第1話 あおい,変身する!
6月末、梅雨の明けない土曜日の夕暮れ、私は一人で部活からの帰路についていた。駅までの近道は山あいの舗装路で、近くに住宅地はあるが人通りはほとんどない。昼間は日陰になるのでいくらか涼しいが、風のない夕暮れはじめじめ暑く、汗で袖が肌にまとわりついてくるのがうっとうしい。
本来なら今頃は家に着いているつもりだった。しかし7月のミニコンサートの会議に思った以上に時間がかかり,今日中に楽譜を印刷する予定だったのにコピー機が止まり(20年位前の代物だ),やっと動いたと思ったら施設の施錠時間になって部屋を追い出された。明日も練習後に印刷しなければならない。今日中にレポートを書き終える予定だったが,この調子では日付を超えるだろう。明日は一限なのに……。
「もー。なんで必要な資料を会議直前に印刷するかなー」
後輩への文句も言いたくなる。一個下の学年はちょっと抜けているというか,いい加減というか…。それでいて楽器が上手い子が多く,先輩方も甘い面がある気がする。
明日の練習後には楽器を吹こうと思っていたのに、また自主練の時間がなくなってしまう。同じパートだった神宮寺先輩が部活を引退して早半年。4月の新歓で後輩獲得に失敗した結果、共心環大学吹奏楽部ユーフォニウムパートは、6月現在,3回生の私一人になってしまった。まぁ40人強の吹奏楽部にとっては妥当な人数だけれど,先輩はほぼ一人で,60人超えを支えていた。圧倒的な存在感をもつ音色、響き、表情、技術。隣の県の吹奏楽部名門校出身で1年生から活躍していたとか,ソロコンクールを3連覇したとか,そういう人なのだ。
私だって中高と吹奏楽をやってきたし,そこそこ吹くことはできる。でも,次元が違い過ぎる。とても敵わない。今日の合奏中も、周りが「やっぱ先輩とは違うよなぁ」という気持ちで私の音を聞いているのが、ひしひしと伝わってきた。
さらに先輩はずば抜けて美人でもあった。ソロを演奏する姿は,ユーフォニウムの癒されるような音色もあり,他校の部員からも「女神様」と崇められていた。大学内の新聞の美人特集で記事になったこともある。当然のごとく成績も優秀。アナウンサーやキャビンアテンダントに内定が決まったという噂も蔓延っていたが,審議のほどは定かでない。結局は音楽関係の大手企業に就職を決めた。先輩,人生につまずいたことってあるのだろうか。
私なんて,地味だし平々凡々だし、成績も取り立てて悪くないけど優秀とは言い難いし、たぶん就活も苦労するだろうし,服やメークもお洒落とは程遠いし……。先輩のことを考えたら,なんだか憂鬱になってきた。
「はぁ…」
先輩はたった一人の後輩だった私をすごく可愛がってくれて、私も先輩のことがすごく大好きなのだが、完璧すぎる先輩は、後輩に多大なる劣等感を残していったのだった。
次のコンサートで吹くのは「たなばた」。がっつりユーフォニウムのソロがある。色々とうまくいかない日だったせいか、自分が嫌だという思いばかりが渦を巻く。何か一つでいいから,私にもなにか、非凡なものがあればなぁ。そうしたら,ちょっとは自分に自信が持てるかもしれないのに。
「回復奏者,みいつけた」
「えっ……?」
誰かの声が聞こえたと思ったその瞬間、目の前に巨大な白蛇が現れた。2メートルくらいありそうな大蛇が、道の真ん中にとぐろを巻いている。見慣れた通学路には、あまりにもミスマッチ。信じられないことが起こると、人間、怖いとかいう以前に思考が止まるらしい。
大蛇はチロチロと舌を出しながら私を見つめている。これ、もしかして、ヤバイ…?
蛇にらみとはよく言ったもので、見すくめられた私の身体は固まってしまい、後退りすることも背中を向けて走り出すこともできなかった。大蛇の動きが一瞬止まる。次の瞬間、
「キャーーーー!!」
大蛇は鋭い動きで首を伸ばし,噛みつこうとしてきた。とっさに我に返り横に倒れ込む。膝を擦りむいたがそんなことにかまっていられない。しかし,結果として大蛇に背中を向けることになってしまった。蛇は背後から獲物に背後から近づき,締め上げ,弱ったところを丸のみにする。昔弟から聞いた話を思い出す。実際に,大蛇は隙を逃さず,私の身体に巻き付いてくる。振りほどくことはとてもできず、肺を締め上げられて苦しさに息が漏れる。私,こんなところで大蛇に襲われて死ぬのかな……。今どき漫画でも見ない死に方だ。辛うじて振り向くと,大口を開けた大蛇の顔が近づいてきていた。丸のみにされる…!
思わず目を瞑った瞬間、
「……んっ!?」
巻き付きが弱まり、身体が宙に浮いた。目を開けると、下にはあの大蛇。そして私は誰かに手を引かれて飛び上がっていた。顔は見えないが、アップにしたさらさらの黒髪。白を基調としたブレザーとスリットの入った短めのスカート,ピンヒールブーツといった衣装に身を包んでいる。左手で私の手を引いていて、右手には、これ、フルート?
人間離れした高さまで跳んでいたのに、その人も私も怪我ひとつなくふわりと着地した。大蛇がいた位置を振り替えると、ノックアウトされたのか地面に伸びている。
「大丈夫ですか?あおい先輩?」
「えっ…?美智帆ちゃん?」
振り向いたのは,部活の後輩だった。柳美智帆。一個下の2回生。フルートパートのお嬢様(名の知れた名家の娘らしい)。見た目もTHE・フルート女子。いつもはおろしたロングヘアにワンピースやロングスカートの印象だから,アップの髪に短いスカートやブーツという格好はなかなか新鮮だ。
「えっ?ケホこケホ……れ……コホッは………?」
何から聞いていいか分からない上にさっきまで締め上げられていたため,うまく言葉が出ない。そんな私に向かって,美智帆ちゃんが突然右手を突きだした。
殴られる…!?
美智帆ちゃんの右手は私の顔の左側を掠めていった。振り替えると、さっきの大蛇がフルートで突かれている。ノックアウトから復活し、再び襲いにきたらしい。
「説明は後です、先輩。…煌めく氷に気品を込めて 唄え!レディ・フルート!!」
そう言った美智帆ちゃんは私を飛び越え、大蛇へと向かっていった。私,小柄とはいえ155センチはあるよ?大蛇の攻撃をひらりひらりと避けながら、時おりフルート(今や美智帆ちゃんの背丈近くまで長くなっていた)で大蛇を殴ったり突いたりしている。意外と肉弾戦だ。当然といえば当然なのだが、どうやら普通のフルートではないようだ。本物の楽器だったらとても大蛇を殴るのには使えない。というか,160センチ近くまで伸びない。
私はと言うと,誰かを呼びに行くとか,そんなことは一切考えず,華麗に飛び回る美智帆ちゃんに見とれてしまっていた。まるで,アニメに出てくる,魔法で敵と戦う女の子みたい。さっき決め台詞みたいなのも言ってたし。レディ・フルート?その時
「危ない!!」
大蛇はいつの間にか美智帆ちゃんを追うのを止め,もうスピードでこちらに向かってきていた。噛まれる!!
「つっ!…っ!」
「美智帆ちゃん!!」
見ると美智帆ちゃんの右腕に大蛇の牙が刺さっていた。美智帆ちゃんはフルートを左手に持ち換え、牙が刺さって固定された大蛇の頭を思いきり殴り付けた。勢いで大蛇の牙が抜け、美智帆ちゃんは後ろにいた私に倒れかかった。
「美智帆ちゃん!!」
咄嗟に支え、座らせる。右腕は少し出血している程度だが、元々色白な美智帆ちゃんではあるが、はっきりと分かるくらい青ざめている。あの蛇、毒があったんだ…!どうしよう!毒蛇に噛まれた時ってどうするんだっけ!吸い出す?でもこれ抜いてもっと出血したら……!
「メト…奏器を………たぶん,いける……」
美智帆ちゃんが苦しそうな声で言った。
「まぁ回復できるヤツは貴重だからな。才能はほっとんど感じねぇけど」
緊急事態を微塵も感じさせないような声に顔を上げると,前に一匹のコウモリが飛んでいた。えっ?喋った??コウモリが???
コウモリは私の目の前を飛びながら
「ふーん。まっ,いいんじゃねぇの。お前の敵にはなんねぇだろ,ミチ。」
と冷たい声で言った。美智帆ちゃんは何か言い返そうとしたようだが、言葉にならないようだ。
「はいはい、急ぎますって」
コウモリの言葉が終わるや否や,目の前に輝く何かが舞い降りてきた。思わず受け止めたそれは,ユーフォニウム。光の加減のせいか,水色に近い銀色に輝いている。とても綺麗だ。いやそんなことより,どこからこんなものが?
「ほらよ。お前に使いこなせるかどうか分かんねぇけどな。」
立ち上がって構えてみると,なんだろう、うまく言えないが、持った感触、重さ、大きさ,全てが丁度いい。マウスピースも私好みの厚さ,リムの大きさ。見えないけれど,恐らく深さも太さもぴったりだ。
何故?とか思う間もなく、美智帆ちゃんのことすら忘れて、私は導かれるように息を入れた。吹くのは、ずっと練習していた「たなばた」のソロパート。音出しすらしていないのに,なんだかいつもより、音の鳴りがいい。
「へぇ。まぁ使い道はありそうだな。」
周りの世界と別次元にいるようで、景色も他の音も、コウモリの声も,全て意識から切り離されていた。
吹き終わって目を開けると、美智帆ちゃんが再び飛び上がっていた。顔色はまだ青白いが,右腕の傷は塞がっている。すっかり存在を忘れていたが,美智帆ちゃんにアッパーを食らった大蛇はしばらく伸びていたようで,今は逃げようとしていた。
「フルート・アイス・トス!!」
美智帆ちゃんが叫んでフルート(でいいのだろうか,もう)を高く投げ上げる。落ちてきたフルートは5本に分裂し,大蛇の身体5箇所を串刺しにする。大蛇も動きが取れなくなったのか,頭としっぽを振り乱してもがいている。
「や…やった?」
しかし大蛇の姿は突如として消えてしまった。後に残ったのは一本のフルート(今は普通の大きさだ)。
「逃がしたな。」
コウモリはそう言った。どうやらあまり芳しくない結果らしい。
「俺はコイツなんかに構うなって言ったぜ?能力も大したことねぇし。戦闘力なんか0に乏しいぜ。」
「一応顔なじみよ。ほっとくのは寝覚めが悪いわ。それにこうなった以上,もう諦めなさい。」
そう言って美智帆ちゃんが私の方を見る。…私,さりげにひどいこと言われてなかった?いや,そんなことより,そろそろリアクションをとろう。
「えっ!?!?何この格好!!!???」
普通のブラウスと夏用の花柄スカートが,薄い青色のふんわりとしたドレス姿に変わっていた。袖口や裾には白くて細かいレースがあしらわれ,すっごい可愛いけど自分じゃとても着ないような服。小さい頃好きだった少女アニメの主人公みたい。ある日突然敵に襲われて,妖精さんかなんかに出会って,あんなんで戦えるのかな,みたいな可愛い衣装に変身しちゃって,自分だけの特別な武器で戦って,みたいな。
……んっ?このシチュエーションって??
「美智帆様,参りましょうか」
突然タキシード姿の男の人が現れた。この人は知っている。濃霧さんだ。美智帆ちゃんの執事のような存在で,たまに大学まで送り迎えをしているのを見たことがある。いつの間にかコウモリは消えていた。……えっ???
「あおい先輩,送ります。詳しいことは車内でお話します。」
いや,アニメで見たことある気がするシチュエーションなんだけど……!
でも私,二十歳だよ?年明けには二十一だよ?でもそんなことより,
「ちょ,ちょっと待って!!」
いつの間にか後ろに停まっていた車(高級だ絶対…)に向かう2人を呼び止めた。
「この服,いつ戻るの……?」
「マウスピース抜いてください」
振り返りながら言う美智帆ちゃんは,いつの間にか私服に戻っていた。