床でバウンドする。
ヤッバ、と僕は慌ててペットボトルを拾い上げた。
寝起きと言うことで、手に力が入らなかったのかもしれない。
気を付けないとな、と自戒しながら僕はペットボトルを握り直す。
そして手の力が戻っていることを確認してから、改めて水を口にして────。
「……九城君、どうかしたの?」
直後に聞き慣れた声が耳に届いたため、僕は盛大にむせ返ることとなった。
ゴッホゴッホと気管に入った水を吐き出しながら前を見ると、目に入ったのはパジャマ姿の終夜の姿。
かなり驚いた様子で、廊下から僕のことを見つめている。
「偶々夜中に起きたら、何か変な音がして……それで様子を見に来たんだけど、アンタ、何か滅茶苦茶汗かいてない?もしかして、凪が心配した通りに熱でも出した?」
僕の様子を不思議に思ったのか、彼女はずかずかと近づいてから、熱を測るように僕の額に手を添える。
そうしている内に、冷蔵庫の明かりによって更に詳しくこちらの様子が伺えたのだろう。
僕の顔を見た彼女は、もう一度驚いた声を出した。
「熱はないみたいだけど……酷い顔になってるわよ。ちょっと、本当に大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫だよ、終夜。ちょっとその、喉が渇いたから飲み物を取りに来ただけで」
「でも、目の隈が今朝以上に酷いし……体調が悪いなら、隠さないで。今から病院に行くなら、車を呼ぶから」
「だ、大丈夫だって。いつものことだから!」
焦りがあったのだろう。
つい、僕は強い口調でそんなことを述べる。
不味いと思った時には、その言葉はもう彼女に届いていた。
「……いつものこと、なの?こんな風になることが?」
目を丸くしながら、終夜は動きを止める。
驚きでそれ以上の声が出てこない様子だった。
それを見て、ようやく僕は自分が口走った内容に気が付く。
──しまった、終夜にはまだ悪夢のことは言ってなかったのに……!
終夜とは常に明るく話したかったからこそ、内緒にしていたこと。
それが、こんなところでバレようとしていた。
──どうする?今からでも誤魔化すことは……。
意外と僕は往生際が悪く、最初にそんなことを考える。
しかしそれがもう不可能であることは、終夜の顔を見た瞬間に察せられた。
だって彼女は、明らかに何かに感づいた顔をしていたから。
何かしらの推理が頭の中にあるのだけど、それを確かめる勇気がない。
そんな顔だった。
自分から踏み出して良いものか、迷っているような。
終夜は「日常の謎」が得意ではないので、今まで僕の事情については推理していなかった。
しかしここまで材料が揃うと、流石に見えてくるものはあるらしい。
今の時代、悪夢に苦しめられる人も、心に傷を負う人も珍しくはないのだから。
……丁度そのタイミングで、冷蔵庫から「ビーッ、ビーッ」と警告音が鳴る。
ずっと扉を開けっ放しだったから、冷却の限界を告げているのだろう。
まるで冷蔵庫すら、僕に「もう限界だ」と言っているような光景だった。
「……少し、話をしても良いかな。終夜が眠くなければ、だけど」
躊躇いつつも、やがて僕はそんな提案をする。
夜が明ければ、僕たちは晶子さんを殺した犯人を見つけるために、謎解きをしなければならないのだ。
こんな脇道で、終夜の思考にノイズを発生させるわけにはいかない……自分から話す必要があった。
終夜としても、話を聞きたかったのだろう。
ついてきて、と小声で告げた彼女は、静かに僕をキッチンから連れ出してくれた。
終夜は僕をお屋敷の二階へ誘いながら、「凪が起きるといけないから」と囁いた。
話し声が響かないように、二階で話し合いたいらしい。
ここが二階建てであることは当然知っているけれど、何気に僕も二階に行くのは初めてである。
夜中ということもあっておっかなびっくりついていく。
すると、すぐに広いスペースに出た。
ざっくり紹介すれば、それは観光地によくある展望台のような場所だった。
他の部屋よりも大きな窓が壁の全面に設置され、その手前には巨大なソファもあり、外の夜景を見ながら休めるようになっている。
二階の窓が大きいことはお屋敷の外観から知っていたけれど、こんな風になっているとは思っていなかったので、僕は思わず感嘆の声を溢した。
「前に言ったけど、ここって本当は結構な使用人がいるはずだったから……使用人の休憩所も兼ねて、こんな部屋が用意されていたのよ。まあ正直、ここから見える夜景は大したものじゃないけれど」
それでも話くらいはできるから、と言って終夜はそっとソファに座る。
続けて僕は、彼女から少し離れたところに座った。
汗だくで目覚めてからシャワーも浴びていないので、近くに座るのは憚られたのだ。
しかしそんな僕の考えもむなしく、彼女は僕が座った瞬間にガッと距離を詰めてくる。
おおっと僕はのけぞったけれど、それにすらも追いついて、終夜は僕を真正面から見つめた。
「それで……話してくれるの?アンタがいつもああなっているっていう、理由について」
「あ、ああ、話すよ。元々、絶対に隠さないといけない話って訳じゃないから」
「そうよね。雰囲気からすると、凪にはもう話してるみたいだし」
──あ、気が付いていたんだ。
ここに入居し始めてすぐ、香宮に自分の過去を打ち明けて、ある程度親しくなった後のことだ。
仲良くなった理由について尋ねてきた終夜相手に、僕は真相をはぐらかしたことがある。
それ以来特に質問しに来なかったので、てっきり興味をなくしたのだと思っていたのだけれど、どうやら独自に大まかな真相に気づいていたようだ。
「だって凪、かなり人見知りな子だから、そう簡単に人を信用しないもの。そんな凪が急に態度を変えたってことは、アンタと同居しても良いと思えるだけの情報を手に入れたってこと。つまりあの時期になって、アンタが何か重要なことを凪に打ち明けたのかなあって……根拠もない、当てずっぽうだけどね」
「……殆ど分かってるじゃないか。『日常の謎』、解けないんじゃなかったっけ?」
「流石に、凪みたいに家族レベルで一緒にいる子の『日常の謎』なら別ってことよ……それで、話は?」
少しだけ強張った顔で、終夜は僕の言葉を待つ。
緊張させてしまっているなと感じた僕は、すぐに自分の過去を口にすることにした。
持ってきた水を一口飲んでから、だけれど。
「……話すと長いんだけど、ええっと、実は僕の生まれに関する話で……」
この日の夜空には月は無く。
ただ、小さな星だけが夜景に紛れて輝いていた。




