彼の非日常な日常の世界
時刻は丑三つ時。
深夜だというのに気温は一向に下がらず、むわっとした嫌な空気が肌に纏わりついてくる。
咲良宏光は一人神社の前に立ち、仄かに照らされた鳥居を見上げて暑いはずなのにぶるりと身震いした。
(くそっ! あの時右を選んでいれば……!)
宏光は数分前の自分を恨みながら、覚悟を決めて一歩足を踏み出した。
いつものメンバーのうち四人の休みが揃ったため、彼らは飲みに行こうという話になった。
最初は居酒屋で飲んでいたのだが、三軒ほどハシゴしたところで、その店から一番近い宏光の家で飲み明かそうと彼の家へと雪崩れ込んだ。
既に完全に出来上がっていた面々は、折角こんな時間まで飲んでいるのだから肝試しをしよう、という話になり、どうせならババ抜きをして最下位になった一人が罰ゲームとして近くの神社に参拝、証拠としておみくじを引いてこよう、という話になった。
何が折角で、どこがどうせならなのかはわからないが、そこは酔っぱらいの思考回路である。
かくして見事最下位となった宏光が囃し立てる面々に見送られて冒頭に至る。
(あいつ、俺がこういうのダメだって知ってるくせに!)
宏光は所謂ホラーというものが大の苦手だった。
というのも彼は霊感が強い方で、普通の人には見えないものが昔からよく見えたし、後で考えればゾッとするようなことも一度や二度ではなく体験してきたせいである。
宏光の聞いた話によると遠い祖先に陰陽師を生業にしていたものもいるらしく、彼の家系には程度の差はあれど比較的霊感があるものが多かった。
今回の企画提案者の川島幸裕は宏光の幼稚園からの幼なじみであり、そのこともよく知っている筈だ。
しかし残念ながら彼は酔っぱらいだった。
更に幸裕は宏光とは正反対の零感というやつで、全くそういう体験をしたことがないという。
宏光としては幸裕が羨ましくて仕方がないが、彼から言わせれば宏光の方こそ羨ましいらしいので、世の中なかなか上手くいかないものだ。
(うぇー気味わりぃ……さっさと終わらそ)
宏光は早足で鳥居を潜るとおみくじに直行してやろうかと迷ったが、参拝をして、の約束を律儀に守り賽銭箱の方に向かった。
確実に近所迷惑になる鐘は鳴らさずに、ポケットに入っていた十円玉を放り込み、いつもの三倍の素早さで形式だけのお参りを済ませた。
後はおみくじを引いたらミッションコンプリートだと脇に置いてあるおみくじの方に向かい、お金を入れようとしたところでふと神社の脇の草地が目に入った。
正確には、その草地の暗がりに蹲る少女が見えたのだ。
こんな時間にと嫌な予感がしないこともなかったが、家出少女の可能性もゼロではない。
町のお巡りさんである宏光は放っておける筈もなく、膝に顔を埋めてこちらに気づいていない少女を出来るだけ驚かさないよう敢えて大きめに足音を立てながら近づいた。
しかしその音が聞こえていない筈はないだろうに、何故か少女は一向に顔を上げようとしない。
(もしや寝てるのか?)
宏光は一抹の不安を感じつつ、あまり見知らぬ男に近づかれても恐いだろうと思い少し離れた場所で立ち止まり少女に声をかけた。
「君、大丈夫? こんな時間にこんな場所に一人でいたら危ないよ?」
宏光の声が聞こえたらしい少女はぴくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
恐らく高校生だろう。
シンプルな紺色のセーラー服を着ている。
つり目気味で少し気が強そうだが可愛らしい顔立ちをした少女は宏光に気付き、こてんと首を傾げた。
『私?』
「そうだよ。具合でも悪くなったか?」
宏光は普通の少女だったことに安心し、同時にこんな時間にこんな場所に一人で蹲っていた少女が心配になり一歩近づいた。
すると少女はニタァと不気味に笑い、それを見た宏光はぶわりと全身の毛穴が開く感覚がして咄嗟に三歩後退った。
(待て待て待て……! これ、普通の女子高生か……!?)
『お兄さん、私のことが見えるんだ? ふふ、嬉しい……そんな人に会ったのいつ以来かな?』
そう言って嬉しそうに立ち上がった少女は足先が不自然に透けており、次の瞬間その身体がふわりと宙に浮き上がった。
『ねぇお兄さん、私と遊びましょ?』
「ぎ、ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
近所迷惑など知ったことではない。
宏光は絶叫し、これまでの人生で一二を争う素晴らしい走りで自分の家まで逃げ帰った。
バタンと勢いよく玄関の扉を開けて中に転がり込んだ宏光を、酔っぱらい達はお帰りー、とリビングから呑気に声だけで出迎えた。
出ていく時と同じ平和な光景を目にした宏光はきちんと鍵をかけた後、玄関から一番近くで飲んでいた橘三徳の背中に抱きついて顔を埋めた。
「え? どうしたのこいつ?」
抱きつかれた三徳ではなくその横で飲んでいた穂積敬之から困惑の声が上がったが、宏光は気にせずぎゅうぎゅうと更に強くしがみついた。
その様子を見て理解した幸裕が苦笑したが、宏光はお前のせいだろう、と恨めしく思った。
「あー、何かいたかー」
「は? 何か?」
幸裕の発言の意味がわからなかったらしい敬之が怪訝な声を出した。
人の温もりを感じてようやく安心した宏光が三徳から離れると、三徳が心配そうに様子を伺っており、宏光は少し恥ずかしくなった。
「あー……悪い」
「いや、気にすんな。それより大丈夫か?」
いつもなら幸裕かもう一人の幼なじみに抱きつくところだが、今回は一人は不在、もう一人は戦犯であるため、思わず三徳に抱きついてしまった。
事情もわからないだろうにただ自分を心配してくれた三徳に宏光はひどく感動した。
「明日から兄貴って呼んでいいか?」
「止めてくれ」
真顔で言った宏光に本気を感じ取ったのか、三徳は先程までの心配する表情から一転、呆れ顔になって断った。
「なぁ、何かって何だ?」
結果的に無視される形になってしまったことに焦れて、敬之が再度幸裕に尋ねると、幸裕は楽しそうにニンマリと笑った。
「うわ、キモい」
「ひどっ! ってか何かっていったら、アレしかないだろ?」
「だからアレって何だよ?」
「だからぁ、アレだよ、ゆ・う・れ・い♡」
「はぁ? 幽霊ぃ?」
ニマニマと楽しそうな幸裕とは対照的に、敬之は何を馬鹿馬鹿しいことを、というような呆れた顔をした。
それを横で聞いていた三徳はそんな予感がしつつもまさか本当にそう返ってくると思わなかったらしく目を丸くして驚いている。
「いや、冗談じゃなくて。宏って霊感が強いらしくてさ、昔っからそういうのによく遭遇してんの」
「えー……ワリィけど信じらんねーわ。川島も見たことあんの?」
「んにゃ、俺はさっぱり。どうやら俺は零感らしいんだよねー。会いたいのに全然会えないんだわ」
「じゃあ何でお前が得意気に説明してんだよ」
幸裕は相変わらず羨ましそうにしているが、敬之はそう言った類の存在を全く信じていないらしく、宏光は少し苦い気持ちになった。
見えない人はそういうものに否定的な人が大半で、嘘つき呼ばわりされるのもよくあることだった。
敬之は別に悪気があって言っている訳ではないのはわかっているが、つい過剰に反応して勝手に傷ついてしまう自分に呆れてしまう。
思わず溜め息をついた宏光に、その意味を察した三徳が苦笑した。
「あいつは自分の見たものしか信じないからな。悪い奴じゃないから、気を悪くしないでくれたら助かる」
三徳と敬之は小学校からの幼なじみらしい。
宏光を慰めながら幼なじみのフォローまでするなんて、何て出来る男だろうと宏光の中の三徳の株はうなぎ登りだ。
「ああ、いや……寧ろあっちが正常だろ? 幸が可笑しいんだよ」
苦笑して宏光が言うと三徳は首を傾げた。
「そうか? 俺は幽霊とか見たことないけど、見たことないからっていないとは言い切れないと思うぞ? というか、咲良は見えるんだろ? じゃあいるんだろって俺は思うけどな」
「兄貴のイケメンが過ぎる」
「だから兄貴は止めろ。怒るぞ?」
「ところでさ、今回は何がいたの?」
「あー……」
目を輝かせて聞いてくる幸裕に、宏光は言葉に詰まった。
何が出たか、と問われれば、女子高生の幽霊、が答えだ。
特に何かされたわけではない。
いや、遊ぼうとは言われたが、言葉にしてまうとただそれだけのことであそこまで取り乱してしまったことが今更ながら恥ずかしくなった。
だから出来れば話したくなかったのだが、話してくれるまで諦めないと言わんばかりのキラキラした目を向けてくる幸裕と、興味深そうに見つめてくる三徳と敬之に宏光は観念して口を開いた。
「女子高生、に、遊ぼう、と、誘われた」
「え? 職質案件?」
「何それうらやま」
「幽霊だ、ゆ・う・れ・い!」
渋々答えた宏光に、三徳は神妙な顔で、敬之は心底羨ましそうに言った。
すっかり忘れていたが彼らは酔っぱらいだった。
「女子高生の幽霊かー! あー! 俺も会いたい! 宏ばっかりズルい!」
いつものように八つ当たりを始めた幸裕に呆れて宏光が口を開こうとした瞬間、突然先程神社で感じたのと同じようにぶわりと全身に鳥肌がたった。
『あら、大人気』
「ぎやぁぁぁぁぁぁぁぁ出たぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
すぐ真後ろから聞こえた声に思わず目の前の三徳を盾にしてしまったのは致し方ないだろう。
余談だが宏光の住む家は防音完備のアパートである。
「どこどこ!? 女子高生の幽霊!!」
「そこって、何にも見えねーんだけど」
宏光が三徳の後ろでガタガタと震えながら腕だけを伸ばし指差す先を見て、幸裕は興奮気味にキョロキョロとその周辺に目を走らせ、敬之は困惑気味に指差す先に目を凝らしている。
「もしかして、ここか?」
ぱちぱちと瞬きをしながら二人と同様に宏光が指差す先を眺めていた三徳が、ある一点を指差した。
『はーいお兄さん、大正解』
「「えぇ! 橘見えるの」か!?」
「あ、いや。何となく陽炎みたいのが見えるだけで、咲良みたいに女子高生は見えないし、声も聞こえないが」
『なんだ、そうなの』
「なぁ宏、橘の見えてるの正解?」
「正解正解!!」
絶対に離れてなるものかとへばりついたままの宏光からおざなりに返された返事に、三徳は自分の答えが当たっていたと嬉しそうだ。
「ここにいるってことは彼女? は咲良に憑いてるのか?」
三徳の何気なく聞いた質問に、その可能性を全く考えてなかった宏光は一気に青ざめた。
「というか、大丈夫なのか? 悪いものではないのか? 近くにいて影響は……」
「橘、橘。宏が死にかけてるからその辺にしたげて?」
「あ、わり」
三徳が質問をする度にどんどん宏光の顔色は悪くなり、既に紙より白くなっている。
『失礼ね。私をその辺の悪霊と一緒にしないでくれる? それに別にお兄さんに憑いて来たわけでもないわ』
「……ほんとか?」
恐る恐る三徳の後ろから顔を出して尋ねた宏光に、少女の霊は嬉しそうに笑顔で頷いた。
「じゃあ何でここにいるんだ?」
『久しぶりにコミュニケーションのとれる人間に会えたのが嬉しくって。思わず着いて来ちゃった』
にこにこと嬉しそうに笑う顔は文句なしに可愛いが、彼女は幽霊だ。
幽霊、と思った瞬間、脳内で今の可愛い笑顔に最初に見た狂気的な笑顔が重なり、宏光はひっ、と小さな悲鳴を上げてまた三徳の後ろに隠れた。
「なー、やっぱ何にも見えねーんだけど。川島も見えてねーみたいだし、咲良も三徳も飲み過ぎてるだけじゃねーの?」
敬之の言葉に少女はムッとしたらしい。
『そこのお兄さん、失礼ね。全然見えないみたいだし、どうしてやろうかしら? ……よし、決めた! 幽霊といったらやっぱりアレよね』
自分の友人に何かしようとしているらしいことに焦って宏光は三徳の後ろから顔を出したが、少女の顔が最初に見た不気味な笑顔に変わっているのを見てそれ以上の行動が出来なかった。
『ポルターガイスト、思い知れ♡』
念動力、ではなく、少女は目についたものをその手に取ってぽいぽいと放り投げている。
宏光と何となく見えている三徳は何が起きているかわかっているのだが、彼女のことが見えていない幸裕と敬之にとっては紛れもないポルターガイストだ。
「うわー! ポルターガイストだ! 初めて見た! 俺大興奮! めっちゃ嬉しい!!」
「おいおい、マジかよ!?」
幸裕は人生初の心霊体験にはしゃぎ、敬之はさっきまでの余裕はどこへやら、すっかり青ざめている。
『あはっ♡ こんなに喜んでくれるなんて、やりがいがあるわぁ』
少女はニタァと不気味な笑顔のまま、飲み終わったチューハイの缶やら箸やらスナック菓子のゴミやらをあっちこっちへと撒き散らしている。
宏光は散らかっていく部屋を何も出来ずに眺めていたが、彼女が一人掛け用のソファを苦労して持ち上げたところで耐えきれず意識を手放した。
「ん……」
宏光は目を覚ました。
(あ゛ー痛ぇ……)
二日酔いでガンガンと痛む頭を押さえながら体を起こして、ぼんやりしたまま周りを見回す。
部屋の隅に置いたデジタルの目覚まし時計は十時を示している。
テーブルの左側では幸せそうな顔で幸裕が涎を垂らしており、反対側を見ると悪い夢でも見ているのか苦しそうな敬之と、そんな敬之にしがみつかれて寝苦しそうな三徳がいた。
(ええと……昨日は――)
目が覚めてきた頭で少しずつ昨日のことを思い出す。
(そう、確か久しぶりに休みが揃ったから飲もうってなって、最終的にうちで飲み明かそうって家に来て……)
飲み明かそうと言いつつ、いつの間に寝てしまったんだったか――
そこまで考えたところで宏光は昨夜のことを一気に思い出し、慌てて辺りを確認した。
しかし見える範囲にはあの少女の幽霊は居らず、嫌な気配もない。
それどころか昨夜ポルターガイストと称して好き放題投げられていた筈のゴミや食器類もテーブルの上に置いたままの状態で並んでおり、もしや夢だったのか? と首を傾げた。
とりあえず顔を洗って水でも飲むかと立ち上がったところで、隣で寝ていた三徳が目を覚ました。
そして起き上がろうとしたところでしがみつかれていることに気づき一瞬固まったが、昨夜のことを思い出したらしく、納得して敬之を容赦なく引き剥がした。
「はよ。早いな」
「はよー。早くはないぞ。もう十時だ」
「え、マジか。寝過ぎたな」
宏光と三徳が話していると、先程三徳に乱暴に引き剥がされた敬之も目を覚ました。
「う゛ぇ、気持ち悪ぃ……咲良、水くれ」
「大丈夫かぁ?」
「大丈夫じゃねぇ……あ゛ーマジ無理……何でお前そんな平気そうなの? 俺より飲んでた癖に」
「いや、俺はそんな飲んでないぞ?」
二日酔いで苦しんでいる宏光と敬之に対して、三徳はけろりとしている。
本人はそんなに飲んでないと言っているが、そんなことは全くない。
彼はザルなのだ。
「ほれ飲め。薬も。橘も水」
「うぁー、ありがてぇ」
「お、さんきゅ」
水を飲んで一息ついた後、三人の間に沈黙が流れた。
宏光としては昨夜の出来事は全て夢だった、で終わらせたかったのだが、部屋を包む微妙な空気がそうでないことを物語っている。
しかし三徳と敬之も、昨夜の出来事を言葉にすることを躊躇っているのか、認めたくないのか、はっきりと口には出さなかった。
「んんー……」
三人が黙って水を飲み続けていると、漸く幸裕も目を覚ました。
そして直ぐにガバッと起き上がると、彼は全く空気を読まずに無邪気に宏光に尋ねた。
「女子高生は!?」
幸裕の台詞に、夢だと思いたかった三人は現実を認めざるを得なかった。
「マジでああいうことあるんだな。咲良、疑って悪かった」
「いや、俺の方こそ、何か巻き込んだみたいで悪い」
神妙な面持ちで話す宏光と敬之に、幸裕はきょとんとしている。
そしてぱっと笑顔になった。
「宏、俺はお前のお陰で幽霊と会えて嬉しいぞ!」
「そうか、良かったな」
「おう! これからもよろしく!」
「ヤメロ」
微妙な空気のまま、その日はそのまま解散となった。
女子高生の幽霊事件が起きた飲み会から一週間。
暫くは彼女がまた尋ねてくるのではとびくびくしていた宏光だったが、予想に反して彼女が尋ねてくることはなく、ようやく落ち着きを取り戻してきていた。
本日も長い一日の業務を終えて、宏光と三徳は共に帰路についた。
昨日のテレビや今日の交番の来訪者などたわいのない話をしながらのんびり歩いていたのだが、ふと前方に視線を向けた宏光がびくりと震えて足を止めた。
「どうした?」
青い顔をした宏光に何となく察したのだろう三徳が少し固い声で尋ねると、宏光は情けない顔で三徳を見て、誰もいないのにまるで周りの誰かに聞こえないよう警戒するかのように小声で答えた。
「何か分からない、気持ちの悪い奴がいる。あの電柱の影」
宏光が言うと、三徳はその電柱に視線を向けた。
少しの間目を細めてじっとその辺りを見ていたが、やがて困ったような顔で視線を宏光に戻した。
「悪い。今回のは見えないみたいだ」
視える仲間だと思っていた宏光は少し残念に思ったが、三徳の本当に申し訳なさそうな顔に慌てて首を振った。
「どうする? 違う道に行くか?」
「いや、そんなことしたら視えてるって言ってるようなもんだから……」
そこまで言ったところで、電柱の影の何かがゆらりと揺れた。
その何かは真っ黒いスライムが十数個歪にくっついたようなもので、それが黒いもやのようなものを纏っていた。
顔なんてないように見えたが、何故か宏光は目が合った、とはっきりと感じた。
(ヤバい……!!)
こういう時は全力で逃げるべきだとわかっているが、何故か全く体が動かない。金縛りだ。
「咲良?」
宏光は焦った。
この優しい友人に何とかして危険を伝えなければならないのに、声も出すことが出来ない。
(頼む! 神様仏様橘様! 今すぐ走って逃げてくれ! 出来れば俺も抱えて行ってくれるとすごく嬉しい!)
どんなに願っても声にならないその思いが伝わる筈もなく、三徳は急に固まってしまった宏光にどうしていいかわからず途方に暮れている。
目を反らすことも出来ない宏光を嘲笑うかのように、その何かは蠢きながらゆっくりと近づいてくる。
叫ぶことも泣くことさえも出来ずにいると、突然近くから声がした。
『あら、お兄さん久しぶり。狸相手に随分楽しそうね』
宏光はまさか幽霊相手に安心する日がくるとは夢にも思わなかった。
一週間前に出会い、宏光の家まで訪れたその少女の幽霊は、幽霊ではあるが話は通じた筈だ。
恐ろしいことには代わりはないが、迫り来るあの得体の知れないものに比べたら全然いい。
本人は悪霊ではないと言っていたし、もしかしたらこの状況を何とかしてくれるかもしれない。
宏光は一か八かで彼女に助けを求めることにした。
恐怖が振り切れて冷静な判断が出来なくなっていたとも言う。
(君! そこの君!!)
『なーに? あ、久しぶりに話しかけてくれたわね』
相変わらず宏光は動くことも声を出すことも出来ないが、少女にはちゃんと宏光の思いは伝わったらしい。
宏光が話しかけたことにより本当に嬉しそうに笑ったので、幽霊と言えど怯えて避け続けていたことに僅かだが罪悪感を覚えた。
(頼む! 助けてくれ!)
宏光の必死の訴えに、少女はきょとんとした。
『やだ、本気なの? 遊んでるんじゃなくて?』
(そんなわけあるか!)
『えぇー……そんな霊感強いんだからてっきり……お兄さんよく今まで無事に生きて来られたわね』
(こちとらじーちゃんの教えだけを頼りに必死に生きて来たんだよ!)
少女の若干引いた様子に、宏光は幽霊にさえも引かれる自分の憐れさに泣きたくなった。
「なぁ、もしかしてこの間のポルターガイストの子来てるか?」
ここまで隣で心配そうに見守っていた三徳が言った。
どうやらやはり少女のことは認識出来るらしい。
「なぁ、咲良の様子がおかしいんだ。何かいるみたいだし、助けてやってくれないか?」
『……随分仲がいいのね。この間も抱きついてたし……もしかして、そういう関係?』
(んわけあるか!)
『良かった、聞いておいて何だけど否定されて安心したわ。まぁここで会ったのも何かの縁だし、仕方ないから助けてあげる』
そう言うと、少女はすっかり放置されていた何かに向き直った。
向こうを向く前に見えた少女の顔がどこか不機嫌というか、寂しそうな顔に見えたのはきっと宏光の気のせいだろう。
『と、いうことだから。狸ちゃん、このお兄さんからかうの止めてあげてくれる?』
少女が話しかけるが、その何かは変わらず蠢きながら近づいてくる。
そう言えばさっきから彼女はアレを狸と呼んでいるがどういう意味だろう、と少し余裕ができた宏光はふと疑問に思った。
『うーん、やっぱ狸に言葉は通じないわよねぇ……あんまり手荒なことはしたくなかったんたけど』
そう言うと少女は蠢く何かに躊躇いなく近づいて行き――拳で思いっきり殴った。
(物理!! ……あ)
宏光が予想外の展開に唖然としていると、目の前の何かは激しく揺らいで、黒いもやが霧散したと思ったら中から三匹の狸が姿を現した。
狸達は大慌てで一目散に逃げて行った。
「狸……」
「咲良! 大丈夫か?」
元凶が居なくなったことでようやく金縛りが解けた宏光が思わず呟いた声を聞き、三徳はほっと息を吐いた。
「あ、あぁ、悪い」
「別に咲良は悪くないだろ。えぇと、君? が助けてくれたんだよな? ありがとう。助かった」
「あ、そうだった! ありがとな。ほんと助かったわ」
『! ど、う、いたしまして。』
お礼を言われるとは予想していなかったのだろう。
少女は目を丸くして、混乱しながら辛うじて返事を返した。
「それで、何があったんだ?」
三徳の質問に、宏光は今の出来事をざっくりと説明した。
「はー、そんなことになってたんだな。そりゃあんな風にもなるわ」
「一週間前の事を言ってるんならお願いだから忘れてくれ」
「ははは! ちょっと難しいわ」
宏光としては割と本気で言ったのだが、三徳には笑って軽く流されてしまった。
「それで、結局アレは何だったんだ?」
宏光が少し慣れてきた少女の幽霊に尋ねてみると、彼女の答えは簡潔だった。
『狸よ』
「え?」
『だから、ただの狸。お兄さんからかわれたのよ』
「え、えぇー……」
なんて理不尽なんだ、と宏光は嘆かずにはいられない。
「彼女、何だって?」
「あー……狸の霊だって」
「あぁ、この辺狸結構よくいるもんな」
「そういう問題だろうか」
三徳は細かいことは気にしない性格だ。
宏光は一人モヤっとした気持ちになった。
「そういえば、彼女は何でここにいるんだ?」
相変わらず少女の幽霊は認識出来るらしい三徳が彼女の方に視線をやって宏光に尋ねた。
宏光が少女に視線をやると、彼女はニコッと笑った。
『たまたまよ。近くを歩いてたらそこのお兄さんの悲鳴が聞こえてきたから、何か面白い事があったのかなって?』
「……たまたま、だそうだ」
『ふふっ』
三徳が聞こえないのを良いことに不要な装飾を省いて伝えると、横で聞いていた少女が可笑しそうに笑った。
宏光が居心地の悪さを感じていると、三徳が突然とんでもない爆弾を落としてきた。
「そうか。たまたま通りかかっただけなのに助けてくれたなんて、何かお礼をしなきゃいけないな」
「は!?」
『あら?』
幽霊に積極的に関わるなんて危険しか感じない宏光は三徳の発言が信じられなかった。
「そりゃそうだろ?」
「いや、いやいやいや! そりゃ人間相手ならそうだろうけど!」
よく考えてくれと必死に説得する宏光に対して、三徳はムッと眉間にシワを寄せた。
「幽霊だからって差別するのは良くないぞ」
「いや、差別するべきだろ」
「けど助けてもらったのは事実だろ」
三徳の言葉に、宏光はちらりと少女を見た。
少女は興味深そうに三徳のことを見ている。
確かに彼女は幽霊ではあるが、本人の言うように悪いものではないのかもしれない。
実際三徳が言うように助けてもらったわけだし。
わりと流されやすい宏光は、三徳がいうことも一理あるかもな、と思ってしまった。
「……なぁ、何かしてほしいことあるか?」
宏光が少女に尋ねると、三徳は同意するように頷き、彼女は信じられない、という風に目を丸くした。
『お兄さん、本気で言ってるの?』
「おう、男に二言はない」
(なんだ、普通の女の子じゃないか)
純粋な反応に、宏光がにかりと少女に笑顔を向けた。
しかし。
『そう……』
宏光の返事を聞いて、可愛らしい反応から一転、ニヤァ、と不気味な笑みに変わった少女に、宏光は笑顔のまま固まった。
『ちょうどお兄さんに頼みたいことがあったのよ。――男に二言はないのよね?』
少女の言葉に宏光は盛大に顔をひきつらせて頷いた。
一体何を言われるのか、やはり幽霊は差別してしかるべきだと早くも自分の言ったことを後悔した。
『この間お兄さんの家に居た茶髪の人、いるでしょ?』
「あぁ、穂積か?」
『たぶんその人ね。ちょっとその人とお話をしてみたいなって思うんだけど、お兄さん仲介してくれない?』
少女曰く、一週間前の飲み会の後からずっと彼女は敬之に付いてまわっているらしい。
しかし敬之は全く彼女のことが見えない為、イロイロと試していたのだが何をしても反応はするが少女を認めようとはしない。
痺れを切らして宏光に頼むことにしたそうだ。
「何で敬之? あ、タイプだったのか?」
宏光の通訳を聞いて、三徳が心配そうに尋ねた。
『まさか。ああいうチャラそうなのはタイプじゃないわ』
「違うらしいぞ」
「そうか。安心した」
三徳のいい笑顔の安心した、は、敬之が幽霊に気に入られて危険な目に会うかもしれないことに対してではない。
もっと単純な言葉である。
『ちなみにあの時の四人だったらダントツでお兄さんがいいわね』
「その心は」
『コミュニケーションがとれるもの』
「だろうな!」
「何だ? 咲良がタイプか?」
「……橘、お前実は聞こえてるんじゃね?」
「お? アタリ?」
現在三人? で楽しく会話をしながら敬之の家へと向かっている。
少女の頼みを受けて三徳から敬之に連絡すると、敬之も話があるからすぐに来てほしいとのこと。
宏光と三徳の予想では十中八九少女のことだろうとあたりをつけている。
「ところで、一つ確認していいか?」
『どうぞ?』
三徳の質問に少女が肯定したのを見て、宏光が先を促した。
「君のこと、何て呼べばいいんだ? 流石にずっと女子高生やらポルターガイストの子やらは失礼だろう?」
「そういえばそうだな」
『そんなの何でもいいわよ? ポルターガイストのぽるぽよでもゴーストのごーたんでも』
宏光は愛想笑いで彼女の意見を黙殺した。
「じゃあ、幽霊だからユウコさん」
『却下』
食い気味で否定され、宏光はムッと眉間にシワを寄せた。
「何で?」
『何で? ダサいから』
「君に言われたくない」
『うん? 何か言った?』
納得がいかず思わず反論してしまった宏光だったが、少女に笑顔で凄まれて瞬時に悲鳴を上げて三徳の後ろに隠れた。
「ユウコさんはイヤなら、レイコさんでどうだろう?」
「いや、変わらないだろ」
『良いわよ』
「いいのかよ!」
宏光はモヤっとしたが、結局レイコさんと呼ぶことになった。
「おう、まぁ入れ。汚いけど気にすんなよ」
どことなくホッとした様子の敬之に出迎えられ、三人は中へ入った。
本人が言う通り、部屋には本や服がそこかしこに散乱している。
男の一人暮らしといえばそんなものかもしれないが、宏光はどこか違和感を覚えた。
確かに散らかっているのだが、汚れてはいないのだ。
まるで整然と整えられた部屋を意図的に散らかされたような、例えば一週間前に見た自分の家の惨状のような……
「お前綺麗好きだったよな? 今そんな忙しいのか?」
宏光の予想は当たっていたらしい。
三徳の問いかけに敬之は一気に涙目になり、三徳ではなく宏光にすがりついた。
その顔にはうっすらと隈が浮かんでいる。
宏光の視界の端ではレイコがニヤニヤと嬉しそうに笑っていた。
「聞いてくれ! いくら片付けても仕事から帰ったら毎日この状態なんだよ! この一週間毎日! 何か取られてる訳じゃないし、そもそも鍵は掛けてるのに!」
「成る程。憑かれてるな」
「止めろ! 全力で見ないようにしてんだよ!」
あっさりと言う三徳に敬之が崩れ落ちた。
その様子に、宏光は真顔で頷く。
彼の気持ちは痛いほどわかるのだ。
膝をつく敬之の肩をポンと叩くと、そのまま二人は熱い抱擁を交わした。
「咲良、何とかしてくれ……お前だけが頼りなんだ……!」
今にも泣き出しそうな同志に、宏光は非情な現実を伝えなければならない。
心が痛んだので、宏光は敬之からそっと目を反らした。
「その……まぁ解決はする、と思う」
「マジで!?」
キラキラとした敬之の瞳に、宏光の罪悪感が止まらない。
「それで!? どうすればいいんだ!?」
「あー、えー……っと……」
何と切り出すべきか、敬之、レイコ、三徳の間に視線をさ迷わせていると、見かねた三徳が代わりに口を開いた。
「レイコさんが、お前と話がしたいんだと」
「は? 誰?」
「レイコさん。幽霊のレイコさん」
可哀想に、敬之は一気に青ざめて激しく首を横に振った。
「おまっ! 三徳! 何言ってんの!? むりむりむり!!」
敬之の頑なな態度にレイコは溜め息をついた後、宏光の方を向いた。
『と、こんな感じだから。約束通り、よろしくね』
そう言って不気味にニタァと笑ったので、宏光は一週間ぶりに恐怖でぶわりと総毛立った。
「い、いぃぃやだぁぁぁぁ!!」
突然絶叫して走り出した宏光に敬之が大きく肩を跳ねさせた。
『ちょっと身体を借りるだけだから、大丈夫、怖くなーい♡』
「んなわけあるかぁぁぁぁ……あ、ぎゃあぁぁぁぁぁぁ!!」
憐れにもレイコに捕まった宏光は、断末魔のような悲鳴を上げてそのまま顔面から盛大に倒れた。
「痛ったたた……」
「おい、大丈夫か?」
顔を押さえつつゆっくりと起きあがった宏光に、三徳が心配そうに声をかけた。
しかし宏光はそれには答えず、両手を握ってみたり、身体を捻ってみたり全身を確認するように動かしている。
「ああ、よかった。上手くいったみたい」
「お、おい、咲良? 打ち所が悪かったか?」
今度は敬之が怪訝そうに宏光に尋ねると、それを聞いた宏光が勢いよく敬之に詰め寄った。
「お兄さん、いい加減認めなさいよ! 幽霊はいるの!」
「は!? 咲良、どうした??」
「どうもはじめまして! 幽霊のレイコです!」
「は、はぁぁぁぁぁぁ!?」
「おぉ、初めまして、レイコさん」
「そうね、直接話すのは初めましてね。間接的にはそこのお兄さんと違ってこの身体のお兄さんを通してコミュニケーション取れてたけれど」
「咲良は大丈夫なのか?」
「眠ってもらってるだけだから問題ないわ」
「そうか」
「うおぉい!! 何でお前そんな冷静なの!?」
「何でって、俺は最初からずっとレイコさんの気配? は見えてたからなぁ」
レイコと名乗る宏光と、その宏光に詰め寄られ混乱する敬之と、何事もないかのように宏光と初対面の挨拶をする三徳。カオスである。
「おい、咲良。冗談だよな?」
「まだ言うか。信じられないなら、ここ一週間のお兄さんの行動を全て言ってあげましょうか? まず日曜日。このお兄さんのアパートから帰ったお兄さんは気を紛らわせるためにレンタルショップに行ってDVDを借りた。タイトルは人づ……」
「い、いい! わかった! 信じる!! 信じるから!!」
ストーカーよろしく付きっきりだった見た目宏光の中身レイコがこの一週間の敬之の行動を暴露し出したので、流石に敬之も認めざるを得なかった。
「最初から素直に認めればいいのに」
「認めたくなかったんだよ! 全力で無かったことにしたかったんだよ! いいじゃねーか別に何も問題ないだろ!?」
「問題があるからこうしてわざわざこのお兄さんの身体を借りてまで話をしに来てるんでしょうよ」
「……え?」
それまで半泣きで喚いていた敬之が一気に青ざめた。
「え? 待って? レイコちゃん? は俺が認めないのが面白くないから認めさせに来ただけじゃないの?」
「あのね……面白くなかったのは認めるけど、わざわざそんなことだけの為に他人の身体借りてまで話をしに来ないわよ」
宏光は呆れたように溜め息をついた。
「お兄さん、このままじゃ危ないよ?」
宏光の真剣な声に、敬之は恐怖で震え、三徳は困惑した。
「危ないって、何でだ?」
聞きたいけど聞きたくないと口を開かない敬之の代わりに、三徳が冷静に尋ねた。
三徳の質問に、宏光はきゅっと眉間にシワを寄せた。
「このお兄さん……めちゃくちゃ演技下手なのよね」
「今それ関係ある!?」
宏光の失礼な言葉に思わず敬之は突っ込んでしまった。
三徳は表情こそ真剣な顔をしているが、その肩は小刻みに震えている。
「関係大有りよ。むしろそれが全てと言ってもいいくらいね。いい? 人の霊っていうのは何かしらの未練があって存在しているものが殆どなの。まあごく稀にそうじゃないものもいるけど、大抵はそう。だからその未練を無くしてやれば成仏するし、逆に言うとそれが無くなるまでは成仏出来ない」
宏光の真剣な話に、敬之と三徳も真剣な顔で頷いた。
「ちょっと考えてみてほしいんだけど、もしお兄さん達が何かしらの未練を残して死んで幽霊になったとするじゃない? 当然、幽霊だからほとんどの人は見えないし、存在すら信じてないわ。そして見える人がいたと思ったら、それはこちらを悪だと認識して強制的に消滅させようとしてくる相手ばかりだったりするの。そんな中、怯えはするもののこちらを認識出来て、消滅させるどころか干渉すら出来ない相手に出会ったらどう思う?」
「うーん……とりあえず嬉しい?」
「構ってもらおうとちょっかいかけまくる、か?」
二人の答えに、宏光は満足そうに頷いた。
「まさにお兄さん、今格好の餌食よ。見えないならそれで問題ないし気付いても反応しなかったらそれも問題なかったんだけど、お兄さん私が何かする度に面白いくらい反応してたわよね? あんなの、気づいてるけど何も出来ないから気づきたくありませんって言ってるようなものよ?」
「そうなったの元はと言えばレイコちゃんのせいだろ!?」
「正直悪かったとは思ってる」
敬之の正論に宏光から、つい面白くて、と全く誠意の感じられない答えが返ってきた。
「けどちょっかいかけられる程度なら問題なくないか?」
「何て奴だ!」
「相手がいつも無害とは限らないからね。あまり放置するのはオススメ出来ないわよ」
「他人事過ぎないか!?」
「まあ悪かったと思ったからこそ、こうして対策を伝えに来たのよ」
悪いと言いつつあまり悪いと思っていなさそうな宏光の様子に敬之は不満気だが、いつまでも全く信じてくれないから、と言われてしまえば敬之は何も言えなかった。
「神原神社、わかるでしょ?」
「ああ、あの咲良が肝試しに行った」
「そうね。そこでよく効く厄除け守りを売ってるから、それを買って肌身離さず持っていたら大丈夫よ。ね、簡単でしょ?」
「えぇー……」
宏光の言葉に敬之は半信半疑だ。
「……また信じてないわね?」
「そりゃ、お守りって言われても……」
敬之が言い終わる前に、三徳にスパンと頭を叩かれた。
「お前、そんなことばっかり言ってるから今こんな目にあってんだろ。ちったー学習したらどうだ」
呆れながら慣れた様子で嗜める三徳に宏光は羨ましそうな顔をしたが、二人が気付く前にパッと表情を切り替えた。
「やっぱりお兄さんは話がわかるわね。心配しなくてもちゃんと効果はあるわよ。その神社の巫女さんがそっちの方面じゃ有名なの。信じる信じないは自由だけど、とりあえず伝えたから」
じゃあね、と満足そうな顔をした後、宏光はふっと意識を失ったため近くにいた三徳が倒れそうなその身体を慌てて支えた。
「うぅ……酷い目にあった……」
程なくして宏光が目覚めたので、二人は満足したというレイコと共に敬之の家を後にした。
『助かったわ。あのお兄さん、頑なに信じようとしなかったから。それにしてもお兄さん、本当に視えるだけなのね。視ることに能力全振りしたのかしら?』
「それ最悪なやつだろ」
『だからこそ何で今まで無事だったのかが不思議なのよねー……うーん……よし! あのお兄さんには伝えたいこと伝えたことだし、今度はお兄さんを観察することにしよう』
「やめて!?」
『あら、いいじゃない。大抵の霊からは守ってあげるわよ? お兄さんは守ってもらえて、私は暇潰しが出来て。ね? Win-Winでしょ?』
「ぐっ……!」
絶対に嫌だと思っていた筈なのに予想外に魅力的な提案をしてきたレイコに、宏光は悩ましげに唸った。
「レイコさん、何だって?」
レイコの声が聞こえない三徳が尋ねてきたので宏光が答えると、三徳は何を悩む必要があるのかと言わんばかりに即答した。
「え、いいじゃん守ってもらえば」
「他人事だなおい」
「違うって。これでも心配してんだぞ? 俺はレイコさん以外は視えないし、川島だって視えないんだろ? その点レイコさんなら絶対に視える」
「彼女が幽霊だからな」
「それに実際一度助けられてるし」
それを言われると宏光は何も言えない。
レイコを見ると、にこっと可愛らしく微笑まれた。
その顔を見て、無意識だが大分レイコに慣れてきている宏光はつい彼女が普通の女子高生に見えてしまい、更にそのせいで一人で寂しいのではないかとまで思ってしまった。
一度そう思ってしまうと何故かもうそうとしか思えず、宏光の選択肢は気づけば一つになっていた。
「~~~わかったよ。観察でも何でも好きにしてくれ」
宏光がそう言うと、レイコは驚いた顔をした。
まさかOKが貰えるとは思わなかったのだろう。
ありがとうと言った時といい、お礼を申し出た時といい、存外奔放に見えて悲観的な彼女に宏光は苦笑した。
「そもそも君が何をしようが君の自由なんだから、俺にそれを止める権利はないんだぞ?」
『それはそうだけど、やっぱり見ず知らずの幽霊に付きまとわれるのは嫌でしょう?』
「けど君はもう見ず知らずではないしなぁ」
『そうだとしても、よ。それって知り合いになればストーカーを許可するって言ってるようなものよ?』
「女子高生にストーキングされるなんて、男のロマンだろ?」
『お兄さん、変態だったのね』
「ははは、世の男共はもれなく変態だ。覚えとけ」
受け入れた途端にまるで考え直せと言わんばかりの発言を繰り返す目の前の幽霊が宏光はだんだん愛しく思えてきた。
だって彼女のそれは、安易に受け入れてしまった宏光を心配しての発言であり、予想外に受け入れられてしまったことへの不安からの行動であると気付いてしまったから。
単純だと言われようが、そんな愛らしい態度をとられてしまったらそう思ってしまうのは仕方がないだろう。
宏光は心の中で誰にともなく言い訳をした。
そんな心境の変化など知る由もないレイコは、宏光の突然の態度の変化に何が起こったのかわからず戸惑っている。
「話はまとまったか?」
「おう、ありがとな」
「俺は何もしてないけどな」
宏光にお礼を言われ三徳は苦笑した。
「と、いうことで。これからよろしくな、レイコちゃん」
『……後悔してもしらないからね?』
ニッと笑って言った宏光に、まだ少し納得がいってないような顔をしたレイコだったが、それでもよろしく、と返したその顔には隠しきれない嬉しさが滲んでいた。
「酷い! 何で呼んでくれなかったのさ!!」
「お前仕事だったろ」
「そうだけど!」
敬之の家での話し合いから数日後、宏光の家に泊まりに来た幸裕にその日のことを話すと、物凄く悔しがった。
「俺だってレイコちゃんと話したいのに! 皆ズルい!!」
「ズルくねーよ!?」
『話、する?』
「それ絶対アレしようとしてるだろ!? やめろよ!?」
「えっ♡ 話せるの?」
「お前も期待すんな!」
あれからレイコは宣言通り宏光を観察している。
と言っても四六時中側に居るわけではない。
宏光が外出しているとどこからともなく現れてついてくるが、あの飲み会の日以来、家の中には入っては来ない。
今は晩御飯を買いにコンビニまで行こうとしているところで、二人で歩いていたところに自然にレイコが加わった。
「全くお前は……本当に大変なんだぞ! 見たくもないものが見えるし、どうすることも出来ないし!」
「悪かったって。俺だって心配してるんだからな? 代わってやれるなら代わってやりたいくらいには」
「それお前が代わりたいだけだろ!!」
「あ、バレてら」
(あれは……)
宏光と幸裕がいつものやりとりをしながら歩いていると、ふとレイコが何かに気付いて立ち止まった。
宏光と幸裕は気付いておらず、そのまま歩いていく。
レイコが目を向けたのは、二人が通り過ぎた十字路の右手に伸びた道の先。
電柱の陰からじっと二人を見る女性の幽霊が立っており、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
(……あまり良い雰囲気ではないわね)
女性の幽霊は恍惚とした表情で、レイコには見向きもせず真っ直ぐに彼らに向かっていく。
レイコはああいう幽霊を男女問わず何度か見たことがある。
(気に入られちゃったみたいね。ターゲットは……あっちのお兄さんかしら?)
レイコの見立て通り、その女性の幽霊はフラフラとまるで吸い寄せられるように幸裕に近づいていく。
何かあった場合の為にいつでも動けるように構えながら、レイコもその後ろからついていった。
だんだんと距離が近づき、ついに彼女が幸裕に触れた。
ジュッ!
(あ)
女性の幽霊が幸裕に触れた瞬間幸裕の身体がふわりと光り、次の瞬間まるで燃えるような音を立てて一瞬で彼女は消えてしまった。
宏光も何か嫌な気配を感じたようで恐る恐る振り返ったが、女性の姿は既にない。
何もいなかったことにほっとした表情をした後、少し離れた場所に立ち尽くすレイコを見て首を傾げた後、行くぞ、と声をかけた。
(なるほどねー)
レイコは一人納得した。
人はオーラと呼ばれるああいったものから身を守る力を持っているのだが、どうやら幸裕はそのオーラがとびきり強いらしい。
恐らくこれまで宏光が無事でいられたのも、幸裕が近くにいたからだろう。
ちなみにレイコの見る限り、宏光のオーラは普通、どちらかと言えば少し弱めだ。
(暇潰し、終わっちゃったな)
レイコは二人についていきながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
「なぁ、レイコちゃんは幸裕が嫌いなのか?」
『え?』
ある日、ふいに宏光がレイコに尋ねた。
相変わらず外出すると観察と称してやってくるレイコだったが、何故か幸裕と一緒の時は現れない。
宏光は暇が合えば大抵幸裕と一緒にいる。
最初はたまたまかと思っていた宏光だったが、よく気にしてみるとレイコが現れないのは幸裕がいるときだけということに気がついた。
「あいつがいるとき、絶対に観察しに来ないよな?」
『気づいてたの』
「結構あからさまだったからな。まぁあれだけ会いたい会いたい言われたら流石にちょっと引くよなぁ」
『いえ、別にそういうわけじゃ……』
「宏?」
レイコが何か言いかけたが、背後から聞き慣れた女の声がして宏光は反射的に振り返った。
「あれ? 榛名じゃん。太陽が出てるうちに出歩くなんて珍しい」
そこにいたのは宏光の予想通りもう一人の幼なじみの徳田榛名だった。
前回の飲み会は予定があって不参加だったが、前回の四人に榛名を加えた五人がいわゆるいつものメンバーだった。
「失礼な。私だって明るいうちに出歩くよ。じゃないと買い物できないじゃん。……それより」
宏光の言葉にムッとした顔で言い返した榛名だったが、ふいにきゅっと眉間にシワを寄せた。
「宏、近くに良くないものがいるよ。今誰かと話してたみたいだけどもしかして……」
榛名の言葉に宏光は動揺した。
『……彼女、視えるの?』
「あ、いや。けど……悪いものの気配には敏感で、よく助けられてる」
『ふぅん?』
レイコにだけ聞こえるように小声で宏光が伝えると、レイコはじっと榛名を見た。
それは不快だと言うよりは、彼女が本当にわかっているのか見定めようとしているようだった。
(悪いもの……なんだろうか?)
宏光はここ最近幽霊によく会うが、今までも多い時は今と同じくらいのペースで会っていたこともあり、あまり気にしていなかった。
更に会うのはレイコが近くにいるときばかりで、全てレイコが対処してくれていたため、むしろレイコには感謝していた。
しかし今榛名は近くに良くないものがいると言った。
これまで榛名がそう言ったときは本当にそれがいたし、いても無害なものには榛名は反応しなかった。
宏光は榛名のことはもちろん信用しているが、今はレイコのことも信用していた。
幽霊のことを信用するなんて、と宏光の中の冷静な部分が警告を鳴らしていたが、もう一方の感情的な部分では彼女は大丈夫だと切望に似た思いがあった。
暫く榛名とレイコの睨み合い――榛名は視えていないので正確には違うのだが――が続いたが、榛名が一際険しい顔をしたところでレイコがニヤァと不気味に笑った。
久しぶりにその顔を見た宏光は情けなくびくっと肩を跳ねさせた。
『お姉さん、本物ね。お兄さんはちょっと気が緩み過ぎ。まぁ信用されるのは悪い気はしないけど』
レイコの発言に宏光は目を見開いた。
(それって、自分が悪いものだって認めた……ってことか?)
悲しいのか悔しいのか失望したのか、それらがごちゃ混ぜになったような感情が渦巻いて宏光がただただレイコを見つめていると、レイコの表情が不気味な笑みからふっと柔らかい笑顔に変わった。
『お兄さん、すごいマヌケな顔してるよ?』
レイコに笑われ、宏光は誰のせいだ、と顔をしかめた。
「そこに何かいるの?」
「あ、いや……」
煮え切らない返事をする宏光に榛名はぴくりと片眉を持ち上げて怪訝な顔をした。
しかし宏光も混乱しており、榛名に何と説明すればいいのかわからず答えられないでいると、そこに聞こえてきたレイコの発言に更に混乱させられることになった。
『ほら、良くないものが来たわよ』
「は? 来たって……」
謎の発言に宏光はレイコの方を見て、宏光の背後、少し高い位置を見上げるレイコの視線の先を辿った。
「ぃぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!! 何アレ! 何アレ!? やばいやばいやばいアレはやばいってレイコちゃん!!」
「レイコちゃん?」
「榛名お前もこっち来い!!」
「ちょっ!」
宏光はアレの一番近くにいた榛名の腕を掴んで慌ててレイコの後ろに回った。
それを見たレイコが辛そうに顔を歪めたが、逃げることに必死な宏光はそれに気がつかなかった。
宏光が見たのは、体長およそ二メートル、ヒトのような形をした何かだった。
それは形こそ背の高いヒトのような形をしているが、その全身は赤黒く爛れ、歪な場所にある両目は虚ろでそれぞれが別の方向を向いている。
宏光はこれまでいろいろなものを見てきたが、それはこれまでのものなど比べ物にならないくらい気持ち悪くてヤバいものだと思った。
(思わずレイコちゃんの後ろに隠れちゃったけど、アレはレイコちゃんにもキツいんじゃないか!? そもそも見た目がグロい!!)
そう気付いた宏光はレイコに逃げようと口を開きかけたが、その前にレイコがアレに向かって歩きだしてしまった。
(え、ちょっと待って、レイコちゃんの解決法っていつも拳だよな? え? 流石にアレにはしないよな?)
宏光は今度は別の意味でハラハラしながらレイコを見守った。
レイコはそれのすぐ目の前まで近づくとピタリと足を止めてその顔の辺りを見上げ――唸る拳をその顔にめり込ませた。
「やっちゃった!!」
レイコは気持ち悪さなど微塵も感じないかのように――いや、気持ち悪いからこそかもしれないが――不気味に笑いながらそれを何度も何度も殴りつけている。
更にその光景に加えて宏光の耳にはレイコの笑い声とそれの呻き声、グチャッ、ビチャッ、という謎の液体の飛び散るような音まで聞こえているため、宏光は涙目で悲鳴をあげて榛名に抱き着いて目を塞いだ。
暫くすると聞こえていた気持ち悪い音が止み、宏光がそろりとその顔を上げるとそれは跡形もなく消えており、レイコに付着していた液体も全て無くなっていた。
「レイコちゃん、今の何?」
宏光が榛名にしがみついたまま、どこか不機嫌に見える表情でこちらを見るレイコに恐る恐る聞くと、レイコからは全く関係のない返事が返ってきた。
『お兄さん、彼女いたのね』
「は? いや、彼女じゃねぇよ?」
『ふぅん?』
訳がわからないながら宏光はとりあえず事実を伝えると、明らかに信用していない相槌が返ってきた。
『まぁいいけど。さっきのは未練を残した幽霊の成れの果てね。滅多に遭遇することはないけど、たまにいるわね。お兄さんじゃ絶対勝てないし死ぬより酷い目に遭うから、もし遭遇したら全力で逃げることをオススメするわ』
レイコの言葉に宏光は青い顔でこくこくと何度も頷いた。
『じゃあ邪魔しちゃ悪いし、私は帰るわね。またね、お兄さん。ちゃんと彼女無事に送るのよ?』
「えっ!? いや、だから違うって!!」
やはり信じていなかったらしいレイコがそう言ったため慌てて引き留めようとしたが、レイコはにこりと笑ってあっという間に飛んでいってしまった。
「宏、説明」
唖然とレイコの去って行った方向を見ていた宏光に、しがみつかれたまま置いてけぼり状態だった榛名がむにっとほっぺたを摘まんで抗議した。
いつもはそんな可愛らしいことなんて絶対にしないのに、幽霊と遭遇した時人肌恋しくなる宏光のことを気遣ってくれる幼なじみの優しさを嬉しく思いながら宏光はへにゃりと笑った。
なかなか答えない宏光に早く、といって更に強く摘まんだため、宏光はタコのようなマヌケな顔になった。
「ほひょひょーはいひぇはひゃへるは……あー痛ぇ。ところで榛名、お前今晩空いてる?」
「今日? 特に予定は無いけど」
「じゃあ今日うちで飲み会な。その時に説明するわ。今はまだアレのこと口に出したくない」
気になっているだろうに、まだ顔色のあまり良くない宏光を気遣って納得してくれた優しい幼なじみに宏光は感謝した。
「女子高生の幽霊……」
「まぁ女子高生っていう姿は咲良しか見てないがな」
「俺は初めてポルターガイスト体験した!!」
いつかと同じように宏光の家に集まって飲みながら、榛名に三人――三徳は仕事で不参加だ――はレイコのことを説明した。
最初のポルターガイストの話までは険しい顔で聞いていた榛名だったが、敬之の話では爆笑し、宏光の話ではどこか嬉しそうだった。
「なるほどねー。じゃあ昼間はそのレイコちゃんがいたんだ」
「おーそうそう。アレは久しぶりにヤバかった。死ぬかと思った」
「久しぶりって、宏はいつもあんな感じで絶叫してないっけ?」
「失礼な! ってか今日のはマジでヤバかったんだって。キモさとかグロさとかヤバさとか俺史上最悪だった!」
宏光が如何に昼間見たものがえげつなかったかを熱弁していると、敬之が深刻な顔をして口を開いた。
「なぁ、俺レイコちゃんが言ってた神社に行ってきたんだけどさ……」
「お、結局行ったのか!」
「ちゃんとお守り買ったか? 今日も持ってるか?」
「ちゃんと買ったし持ってるよ! ってそれは良いんだよ。じゃなくて、俺その神社で聞いちゃったんだけど、なんか幽霊にもランク? ってーのがあるらしくて、そのランクの高いヤベー奴は力の強い奴に引き寄せられるって説があるんだと」
「何それゲーム?」
「ナニソレ怖い」
呑気な幸裕の声と青ざめた宏光の相槌が重なった。
「まぁそういう噂があるっつー程度の話らしいんだが、今の咲良の話聞いてたらもしかしたらって思って……。咲良、ここ最近やたらとそーゆーのに会うんだろ? その今日会ったっていうのも今まで会ったことないくらいヤベー奴だったって。それって、レイコちゃんが近くにいるからなんじゃねーの? レイコちゃんはそいつも簡単に追っ払ったってことは確実に力は強いし、そいつに会ったのも初めてじゃないような口振りだったんだろ?」
「まぁ、それは……けど根拠のない噂だろ?」
「幽霊相手に根拠もクソもねーだろ」
宏光は笑い飛ばそうとしたが、敬之はそんな宏光の反応に顔をしかめた。
そう言われてしまえば宏光には何も言えない。
「まぁデマかもしんねーけど、気をつけておくに越したことはねーだろ?」
「レイコちゃんに離れてもらえってことか?」
「やけに渋るな。何、惚れちゃった?」
「馬鹿か、相手は幽霊だぞ? ……ただちょっと俺がいなくなると話し相手がいなくなって寂しいんじゃないかとか思っただけで……」
「それこそ幽霊相手に何言ってんだよ? 大体よくわかんねーけど幽霊なら幽霊の友達? がいるだろ」
(そう……だよな)
宏光はレイコに話しかけたときの嬉しそうな顔を思い出した。
けれど敬之の言うことも一理ある。
レイコは幽霊だ。
話の通じない幽霊には物理で対処していたが、いつだって最初は話し合いで解決しようとしていたことを宏光は思い出した。
(そもそもレイコちゃんは俺のために幽霊を退治してくれているだけで、本当は同族相手にそんなことしたくないのかもしれない)
「うーん……俺はよくわかんないけど、宏が嫌なら無理に離れなくてもいいんじゃね?」
「私もそう思うな。穂積の聞いた噂がホントだとしても、宏なら今までと大差ないでしょ。むしろ守ってもらえる分安全だと思う」
「お前らそんないい加減なこと言って、咲良になんかあったらどーすんだよ? そもそもレイコちゃんが絶対裏切らないとも言い切れないんだぞ?」
「ばっか俺にポルターガイストを見せてくれた子だぞ? 良い子に決まってんじゃん」
「そうよ、あんたも助けてもらったんでしょ? 私も近くにいて悪いものの気配は全く感じなかったし、失礼なこと言うんじゃないわよ」
「え、何こいつら怖い」
「レイコちゃんのモンペだな」
いつのまにやら宏光の心配をしてくれているはずの敬之が責められる形になってしまい宏光は申し訳なく思いながらも、一方でレイコの味方をしてくれた幸裕と榛名に嬉しく思った。
「まぁよく考えろよ」
友人たちのアドバイスを嬉しく思いながらも、宏光は結局答えを出すことは出来なかった。
「レイコちゃん」
飲み会の翌日の夕方。
宏光がみんなが帰った後一人外を歩いていると、いつものように幽霊に遭遇し、いつものようにどこからともなく現れたレイコが追い払ってくれた。
レイコとは榛名と一緒にアレに遭遇した時以来なので、宏光はあの時の妙な誤解のせいで気まずくなるかと懸念していたが、いつも通りの彼女の様子に安心した。
そして敬之の言っていた噂について、幽霊でありあの神社のことも知っていたレイコならば本当のことを知っているのではないかと思い、軽い気持ちで聞いてしまった。
「――っていう噂があるらしいんだが、レイコちゃん知ってる?」
宏光が尋ねると、レイコはふっと顔を伏せたのでその表情は宏光からは見えなかった。
『……そうね。そういう話は私も聞いたことがあるわ。本当かは知らないけれど、火のない所に煙は立たないものね』
「え?」
『今まで悪かったわね、お兄さん。けどお陰で良い暇潰しになったわ』
「ちょ、ちょっと待って! 別にそういうつもりじゃ……それにほら、その暇潰し! まだ解決してないだろ??」
『あぁ、それなら解決したわ。あの幽霊大好きなお兄さんのお陰よ。あのお兄さんのオーラが大抵の幽霊なら成仏させてくれるから、一緒にいるだけでついでに守ってもらえてたみたいね。だからあのお兄さんとはこれからも仲良くすることをオススメするわ』
「えっ!?」
そんなこと全く気づかなかった宏光は驚いた。
同時に、敬之の時は伝えることを伝えた後にすぐに離れたのに対し、宏光の時は気になることが解決した後もしばらく側にいたことに気づいてそんな場合じゃないと思いつつも嬉しく思ってしまった。
『っていう訳だから、悪いけどお兄さんにもう用事はないの。だから、バイバイ』
「! 待って! レイコちゃん!!」
そう言ってレイコは一つ笑顔を作って、宏光の呼びかけにも振り返らずに飛んでいった。
最後に見たレイコの笑顔は泣きそうに歪んでいて、宏光はその顔がいつまでも頭にこびりついて離れなかった。
レイコから別れを告げられて数日が経った。
宏光はレイコにああ言われたものの、それでも幽霊と遭遇したら助けに来てくれると思っていたので、暇があれば外に出て歩き回った。
しかしレイコと別れてから、ここ最近毎日のように会っていた幽霊にピタリと会わなくなった。
偶然かもしれないが、宏光にはレイコが陰で動いているとしか思えなかった。
「まだ会えないのか?」
「んー……」
「やっぱもう一回くらい敬之に卍固めくらいしとくな?」
「いや、それは止めてやってくれ」
仕事からの帰り道、三徳が元気のない宏光に尋ねた。
宏光も心配されているのは解っているし、いつまでも凹んでばかりいてはダメだとは思っているのだが、なかなか元気を出せなかった。
しばらく無言で歩いていると、ふと三徳が前方のとある一点に違和感を感じ、そこにじっと目を凝らしてから宏光に尋ねた。
「……なぁ、あそこにいるのって、もしかしてレイコさんか?」
その言葉にバッと宏光は三徳の指差す方向に目を向けた。
「! ……? ……??」
これまでレイコしか見えなかった三徳がそう言ったため、宏光は期待を込めてそちらに目を向けたのだが、そこには宏光の予想の斜め上を行くものがいた。
「…………岡崎さん?」
『!! さ、咲良くーん!!』
そこにはレイコではなく、宏光の知り合いの中年のおじさんが蹲っていた。
「え? 誰?」
「幸の上司。民俗資料館の館長さん」
「え? ……え?」
「いや、俺にもよくわかんねぇ。え? 岡崎さん、亡くなったんですか?」
『死んでないよ!』
「え? だって……え?」
宏光と三徳が混乱に包まれている中、その元凶である岡崎が今の状況を説明した。
「えーっとつまり……岡崎さんが閉館後の資料館で資料を見てたら遅くなってしまって。そろそろ帰ろうと電気も着けずに階段を降りてたら足を踏み外して。打ち所が悪かったのか幽体離脱してて。呑気にもちょっと外に行ってみようと浮かれて飛び回ってたら、持ち前の方向音痴のせいで迷子になってしまった、と」
宏光が頭を抱えながら要約すると、岡崎は嬉しそうに頷き、三徳は何とも言えない複雑な顔をした。
「……ん? ってことは今岡崎さんの身体は……」
『そのままだねぇ』
「それなんてサスペンス」
『だ、だって明日は資料館休みだし、川島くんに見せたら絶対喜ぶと思って』
「残念ながら幸には見えませんよ。それより誰かに見つかる前に早く戻らないと! 俺嫌ですよ、岡崎さんが幽体離脱中に間違って焼かれるとか」
『それは僕も遠慮したいなぁ』
「じゃあ送ってくんでついてきてください。橘、俺岡崎さんを資料館に送ってくるわ」
「俺も行っていいか? 流石にこのままじゃ気になる」
「おう。じゃあ行くか」
『二人とも悪いね』
三人は宏光を先頭に民俗資料館へと向かった。
民俗資料館に着くと、当然のように鍵の開いていた正面から岡崎の案内で中に入った。
階段の下で転げ落ちたと思われる体勢のまま、死んだように動かないその様はどう見ても事件現場で、誰にも見られていないようで本当によかったと宏光は密かに安堵した。
もし何も知らずに職員の誰かが見つけてしまっていたら確実にトラウマとなっていただろう。
そこまで来たところで、ふと宏光はこれからどうすればいいのかわからないことに気がついた。
流石の宏光でも幽体離脱した人間には出会ったことはないし、幽体離脱からの戻り方なんて知るはずもない。
しかしそんな宏光の心配を他所に、岡崎は自然な動きで自分の身体に近づくと、当然のようにその身体の中に消えていき、何事もなかったように目を覚まして起き上がった。
「ええぇー……」
「おお、ホントに起きた」
「ふぅ、ありがとう二人とも。助かったよ」
ものすごく軽くお礼を言われて、二人は何とも言えない微妙な気分になった。
「岡崎さん、幽体離脱、したことあったんですか?」
「えぇっ!? そんなわけないじゃないか! 今回が初めてだよ?」
「ですよね。変なこと聞いてすみません」
「ホントだよー。咲良くんは変な子だなぁ」
「ハハハ」
二人は感謝する岡崎に別れを告げて資料館を後にした。
資料館からの帰り道、建物を出てからずっと何事か考えていた三徳が、二つ目の信号に差し掛かったところで口を開いた。
「なぁ、もしかしてだが……レイコさんって生きてるんじゃないか?」
三徳の当然の発言に宏光は目を見開いた。
「俺は今までレイコさん以外の幽霊は全く視えなかった。けど岡崎さんは視ることができたよな? それがもし、岡崎さんがまだ生きていたからだとしたら……」
「レイコちゃんも、生きてる?」
宏光は呆然としたまま呟いた。
レイコが生きているなんて、宏光は考えもしなかった。
「確証はない。けど可能性はある。どうする?」
「探す」
三徳の問いかけに、宏光は考える前に即答していた。
「お前、やっぱ好きなんだろ」
ふはっと笑って三徳が言った。
「さて、仮にレイコさんが生きてるとなると、手掛かりはやっぱあそこだろうな」
「ああ、あそこだろ?」
「「神原神社」」
声が見事に重なり、二人は可笑しくなり思わず笑い合った。
翌日、気の良い同僚から合コンのセッティングを条件に休みを代わってもらった宏光と、元々休みだった三徳は朝から神原神社へと向かった。
宏光はこの神社に来るのはレイコと出会った日以来で、僅か一ヶ月前の出来事にもかかわらずひどく懐かしい気分になった。
鳥居を潜って、先ずはお参りをした。
(あの、咲良宏光と言います。あの時は怖くてちゃんと挨拶できなくてすいません。ってか肝試しに使ってすいません。けどレイコちゃんに会わせてくれてありがとうございました)
(それと……出来ればまたレイコちゃんに会わせてください)
宏光が念入りにお参りをして目を開けると、隣にいたはずの三徳は早々にお参りを終えて周りを散策しており、宏光も済んだのに気づくとにかりと笑った。
「なー、レイコさんが居たのってどこ?」
「居たのはあっち。そのおみくじ引こうとした時にそっちに蹲ってた」
「蹲ってた? 何で?」
「……そういえばそうだな」
(あの時は怖くてそれどころじゃなかったからなぁ)
三徳に聞かれて、宏光はそういえばそうだと思った。
(あの時のレイコちゃんの様子は、俺に気づいて脅かそうとして、って感じではなかったよな)
むしろ宏光が近づくまで存在にすら気づいてなかったようだった。
(レイコちゃんは、何でここにいたんだろう? 何であんなとこで、蹲ってたんだろう……)
宏光の脳裏であの時の蹲っていたレイコの姿が浮かび、やがてその想像の中のレイコがゆっくりと顔を上げた。
その顔は最後に見た泣きそうに歪んだ笑顔で、宏光は自分の勝手な想像だと分かっていても胸が痛くなった。
「とりあえず、件の巫女とやらのところに行ってみようぜ」
「ん、あぁ。そうだな」
二人はレイコと出会った場所を離れ、巫女がいるであろう社務所へと向かった。
二人の予想に反して、社務所には四十代の袴姿の上からでもわかる立派な筋肉の男が一人いるだけだった。
「あの、ここにオカルト関係の相談に乗ってくれる巫女さんがいるって聞いたんですけど」
ここで迷っていても仕方がないため、宏光は社務所にいた男に尋ねた。
「ん? 君たち、うちの娘のお客さんか。悪いんだが今娘はいなくてね」
「あ、お休みでしたか」
「逆、逆。今学校に行ってるんだ」
「学校?」
「ああ、娘は高校生だからね」
「えっ!? あ、そうなんですね!」
てっきりもうとっくに成人した、どちらかと言えば妙齢の女性を想像していた宏光は驚いた。
「はっはっは! その様子じゃ女子高生の巫女さん目当ての輩じゃなさそうだ」
「違いますよ!」
「すまんすまん。いやー、親父としては心配でね。たぶん今日は部活もないって言ってたから、四時過ぎには帰ってくるはずだ。良ければその頃にまた来てくれるか?」
「あ、はい。わかりました」
二人は男にお礼を言って、夕方まで適当にぶらぶらして時間を潰すことにした。
「なぁ、女子高生ってまさか……」
「いや、敬之がレイコさんに紹介されて神社に行ってんだろ?」
「あ、そうか。そうだよな」
「気持ちはわかるがちょっと落ち着け」
三徳に笑われ、宏光は自分が思ったより冷静さを欠いていたことに気づき思わず苦笑した。
二人は本屋やゲーセン、ファミレスなどで時間を潰したが、終始宏光は落ち着かず結局四時少し前には神社に戻ってきていた。
社務所を尋ねるとやはりまだ帰ってきていないとの返答で、二人は境内で待つことにした。
「お、帰ってきたぞ。桃子ぉ! お客さん!!」
男の声がしてそちらに目を向けると、そこにはレイコと同じ制服を着た女の子がいて、宏光は動揺した。
桃子と呼ばれた少女は当然レイコではなく、宏光はドッドッと忙しなく鳴る心臓を抑え、落ち着くため深く深呼吸をした。
少女は父親と二言三言言葉を交わした後、二人に一礼をして奥へと入って行った。
しばらくすると巫女装束を身に付けた少女が戻ってきて、二人を室内へと案内した。
「初めまして。神原桃子です」
「あ、咲良宏光です」
「橘三徳です」
「よろしくお願いします。それで、相談というのは?」
桃子に静かに尋ねられ、その安心させるような雰囲気に宏光は何をどう話そうかいろいろと考えていたのを忘れ、気づけば思ったことをそのまま口にしていた。
「会いたい人がいるんです」
宏光の言葉に、桃子は何も言わずにじっと見つめて先を促した。
「その子に会ったのはちょうど一ヶ月くらい前でした。神原さんと同じ制服を着た、女の子です。ここのことを最初に紹介してくれたのも彼女でした」
「彼女は俺の幼なじみの夢を叶えてくれました。彼女は困っている俺の友人にここのことを教えてくれました。彼女は幽霊が見えるだけの俺をずっと守ってくれました。けど彼女はいつもそれは自分の暇潰しの為だと言って、俺たちの為とは言いませんでした」
「彼女は幽霊でした」
そこまで話して宏光が言葉を切ると、桃子の瞳が動揺したように揺らいだ。
そして、そうですか、と相槌を打った後、気持ちを落ち着けるように少しの間目を閉じた。
「まず最初に言っておかなければならないのですが、私には幽霊は見えません。だから探してほしいと言われても、恐らくそれは出来ないです。私が出来るのは悪い気を感じること、それを祓うこと、悪いものが近づけないように護ることくらいですから」
桃子に見えるのは恐らく榛名と同じような世界なのだろうと宏光は思った。
(もしかして……)
宏光は桃子の言葉に首を振った。
「探してほしい訳じゃないんです。……俺が彼女に会ったのは一ヶ月くらい前。深夜に、彼女がこの境内に蹲ってたところでした」
宏光の言葉に、桃子は目を見開き今度こそ分かりやすく動揺した。
「……彼女は、なぜ貴方の前からいなくなったのですか?」
「それは俺が……彼女に友人から聞いた噂の話をしてしまったから」
「噂?」
「強い幽霊は強いものに集まる、という話は本当か、と。友人がここに来たときにその話を聞いたらしく、俺を心配してくれていたので。彼女は肯定こそしなかったけど、否定も出来ないからと言って、それ以来俺の前から姿を消しました。自意識過剰かもしれないですが、たぶん俺の為に」
宏光の話を聞き終えた桃子は俯き、微かに震え出した。
戸惑いながら三徳が声をかけると、顔を上げた桃子の目には涙が浮かんでいて二人はギョッとした。
「ちょっ! どうしたの!? 俺のせい!? ごめんね!!?!」
宏光が慌ててよくわからないままに謝ると、桃子は泣きながらぶんぶんと首を振った。
「ちがっ、違うんです。私が勝手に取り乱しちゃって! すみません、すぐに落ち着きますから……」
「あぁ、大丈夫。ゆっくりでいいから」
慌てる二人に対し、落ち着いた三徳が冷静に桃子を宥めた。
しばらくして泣き止んだ桃子は、小さく鼻を啜りながら口を開いた。
「すみません、お見苦しいところをお見せしちゃって……。たぶん、それ私の幼なじみです。名前は西園寺優子。一ヶ月程前から昏睡状態なんです」
そう言って桃子が見せてくれた写真に写っていたのは、宏光のよく知ったレイコの生きた姿だった。
「私も優子も昔から霊力が強かったんですけど、優子は特にすごくて。普通に幽霊が見えたし、殴って除霊なんて規格外なこともしてました」
「殴……?」
「あれ、生きてるときからなんだ」
三徳は驚いていたが、よく知っている宏光は笑い、つられて桃子も笑った。
「びっくりしますよね。私もそれなりにそういう力のある知り合いもいるんですけど、優子以外にそんなことする人見たことないです。優子とは小さいときはいつも一緒なくらい仲が良かったんですけど……大きくなるにつれて、幽霊とかの話をしてると周りから変だって言われるようになるでしょう? それで私は学校ではその力のことを隠すようになったんです」
桃子の話に宏光は苦い顔で頷いた。
少なからず宏光にも身に覚えのある経験だ。
「ある時クラスの女子が肝試しに行こうって話を教室でしてて、中山の公園ってわかりますか? 有名な心霊スポットなんですけど、そこに。けどそこってホントに危ない場所で、私もヤバいと思ったけど勇気がなくて止められなくて。次の日案の定悪いものをいっぱい連れて帰ってきたその子たちは具合悪そうにしてたんですけど、それも私は見て見ぬフリをしてました。けど優子は違って。その子たちに憑いた悪いもの全部祓った後、その子たちに説教したんです」
「レイコさんらしいな」
三徳の言葉に桃子も苦笑して頷いた。
しかしすぐにその表情は曇り、俯き気味に話を続けた。
「けどそれがきっかけでだんだん周りから浮くようになっちゃって、私も周りの目が気になってちょっとずつ距離を置くようになっちゃったんです……。そんな時、あのクソオヤ……っと失礼しました」
先程までおとなしい、気の弱い女の子と思っていた宏光と三徳は桃子の突然の暴言が信じられなくて、聞き間違いだと思うことにして先を促した。
「少し前に越してきた元某機関のお偉いさんが悪いものに憑かれてしまって、優子の噂を聞いたからと依頼に来たんです。優子への依頼もこの神社を通して受けていますから。その男に憑いていたものは結構面倒な相手で、数も多かったんです。だから普通の方法ではすぐには対処できなかった。少し時間をかけないといけないと言うと、クソ……の男はみっともなく怯えて一刻も早く何とかしてくれ、金なら出す、なんて言い出したものですから、優子は不憫に思って少し無理矢理な方法をとったんです」
その男の話をする間、先程までと違い眉間にシワを寄せて心底不快そうに話し、二度目の暴言を誤魔化した桃子に、やはり聞き間違いじゃなかったと宏光は現実を受け止めた。
「無理矢理な方法?」
「力をダイレクトにぶつけるため、相手と同じところに身を置いたんです。要するに幽体離脱ですね」
「そんなこと出来るのか?」
「条件を揃えれば、出来ないこともないです。けど負担も大きいんですよね」
「結局優子が幽体離脱して五分も経たないうちにその男に憑いていた悪いものはいなくなりました。けどそれから三十分経っても優子が目を覚まさなくて……都合が悪くなったその男、何て言ったと思います!?」
「えっと……何て言ったの?」
突然詰め寄られたことにたじろぎながらも宏光が聞き返すと、桃子は泣きそうに顔を歪めた。
「『私はこれまで生きてきてこんな目に会ったことはなかった。悪いものは強い力に惹かれると聞いたことがあるが、彼女はその力のせいで気に入られたのではないのか? もしかしたら私が憑かれたのもこの地に彼女がいたから……』って……! そこで心配して一緒に見守ってくれていたお父さんがちょっと威圧したら黙ったけど、懲りずに『君たちも気をつけた方がいい』って捨て台詞なんて残して帰って行たんですあのクソオヤジ」
抑えきれない暴言がついに口から飛び出したが、宏光はそれどころではなかった。
(もし、それをレイコちゃんが聞いていたとしたら……いや、レイコちゃんは聞いていたんだろう。だからあの時、俺から離れたんだ)
宏光は自分の失言に舌打ちした。
「それがちょうど一ヶ月くらい前の話です。私は優子の姿が見えないけど、きっとあの子全部聞いてたんですね。それで傷ついて……」
「……いや、たぶん違うんじゃないか?」
「え?」
「レイコちゃんが気にしてたのは、たぶんクソオヤジが言った捨て台詞の方。レイコちゃんは、自分のせいで大切な君たちを危険にさらしてしまうのが嫌だったんだよ」
「そ、んなの! ほとんど嘘みたいなクソオヤジのただの負け惜しみですよ!? 優子も知ってるはずです!」
「それでも、だよ。もし嘘じゃなかったら? 自分が近くにいるせいで君たちに何かあったら? ほとんど嘘でも、本当の可能性はゼロじゃない。もしかしたら、そのクソオヤジ以外にも似たようなこと言われたことあったんじゃない?」
「……」
桃子は答えなかったが、心当たりがあるようだった。
「俺の前からいなくなった時のことからしても間違いないと思うよ」
「……私、そんな大切にしてもらう資格なんてない」
ぽつりと言った桃子に宏光は優しく微笑んで、黙って話を聞いていた三徳もわしゃわしゃとその頭を撫でた。
「お願いします。優子を助けて。私じゃあの子を見つけられない。きっともうあまり時間がないの。このままじゃ帰ってこられなくなっちゃう」
再び泣き出してしまった桃子の必死の訴えに、宏光と三徳は力強く頷いた。
「さて、どうする?」
神社を後にして、三徳が宏光に尋ねた。
「俺にいい考えがある。ただ少し準備に時間がかかるから、準備が出来たらまた連絡する。悪いけどもうちょっと付き合ってくれるか?」
「最初からそのつもりだよ。じゃあ後でな」
「おう、ありがとな」
そう言って二人は一旦別れた。
「……よし」
宏光は三徳の後ろ姿を見送ると、その足で家とは違う方向に向かって歩きだした。
「ひ、ひぇぇ……地獄だ……」
宏光は一人、有名な心霊スポットだという中山の公園に来ていた。
そこは桃子が危ないと言うだけあって幽霊で溢れていた。
中には最近初めて出会ったアレも数体混ざっている。
(すまん橘。けどお前にまで何かあっちゃ大変だからな)
「よ、よーし……行っくぞー」
自分を奮い立たせるため小さく気合いを入れると、宏光は恐る恐るその公園に向かって歩きだした。
公園まであと三十メートルまで近づいたその時――
『お兄さん、死ぬ気?』
すぐ近くで聞こえた久しぶりの声に高鳴る鼓動のままに振り向けば、そこにはずっと願っていた姿があり、宏光はその勢いのままその腕を引いて強く抱きしめた。
「会いたかった……!」
ぎゅうぎゅうと更に強く抱きしめる宏光に、レイコは苦しい、と宏光の背中を叩いた。
『お兄さん、幽霊に触れられたのね』
「自分でも驚いてる。今まで幽霊に触ろうなんて考えたこともなかったし」
『確かにそんな酔狂なことしないわね』
「けど今はもっと早く試してみればよかったと思ってる」
『変態ね』
「世の男共は漏れなく変態だって言ったろ?」
『変態は良くてもセクハラは犯罪よ?』
宏光はクスクスと楽しそうに笑うレイコを離し、その目をまっすぐに見つめて言った。
「好きだ。ずっと一緒にいたい」
レイコは一瞬何を言われたのかわからなかったようでポカンとした顔をした後、嫌そうに顔をしかめた。
まさかそんな顔をされるとは思っていなかった宏光は動揺して、青い顔でパッとその腕を掴んでいた手を離した。
『お兄さん、彼女いるじゃない』
今度は宏光がポカンとする番だった。
「彼女?」
『幼なじみの』
「……あ、榛名のこと言ってるのか! だから彼女じゃないって言ってるだろ!?」
『だって抱きついてたじゃない』
「あれは! アレのせいだろ!?」
『だからって何でもない女の子に抱きつくのはどうかと思うわ』
「う、あいつは俺の中で男みたいなもんだから」
『そんなわけないじゃない、あんな美人さん。それに、向こうはそのつもりかもしれないわよ?』
「それこそあり得ない」
『他人の気持ちなんて言い切れないでしょ?』
「いや、言い切れる」
『どうして?』
「あいつが狙うとしたら、どちらかと言えば君だ」
ここまで不機嫌そうにポンポンとテンポよく返っていたレイコの言葉が止まった。
「しかもレイコちゃんたぶんあいつのドストライクだからものすごく会わせたくない」
宏光がわりと真剣なトーンでそう言うので、レイコはそう、としか言うことが出来なかった。
「あれからもずっと、守ってくれてたよな?」
『自意識過剰』
「お盆時期にこんなに幽霊に会わないなんてあり得ないよ」
『……』
「桃子ちゃんの話も聞こえてたんだろ?」
『……』
「大丈夫だから」
『……何を根拠に』
「幽霊相手に根拠もクソもねーよ」
『……ふふっ、あのお兄さん、ちゃんとお守り買ってくれたのね』
「大体、迷惑をかけられるかもしれない筆頭達が、君が帰ってくるのを望んでる。それに……」
『それに?』
「何かあったら、君に守ってもらうから問題ないだろ?」
宏光の自信満々な他力本願宣言に、ついにレイコは声を出して笑った。
『私も、お兄さんのこと好きよ』
レイコがあんまり幸せそうに笑うので、宏光は自然にその肩を抱いてキスをした。
『お巡りさんなのに未成年に手を出していいのかしら?』
「幽霊だから問題ない」
『どういう理屈よ』
口では苦言を呈しながらも、やはりレイコは嬉しそうに笑っている。
「帰っておいで。一緒に生きよう」
宏光の言葉に、レイコは泣きそうな顔で頷いた。
『今度は私から会いに行くから、待っててくれる?』
宏光が頷くと、レイコはぎゅっと抱きついて、ありがとう、と言うとふっとその姿を消した。
レイコが消えてから一ヶ月が経った。
あの後三徳に連絡して事の成り行きを伝えると、翌日珍しく怒った彼から一日中仕事の合間があれば説教を受けた。
それに関しては悪いと思ったため甘んじて受け入れたが、いつもの如くずるいずるいと理不尽に喚く幸裕は軽く流しておいた。
敬之は例の噂を気にしてレイコとのことを反対されるかと思ったが、意外にもすんなり受け入れて祝福してくれ、一度自分も会ってみたいとまで言ってくれた。
どうやら敬之は神社に行った時桃子が不在で、父親との世間話の中に出てきたその噂を話半分で信じてしまったようだ。
あの後三徳と共に桃子の元にお守りのお礼に行き、桃子から何かしらの話を聞いたらしい。
宏光の中での一番の不安要素である榛名にはすぐにしっかりと釘を刺したが、意味深に笑われるだけだった。
「あー、レイコちゃんに会いたい! レイコちゃん不足!」
交番に誰も来ないのを良いことにカウンターに突っ伏して愚痴を溢す宏光に三徳は笑った。
「手ー出したらすぐにしょっぴくからな?」
「わかってるよ」
(自信はないけど)
宏光の心の声が聞こえたのか、三徳がにっこりと笑ったので大丈夫だって、と慌ててホールドアップした。
「まだ病院なのか?」
「どうだろ? 最初の桃子ちゃんからの連絡以来、急かすみたいになりそうだからこっちから連絡はしてないんだよなぁ。無理はさせたくないし、会いに来てくれるらしいからそれまで待つよ」
あの日のことを思い出してデレデレとだらしない顔をする宏光に、三徳は聞くんじゃなかった、と舌を出した。
その時交番に誰かが入ってきた気配がして、宏光は突っ伏していた顔を上げて、そのまま固まった。
「こんにちは、お兄さん」
そこにはシンプルな紺色のセーラー服を着た、つり目気味で少し気が強そうだが可愛らしい顔立ちの女の子が笑顔で立っていた。
初めまして、またはいつもありがとうございます。はねうさぎです。
長編連載中にも関わらず、夏なので幽霊ものの話が書きたくなり、結局夏のうちに間に合わずしょっぱい気持ちになってます。
けどまだ暑いからいいかな、と思って投稿します。
本編のちょっとした補足として、優子ちゃんがちょくちょく不機嫌そうだったり寂しそうだったりしてるのは、友情というのに憧れてるから。ただ、榛名ちゃんの時は嫉妬ですね。
作者の力不足で伝えきれなかったかもということでここで一応。
では、ここまでお読みくださりありがとうございました。