第二話
『記憶』が無い。
自分が誰なのか、全く思い出せない。
そう気づけば、自分の中からすっぽりと、何かが抜け落ちている、というあの感覚の正体が、実にあっさりと解った。『記憶』が無い。
ゆっくりと顔を上げ、少女は窓ガラスに映る自分の姿をもう一度見る。
肩くらいまでの短めの髪、目つきは鋭く、何処か猫科の動物を連想させる釣り上がり気味の目が印象的だった、細くしなやかな身体付きは、痩せている、というよりは、無駄な肉が一切無い、という感じだった。
肌の色は、何処か病的に白かったけれど、多分これは生まれつきなのだろう。
年齢は恐らくは十代の半ば、普通ならば高校生くらい、という年齢なのだろうが、自分ながらもっと大人にも見えるし、中学生くらいに見えなくも無い、服装や化粧次第では、いくつにでも見られそうだ。
服装……そこまで考えて、少女は自分が身につけている服を見る。
ブレザータイプのジャケットに、その下に身につけている白いブラウス、チェック柄のスカート、ジャケットの色は随分と黒っぽい赤色で、何だか人の血で染めあげた様な気がした。胸元には緑色のリボン、何処かの高校の制服だろうか? だが……
良く見てみれば、ジャケットの何処にも、何処の高校であるのかを示す校章の様な物が付いていないし、制服の何処を見ても、在籍するクラスやら学年が書かれていない、まるで……
まるで、そう。
自分は何処にでもいる、ただの高校生です。
そういう事を、誰かに知らしめる為の服、という感じだった。
つまり自分は……高校生では無い、という事だろうか? 少女はもう一度、ショーウインドウに映り込む自分の姿を見る。
高校生、という年齢に見えない事も無いが、やはり高校生では無いのだろうか、自分の顔だというのに、何とも年齢不詳の、謎めいた少女だった。
だが……
間違い無く、これが自分の顔で、自分の姿だ、という事は少女にも理解出来た、少女が手を動かせば、ショーウインドウに映り込んだ少女も手を動かすし、笑いかければやはり、ウインドウに映っている少女自身も笑う、だが、その表情は、何とも感情のこもっていない、作り物めいた笑いだった、特に笑える事も無いのに、無理矢理笑っているせいなのか、或いは……
或いは少女自身が、あまり笑わないタイプの人間なのかも知れない。
解らない。
だが……とにかく。
今、自分は『記憶』が無い。
それだけが、少女の頭の中に、事実としてインプットされる。
否。
それは……少女自身が、まるで長い間そうしてきた事の様に、頭の中に染みこませた、という方が正しい、目新しい『情報』は、すぐに頭の中に『インプット』する、何だかずっと……
ずっと、そんな事を繰り返して来た、という気がする。
自分は、何者なのか。
少女は心の中で呟いた。
考えながら、少女はスカートのポケットの中に手を入れた、何も入っていない、ブラウスの胸元のポケット、ブレザーのポケットにも手を入れて見るが、やはりそこにも何も入っていない、自分が外見通りの高校生、という年齢であれば、もしかしたら学生証なりを持っているかと思ったが、そういう物は何も入っていなかった。
そればかりか財布も携帯電話も入っていない、一体これで、自分はどうやってここまで歩いて来たのだろうか?
解らない。
少女は辺りを見回す。
沢山の人がいる、呆然と立っている少女に、明らかに不審な眼差しを向けて来る者達もいる、マネキンが飾られたブティックの店内からも、そういう視線をはっきりと感じられる、自分の事は解らないが、とりあえずここにいつまでもぼんやりと立っているのは、あまり得策では無いだろう。
とにかくここを離れよう、それから……
それからどうすれば良いのか……
それは解らない、だがとにかく今は移動する事だ。
少女は思いながら、ゆっくりとブティックから離れた。
「……さて」
少女は呟く。
自分が誰なのかも解らないのに、口だけは普通に動くのは、何だか不思議な感覚だ。
「これからどうすれば良いかしらね」
少女は呟く。
やはり誰かに助けを求めるべきなのだろうか? 警察だとか?
気が付いたら自分が誰なのか、ここが何処なのか、何故自分がここにいるのか一切解らなくなっていた、などという荒唐無稽な話をして、警察が信用してくれるのかどうかは解らないけれど、それでも、このまま当てもなく彷徨うよりはまあ……
そこまで考えた時だった。
「……ダメ」
少女は、無意識に口に出していた。
警察はダメだ。
絶対にダメだ。
自分は……
自分は決して、警察に……
否。
決して、『他人』に頼ってはいけない。
どうしてなのかは、少女自身にも解らない。
だが……
何故か少女は、それだけは……
それだけは、してはいけない、と強く。
強く、思った。