4日目(1)
窓から見える空は快晴で、微かにスズメの鳴き声が聞こえる、清々しい朝。リビングには味噌の匂いが漂っていた。
茶碗にご飯をよそい、テーブルに着く。今日の朝食は、ソーセージの乗ったサラダに、なめこの味噌汁という和洋折衷のメニュー。レタスを口に放り込むと、みずみずしい葉がシャキシャキ音を立てた。
「少ないみたいだけど、体調でも悪いの?」
茶碗によそわれたご飯の量を見て、母親が聞いてきた。机の向かい側に、自身の分の朝食を並べている。髪には逆立ちでもしていたのかというくらい激しい寝癖が残り、パジャマは着たままで、とても外にはお見せできない装いだ。自宅でもできる仕事だからといって、その格好で一日を過ごすのは肉親ながらどうかと思う。
口に入っていたご飯を呑み込んだ。
「いや、千佳が料理を作るって張り切ってたから、少しはお腹を空けておこうかと思って」
味噌汁の汁碗を傾けて掻き込む。ぬめり気のある汁が口いっぱいに広がり、優しい味がした。
「え、あの娘って料理するの?」
「まぁ、普通そういう反応するよな……。ご馳走様」
空になった碗と皿を重ね、持って席を立った。
「お粗末様。確か、薬箱に胃薬残ってたわよ」
「さらっと失礼なことを言うな」
食器を流し台の中に置いて自分の部屋に戻る途中、ふと黒い物体が目に入った。
「そういえば、あの箱って何?」
俺は黒いボックス型の物体を指差した。高さは天井近くまであり、両手で抱えても手が届かないくらいの幅と厚みがある。正面に設けられた半透明の窓からは、ハブのような小さい箱が積み重なっているのが見える。それぞれは入り乱れたケーブルで繋がれおり、側面では緑色や赤色のランプが点滅している。ウーウー唸っているように聞こえる、冷蔵庫よりも大きな音は冷却ファンの回転音だろうか。
いつからかは分からないが、どうやって搬入されたのかも分からないが、それはリビングの端に置かれていた。高校生になった時には既に置かれていたと思う。今まで何となく聞くタイミングを逃していた。
「ただの仕事道具。光式ニューロコンピュータよ」
パソコンやサーバの類ではないかと思っていたが、やはりネットワークエンジニアの仕事で使用するものらしい。
「ニューロコンピュータ? 普通のパソコンと違うの?」
「ニューロっていうのは神経回路のことね。人間の脳みそは神経細胞がネットワークを構築しているけど、それを電子回路的に模倣したのがニューロコンピュータよ。あんた達がパソコンとか呼んでいるノイマン型のコンピュータは演算装置や記憶装置なんかの決まった役割を持った要素から構成されているから、何が違うのかと聞かれると、構成も処理方法もまったく違うって回答になるわね」
普通のノイマン型のコンピュータは演算装置と記憶装置を持ち、記憶装置に保存されているプログラムを読み出して逐次処理を行う。対してニューロコンピュータは、たくさんの神経細胞から構成されており、それぞれのシナプスの伝達効率、つまり神経細胞の結合度合を変更することで処理を行う。同じコンピュータなのだから、「カレーと肉じゃが」くらいの違いなのかと思っていたが、母親曰く「カレーとラーメン」くらい違うらしい。
「なんか凄そう。あの箱で、スパコンみたいにシミュレーションしたり、有名企業にハッキングしたりできるの?」
「言ったでしょ、人間の脳みそを模倣したって。所詮、人間が考えられることを、人間ができるようにしかできない、マニアックなコンピュータよ」
パソコンは人間よりも遥かに早い処理速度によって、便利さをもたらしている。しかし人間のできることしかできないコンピュータなんて、どんな場面で使うのだろう。相手の思考シミュレーション? 将棋やチェスのCPUだろうか? ネットワークエンジニアでの使い道はまるで思い浮かばなかった。
ニューロコンピュータの側面には、タッチパネル式のモニタがついていた。画面の電気は消えていて暗いが、触ればコンピュータの状態が表示されるかもしれない。近づいて手を伸ばした。
「駄目!」
滅多に耳にしない、母親の真剣な声だった。俺は慌てて手を引っ込めた。
「それに触ると、きっと後悔することになるわ……」
「ごめん」
壊れやすく、高価なものなのだろう。考えなしに行動したことに対して、自責の念にかられた。
そそくさとリビングを後にし、荷物をまとめて亮の家へと向かった。ドアの隙間から顔を出した亮は、登校の準備の真っ最中だったのか、歯ブラシをくわえて呆けていた。
「おは――よう?」
「お前、本当に行かないつもりだったろ。さっさと準備して行くぞ」
亮は頷いて顔を引っ込めた。怪訝そうな表情を浮かべたように見えたが、気のせいだったようだ。閉まったドアの向こうから、軽快に廊下を走る音が聞こえてきた。時計を見ると、いつも迎えにいく時間より三十分早かった。
カバンを持って出てきた亮を連れて、千佳の家へと向かう。ドアの隙間から顔を出した千佳は、太陽の光を浴びたモグラみたいに目を細くして眩しそうにしていた。
「おはよー。こんな朝早くから、どうしたの?」
自分で招いておいて、どうしたなんてとぼけている。料理を作れなかったので、忘れていたことにして、ごまかすつもりなのかもしれない。
「天然が過ぎて、ボケたか」
「あたしは天然じゃないよ」
「自分のことを天然という奴は偽物だと言うけれど、自分のことを天然じゃないと言う天然は、ただの阿呆だと思うんだ」
「え、天然ばっかりで、何を言っているのか分からないよ! 阿呆でもないよ!」
普段なら少し煽ればボロを出すはずなのだが、漫才みたいになってしまった。まだ、ごまかし続けるようだ。いや、彼女なら素で忘れているのかもしれない。ストレートに尋ねることにした。
「昨日、料理を作ってくれるって言ってただろ」
「え――、グモッ?」
後ろで眠そうにしていた亮が突然ドアに近づき、千佳の口を押さえた。モグラが目をパチパチさせた。
亮が駆け寄った間際、千佳の口から断片的にエッグという言葉が発せられた気がする。
「エッグ? エッグベネディクト? そうそう、覚えてるじゃないか」
二人は何故か冷や汗を額に浮かべてこちらを見ていたが、一瞬の目配せをしてから離れた。
「あの、昨日した約束だよな。どんど焼きの準備の時に話したんだっけ?」
亮は瞳を右側に寄せて、しきりに思い出そうとしているようだった。
「あぁ。作ってあげるから、明日の朝来いなんて言ってたのにな」
「そうだぞ、千佳。今朝エッグベネディクトを作るって約束をしていたのに、しらばっくれやがって」
亮の言葉に、俺はそうだそうだと相槌を打った。覚えていたようだったので安心した。夢で見た光景を鵜呑みにして、一人で妄言を吐いているのではないかと心配になりつつあった。
「エッグベネ……? あーごめん、寝坊しちゃって」
「往生際が悪い。こっちは飯の量減らしてきたんだぞ」
千佳が両手を合わせて頭を下げた。
「放課後作るから、今はごめん。素晴に適当なものなんて食べさせられないよ」
何気なくした言い訳なのだろうが、自分の事を気遣われてしまうと何も言えなくなってしまう。結局、千佳の準備が終わるまで玄関の前で待ち、卵料理を食べることなく学校へと向かうことになった。
二階の教室の窓から見える空は、今日も薄暗い。サクも自宅の窓から、この光景を眺めているのだろうか。
黒板消しクリーナーの騒音と共に、鼻の奥につかえるようなチョークの臭いが漂ってきた。黒板に向き直る。走り書きされたタンパク質の構造式が、綺麗になった黒板消しによって走査式に消えた。俺は生物の授業を受けていた。ご飯を若干減らしていたせいか、昼休みの一時間前にも関わらず空腹感を覚えている。
教室中から紙の擦れる音が聞こえてくる。慌ててめくったページには、酵素と書かれていた。
「化学反応を促進する物質を触媒と言うが、特に生体における化学反応を促進する物質を酵素と呼ぶ」
教師はパックマンみたいな横顔を一筆書きして、酵素と付け加えた。さらに、その横に八つ切りのピザや寿司みたいな形を書き並べた。無駄に空腹感が増した。
「酵素は好き嫌いが激しいから、決まった物質に対してしか作用しない。この物質を基質と呼ぶわけだが――お前らにとって俺の授業は基質では無いようだな、ほら起きろ」
教師が棒状に丸めた教科書で机を叩いた。腕を枕にして寝ていた生徒達が、しぶしぶ顔を起こした。
俺はノートに視線を向けた。そこには箇条書きで、「即死攻撃」「武器破壊攻撃」「行動不能攻撃」と書いてある。
即死攻撃の上をシャーペンでちくちく刺した。白魔導士モドキの少女が一人で戦り合えていたように、攻撃が当たらないように上手く立ち回ればこれは脅威ではない。武器破壊攻撃については、こちらが攻撃モーションに移ってさえいなければ避けるのは容易い。とはいえ攻撃しなければ倒せないわけで、そこで戦術が必要になる。状態異常で被弾率をできる限り下げ、サクの火力でごり押しするのはどうだろう。もしくは、サクには防御に徹してもらい、俺が遠距離から攻撃するのもありかもしれない。
問題は、行動不能の状態異常が付加された全体攻撃だ。トゲを突き立てる攻撃は地面に対して行われており、見て避けられる類の攻撃ではなかった。ハッキングを使ったとしても、攻撃先が一人ならバッファオーバーフローで対象を変えればいいが、全体攻撃となるとそうもいかない。
「つまり、化学反応の速度は酵素の濃度に比例する訳だな。では、基質に似た物質を混ぜてやるとどうなるか。橋立、分かるか?」
急に千佳の名前が呼ばれたので、視線を上げて授業に戻った。千佳が椅子を引いて元気良く立ち上がる。
「好きなモノに似たモノが現れるんだから……。あ、なんか修羅場っぽい」
「そうだ、するとどうなる?」
返事から既に斜め上を行っている。亮を見ると、悩ましげに頭を抱えていた。
「それでも好きな人は変わらないです!」
「お前の恋愛事情は聞いていない! じゃあ橘、正解は?」
回答は残念だったが、先に千佳が指されていて助かった。ゲームのことを考えていたので、全く説明を聞いていなかった。
しょんぼりして席に座った千佳と入れ替わりに、立ち上がった。
「基質に似た物質と結合する可能性が高まって、化学反応が遅くなるんじゃないですか?」
「そう、これを競争的阻害と呼ぶ」
阻害――。席に着きながら、教師の発した言葉を反芻した。基質に作用する酵素のように、ぼんやり浮かんでいた思考にかっちりとはまる。
デストラクタは全体攻撃の際に、地面にトゲを突き立てるモーションを行う。恐らく地面を伝わったという扱いで、攻撃は間接的に周囲のプレイヤーに与えられる。だとすれば、地面とトゲの間を阻害すれば、一点のバッファオーバーフローでプレイヤー全員を守ることができる。
ノートに書かれた三項目にバツ印をつけて、シャーペンを置いた。
放課後、俺達は再び千佳の家を訪れていた。台所に向かおうとするが、背中を押されて彼女の部屋に追いやられた。
「料理を作っている間は、決して台所を覗かないで下さい」
「鶴の恩返しかよ」
「いいですね、決して覗かないで下さい」
千佳は突っ込みを無視し、そう言い残して部屋の扉を閉めた。俺は亮と顔を見合わせ、とりあえず座卓を囲んで座った。
レースのついた薄桃色のカーテンに、男性アイドルグループのポスター、毛足の長いシーツが敷かれたベッド、小物の置かれた勉強机、少女マンガの収められた小さな本棚、石鹸のようないい匂い。女子の部屋にいるという状況は、亮が一緒にいるとはいえ、相手が千佳とはいえ、そわそわする。
「ところで、ハマグリ女房っていう昔話があるんだけどさ」
雰囲気に耐えかねたのか、亮が話を切り出した。
「鶴の恩返しと同じで、助けたハマグリが恩返しで漁師の家に押しかけるんだ。そして毎日おいしい味噌汁を作ってくれる素敵なお嫁さんになる。でも、料理を作っている間は決して台所を見ないように言われていたのに、漁師はついに見てしまった」
亮はオチの前で言葉を止めた。
素朴な木造の家で、妻と暮らす生活を想像する。昔の日本らしく、仕事から帰ると迎えてくれる妻。囲炉裏には味噌汁以外の温かい夕飯が用意されている。そして、千佳みたいなことを言って台所へと引きこもる。
「そこには、器に小便を入れる女の姿が――」
茶碗に跨っている妻の姿が思い浮かんだ。
「止めろ、ちょっと想像した」
「想像すんな」
ハマグリなので、いい出汁が取れるということなのだろうか。それにしても子供に聞かせる話に、スカトロを出すというのは刺激が強すぎる気がする。
焦げ臭さが微かに鼻につき、顔をしかめた。
「なんか焦げ臭くないか?」
「確かに」
部屋の中に焦げるようなものはないので、出所はおそらく台所だろう。立ち上がってドアの前に向かうと、臭いが強くなった。
「覗くなって言ってたけど?」
亮が座ったまま言った。
「火事になったら困るし、そうも言ってられないだろ」
ドアを開けて顔を出す。部屋の前は廊下だったが、隅の方に台所の一部が見えた。
「あわわわ……、ひぃ!」
恐ろしげな独り言が聞こえてくる。千佳が珍しく慌てているようだ。
部屋を出て台所へ向かった。千佳は制服にエプロンを着け、新鮮な装いをしていた。お腹の生地には、殺人現場の壁みたいに黄色い液体が激しく飛散していた。
忍び足で後ろに回り、手元を覗き込む。
溶き卵をフライパンで炒めている。スクランブルエッグを作っているようだ。昨日はエッグベネディクトを作ってくれるという話だったが、名前と料理が一致していたかも怪しいので目を瞑る。
火が強いのでフライパンの中身が均等に加熱されず、全体が焼ける前に一面が焦げてしまっている。臭いの原因はこの黒い塊だったようだ。
見ていられなかったので、彼女の横に立った。紐を引っ張って換気扇を付ける。
「あ……」
気づいた千佳が、振り向いて声を漏らした。時間の停止している彼女の肩をそっと押し、代わりにコンロの前に移動する。
フライパンに乗っていた物体を皿に移した。新たにボウルに卵を二つ割り、胡椒と牛乳を加える。並行してフライパンを中火で温め始め、バターを滑らせておく。
千佳は大人しく手元を見ていた。
泡だて器で混ぜたボウルの中身をフライパンに入れて、優しくかき混ぜる。均等に固まったので、皿に移した。
「こんな感じ。……悪かったな。覗くどころか、手を出しちまった」
千佳の顔には、しおらしい表情が浮かんでいた。何か言葉を発しようと、口をぱくぱくさせている。かすれていてほとんど聞き取れないが、謝罪の言葉のようだった。
謝って欲しくて作り直したわけではない。しかし彼女にとっては、やはり当て付けがましく映る行動だったのだろうか。かける言葉が見つからなかった。
廊下から足音が聞こえたので、二人で振り向いた。
「ここから見てると、初々しい新婚夫婦みたいだぜ?」
台所の前に立つ亮が、いじわるそうな笑みを浮かべて言った。返す言葉が見つからずに、俺は千佳と顔を見合わせる。彼女は恥ずかしそうに唇を口の中に隠していた。
俺達は千佳の部屋に戻り、座卓を囲んで座っていた。天板には二皿のスクランブルエッグと取り皿、ウーロン茶の入ったグラスが並べられている。
いただきますと挨拶をして、千佳の作ったスクランブルエッグを盛った。表面は半生で、下は茶色く焦げている。
「いいよ、そっちは食べなくて……」
ぽつりと零された言葉を無視して、口に含む。べったりした食感や焦げの苦味が四方八方から押し寄せた。見た目に恥じない味だった。ごくりと喉仏を上下させて飲み込む。
「ごめんね、残して」
さらにボリュームの落ちた声が聞こえてくる。料理から視線を外せないが、とても見ていられない顔をしているのだろう。
「嫌だ」
二口目を口に運ぶ。むせそうになったのを外に見せないように、残りを口の中に入れる。あっという間に、取り皿にのせた分を食べ切った。
顔を上げる。驚きの表情だろうか、千佳は目を大きくして空になった皿を見つめていた。
「なんていう顔をしてるんだよ。俺達のために作ってくれて、ありがとう」
「……見られなければ、うまく誤魔化せたのに」
みるみるいつもの表情に戻り、千佳らしく強がりを吐いて見せた。
「よく言うよ」
ため息と共に吐き出された言葉には、ほっとした気持ちが滲み出ていた。
亮は俺の作ったスクランブルエッグを黙々と食べていた。
「素晴の作ったやつ、美味いな。お前にこんな特技があったとは」
「親がいないときに、冷蔵庫のもので適当に料理作ったりするからさ」
母親のようなフリーランスのネットワークエンジニアは企業のネットワークを任せられることもあり、夜勤や呼び出しで夕食前に突然家を空けることがある。そんな時は、夜遅くに帰ってくる父親と自分のために、炒めたり煮るくらいの料理は作っている。
「素晴に教えてもらったらどうだ?」
「そうだね、考えとく」
自分で作ったスクランブルエッグを食べて眉間にしわを寄せていた千佳が、しみじみと言った。