彼女は優しい彼に夢中
「エルゼ、今から向かうつもりだけど、もう行けそう?」
「はい、大丈夫ですよ」
大きな四角い鞄を肩から下げながら、クラウスは『業務終了』の札が置かれたエルゼの受付カウンターを訪れた。
出発する直前まで書類仕事をこなしていたエルゼは、クラウスがギルドに入ってきたと同時に手元の書類の束を引き出しに仕舞い、デスク周りを整頓し終えていた。
返事をすると同時に彼女は立ち上がり、まだ仕事中の同僚に挨拶をする。
「それではお先に失礼します」
「はーいお疲れ」
「お疲れさま」
クラウスと共にギルドから出て、向かう先は町の警備団の詰所だ。
他愛もない会話をしながら数分歩くと、目の前に目的地が見えてきた。
「初めての場所って緊張するんだよね」
「この町の警備団の皆さんは気さくで優しい方ばかりですよ。アットホームな雰囲気なので、町の子どもたちが気軽に遊びに行ったりできる所なんです」
「へぇ」
そんな会話をしている横を二人の少年が走り抜けていき、詰所の中へと入っていった。
遅れること数秒、一人の少年が息を切らしながら横を通り過ぎる。
「置いてかないでよぉ〜……っあっ!」
疲れ切った足がもつれ、少年は詰所前で顔から盛大に転けた。
「うっ……うぅ……」
しばしうつ伏せのまま倒れていたが、ゆっくりと体を起こしてその場に座った。顔と腕を擦りむいており、右膝は運悪く尖った石に当たったためパックリと切れてしまった。少年はあまりの痛さに震えている。
エルゼとクラウスは小走りで少年の元へと向かった。
クラウスは少年の前に屈むとカバンを肩から下ろして横に置いた。
「今から手当てするね」
白衣姿の男から急に声を掛けられた少年の頭には、治療院に行った時の嫌な思い出がよぎる。
「やっっ、痛いお薬塗るのはやだよっ……!」
少年は声を震わせて肩をすくめながら身構える。
クラウスは少し考え、鞄から小瓶を二つ取り出した。
「……そっか。それじゃ選ばせてあげる。塗ってもあんまり意味がない染みない薬と、染みるけど効果抜群な薬、君はどっちがいい? ちなみに染みる方は冒険者や自警団の人たちが使ってる物と同じやつ。すっごく特別な薬だよ」
「同じ……特別……」
涙が浮かぶ少年の目に羨望が灯ったのをクラウスは見逃さない。
「そう、彼らしか使えないすごくて特別なやつだよ。もちろんどこにも売ってないから、今しか絶対に使えないやつ。もうすぐそこの詰所に届ける予定だから、後から使いたくなっても無理だからね」
「……っっ、僕、同じやつがいい!」
「よし、よく言った。格好いいぞ」
クラウスは目元を和らげて少年の頭を撫でた。
すぐに真剣な表情になり、手早く手当てを始める様子を、エルゼは隣でじっと見守っていた。
「くっ……」
膝の傷口に緑色の薬がとろりとかかり、少年は歯を食いしばる。
最初は痛みに堪えながらぎゅっと目を瞑っていたが、傷口をガーゼで保護し、すりむいた腕と顔の手当てを終えた頃には、すっかり穏やかな顔になっていた。
「すごい……もう全然痛くない」
かなりパックリと切れて血が流れ、ジンジンと焼け付くような痛みを帯びていた膝なのに、今は少し痛いという程度。少年は口を半開きにしながら驚いている。
「そりゃ、町を守る強い人たちが使う薬だからね。効き目も強いんだよ」
「そうなんだ! お兄ちゃんありがとう」
「どういたしまして」
クラウスは満足そうに微笑む。少年は立ち上がって、早足に詰所内へと入っていった。
ずっと静かに見守っていたエルゼはホッとして、ようやく疑問を口にした。
「さっきの薬、どちらも同じ物に見えたのですが……」
「うん、同じ物だよ。自警団に納品する品の中に子ども向けの薬は入ってないからね。ちなみにどこでも買えるやつ」
クラウスは悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
自警団に遊びに来る子は、強く逞しい大人に憧れを抱いているものだから、その気持ちを利用したのだと言う。
より良い治療をするためなら、子どもを騙すことも厭わない徹底ぶりに、エルゼはクスクスと笑った。
二人がようやく自警団の詰所に足を踏み入れると、中では先程の三人の子どもが、ガタイのいい男性二人と戯れていた。
それを横目に、クラウスは自警団のリーダーや団員たちに挨拶をし、自作の薬を売り込むために実演していった。
「へぇ、これは良いな。傷口のつっぱり感がなくなった」
古傷に白いクリーム状の薬を塗り込まれた男性は、満足気に口角を上げる。その様子に、隣で眺めていた女性も薬に興味を抱いた。
「私も試してみても良いかな?」
「もちろんです」
クラウスは女性の腕に残る痛々しい爪痕に薬を塗り込んだ。
詰所内にいた人間からのクラウスの薬に対する反応は上々で、彼の周りには逞しい肉壁がそびえ立つ。
そんな様子を、エルゼはもちろん羨ましげに食い入るように見る。心の中でうっとりしては、クラウスに少し寂しげな目を向けた。
彼女から伝わってくる負の感情。
落胆か嘆きか憂いか。はっきりとした感情までは分からないが、自分に向けられている負の感情であることは確かで、つられてクラウスの心も重苦しくなる。
(……へこむなぁ)
ちらりとエルゼに目を向けて、あからさまに落ち込んでしまった。
そんなクラウスに、彼の目の前にいた気怠げな雰囲気の色っぽい女性事務員は、相談ごとをこそっと耳打ちした。
「……っっ」
クラウスは顔を真っ赤にして固まった。数秒後、彼も女性の耳にこそっと返事をした。
良い返事をもらえた女性は顔を綻ばせる。
「ふふふ、ありがとう。楽しみに待ってるわ」
「……はい」
彼は小さく返事をし、耳まで赤く染めて目を伏せた。
クラウスは自警団に商品を納品する契約を無事交わし、エルゼと詰所から出て家のある方向へと歩みを進めた。
エルゼは浮かない顔をしていたが、気持ちを切り替えたように顔に無理やり笑みを作り、声を弾ませて隣のクラウスに話しかける。
「沢山納品できることが決まって良かったですね」
「うん。彼らが信頼を寄せている君と一緒にいたから、すんなり受け入れてもらえたんだと思うよ。君はいつも親身になって彼らの相談に乗っているから。ありがとう」
エルゼのいるギルドには、冒険者だけでなく自警団の団員らも頻繁に訪れていた。
そんな彼らの力になれるように、彼女は精一杯努めてきた。
「えっ、そんな……えっと、どういたしまして」
頑張りを認めてもらえたことが嬉しくて、恥じらいながら消え入りそうな声で答えた。
その反応にクラウスはつい眉をひそめて目を逸らしてしまう。
複雑な想いは膨れ上がる一方だった。
***
クラウスがエルゼに会いに来て一月半が経った。
彼の薬師としての腕の良さはすっかり周知され、ギルドに納品に来たクラウスがその場に居合わせた冒険者に囲まれ、彼らの体の不調の相談にのり、時にはその場で薬を調合するということが日常的な光景になっていた。
「これさ、痛みはもうないんだけど、いつまで経っても跡が消えなくて……」
「色素が沈着しやすい体質のようですね。それでしたら──」
クラウスは今日も、エルゼの受付カウンターから少し離れた場所で相談を受けていた。
魔障がなかなか消えないという女性の話を真剣に聞き、その場で相手の体質に合った薬を調合して患部に塗った。
効果が確認されて薬の追加受注を済ませると、彼はエルゼの元へとやってきた。
「今日さ、イーズさんの冒険者パーティに夕食に誘われたんだ。セルシアさんに夕食はいらないって伝えておいてもらえるかな」
「はい。分かりました」
エルゼは業務的な笑顔をクラウスに向け、すぐに手元の書類に目を移した。
「──っっ」
人差し指に痛みが走った。縦に走った線からじわりと血が滲んでくる。
「あーあ、ちょっと見せて」
間髪入れずにクラウスは彼女の右手を取り、すぐに手当てを始めた。
「……これくらい大丈夫ですよ」
「ダメだよ。どんなに小さな傷でもきちんと手当てしなきゃ。毎日使う指先なら尚更少しでも早く治るようにしないと」
クラウスは少し不機嫌そうな顔で言いながら、手早く指先に包帯を巻いていった。
手当てが終わると、彼はすぐに販売カウンターの方へと行ってしまった。
「はぁ……」
エルゼは周りに聞こえないくらい小さな溜め息を一つ吐いた。
(何か微妙なんですよね……)
クラウスは表面上はにこやかに紳士的に接してくれるが、時折伝わってくる負の感情は明らかに自分に向けたものだ。
そればかりはお互い隠しようがなく、知りたくなくても知らざるを得ない。
日が経つにつれて心の距離が離れていっているのは紛れもない事実なのに、彼に理由を尋ねる勇気が出ないでいる。
「エルゼちゃん何かあったの? 元気ないじゃん」
「……こんにちは。書類の整理で目が少し疲れてしまいまして。体は元気なので大丈夫ですよ」
仕事中にしんみりしてしまい、やってきた男性冒険者に心配そうに尋ねられてしまった。
ただでさえ人から見られる仕事なのに、顔に出して周りに心配をかけてはいけない。
エルゼは気持ちを切り替えるため、目の前の筋肉から元気をもらうことにした。
(あぁ……力強さと躍動感溢れる胸板を見ていると、荒んだ心が浄化されていくようです。ありがとうございます。今日も素敵な大胸筋さん)
心からの感謝の念を送りながら、エルゼは表情を和らげた。
***
エルゼは両親と夕食をとった後、自室でごろごろしてから、遅めの湯浴みを済ませた。
自室に戻るため廊下を歩いていたら、帰宅したクラウスと鉢合わせた。
「お帰りなさい。遅いからちょっと心配していましたよ」
「ただいま。いろいろと相談にのってたんだ。皆さん何だかんだと不調を抱えてるみたいでさ」
「そうでしたか……それでは、おやすみなさい」
何となく不機嫌になってしまい、その場から立ち去ろうとしたエルゼは腕を掴まれた。
「ねぇエルゼ。俺に言いたいことがあるよね?」
「言いたいこと……ですか」
「うん。どうしたって伝わってきちゃうんだよ。そろそろ聞かせてもらえないかな?」
クラウスは覚悟を決めた。
真実を告げられた自分は恐らく心を深く抉られることになり、なかなか立ち直れないだろう。
だけど今のままの状態でいるよりも、はっきり告げてもらえた方が幾分かマシに思える。
(あぁ……もうダメですね)
エルゼは諦めた。こんなに真剣な目を向けられては、観念するしかない。
例え彼に不快な思いをさせてしまうとしても。
「分かりました。正直な気持ちを伝えますね」
覚悟を決めたエルゼは大きく息を吐き、決心したように目の前の真剣な青い瞳と向き合った。
だけどやはり恥ずかしくなってしまい、頬を染めて俯き気味におずおずと伝える。
「私以外の女性に触れないでほしいんです」
「………………は?」
覚悟していたものとかすりもしない言葉に、クラウスは気の抜けた声を漏らした。
エルゼは言葉を続ける。
「それがクラウスさんの仕事だってことは分かっているんです。だけど嫌な気持ちになってしまって……せめて見えないところでしてもらいたいんです。それも本当は嫌なんですけど、さすがに我慢しますから、その……」
エルゼは申し訳なさそうに眉尻を下げて、恥ずかしそうに目を逸らした。
「…………えっと、ちょっと待ってね」
クラウスは右手をエルゼに向けて、話を一旦中断させた。
そして彼女の発した言葉に冷静に考えを巡らせる。
今彼女が発した言葉は、どう考えても焼きもちとしか思えない。
「……いつも伝わってきてた負の感情って、俺の体の薄さを嘆いていたからじゃないの? 冒険者たちの立派な体と見比べてはがっかりしてたよね」
伝わってきていたタイミング的に、そうとしか思えなかった。
「そんな、見比べたことなんて一度もありませんよ。女性冒険者にあなたが触れることにいつも嫉妬していました。私の番なのにって……男性相手の時も手当てされているのが羨ましく思ってしまって、その……」
エルゼは恥ずかしそうに肩を竦めながら指先をすっと立てた。
「私もあなたに手当てされたくて……実はこれ、わざとなんです」
ガーゼが巻かれた右手の人差し指。それは今日、紙に引っかけて傷を負った指だ。
「──……ははっ、何それ」
想定外にも程があり、笑いと共に嬉しさが込み上げてくる。
「心が狭くてがっかりしましたよね」
「するわけないでしょ。嬉しくて感動してるんだよ。だって俺、君のタイプじゃないはずなのに」
その言葉にエルゼはキョトンとする。
「へ? いえ、ものすごくタイプですよ。私どちらかというと面食いなので。あなた以上にタイプな顔なんてこの世に存在しないと思います」
まさかの言葉にクラウスは目を丸くした。
「え、嘘、何でさ。俺筋肉ないのに? つきにくいって言った時、確実にがっかりしてたよね?」
「そりゃまぁ、無いよりはある方がいいですからね。でも……」
エルゼは言いかけて口ごもる。
恥ずかしくて言うのを止めようかと躊躇ったが、誤解はきちんと解かないといけないと勇気を振り絞る。
「……そのですね、あなたに逞しい筋肉があったら素敵すぎて直視できなくなると思うので、無くて良かったと今では思います……」
恥ずかしさが限界に達したエルゼは、顔の下半分を両手で隠し、潤ませた瞳でクラウスを見つめる。
クラウスはたじろいだ。
「っっ……えっとさ、君は逞しい男が好きなんだとずっと思ってたんだけど……」
「いえ、私が好きなのは筋肉だけですよ。性別なんて関係なく、芸術品を愛でる感覚です」
恥ずかしそうな顔から一転、キリッとした顔で拳を握りしめるエルゼに、クラウスは脱力した。その場に座り込んで額を押さえる。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「……うん、大丈夫。安心して気が抜けただけだから」
「安心ですか……」
相手から伝わっていた負の感情の正体が分かってスッキリしたのだろうか。クラウスにがっかりされなかったことにエルゼも安心すると、ようやくとあることに気付いた。
「あれ? どうして私が筋肉好きだと知っているのですか?」
「ギルド長から聞いたんだよ」
「……なるほど、そうでしたか。傷付けてしまうと思って黙っていたのに無意味でしたね」
「そうだね」
はははと笑うクラウスに、エルゼも聞きたくて仕方なかったことを聞いてみることにした。
「ところでですね、クラウスさんの方こそ私のことタイプじゃないですよね……? この前『せっかく番に会えたのに辛い』って言っていましたし……」
エルゼは視覚だけでなく聴力にも特化している。
極小のヒソヒソ声でないかぎり大概の声は聞き取れてしまうので、中庭で呟くクラウスの声も聞いてしまっていた。
「自警団の詰所で受付のお姉さんに何かを耳打ちされて、顔を赤くしていましたし……ああいった方がタイプなのですよね?」
悲しそうに目を伏せるエルゼから伝わってくるのは負の感情。
(……あぁ、何だ)
今まで向けられていたものは、全て焼きもちからくるものだったなんて。勝手に勘違いをして落ち込んでいたなんて馬鹿みたいだ。
「あれは人に言えないような品の依頼を受けて赤面してただけなんだよ。俺があの人に誘われたとかそんなのじゃないから」
「……そうでしたか」
クラウスはその女性から、彼氏との夜の営みが燃え上がるような薬が欲しいと依頼されていた。
守秘義務があるため詳しくは言えないが、エルゼの誤解をとくために最低限のことを伝えさせてもらった。
きちんと伝わったようで、エルゼはホッとしたように表情を和らげた。
「俺のタイプは君だよ。出会った瞬間に一目惚れしたんだ」
続けて誤解を解くために事実を告げると、エルゼの顔は真っ赤に染まる。
ころころと表情を変える可愛い番に、愛しさが溢れて止まらない。
「ねぇ、エルゼ。これからはきちんと向き合って話をしよう」
「……そうですね。恥ずかしいですけど、きちんと伝えないといけませんね」
「うん。俺もできるだけ伝えていくから。だからこれからもよろしくね。俺の番さん」
クラウスはエルゼをそっと抱きよせた。
二人の間にはもうわだかまりは存在しない。安心したように微笑む愛しい少女に、もう二度と悲しい思いをさせないと、彼は心に誓った。
その様子を物陰からじっと見守っていたセルシアは、両手を前で握りしめながら安堵の笑みを浮かべた。
(良かったわね二人とも……! 母さんドキドキしちゃった)
興奮冷めやらぬ彼女は、熱を散らすため森に行くことにした。自室に戻りクローゼットの扉を開くと、懐かしさを覚える銀色に輝くそれを取り出して目を細める。
若かりし頃の相棒である大鎌を携えて、セルシアは夜の闇に消えた。