5話 遅すぎる春なんてない。
少し引き返して、私は大窓から庭へと出る。そこは朝、若いメイドがスズメと奮戦を繰り広げていた場所の脇だ。
改めて考えれば、しっくりとくる。
臆病な人生を送ってきた私だからこそ、ミケの考えはよく分かった。
どうしようもなく逃げたくなったとき幼かった私はよく机の下で丸まって、誰にも見られないようにひっそりと泣いた。
それと同じと考えれば、なんの不思議もない。
鮮やかな桃色をしたツツジが咲き誇る花壇の前、私はしゃがみこむ。
「……本当にいた」
そして、無事にその奥でミケを見つけることができた。
ミケはみゃあ、と小さく鳴く。
警戒していたようだったが、手を差し伸べて我慢強く待っていると、彼の方から出てきてくれた。
花びらを身体のあちこちにまとい、匂いまでフローラルになったミケが私の腕の中に収まる。
その手足は花壇の柔らかい土を踏んでいて、ドレスが汚れた。また、追い打ちをかけるようにしっぽが顔にすりつけられるから、化粧も台無しだ。
でも、本当に無事でよかった。
あとはシルヴィオ王子に彼を引き渡して、私は潔く罰を受ければいい。
そう思いつつ立ちあがり、後ろを振り返ると
「……驚いた、俺より早くもう見つけていただなんて」
そこに、その王子がいた。
その怜悧な瞳をぱちぱちとまたたき、口を小さく開けている。やはりそこに怒りは窺えない。ただ純粋に、興味深そうな目が私に注がれる。
優しいまなざしが、日陰者の私には眩しすぎた。
「えっと、本当にすみませんでした」
私はミケの手足から土を払ってやると、すぐにシルヴィオ王子へ引き渡そうとする。
が、なぜかミケは嫌がって私にしがみつく。
王子に向けて、牙をむき威嚇までしてしまっていた。
「しかも、この数分だけで俺より懐かれるなんて。本当に驚きだ」
「……大変申し訳ありません」
「それ以上謝らないでください、アンナ様。俺は、まったくあなたを責める気なんてない。そう謝られてばかりだと、こちらもやりにくい」
またしても、すみませんと言いそうになり堪える。
謝罪がいけないなら、と浮かんだのは疑問だ。
今は傍に執事もついていないようなので、先ほどより聞きやすかった。
「あなたはなぜ、私を庇ってくれたのですか。あの煙幕は間違いなく私の持ってきた手土産のせいです。しかも、望んでもいない年上の結婚相手。それをどうして――」
「アンナ様、あれはあなたのせいじゃないのでしょう? 大方、誰かほかの人に持たされたものでは?」
「え……どうして、それを」
「あなたの服装を見れば分かります。その年季の入ったドレスやほかの持ち物から見て、あの手土産だけは華美すぎましたから」
……そういえばそうだ。
ドレスの色落ちした部分を引っ張ってみて、私はたしかにと思う。あの豪華すぎる化粧箱とは、たしかに釣り合わない。
「それに、事前にメイドに聞いていたのです。あなたは今朝、うちのメイドを助けてくれたそうですね。そのような方が、あぁいった真似をするとは俺には思えませんでした。そして、それは正しかったみたいですね」
意味がつかめず、困った私は首をひねる。
「ミケが懐く人に悪い人はいませんから」
浴びた朝日をすべて跳ね返したみたいな、会心の笑顔であった。
笑わないと聞いていたところへ、これだ。
美しい花々に囲まれる中でも、間違いなく彼が一番輝いている。
白すぎるくらいの頬や、首筋に一束だけ垂れた長い金色の髪。そういった見た目だけではない。
たぶん、彼の心が美しいのだ。
でなければ、こんなふうには笑えない。
いつか私が憧れたような、向けられた相手の心さえも上向かせる力を持った、特別な笑顔。
私くらい、簡単に焦がしてしまいそうなほど眩しい。
「って、そうだとしたら懐かれていない俺は悪者らしい。
まぁ、アンナ様に今回の悪事を仕組んだ人間をすぐにでも厳罰を下してやろう、と考えていますから、その通りなのかもしれない。犯人のあたりはついているのですか?」
「えっと……たぶん妹のメリッサかと思いますが」
「……あぁ、あの方か。たしか、貴族学校で同級生だったな。昔から意地の悪さと狡猾さが苦手だったが、ここまでやるとはな。大方、あなたに嫉妬したのでしょう」
「……メリッサが私に?」
ありえない、と思うが、シルヴィオ王子はこくと首を縦に振る。
「彼女は昔、俺に散々アプローチをかけてきましたから。未来の王妃になるあなたを嫉んだのかもしれません。
いずれにせよ俺の妃に悪意をもって危害を加えたんだ。謹慎処分……いや待て、もっと重い罪を与えてもいいかもしれない」
顎に手を当て、刑罰を考え始める王子。
「ふふっ……あはっ」
冷徹で感情を表に出さない。そう聞いていたから、意外すぎる側面に、私はつい吹き出してしまった。
「アンナ様、俺はなにか面白いことを言いましたか」
「いえ、そうじゃないですけど。あははっ」
まさか、この状況で笑えるようになるとは思わなかった。
けれど、どういうわけか重石が取られたかのように心が軽くなっていて、笑いが止まらなくなる。
シルヴィオ王子は、わざわざそれがやむのを待ってくれた。
それから、おもむろに片膝をついて腰を落とす。
「え。下、土なんじゃ――」
どうやらお構いなしらしく、彼は私の右手をすくった。
反応する隙もないうちに、
「シーリオ家へようこそ、アンナ様。あなたのような真にお優しい方が来てくれて、本当によかった。これから、よろしくお願い申し上げます」
私の手の甲にそっと、でもたしかに唇を触れた。
その瞬間、突風が吹いて花壇に咲いていたマーガレットの花びらが一枚、少しの間だけ私の頬に貼りつく。
そんなことすら、偶然ではなく必然、そうとしか思えなかった。
この王子は、それくらいの奇跡を簡単に起こしてしまえるのだ、きっと。
「そういえば、覚えていますかアンナ様。昔、演奏会で出会ったことを」
「……はい。え、シルヴィオ王子も……?」
「はい。なぜかあの時、他の誰のものより、あなたの温かい演奏がとても心に響いて、しばらく忘れられませんでした。それから、あなたが誰より綺麗だったことも覚えております」
「綺麗……私がですか。メリッサの間違いじゃ」
そんなふうに言ってくれたのは、死んだ母を除けば初めてだ。
驚く私を尻目に、シルヴィオ王子は少しだけ首をかしげる。
「いいえ、間違いなくアンナ様だ。ずっとお会いしたい、とこちらから思っていたくらいです。変わらずお美しいですね。
何年もお見掛けしないので、どうしているかと思えば……まさか、結婚相手となるとは驚きましたが……あなたにならば、俺の全てを捧げたい」
4つも年下の彼が照れたように首筋に手をやり笑う姿に、思わずどきりとさせられる。
同時に胸が騒がしくなり、じれったくなる。
こんな感覚は、もう何年ぶりのことだろう。
ここにくるまで、期待なんて本当に一片さえもしていなかったのだ。
この結婚はただ規定に則っただけであり、それ以上にはなりようがない。
妹・メリッサの言う通り、白い結婚で、愛される望みなんて全くない。そう本気で思っていた。
ただ、今は少し違う。
この若き王子が私に、一筋の光を与えてくれた。
メリッサや、自分自身が私にかけてきた呪いが、ゆっくりとほどけていく気がする。
ずっと残り物だった私でも、幸せを掴んでいいのかもしれない。
遅すぎる春なんて、ないのかもしれない。
……なんて。
花々の甘やかな香りに包まれながら、彼の手を握り返し、私は淡い期待に胸を揺すられたのであった。
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今夜中には、続きを投稿する予定でおります^ - ^