三人の探偵
「なるほど、涼風さんの証言はそれで全部ね……うん、これで当事者の情報は大体揃ったわ。お手柄よ、九城君。彼女から話を聞きだしてくれてありがとう」
上機嫌に「お礼にこれもあげる」と言って、終夜は僕にクッキーやらパイやらを渡してくる。
どうも、と会釈しながら一応受け取った。
優月先生が殺された日の夜、香宮邸のリビングでのことである。
終夜が呼んだタクシーによって、この家にまで戻ってきたのが数十分前。
夕食もとらず、着替えもせず、腹ごなし程度のお菓子を摘まみながら、僕たちは情報共有を始めていた。
今は丁度、僕が涼風さんの証言を二人に語ったところである。
「私の調べでは、スペアキーを使っても鍵が開かなくてどうの、というのは他の当事者……嶋野という生徒も同じことを言っていたそうよ。真相はまだわからないけど、そんな怪現象があったと言うのは間違いなさそうね」
「なるほど……というか終夜、もう嶋野さんの証言も調べたんだ」
「当然でしょ?こういう事件の時は、色んな関係者から得た情報を繋ぎ合わせないと、そもそも何が起きていたかよく分からないことが多いもの。保健室にいたから会えなかった涼風さん以外は、ほぼ聞き取れているわ」
当たり前のように話す終夜を見て、僕は改めて感心する。
やっぱり、彼女は違う。
羽生邸の事件でも思ったが、場慣れしている感が凄い。
「ええと、九城君の知っている情報はこれで全て?だったら次は、凪が知っている情報を聞きたいんだけど」
「ええ、良いわ。もっとも、私も途中で切り上げてきたから、全てを知っている訳ではないけれど」
片手間で淹れた紅茶を飲みながら、香宮は目を閉じる。
数時間前に見たであろう、優月先生の解剖風景を思い返しているようだった。
こちらもまた、場慣れしている。
──さっきの話では、高校生にして法医学教室に出入りしているってことだったな。今日、初めて知ったことだけど……いやでも、今までもそんな雰囲気はあったか。
そもそも香宮が専攻としている「死法学」自体、法医学と重なる範囲の大きい推理ジャンルである。
本気で勉強するのであれば、既にプロである者と交流するのは必須の行いだろう。
幻葬市で発生した殺人事件の被害者の多くが、幻葬大学の法医学教室に運び込まれるのであれば、そこと接触するのは当然と言えた。
思い返せば羽生邸の事件では、終夜が「法医学教室にツテがある」という節の発言をしていた。
何となく流してしまっていたが、あれは香宮のことだったのだろう。
あの時の終夜は、死体の搬送後に法医学教室にいた香宮に連絡を取り、羽生社長の死因を聞き出していたのだ。
そして今回もまた、彼女は優月先生の司法解剖に立ち会っている。
本来なら高校生に見せられる風景ではないだろうが、その辺りは探偵狂時代特有の適当なルールで乗り切ったのか。
何にせよ、僕たちとしては貴重な情報源だった。
「まず、所持品はスマートフォンと財布、それに英語資料室の鍵のみ。普段は鍵は警備員室に預けていて、必要な時だけ取りに行っていたようね。だから、担当クラスの鍵は既に警備員室に返却されていたわ」
「あ、そこは私の書いた情報にもあるわ。確かな情報だと思う」
「なら、次は死因ね。これは分かりやすくて、体の前面……左第三肋骨~第四肋骨間に刺し傷があり、ここから差し込んだ刃物で心臓を一突き。大動脈にも傷が入っていて、それらによる失血死だと見て間違いない。凶器やその破片は体内からは見つからなかったわ。ただし傷口は小さかったから、刃物といっても包丁のような大きな物ではない。また傷の深さから考えると、そこまでの刃渡りもない。それこそ折り畳みナイフのような、かなり細身の物と推測される」
「細身のナイフ……元は護身用かな」
治安悪化に伴い、護身用の武器を携帯する人はそこそこいる。
僕だって「外」にいる間は警棒を常に持っていたし、ナイフを所持する学生もいるだろう。
そんな物があるから猶更治安が悪化してしまうのだが、護身用の武器に関しては幻葬高校も所持を禁止していない……犯行に使われた可能性は捨てきれなかった。
しかし凶器が折り畳みナイフの類だとすると、また話が面倒になってきた。
名前通り、それらの武器は畳むと小さくなるので、指紋を拭って水洗トイレに流すだけで、簡単に隠滅できてしまう。
上手い具合に、犯行現場の近くにはトイレがあったことだし────凶器の処分については、誰が犯人だとしても可能だったのかもしれない。
学校の下水を警察が漁れば、その凶器も見つかるかもしれないが、今の時代にそこまでやってくれるかどうか。
凶器からの犯人特定は難しいかもな、と内心で推理する。
「話を続けるわ……胸の刺し傷以外、目立った外傷は無し。手首などに縛られた後もなかったから、犯人は致命傷となった傷以外には手を加えず、そのまま立ち去ったと思われる」
「真正面から優月先生を刺し殺して、そのまま逃走、みたいな?」
「真正面とは限らないんじゃない?例えば優月先生を背後から抱きかかえて、先生の体越しに逆手に持ったナイフでブスリ、なんてこともできるもの」
終夜の補足を聞いて、なるほどと思う。
犯人にそこそこの力があれば、十分可能な手法だ。
相手の抵抗を防げるという点では、真正面から襲い掛かるよりも成功率が高いかもしれない。
「……私としても、真正面からではなく、雫の言う通りの手法で殺されたのだと思う。優月先生は幻葬高校の教師だったのだから、護身術などはある程度学んでいたはず。真正面からナイフで襲われたら、せめて防御の姿勢くらいは取るはずよ。でも、遺体には防御創がなかった」
「防御創……誰かに襲われた被害者の手足に残る、相手の武器を弾いたり、ガードしたりした時の傷だったっけ」
「その通り。それが無かったということは、ほぼほぼ無抵抗で殺されたということ。縛られてもいないのに無抵抗だったということは、完璧な不意打ちだったか、余程気心の知れた相手だったか。或いは……」
「……背後から抱きすくめられて、犯人によって両手の動きを抑えられていたか」
文脈で最後の可能性を察して、僕は言葉を引き取る。
森の中で見つけた白骨死体の時もそうだったが、香宮と話していると死法学についてグングン詳しくなれる。
図らずも良い勉強になっている中で、終夜が更に推理を補足した。
「防御創だけじゃないわ。返り血の点からも、この手法の方がメリットがある。だからこそ、犯人もそうしたんじゃないかしら」
「返り血?」
「ええ。九城君、不思議に思わない?どうしてこの犯人は、わざわざ胸を狙ったのか……殺すだけなら、刺すのは首でもいい。細身のナイフなんて使っているのなら、頸動脈の方が切りやすいわ」
「言われてみれば……確かに。いくら心臓を狙っても、小さな刃じゃ届かない可能性もある。確実に殺したいのなら、首の方が良いな」
「でしょ?優月先生はそんなに胸が大きな人じゃなかったけど、胸の脂肪に邪魔されて刃先が届かない可能性だってあるから、そこを狙うのって難しいのよ。それなのにわざわざ胸を刺したのは、多分返り血を防ぐためだと思う。ほら、頸動脈なんて切ったら、その場で血が溢れて、犯人もそれを浴びちゃうでしょ?」
「胸を刺した場合は、そうならない?」
「首と違って服で少しは吸収されるから、遥かにマシなはず。加えて今回は刺し傷が小さいから、外に血が飛び出るのではなく、体内で血が溢れるような感じになったんじゃない?実際私たちが駆けつけた時、服は血塗れだったけど、床はそうでもなかったでしょ?」
「そう言えば、そうだったな……そこまで返り血を気にしてする犯人が、真正面から襲うようなことはしないってことか」
終夜の推理が正しいのなら、犯人は背後から優月先生を拘束し、そのまま彼女の胸にナイフを突き立てたのだろう。
ナイフを引き抜いたところで、血が飛び出るのは誰もいない前方であり、背後にいる犯人が血を浴びる可能性は低い。
流石に手は汚れただろうが、そのくらいなら洗えば済む。
恐らく、腕まくりして服の袖への返り血を防ぐとか、そういう工夫もしたはずだ。
素肌に血がついても洗い落とせば終わりだが、服に血がつくと染みになってしまう。
誰かに見咎められないような配慮をした上で優月先生を殺害し、彼女の死体を床に放り捨ててから、手だけを洗って立ち去ったという流れか。
「……こうして話を聞くと、手慣れた殺し方に見えてくる。上手い具合に、肋骨の間を縫ってナイフを突き立てていることもそうだけど、殺しの技量が高い。もしかして、犯人にとって初めての殺人ではない?」
ここまで考えたところで、僕はそんな推理をする。
専攻外の適当な意見でしかなかったが、正直そうとしか思えなかった。
そもそもこれまで、「胸を刺して殺害」と当たり前のように話してきたが、これは実のところ結構難しい。
ナイフで胸の真ん中を狙うと胸骨に弾かれるし、今回の事件で使われたとされる細身の刃物では、骨ごとぶち破るのはまず無理だろう。
殺す気で刃物を突き出しても、骨にカーンと弾かれて殺人未遂に終わる、ということだって十分に有り得たはずなのだ。
それなのに今回の犯人は、肋骨の隙間を巧みに狙い、心臓や大動脈にまで刃先を到達させている。
人の胸部の構造をよく分かっていなければ、こんな殺し方はできない。
終夜の言葉にもあった通り、返り血の問題を除外すれば首を掻っ切った方が話が早いはずで────それでも敢えて胸を刺した辺り、殺人に慣れている気がした。
しかし────。
「今の時代、心臓を一突きで刺せたからと言って、殺人に慣れているとは言い難いわ。解剖学の教科書を一読していれば、骨の配置ぐらいは分かるもの。この街の人間が犯人であれば、この程度の殺し方はできても不思議ではないと思う」
さらり、と香宮は僕の推理を否定する。
あんまりと言えばあんまりな意見だったけど、この時代では説得力のある意見だった。
この街で密室殺人が起きるようになったのと、同じ理屈だ。
誰しもが犯罪に詳しいのだから、この程度の知識は一般的な代物。
犯人にとってこれが初犯であることも十分に有り得る、ということか。
「それに今までの話からすると、犯人は背後から手を回して刃物を突き立てたのでしょう?この場合、自分の体が支えになるから、結構強い力で胸を刺せるのよ。完全に相手の手を抑えておけば、刺す場所もじっくりと選べるだろうから……そこまでの技術は要らないんじゃないかしら」
そんな推理を述べつつ、香宮は再び紅茶を一口。
そして「少ないけれど、私の情報はこれで終わり」と終了宣言をした。
彼女の知る限りでは、これ以上の特筆すべき内容は無かったのだろう。
「情報提供ありがとう、凪。じゃあ、最後は私ね。私は基本的に、容疑者のプロフィールと優月先生の関係を調べてきたの。ああそれと、大前提となる監視カメラの情報も」
そう言うと、終夜はいつの間にか手元に取り出したメモ帳をまくり始める。
あのメモ帳に、これまで聞いた話をまとめているのか。
少しだけ話す順番に迷ったように黙った彼女は、やがて「大前提」とやらを語り始めた。
「九城君には、英語資料室に向かう途中でも話したけれど……幻葬高校、意外と監視カメラの数が少ないのよ。プライバシー配慮とか、色々事情があってね。だからあの資料室前も、監視カメラは廊下に一つだけ。教室内にはゼロ」
「そうか……もしもカメラがあったら、秒で解決したんだろうけど」
「仕方がないのよ。元々あの辺りは英語資料室みたいに、一般教養の資料を置く教室が集まっているところでしょ?犯罪に関わる重要な情報を置いているって訳じゃないから、泥棒が入るようなことはまずないと見られていて……重要度が低かったというか」
「つまり、幻葬高校側もあの辺りで事件なんて起こると思っていなかった。仮に盗みとかが入っても、他の重要書類よりは何とかなると思われていた場所だった訳か……それで、唯一の廊下の監視カメラはどこに?」
「ええとね……」
今更の説明になるけれど、と終夜は机の上に指で図を書き始める。
最初に彼女は、大きく「L」の字を書いた。
そしてその頂点、文字の書き始めの部分をぐりぐりと指で押す。
「これが、あの廊下の俯瞰図だとしましょう。英語資料室があったのは、この行き止まりのところ。分かる?」
「角を曲がった先が現場なんだから、そうなるね」
「カメラがあったのは、丁度この曲がり角の部分よ。ここを曲がる人の姿を捉えるようになっていた。資料室に外向きの窓はなくて、他の出入口もないから、密室のトリックがどんなものであれ、犯人はこのカメラの前を通って出入りしたことになる」
「確かに。それで、映っていた映像は?」
「私がこっそり見せてもらった映像だと……まず当然ながら、事件の一時間前くらいに優月先生が通っていたわ。彼女、今日は六限に授業が無かったらしくて」
「涼風さんに話した通り、早めに来て待っていた訳か……」
当たり前だが、そのカメラに映った時点では彼女はまだ生きていた。
トリックがどうあれ、彼女の後にカメラに映りこんだ人が容疑者だ。
「次にカメラ前を通ったのは、相良という名前の警備員ね。涼風さんに鍵を渡したり、死体発見時に斧を持ってきた人よ。実は彼、優月先生が通った三十分後くらいに、一度ここに来ているみたい」
「涼風さんに鍵を渡す前に、彼本人があの場所を訪れてたってこと?それはまた、何の用で?」
「本人は、警備員としての巡回と言っているそうよ。でも不思議なことに、変に時間をかけているの。英語資料室に向かってから、次に帰る様子が映ったのは十分後だから。話によれば、異常が無かったからすぐに警備員室に戻ったことになっているのに」
「それなのに十分間、あの周辺をウロウロしていた?」
ただの巡回にしては、長すぎる時間だ。
あの行き止まりの廊下を見て回るだけなら、一分もいらないだろう。
曲がった先のトイレでも使っていたのか────それとも、別の「何か」をしていたのか。
「次に映ったのが、嶋野という学生ね。相良警備員とほぼ入れ違いの形で、この角を曲がって英語資料室の方向に行っているわ」
「行き先は……トイレだったっけ。涼風さんの話だと、トイレから出てきたそうだし」
「ええ。本人曰く、お腹を壊しやすい人らしくて。だから長時間利用できる人気の無いトイレを探していて、英語資料室近くのトイレにずっと籠っていたと……そこから、涼風さんが騒ぎ出すまではトイレを出なかったと証言しているわ」
「……彼が警備員と入れ違いということは、そのまま二十分くらいはトイレに籠りっぱなしだったということになるわ。少し、長くないかしら?」
香宮がツッコミを入れ、僕も内心で同調する。
ひょっとすると、腹痛持ちの人にとっては二十分くらいトイレに籠るのは当然のことかもしれないけれど、現場近くにいた以上は疑わざるを得なかった。
彼もまた、相良警備員と同レベルに怪しい。
「最後が、涼風さんね。ここは九城君が聞いた話と大差ないわ。まず英語資料室に行って、鍵を取りに戻って、もう一度向かって、それから慌てて嶋野という学生と警備員室に戻っていって……最後に三人揃ってカメラに映っていた。その後は、私たちも映っていたけど」
「要するに僕たちを除いて、優月先生の後にあの部屋を訪れていたのは、その三人のみってことか」
「そういうこと。因みに凪、聞き忘れていたけれど、死亡推定時刻は?」
終夜が香宮に話を向けると、彼女は「そうだ、言い忘れていた」という顔になった。
すぐに「ごめんなさい、もう知っているものだと思って」と詫びてから、彼女は最後の情報を付け足す。
「優月先生の死体は、法医学教室に運び込まれた時点で、体温が少ししか下がっていなかった。他の状態を考慮しても……そうね。死後経過時間は三十分以下、としておくわ。死後五分かもしれないし、死後二十分かもしれない。三十分の範囲内なら、どれでもあり得るわ」
「範囲は三十分……だったら」
優月先生がカメラに映って三十分後……すなわち、死体発見の約三十分前にあの辺りを訪れていた相良警備員。
その十分後にやってきて、ずっとトイレにいたという嶋野。
最後に、被害者と会う約束をしていた涼風さん。
公平に見て、この三人に犯行のチャンスがあったことになる。
全員、死体発見時から遡って三十分以内に、現場近くを訪れているのだから。
ここから推理の本番か、と僕は気を引き締めた。