火縄銃
簡単に火縄銃の銃身部分の作り方を説明すると炭火で加熱させ赤く熱した鉄の塊を叩いて板状にして芯金の鉄の丸棒をまいて荒巻にし接合した部分は鍛接といって熱と力で接着させ、弾が出る銃口の反対側を尾栓するために加工までが大雑把な銃身の作り方。
火縄銃の銃身の内径が違うから弾は共用で使用できないとされているが、内径の長さを決めるのが丸い鉄棒の芯金なのでこの芯金の直径を同じサイズにすれば弾は共有できる。
芯金に鉄板を巻いただけのものをうどん張りで、うどん張りの上に細い板状にした鉄板を斜めに巻いた物が巻張りで、うどん張りは量産型で巻張りは壊れにくいように銃身を強化した物となる。
尾栓は種子島が伝来した時にねじの加工方法が伝わったとされ、鉄を叩いたり削るなどして加工した雄ねじに鉄を巻き付けるなど密着させ叩いて雄ねじの形に変形させた熱間鍛造と言われている。
鉄というのは含有する炭素含有量によって分類されおおまかに炭素含有量が0.2%以下のものを錬鉄、0.2~2%までを鋼、2%以上を銑鉄とし、高炉で作られる鉄は炭素含有量が多く銑鉄が生産され、たたらは鋼を含め錬鉄と銑鉄も生産できる。
中国では紀元前の時代から鉄鉱石と木炭を利用した高炉が存在しておりヨーロッパでは12世紀ぐらいに高炉が作られたとされモンゴルの元があった時代になる。
銑鉄は砂などで出来た鋳型に流し鋳造品が作られたが、硬く脆いため衝撃があると壊れやすい物のため、熱した鋳鉄をハンマーなどで叩き炭素やリンや硫黄などの金属以外の不純物を取り除き柔らかい錬鉄として利用していた。
日本でも昔は鉄鉱石を利用した箱型炉などがあり、たたら製鉄が普及していった後も鋳造製品を作るのにこしき炉(甑炉)が存在していました。
日本独自のたたら製鉄は砂鉄と木炭から鋼を取り出す製鉄法として明治時代まで利用されてきた。
1700年ぐらいに製造された火縄銃で有名な近江の国友で作られた火縄銃を現代科学で解明すると、銃身全体は炭素濃度の低い錬鉄で出来ており発射時の衝撃が大きい銃口と尾栓は強化され、銃口部分は錬鉄の荒巻の上に鋼が巻いてあり、尾栓部は鋼を錬鉄の上にクラッド(2種類の性質の異なる金属を圧着させる)されており3層構造となっていた。
尾栓のねじ部分は雄ねじと雌ねじ両方とも切削加工で出来ており、雌ねじは鋼を柔らかくする焼き鈍し処理が行われており火縄伝来時の熱間鍛造ではなかった。
江戸時代の火縄銃の製造法の書によれば雌ねじの加工はやすりではなく、現代でも雌ねじ加工に使われるタップと同じ構造となっている。
火縄銃の生産を効率化する事として考えてみると、強度が必要のない銃身部分はこしき炉含めた高炉の銑鉄を鋳型に流し水車を動力とするハンマーで叩き錬鉄に加工すれば、たたら製鉄で出来た複数の鉄の塊を積み沸かしとして一つの塊にして人力で叩いて伸ばし板にする時間が大きく削れる。
銃口は鋼を巻き、尾栓は鋼をクラッドさせ荒巻にした後に焼き鈍し処理を行い雌ねじをタップで雄ねじをダイスで加工する。
火縄銃は1匁の小口径から30匁の大口径まで作られていきさらに大きな100匁(口径40mm鉛玉375グラム)や300匁なんてものも作られていった。
100匁の火縄銃は30キログラムの重さがあるが30匁で射程800mぐらいであり100匁では1km超えていたと思われ攻城戦などでは十分に活躍できたと思われる。
発射時の反動で持てないって思う人も多いだろうが、別に人が持つ必要はなく砲座に固定すればいい。
100匁の火縄銃は銃身が短く30㎏と人が運搬できる重さなので、銃身を2倍にして60㎏でも十分に持ち上げる事は出来るため馬などに載せ運搬すれば大阪の陣で使われたような青銅製の長さ3.5m重量2トンのデミ・カルバリン砲と比べても有効と思う。
ヨーロッパでも初期の大砲は鋳鉄で出来ており硬く脆いために作りやすい青銅製に変わったが、鋳鉄や青銅は錬鉄に比べ弱くそれを補うために銃身は肉厚になり鉄製の数倍重かった。
TV番組などで取り上げられてるので反射炉を知っている人は多いと思うが、反射炉で出来る鉄は柔らかい錬鉄ということを知っている人は少ない。
反射炉でとれる鉄は1回50㎏程度でそれを炉内のすべてを取り出して300kg程度なので、幕末にヨーロッパで使われていたような6ポンド1200㎏のカノン砲にも足りないため初めから4基の反射炉があった。
反射炉は輻射熱を利用して製鉄するので高炉に比べて使用する石炭の領も多くなりコストは良くなかった。
じゃあ高炉で銑鉄作って転炉で鋼にすればいいと思うけど、転炉を傾けて溶けた鋼を流すためには強固な土台がいるので錬鉄もいるんじゃないかと思ったりする。
初期のエッフェル塔や鉄道のレールは反射炉で作られた錬鉄できており、大きな鋼が出来るまでは繋ぎとしては十分なんじゃないかとは思う。
戦国時代にコストパフォーマンスの悪い反射炉は作らなくても幕末でもないので射程1kmを超える100匁筒の砲身を伸ばして射程と命中精度を上げた物を作り出せば攻城戦においては城門は打ち破れるので反射炉を作る必要はないんじゃないかと思う。
水車動力導入して分担作業導入すると考え高炉で鋳鉄された鉄板を叩いて錬鉄にして荒巻処理して付属部品つけて焼き鈍しの熱処理した後に尾栓部加工をすることを考えたら10人で30日働いたとしたら最低100丁は超えると思う。
人員配置として鉄板加工2人、荒巻4人、尾栓加工2人、監督者兼任最終確認者1人の配置になるかな。
信長の長篠の合戦で火縄銃3000丁が疑問視されてるけど、応仁の乱以降の分業制度考えたら3000丁は少なく感じると思う。
国友だけで職人500人いるような状態で堺に日野に他にも鉄砲鍛冶がいること考えたら3000丁は少なすぎると思う。
鍛冶場や工場などで重量物を持ちあげるにはクレーンがいるけど、室町時代初期にクレーンは存在していたので、木材の強度を考えて幅の短い天井クレーンとか鉄でできたクレーン台車を使えば1トン超える物も簡単に運べる。
関係ない話として第2次大戦中の日本の溶接技術が未熟という話が多いけど、改善点として当時の技術でも使えるPTとMTを導入すればレベルが一気に上がると思う。
火縄銃には銅と亜鉛の合金である仏具に使う真鍮がバネとして使われており、バネもネジと同じ時に伝来した技術。
関西で材料の亜鉛と加工品の真鍮の物流を制御すれば、東国では火縄銃を作れないのではと思ったりする。
西日本は明から輸入できるから意味ないと思うかな。




