近くて遠い距離
その日の午後。退勤時間になり業務の引き継ぎを終えたエルゼは、ギルドの裏手で待っていたクラウスと合流する。
彼に町を案内すると約束を交わしていた。
「お待たせしました。では行きましょう」
「よろしく」
クラウスは、まず薬草販売店に行きたいということで、町一番の品揃えを誇る店へと向かって歩きだした。
この町は獰猛な魔獣が棲息する森に隣接している。そのため魔獣討伐を生業とする冒険者が数多く滞在しており、町には四つの冒険者ギルドが存在する。
大通りを歩いているだけで、何人もの冒険者とすれ違う。
一年を通して温暖で過ごしやすい気候なため、比較的薄着の冒険者が多い。
エルゼの目はすれ違う筋肉たちに釘付けだ。もちろん気付かれないように、あからさまな視線は向けず、顔には笑みを貼り付けている。
クラウスはそれに気付きながらも何も言わないことにした。
彼がエルゼの筋肉愛をギルド長から聞いたことは、気を遣われたら嫌だからと、エルゼには黙っておくことになった。
「ところで、クラウスさんは今後お体を鍛えるご予定はありますか?……あ、特に他意はありませんからね。ギルドの受付として何となく気になっただけですので。本当に何となくです」
視界から筋肉が消えたと同時に、エルゼは苦しい言い訳をしながら尋ねてきた。
クラウスは心の中で溜め息を吐きながら、気付かないふりをして笑顔で答える。
「俺さ、ある日ふとエルゼの気配をはっきり感じ取れて、どこにいるのか分かってから最短ルートで進んで来たんだ」
道中にいくつもあった険しい山を越え、崖を登り、川を泳ぎ、魔獣や山賊に幾度となく出くわしては戦い。
それはそれはハードな旅路だった。
それなのに──
「そんな所を超えながらけっこうなペースで進んできて、その結果がこんな感じなんだよね」
クラウスは、『ははは……』と、消え入りそうな声を漏らす。
本来なら、なかなか逞しい体が出来上がっているであろう状況なのに、彼の体は薄いまま。とにかく筋肉が付きにくい体だという悲しい現実を物語っていた。
「そうでしたか……」
エルゼは肩を落として俯いた。だけどすぐに顔を上げて、彼の目を見ながら微笑んだ。
「クラウスさんが無事ここに辿り着けて良かったです。険しい道のりを越えて会いに来てくださってありがとうございます」
「どういたしまして」
エルゼが発した言葉は、彼女が心から思っていることだった。
他愛のない会話をしているうちに、薬草販売店に着いた。
店内にはこのあたりの山や森で採れるものや他国から取り寄せたものなど、様々な薬草が並ぶ。
乾燥させたものや瓶に入った粉末状の物、液体状のものなど。クラウスはそれらを手に取ってはしっかりと観察する。その横顔は真剣そのもので、エルゼは彼の邪魔をしないようにと、少し離れたところで静かに待っていた。
クラウスが満足し、いくつか購入したところで店を出る。二時間以上も滞在していたため、外はもう薄暗くなっていた。
「他の場所を案内するのはまた後日にして、家に帰りましょう」
「あー……うん、ごめんね。知らない薬草を目にすると時間を忘れて観察しちゃうんだ……ずっと待たされてつまらなかったよね。本当ごめん」
店に入ってからというもの、クラウスはエルゼと一言も話すことなく、薬草に夢中になってしまっていたことを思い出した。
「お気になさらず。私も薬草を見るのは好きですから。さ、行きましょうか」
「……うん。ありがとう」
***
二人が家に着いた頃にはすっかり日が落ちていた。
エルゼは着替えるため自室に向かう。
クラウスも自室に行き、店で購入したものや持ち歩いていた荷物を机に置き、翌日のために使った材料の補充をしていた。
今日はせっかく町を案内してくれると言っていたエルゼに悪いことをしてしまったなと、落ち込んで溜め息が漏れる。
そこにエルゼの父であるダンがやって来た。彼はとても気まずそうな顔をしている。
「クラウス君お帰り。あのことなんだけどさ……隠してて悪かった。まさかギルド長がポロッと溢すとは思わなくてだな、その……」
「いえ、お気になさらず。早い段階で知れた方がショックは少なくて済みますので」
「そうか。それなら良いのだが……」
「それよりも、後でこの薬草について詳しく教えていただけますか?」
知りたくなかった事実に絶望したのは確かだが、彼女の趣味嗜好に文句を言うつもりはない。
クラウスは気持ちを切り替えて、早くいろいろと試してみようとうずうずしだした。今日仕入れてきた薬草の束を一つ持ちながら、ダンに笑みを向けた。
新しいおもちゃを手に入れた子どものような無邪気さと、大人の色気が絶妙に合わさった妖艶な笑みに、妻一筋二十数年の子持ち中年男性であるダンさえもクラリとなった。
「……クラウスくん、寂しくなったらいつでも言ってくれ。私が慰めてやろう」
「いえ、お構いなく」
優しさとは違う決して受け入れてはいけない感情を向けられていると気付き、クラウスはきっぱりと拒絶した。
ダンはほんの少し残念そうな顔になったが、また夕食後に話をしようと約束を交わして部屋を後にした。
***
クラウスがエルゼに会いに来て二週間が経った。
二人はお互いのことを少しずつ知っていき、ゆっくり仲を深めている。
エルゼは自分が逞しい肉体が好きなことは伝えていないし、伝えるつもりもない。
運命の番はこの先ずっと人生を共に歩むパートナーだ。そんな相手を傷付ける可能性があることをわざわざ伝える意味はないと考えている。
彼女は、すでにクラウスが知っているだなんて思ってもみない。
クラウスはエルゼに気付かれないように注意を払いながら、憂いを帯びた表情を浮かべては溜め息を吐くという日々を送っていた。
その様子を幾度となく目にしているエルゼの両親は胸を痛めていた。
「クラウスくん、美味しいものを食べて元気をだして。母さんちょっと森の主様を仕留めてくるわ!」
「いや、それはさすがに遠慮させてもらえますか」
ここの森の主といえば、体長十メートルを超す巨大な白蛇だと聞いている。
何となく神聖な存在な感じがするので、罰が当たりそうなことは遠慮願いたい。
「大丈夫よ、主様と言っても死んだらすぐに世代交代するみたいだから、山の生態系に影響は出ないわ!」
「そういう意味で言った訳では……」
どうにかセルシアの暴走を止めたいクラウスだったが、包丁片手に瞳をぎらつかせる彼女の圧に負けた。
料理に使うごく普通の包丁を持っているだけなのに、彼女ならそれ一つでサクッと簡単に主の息の根を止められると確信が持ててしまう。
「それじゃ、母さん行ってくるわ!」
エプロン姿のまま、颯爽と森の中へと消えていく背中を見送ることしか彼にはできなかった。
***
エルゼはバレない程度に舐め回すように冒険者たちの肉体を堪能し、心の中でうっとりする。
その様子を、ギルドに薬を納品しにきたクラウスは遠目で眺める。
それが日常となっていた。
今日もエルゼは相手の筋肉と相談しながら、より良い依頼を提案していく。
その日のコンディションと実力に見合ったものを瞬時に見極め、目の前の筋肉が数日後、数カ月後に立派に育った姿を想像しては心の中で悶え、顔を緩ませていた。
そんな彼女の心の内など知る由もない冒険者たちは、自分の良き理解者であり、いつも親身に相談にのってくれて、時たま営業スマイルでない熱をはらんだ笑みを向けてくれる可憐な受付嬢に夢中になっていった。
突然現れた薬師のイケメンがエルゼに急接近していることもあり、彼女を口説いてくる冒険者もちらほらと出てきた。
数々の伝説をこの地に残し、現役を引退した今でさえも“狂人”と恐れられているエルゼの母が怖くてアプローチできずにいた者たちも、後悔しないように命を懸けることにしたようだ。
「おはよう、エルゼちゃん」
「おはようございますローレスさん」
(あぁ素敵。順調に育っていますね三角筋さん)
「ねぇエルゼちゃん、明日一緒に新しくできたカフェ行かない?」
「すみません。お誘いはとても嬉しいのですが、そういったお誘いは全てお断りさせていただいております」
エルゼは丁重にお断りし、頭を軽く下げた。
表向きの理由は業務に支障が出てはいけないというもの。本当の理由はギルド長から断るように頼まれているからだ。
エルゼが受けたいと思った誘いはこっそり受け入れて良いと言われているが、彼女は今まで一度も誘いに乗ったことはない。
そして番であるクラウスが会いに来てくれた今では、ギルド長の頼みでなくても断るという選択しかするつもりはない。
素晴らしい筋肉は、こうやって仕事中に眺められたらそれで満足だから。
「そんな硬いこと言わないでさ、一回くらいいいじゃん」
男は食い下がり、エルゼの腕を強めに掴んだため、彼女は困惑してしまった。
その感情を受け取ったクラウスはエルゼの元に向かおうと一歩前に出た。
しかし、ギルド内に入ってきたある人物の姿が視界に入り、足を止めて見守ることにした。
「困ります」
「お願い。一回だけ、一回だけだから、ねっ!」
諦めてもらえそうになく困っていたエルゼだったが、こちらに向かってゆっくり歩いてくる人物の姿が目に入ってホッと息を吐いた。
「────ねぇ、あなた」
「ひっ」
突然背後からかけられた声に男は肩を跳ね上げ、掴んでいた手をとっさに離した。
聞こえてきたのは優しげな女性の声なのに、体は勝手にカタカタと震え出す。
ギギギと首を何とか動かし、恐る恐る振り向いたそこには、包丁片手にエプロンを血に染めた女性が佇んでいた。
「……ねぇ、あなた。うちの可愛いエルゼちゃんが困っているように見えるのは気のせいかしら?」
首を傾げて静かに淡々と語る姿に、男は青ざめる。
優しげな笑みを向けられているのに、下手な言い訳は通用しないと自身の体が警告している。
このままでは自分も彼女のエプロンの染みになってしまう。男は逃げるようにギルドから出ていった。
「ありがとうございます。何か納品に来たのですか?」
「うふふ、そうなの。主様のおすそ分けにきたのよ。美味しいものは皆で分け合いたいもの」
ギルドの建物の前には、森の主の輪切りがいくつもごろんと転がっていた。
セルシアはエルゼに『お仕事頑張ってね』と笑顔を向けて、納品担当者の方へと向かった。
***
「くっそ、もう少し押したらいけそうだったのに……!」
エルゼを誘うことに失敗した男はイラつき、街路樹や石を蹴飛ばしながら町の大通りを歩いていた。
「あの、少しよろしいですか?」
「あぁ?」
男は声を荒げなから振り向いた。そして視界に入った、声をかけてきたであろう人物の顔面の整い具合に腹が立って睨みつけた。
「何か用かよ?」
「あの、すみませんが、エルゼが楽しく働く邪魔になるようなことは今後しないでいただけますか」
ギルドから跡をつけてきたクラウスに苦言を呈され、男の苛立ちは最高潮に達する。
「お前に関係ねぇだろ! ちょっと顔が良いからって調子乗んなよ、このモヤシ野郎が!」
評判のいい薬師であるクラウスには貶す要素が存在しないため、目についた体の薄さを突きつけた。
クラウスは要件だけを冷静に伝え、苛立たれても下手に出るつもりでいたが、今一番言われたくなかった一言にプツンと切れてしまった。
木製の小さな薬箱を持っていた左手に力が入る。
箱はメキメキ、バキッ、パリンと音を立てなから潰れていき、指の隙間から薬液がポタポタと滴り落ちる。
「……ムカつくなぁ。あんたに言われなくても分かってるよ」
低い声と共に向けられた殺気に、男はヒュッと息を呑む。
「あんたみたいに逞しい体は無いけどさ、その気になったら簡単にあんたの息の根を止められるんだよ。──そう、例えばこの薬、俺には効かないけど、実は猛毒なんだよね。あんたに試してみようか?」
クラウスは薬液に濡れた手を前に差し出した。
漏れた薬液に濡れた部分がジュージューと音を立てながら焼けただれていく薬箱が、妄言でないということを物語っていた。
「──っ、ヒイッ」
男は間抜けな声を残して慌てて逃げていった。その後ろ姿を見送りながら、クラウスは小さく呟く。
「……そんなことするわけないじゃん」
彼は薬師という仕事に誇りを持っている。腹がたったからといって、人を傷付ける使い方なんてしない。
「あーあ……納品できなくなっちゃった」
今から、魔獣駆除薬として納品する予定だった品の無惨な姿に溜め息を吐きながら、力なくその場にしゃがみ込む。
背中に哀愁を漂わせながら、地面に染みていく劇薬を中和するために、手持ちの薬品をぽたりぽたりと垂らしていった。
***
「エルゼちゃんお先ー。交代するね」
「はい。では行ってきます」
昼になり、エルゼは先に昼食をとり終えた同僚と受付業務を交代して昼食に向かう。
弁当片手に階段を上り、ギルドの三階にある休憩室に入った。
天気が良いので窓を開けると、外から何やら争っている声が聞こえてきた。
「あー、もうっ! 痛くしないからさ、大人しくしててよ!」
「にゃー! にゃにゃっ!」
「痛っ、いたたた、ちょっ待って爪立てないでって! ちょ、やめ、いだだだだ」
「にゃにゃー!」
エルゼが窓から外を窺うと、中庭の大きな木の根本で、一人と一匹の攻防が繰り広げられていた。
猫を羽交い締めにして、反撃されている憐れな男はクラウスだった。
怪我を負った猫を捕まえて、手当てしようと悪戦苦闘しているところだ。
クラウスは猫を強く押さえつけないように加減しながらも、太ももに挟んでしっかりとホールドする。
手当の開始と共に彼の意識は傷口にだけ集中する。爪でどれだけ引っ掻かれようが、腕を噛まれようが微塵も反応しない。
その様子をエルゼは感心しながら眺めていた。
クラウスは、猫の傷口の消毒、薬の塗布、包帯と、パパパッと鮮やかな手際で手当てしていく。
全て終えた頃には、彼はボロボロになっていた。
手当てが済み解放された猫は、脇目も振らず一目散に逃げていった。
「あー……疲れた」
体力を消耗したというより気疲れが激しい。あと何だかんだでそこかしこが微妙に痛い。
彼は毒物に耐性があり頑丈だが、全く無傷で済むというわけではない。
少しの傷でも痛いものは痛いし、今は胸の痛さと相まって余計に痛さにへこむ。
(後で自分の手当てもしないとな……)
クラウスはその場でごろんと後ろに倒れ込んだ。
穏やかな風に揺れる木々の葉。隙間からは淡い光が落ちてくる。
一息ついた頭に浮かぶのは愛しい番の姿。
今までは想像の中のぼんやりとした輪郭だけを思い浮かべていたけれど、今ではしっかり姿かたちを想像できる。
零れ落ちそうなほど大きな新緑の瞳、透き通る白い肌に影を落とす長いまつ毛。
薄紅色の小さな口からは甘く可愛らしい声が発せられ、柔らかそうな銀色の髪。
ようやく出会えた番は、言葉では言い表わせない程の美少女だった。
どんな容姿だろうと愛する自信はあった。番とはそういうものだから。
だから愛情は出会う前も今も変わらず持ち続けている。
そこに恋心が加わってしまうだなんて、クラウス自身も想定していなかった。
恋した少女は、いつも熱を帯びた瞳で冒険者達を眺めている。
自分には決して向けられることのない熱い視線。それを思うと胸が締め付けられる。
彼女が自分に恋心を抱いてくれる日は訪れないという現実に打ちのめされてしまう。ようやく出会えて幸せなのに、それ以上に苦しい。
「せっかく番に会えたのに、何でこんなに辛いんだろ……」
クラウスの弱々しい呟きは、溜め息と共にそよ風に消えた。