僕の同居人(Period7 終)
そもそも、彼が相談してきた時から疑問だったのだ。
どうしてアキラは、まだこの図書館にいるのか。
その点を彼は十分に説明していなかった。
本来彼は、最初に僕と別れた一時間前の時点で、すぐに帰ろうとしていたはずだった。
その途中で、このトイレにまつわる一件に遭遇したのである。
だから一応、このことが気になって帰るタイミングを逃したというのは分かる。
しかしそれにしても、僕が本を借り終わるまでずっとここにいたのは流石におかしいだろう。
確かにトイレから割り箸を構えた男が出てきたというのは、不思議な「日常の謎」だけれども、長く真剣に考えないといけない話でもない。
専攻が「日常の謎」である僕ならともかく、帰る時刻が迫っていた彼は、さっさとバスに乗っても良いはず。
仮にどうしても真相が気になったにしても、それは帰りのバスの車内で考えればいいだけの話だ。
どう考えても、この程度の出来事で彼がずっと図書館に居残っているのは変なのである。
……では、どうして彼はこの図書館に残っているのか?
バスを一本逃してしまって、次のバスを待っていた?
いや、それはない。
お昼時ということもあって、バスは結構な頻度で運行しており、一本逃したところで十分程度で次が来る。
この一件を僕に相談するために、敢えてここで待っていた?
だが、これも考えにくい。
そこまで推理相談をしたかったのなら、一時間も待つことはせず、閲覧室にいた僕を探しに来たはずだからだ。
単純に、この図書館で昼食をとっていた?
これはもっと有り得ない。
今も尚、彼は食べていない弁当をその手に提げている。
このように、彼が用事も済んだはずの図書館に居残っていた理由には疑問が残る。
トイレの一件が原因とも考えにくいし、他の用事があったとも思えない。
だからこれは、発想を反転させるしかない。
彼はトイレの一件のために帰っていないのではなく、帰っていないからこそ、この謎について考えているのだ。
もっと言えば、何らかの理由でバスに乗れなくなってしまったために、専攻外の「日常の謎」を解いて暇潰しをしているのではないか────?
こう仮定してみると、一つ、気になることが出てくる。
彼が今もその手にぶら下げている、売店で購入した弁当のことだ。
これについて、彼はこう述べていた。
「最初は飲み物を買うだけのつもりだったんすけど、意外と弁当も美味しそうなことに気が付いて、それを買って……それがまあ、この弁当なんすけど」
そう、彼は弁当を買う予定はなかった。
本当は飲み物を買うだけのつもりだった。
何てことのない発言だが、今の時代ではこれは中々興味深い展開である。
先程の推理でも述べたが、探偵狂時代では現金を多めに持ち歩く人間は殆どいない。
つまりアキラもまた、今日は往復のバス代と飲み物代くらいしか持っていない可能性が高いのだ。
弁当を買う予定がなかったのであれば、尚更。
しかしそんな彼が、ふとした思い付きで弁当を買った。
種類にもよるが、恐らく元々買うはずだった飲み物よりは高かったのだろう。
つまりここで、彼は当初の想定よりも多めにお金を使い────帰りのバス賃が足りなくなってしまったのではないか。
僕もアキラに呼び止められる前、全く同じミスをしそうになっていたので、正直気持ちは分かる。
駄目だと分かっていても、空腹だとついつい買ってしまいそうになるのだ。
割り込みやら何やらもされて、冷静さを失ってしまったこともあって、彼は思わずミスにも気が付かずに会計を済ませてしまったのではないか。
当然、これは彼に困った事態をもたらす。
トイレの個室から去っていった男を見送った後に、気が付いたのだろう。
ヤバイ、ドタバタしていて頭から抜け落ちていたけど、帰りのバス代を弁当に使っちゃった、帰りはどうしよう……という風に。
当然ながら、お金が足りないのでバスはもう乗れない。
行きはバスを使っていたので、他に使える交通手段もない。
唯一の選択は歩きで帰ることだが、猛暑日と言って良いこの昼時に歩いて帰るのは、何だか躊躇われるものがあったのか。
そう言う訳で、彼はバスで帰れずに図書館内をウロウロしていたのだ。
弁当を食べていないのは、売店で返品交渉でもしていたからだろうか。
もっとも弁当が残っていることからすると、返品は受け付けてもらえなかったようだけど。
そして一時間後、偶々出て来た僕に声をかけて来たのは────。
「単純に、僕からバス代を借りたかったとか?だからこそ、もう一度親しげに声をかけた。でも最初からそんなことを頼むのはアレだから、まずは暇潰しがてら考えていた『日常の謎』を相談して、僕の反応を伺っていた……違う?」
適当に想像した動機を述べてから相手の反応を伺うと、アキラはいつの間にか随分としょぼくれた顔になっていた。
そして話が終わると同時にバッと立ち上がり、いきなり頭を下げてくる。
「降参っす、兄貴!本当に、全部その通りっす!自分、うっかりして弁当買っちゃって……それで帰ってなかったんす!寮からお金を届けてくれるような知り合いも、ちょっといなかったんで」
「ああ、そっか。寮の部屋を一人で使っているから……」
僕が入室をキャンセルしたので、彼は二人部屋を一人で使えているという話だった。
しかしそのことは、決して良いことばかりでは無かったらしい。
なまじ同室の友人がいないために、こういう時に寮室に置いてきた予備のお金を届けてくれる人がいないのだ。
──そう考えると、ちょっと罪悪感が……いやまあ、僕が悪い訳じゃないんだけどさ。
うっすらと申し訳なさを感じつつも、慌てて首を振る。
話し合ったせいで不思議と同情してしまったけれど、元はと言えばアキラのうっかりミスが原因なのだ。
僕がそれを補填する義理はないし、そもそもやるやらない以前に不可能なのだ。
「先に言っておくけど……余分なお金、無いよ、僕。そもそも行きが歩きだったくらいだし、帰りのバス代も一人分ギリギリしか持ってなくて。だから貸して欲しいとか言われても、ちょっと」
「はい、それも当然っす!自分、ちゃんと歩いて帰るっす。ここまで付き合ってくれて、ありがとうございました!」
「……じゃあ、まあ、頑張って」
アキラは意外と諦めが良く、それ以上食い下がらなかった。
彼の潔さに驚きつつ、僕は力ないエールをかける。
午前中の、まだ涼しい時間に歩いた僕ですらフラフラになったのだから、真っ昼間に踏破することになるアキラは相当な運動をこなすことになるだろう。
そう思うと、やっぱり可哀想な気もしたけれど────本を抱えて歩きたくない僕は、ぐっとこらえて別れの言葉を告げ、一人でバス停の方へと向かった。
徒歩だと一時間以上かかった道のりも、車を使えば何てことはない。
すぐにやってきたバスに乗車した僕は、あっという間に香宮邸近くのバス停にまで帰ってきていた。
──アキラは……まだ学生寮には着いていないだろうな。何なら、先に弁当を食べているのかもしれない。
勝手に想像しながら、僕は運賃を支払い、バス停から香宮邸までテクテク歩く。
本人も認めていた通り、彼は僕からバス代をたかろうとしていたのだから、本当ならこんなに気にしなくても良いのだろうけど……不思議と同情してしまっていた。
最後にキッパリとバス代を諦めていたから、そんなに嫌いになれなかったのかもしれない。
──もしも彼と同室だったのなら、僕がアキラにお金を届けに行っていたのかな?仕方ない奴だなあ、とか言って。
そんなことをぼんやり考えたところで、自分がビックリする程にアキラに詳しくなっていることに気がついた。
専攻が「情報」で、だけどうっかりなところもあり、そして僕に妙な感謝をしてくる少年。
また、変な人と知り合ってしまった。
「何だか、彼とも長い付き合いになりそうだな……ひょっとすると、これからはガンガン話しかけてくるのかもしれない」
困った想像をして、一つ苦笑。
その直後に、香宮邸のお屋敷が見えてくる。
天高く上った太陽に照らされている洋館は、いつも以上にガラスを輝かせているように見えた。
──こんな広い場所に三人しか住んでいないんだからな……本当に、学生寮とは凄い違いだ。
改めてそんなことを思いつつ、僕は自分の部屋がある倉庫へと足を進める。
しかしその入口を見たところで、あれっと思って足を止めた。
というのも、入口のところに見慣れない貼り紙がされていたのだ。
『九城君へ もしもまだお昼ご飯を食べていなかったら、本館に来るように 雫より』
「……おおー、生姜焼き」
本館のキッチンに顔を出した僕は、即座に昼食のメニューを当てる。
推理ではなく、キッチンに漂う香りからの推測だ。
僕が来るのに合わせたように、焼けた豚肉と生姜の香ばしい感じがうっすらと伝わってきたから、推測は容易だった。
「お帰り、九城君。もう作り終わるから、とりあえず手を拭いて座ったら?」
そう言いながら、キッチンの奥からはエプロン姿の終夜が出てくる。
今日は午前中に用事があったはずなのだが、どうやら既に帰宅していたらしい。
だからこそ、遅まきながら昼食を作っているのだろう────ここまで推測したところで、ふと僕は疑問を抱いた。
「……帰ってきてそうそうアレだけど、終夜、質問良い?」
「ん?良いけど、何?」
「終夜……どうして、三人分の料理をもう作っているんだ?今朝、僕の昼食は用意しないで良いって言っちゃってたのに」
図書館に出向く時、僕は確かにそう言ってしまっていた。
だからこそ、帰ろうとした時に落ち込んでいたのだ。
しまった、あんなことを言ったのに昼食代をバスに使ってしまった、昼食は自分で用意しないといけないぞ、と後悔していたのだ。
しかし目の前には、明らかに僕たちの分の食事が作られている。
早めに帰ったらしい彼女が、自分の分と香宮の分を作っているのは当然として、どうして僕の分まで作ってくれているのか。
現状を考えれば有難い振る舞いだったけれど、そこがどうしても不思議だった。
「別に、ついでよ。九城君、バスで行けって言ったのに無理して歩いて行っちゃったでしょ?それでちょっと心配してたのよ。結構距離があるから、行くだけでフラフラになっちゃうんじゃないかって」
コンロをカチカチ操作しながら、何でもないことのように終夜は答える。
加えて話の内容は大正解だった。
「あー、まあ、その通りになったけど」
「あ、やっぱり?だとすると、帰りは懲りてバスに乗る可能性が高いじゃない?でもそうなったら、バス代で昼食代が消えるから、ご飯が食べられないまま帰宅しちゃう。今の時代、余分なお金を持参する人は少ないし……だけど男子高校生がお昼ご飯抜きって、結構厳しいんじゃないかなあって思って」
「だから、先回りして作ってくれてたってこと?僕の分まで?」
「そういうこと。もしも九城君が普通にどこかで食べてきたとしても、アンタの分だけを夕食に回せばいいだけの話だから。大して損でもないしね……アンタのスマホに連絡すれば確実に状況が分かるけど、お節介でそこまでするのもちょっとキモいかもだから、勝手にやってたの」
結果から言えば予想が的中したみたいだけど、と言いながら終夜はエプロンを外す。
大体の作業が終わったらしい。
特に感謝を求めるでもなく、彼女は平然と料理を並べ始める。
それを見た僕は────。
──何だろう、こう……凄く嬉しいな、これ。
自分でも不思議なくらいに、動揺してしまっていた。
当然、驚きや悲しさのせいではなく、喜びのせいである。
──終夜の細やかさに感謝しているのもあるけど……ええと、それ以前に。
言語化が難しく、僕は何とも言えない表情でその場に佇む。
それを見た終夜は、流石に不思議そうな顔をした。
「……何?アンタ、もしかして生姜焼き嫌いだった?」
「い、いや、全くそう言うんじゃなくて」
「だったら、座って食べなさいよ。折角タイミングよく帰ってきたのに、冷めるわよ?」
「ああ、うん。勿論すぐに食べるよ。ただ、その前に……」
今感じている激情に引きずられるように、僕は終夜に向き直る。
そして、唐突にペコリと頭を下げた。
「終夜、本当に……本当に、いつもありがとう」
……昼間にアキラと出会い、専攻が「情報」と聞いた時。
僕はそのことに驚くと同時に、こう考えた。
もしかすると、僕と彼が学生寮で同居して、彼を相方とする未来もあったのかもしれないと。
仮に僕が香宮邸の前で財布を拾っていなければ、十分に有り得た可能性。
何なら、かなりの確率で僕はそうなる運命だったのかもしれない。
そんな、「ifの未来」を想像した時。
僕は確かに、こうも思っていた。
もしかすると勿体ないことをしたのかもしれない、なんて。
専攻が「情報」の探偵と親しくなることは、メリットが非常に大きい。
自分の身を守るための情報を手に入れるのが容易になるし、ひょっとすると僕が誕生日調査をするに当たっても有益かもしれなかった。
例えば、彼が捨て子に関する警察の資料をどこかから調達してくれたなら──凄腕の「情報」専攻はそれくらいやってくれる──それだけで僕の調査はぐっと進むだろう。
だから僕の目的を考えれば、彼と同室になれなかったのは一つの損失だった。
現状でも彼は十分過ぎる程に僕のことを慕ってくれているようだけれど、同室になってもっと仲良くなっていれば、ひょっとすると更に情報をくれたかもしれない。
友情を打算でしか考えない冷たい思想だけれど、僕としてはその方が都合が良かった側面も無くはない。
なまじ香宮邸に住んだことで、アキラと知り合うのが遅れてしまった。
だから誕生日調査は停滞してしまった……そんな言い方もできてしまう。
……だけど、こうして何でもないように気遣いを見せる終夜を見て、そんなふざけた考えは一瞬で消え失せた。
もう、二度と戻ってはこないだろう。
今ここに、僕のことを当たり前のように配慮してくれる存在がいる。
帰りが遅くなった時に、それに合わせて料理をして、貼り紙までしてくれる人がいる。
探偵狂時代のど真ん中で、これがどれほど得難い物なのか────僕は、生まれた瞬間から知っている。
彼女が持つこの暖かさに比べたら、学生寮に住めなかったデメリットなど些事に等しい。
それを認識した瞬間に、僕は本当に終夜たちが同居人で良かったと思えた。
ここに来て良かったと……改めて思った。
「え、ちょ、アンタ、何変な顔してるのよ。そんなに生姜焼き好きなの!?」
僕が一人で感極まっていると、終夜は慌てた顔をした。
今日の僕の行動を──「日常の謎」が不得意な割に──推測してくれた彼女だけれど、流石に現時点での内心までは分からなかったらしい。
恐怖半分、心配半分といった顔になった彼女に軽く謝りながら、僕は腰を下ろす。
「……いや、何でもないよ。まあその、終夜の料理はやっぱりいいなあ、と思っただけで」
「それにしては、何だかオーバーに見えたけど……まあ、いっか。ちょっと凪を呼んでくるから、そこで待ってて」
「あれ、香宮も地下から出てくるのか?」
「いや、私が無理矢理出すのよ。どうせアンタもいるんだから、三人一緒に食べた方が楽しいでしょ。ずっと地下にいるのも、健康に悪いしね」
腕まくりしながら地下室の方向に向かう終夜を見て、僕は少し笑ってしまう。
前にも感じたが、こういう時の終夜はもう、「引きこもり気味の娘を心配する家族」の振る舞いになっている。
料理の件もそうだけど、ひょっとすると実の家族よりも家族らしいんじゃないだろうか。
──終夜が僕の行動を推理できたのも、もしかしてそのお陰かな……流石に一ヶ月も同居すれば、そのくらいは分かるようになるとか?
ふと、そんなことを思いつく。
もしそうだとすれば、随分僕たちも親しくなったものだけれど。
自分の推理を何となく微笑ましく思いながら、僕は苛立ちもせずに彼女たちの到着を待ち続けた。




