第九話
ミカエル。
殺し屋ミカエル。思い出してみればその名前は、布に水が染みこむみたいにすうう、と自分の中にしっかりと刻まれる。そう、自分は……仲間達と共に『殺し屋』として活動していた。仲間の人数は四人。だからこそ世界でも知らない人間はいないであろう四人の天使達の名前を名乗ることにした。そして仲間達と共に世界の国々でいくつもの殺しを成功させ、この日も依頼を受けて日本にやってきた。あの常磐重造を殺す為。その最中に天羽慶吾という、彼のSPを殺害したのは自分だ。
そう。
そこまでは思い出す事が出来た。だけど……
だけど。
少女。
ミカエルは拳を握りしめる。どうして自分は、記憶を失った?
思い出せない。酷い頭痛がまた襲って来た。近くの家の塀に背中を預けて寄りかかる。
もう少し。
もう少しで何かが思い出せそうなんだ。ミカエルは額に手を当て、ゆっくりと息を吐いた。
仲間達。
そうだ。
仲間達は何処に行った?
相変わらず顔も、名前も思い出せないが、それでもおぼろげに覚えている事がある。自分達は確かに、『殺し屋』として一緒に行動してはいたが、所詮そこには『信頼』だの『絆』だのという様な感情は無い。行動を共にしていれば、お互いに『仕事』がやりやすい、そういう理由で一緒にいただけだ。
だから、例え自分が死んだとしても仲間達は涙すら流さないだろう。そしてそれはミカエル自身も同じだ。『仕事』に失敗して死ぬような人間は、それだけの実力しか無かったという事だ。
だが。自分は生きている。
仲間達がそれに気づいていない、という事は無いだろう。記憶を失った事にまで気がついているのかどうかは解らないが、それでも自分が生きていれば、必ずや何かしらの行動を起こすはずだ。
そうだ。
ミカエルは心の中で呟く。
自分は、『殺し屋』として活動してきた。あの天羽慶吾を殺した時の感覚ははっきりと覚えている。例え要人を警護するSPといえども自分には敵わない。そんな自分に対して記憶を失わせるほどの何かしらの攻撃、或いは衝撃を与えられる相手がいるとすればそれは……
それは。
「……まさか……」
ミカエルは呟く。
そうだ。
そんな事の出来る人間は……
「仲間の、誰か?」
ゆっくりと顔を上げる。
周囲を見回す。大通りから少し離れたところにある、住宅街に続く閑静な道、日当たりの様子からして時刻は正午を少し過ぎたあたりだろうか? 近くの家の中からは昼食の支度でもしているのか、何かを焼いている様な音がしている。静かで落ち着いた雰囲気の街。
ミカエルは思わず自嘲めいた笑みを浮かべた。
こんな穏やかな風景は……自分には似合わない。
ミカエルは心の中で呟く。自分は数多くの人間を殺めて来た。
そんな自分に、こんな平和な国は相応しくは無い。
そうだ。記憶を失う前、この国に来た時にも自分はそう思って、早く離れたいとすら感じたくらいだった。そればかりでは無く……自分にはもう一つ、この国にはいたくない理由があった。
「う……」
思わず呻く。
そこまで考えた瞬間、またしても酷い頭痛に見舞われる。
この国に、いたくない。だけど……それは一体……
一体、どうしてだ?
先刻のブティックで見た自分の姿を思い出す。
猫科の動物を思い出させる顔立ち。
黒い髪。自分の両手を見る。
やけに白いが、それでもこの肌の色は……日本人だろう。つまりここは自分の祖国、という事だ。まあ自分がこの国の一体どこの出身なのかは、まだ思い出せないが……
それでもどういう訳か、自分はこの国にはいたくないと感じている。
だからこそ早く『仕事』を終わらせてこの国を離れたいと思って……
『仕事』が終わったら、早く『依頼者』からの報酬を受け取り……街を出ようと決めた。
「……くっ……」
また頭が痛む。もう少し……
もう少しで何かが……
何かが、思い出せそうだ。そう、早く『報酬』を受け取って街を離れようと決めて……
その事を、仲間達に話して……
その後……確かに何か……
何かが起きたはずだ。
何かが……
それが、思い出せれば。
ミカエルはゆっくりとした足取りで歩く。
とにかく、ここにいてはいけない。
今は近くには誰もいないとはいえ……ここは目立ちすぎる。ミカエルは、そう思った。




