精霊使いの女
闇。
深い澱みの、その底に残った微かな灯り。
頼りない松明の炎が、女の骸を照らし出した。
ネヴィア。
それがその女の名だった。
ドライオは膝をつくと、見開かれたままの目をそっと閉じてやった。
口の中で小さく祈りの言葉を呟く。
すまなかったな。
ドライオはネヴィアの白い頬を見下ろして、心の中で言った。
あんたを守ってやれなかった。
旅の戦士ドライオが、この村の地下に眠る遺跡から瘴気が立ち上っているという話を聞いたのは数日前のことだった。
村の精霊使いであるネヴィアが逗留中のドライオを訪ねてきて、遺跡への探索の同行を依頼してきたとき、ドライオは首肯しなかった。
遺跡からの瘴気のせいで、周辺の魔物たちが狂暴化し始めている。
遺跡に潜り、その元凶を突き止めなければ、この村は早晩魔物に飲み込まれてしまうだろう。
だから、私と一緒に遺跡へ行ってほしい。
ネヴィアの主張は正しかったが、そこには大事な視点が欠けていた。
こちらの戦力。
いかにドライオが歴戦の戦士とはいえ、精霊使いの女と二人だけで潜るには、その遺跡から立ち上る瘴気は強すぎた。
地下深くに何がいるのか、とても分かったものではない。
「もっと大きな街から戦える者たちを数多く募るべきだ」
ドライオはそう提案したが、ネヴィアは首を振った。
貧しいこの村では、出せる報酬はわずかだった。その額を聞いて、ドライオでさえも眉をひそめたほどだ。
「あなたが受けてくれないのであれば、私は一人で行きます」
とネヴィアは言った。
こんな寒村で精霊使いをやらせておくには惜しいほどの美しい女だったが、その目には村を守ろうという強い意志の光が宿っていた。
あんた一人でか、とドライオは言って、ネヴィアを見た。
「無理だ、やめておけ。あんたが命を失うだけで、何も得られやしねえぞ」
その言葉に、ネヴィアの目が一瞬赤く煌めいたような気がした。
ネヴィアの背後に、いつの間にかそっと寄り添うようにして赤い肌の長身の男が姿を現していた。
ドライオはその存在を知っていた。
「ヴァイス=トイ、か」
炎の精霊ヴァイス=トイ。
ネヴィアが音もなく召喚した精霊の名だった。
彼だけじゃないわ、とネヴィアは静かな声で言った。
氷の精霊ギ=エルドーラ。
風の精霊フィゼン=シュゴール。
ネヴィアはそういった名のある精霊との契約を済ませていた。
「そんな実力のある精霊使いが、どうしてこんな田舎の村に」
ドライオの言葉に、ネヴィアはわずかに口元を緩めた。
「守りたいの。自分の手で、自分の村を」
「そうか」
ドライオも深くは尋ねなかった。
人には人の事情がある。
だが、それはそいつの都合だ。そこに自分の命を懸ける義理はなかった。
「それなら、頑張るんだな。精霊さんたちと」
ドライオは言った。
「いずれにせよ、いくら精霊がいようが戦力が足りねえ。俺は乗らねえ」
冷たいかもしれないが、そう言うほかなかった。
「ありがとう、戦士ドライオ」
ネヴィアはそう言って立ち上がった。
「私の話を聞いてくれて」
部屋から去っていくネヴィアの背中を見ながら、ドライオは、まさかこの女も本気で一人で行くほど馬鹿ではあるまいと考えた。
朝靄の中、人気のない道を歩いていたネヴィアは、足を止めた。
道の途中の木にもたれかかるようにして、大柄な男が立っていたからだ。
「本当に一人で行くつもりだったんだな」
ドライオは、そう言ってネヴィアの荷物を見た。
「それじゃあ何もかもが足りねえ」
首を振って、木から身体を起こす。
「探索の成否の半分は準備にかかっていると思え」
そう言いながら歩み寄ってくるドライオを、ネヴィアは半信半疑の顔で見上げた。
「どうして」
そう尋ねたネヴィアに、ドライオは冗談めかして告げた。
「探索が終わったら、一度あんたを抱かせろ。報酬はそれでいい」
目を白黒させて、顔を赤らめるネヴィアを尻目に、ドライオは身を翻す。
「宿に戻って、準備だ。一から教えてやる」
遺跡の中は、やはり予想通り狂暴化した魔物であふれていた。
ドライオは前に立って戦斧を振るい、道を切り開いた。
鍛えられた歴戦の技の冴えは、魔物たちを前にしても毫も揺るがなかったが、ドライオ一人では遺跡の探索はおぼつかなかっただろう。
ネヴィアの操る精霊たちは、期待通り、いや、それ以上の力を見せた。
炎の精霊ヴァイス=トイは魔物を焼き払い、氷の精霊ギ=エルドーラは凍てつかせ、風の精霊フィゼン=シュゴールは切り裂いた。
本当に、こんな村に置いとくにゃ惜しい女だぜ。
ドライオは何度もそう感嘆した。
だが、地下に潜るにつれ、瘴気はますます濃くなり、それとともに、遺跡探索に不慣れなネヴィアの疲労の色も濃くなっていった。
休むか、とドライオはネヴィアに言った。
闇の中で昼夜の感覚はなかったが、おそらくもう外は夜になっているだろうと感じていた。
まだ進めます、と首を振るネヴィアを、ドライオは手近な小部屋に引っ張り込んだ。
「いいから来いよ」
ドライオは乱暴に自分の方へと引き寄せる。
「こんなところで私を抱くんですか」
ネヴィアが言った。その目にわずかに恐怖の色が浮かんでいるのをドライオは見逃さなかった。
「抱かねえよ」
むっとして、ドライオはそう答えた。
「報酬の前借りはしねえ主義だ」
その言葉に、ネヴィアがほっと息を吐く。
休むと決めると、緊張の糸が切れたのか、ネヴィアはすぐにうとうととまどろみ始めた。
ドライオはその無防備な寝顔をじっと見つめた。
少しくらいなら、いいか。
だが、その頬に手を伸ばすと、突如赤い炎が立ち上った。
「なんだよ。何もしねえよ」
ドライオは不機嫌に言った。
炎の精霊ヴァイス=トイが、ネヴィアに寄り添うようにしてじっとドライオを見つめていた。
目を覚ましたネヴィアは、自分の傍らにまるで忠実な番犬のように佇むドライオの姿に息を呑んだ。
「ごめんなさい。私、いつの間にか眠ってしまったみたい」
ネヴィアの言葉に、ドライオは首を振る。
「しっかり休めて何よりじゃねえか」
そう言って、笑う。
「腹ごしらえをしたら、動くぜ」
ネヴィアは意外なものを見るような目でドライオを見た。
「戦士ドライオ。あなたって笑うと」
そう言われて、ドライオが眉をひそめる。
「笑うと、なんだよ」
「いえ、何でもありません」
ネヴィアは慌ててドライオから目を逸らした。
下の階に下りるにつれ、魔物は手ごわくなっていった。
だが、瘴気のもとに近付いているという手ごたえはあった。
「あの部屋だ」
松明の灯に微かに照らし出された、二人の視線の先に小さく見えるその扉は、相当離れたここからでもすでに一目で分かるほどの瘴気を孕んでいた。
「あの中に、瘴気の大元がある」
ドライオの言葉に、ネヴィアは緊張した表情で頷いた。
「はい」
「怖いか」
ドライオは尋ねた。
「あれだけの瘴気だ。びびっても不思議じゃねえ」
だが、ネヴィアは首を振った。
「いいえ」
ネヴィアは強い瞳で、前方の扉を見た。
「ようやくここまで来ることができた。ありがとう、戦士ドライオ」
それは恐れを克服した、勇敢な一人の精霊使いの顔だった。
その表情に、ドライオは目を奪われた。
これはめっけもんだぜ、と素直に思った。
強い女だ。強く、美しい。
この女を抱けるのだと思うと胸が高鳴った。
こいつなら、これからの旅の相棒にしたって悪くねえ。
そんな先のことまでもが胸をよぎった。
だが、その一瞬の油断が取り返しのつかない事態を招いた。
暗闇から音もなく忍び寄っていた魔物に気付かなかった。
その長い爪が、背後からネヴィアの胸を貫いた。
しまった。
自分の愚かさを悔やみながら、ドライオが戦斧を振るって魔物を叩き潰した時には、もうネヴィアは虫の息だった。
「村を」
ドライオの腕の中で、ネヴィアは最期に虚空を見つめ、言った。
「お願い」
今にも瘴気のこぼれ出さんばかりの扉。
ドライオはその前に立つ。
中にいる魔物は、あれか。それとも、あれか。だいたいいくつかの候補の予想はつく。
どれも、できれば相手したくない魔物だった。
ましてや、ドライオは今やこの深い暗闇の中にたった一人だ。
松明を持ちながら戦わなきゃならねえのか。
その勝算の低さに舌打ちする。
だが、引き返すという選択肢は最初からなかった。
頼まれちまったからな。とびきりいい女に。
ドライオは思った。
仕方ねえ。これも仕事だ。
扉に手をかけようとしたとき、不意にその脇に炎が燃え上がった。
炎がゆっくりと人の形をとる。
「ヴァイス=トイ」
ドライオはその精霊の名を呼んだ。赤い肌の長身の男が、ドライオを見る。
「どうして、お前が」
精霊たちは、契約を結んだ精霊使いの死とともに、その姿を消したはずだった。
「契約が、残っている」
炎の精霊は、低い声でそう言った。
「未熟だが、清らかな心を持つ精霊使いネヴィア。我と彼女は、昨夜契約を結び直した。我らの契約は、この遺跡を出るまで有効だ。彼女の生死に関わらず」
感情のこもらない言葉だったが、ドライオはそこにこの精霊の抑えた悲しみのようなものを感じた。
彼女の生死に関わらず。
それは、まるでネヴィアが自らの死を予感していたかのような契約だった。
「戦士よ。我もともに戦う」
ヴァイス=トイは言った。
「汝に力を貸そう」
そうか。
ドライオは、口元を緩めた。
「ヴァイス=トイ。お前も俺と同じか」
こんな何もねえ村で、お前もとびきりの女に出会っちまったってわけだ。
「それじゃあ、仕方ねえ。お前の契約を終えるためにも、あのかわいそうな骸を、必ずこの遺跡の外まで運んでやらなきゃならねえな」
ドライオは改めて扉に手をかけた。
その背後に、炎の精霊が寄り添う。
どうか、お願いします。
どこからか、女の声が聞こえたような気がした。