2日目(2)
千佳や亮と別れ、自分の部屋に戻った俺は、カバンをベッドの脇に放り投げてからパソコンの前へと向かった。机の上に置きっぱなしになっていたBCIケーブルを手に取り、準備を始める。
ヘルメットの形をした銀色のヘッドギアを頭に取り付ける。フルフェイスになっているので、顔の前まですっぽり覆われた。外からは見えないが、外殻の中には無数のコイルが詰められており、脳内の生体電流を感知できる仕組みになっている。
そもそも生物の脳は、ニューロンと呼ばれる線香花火みたいな形をした細胞がたくさん組み合わさってできている。隣のニューロンから情報が伝わると、ニューロンは電気を発生(発火)させることで後続に情報を伝達する。ちょうど、陸上や水泳のリレーのような要領である。
ニューロンが発火すると、微弱ではあるが電磁誘導によってBCIケーブルのコイルに電流が流れる。この電流の大きさや検出したコイルの配置から、発火したニューロンの正確な位置を算出することができる。
ところで、人は何かを考えたり行動したりする時、脳の決まった箇所が活性化する。たとえば、運動に関係する運動野や、視覚認識に関係する視覚野などである。脳を区画化して、思考と活性箇所を図示したものが脳地図だ。求めた発火位置を脳地図と照らし合わせることで、BCIケーブルは使用者が何を考えて、仮想空間でどんな動きを試みているのかを把握することができる。
BCIケーブルが発売されたのは今から二十年ほど前であるが、万人に使われるようになったのは、つい最近のことだ。特に健康意識が高く、リスクがあるかも分からない残留農薬や電波すら気にする日本人が、非侵襲とはいえ脳と情報をやり取りするシステムなんて受け入れるはずもなかった。さらには当時、現実と仮想空間の誤認による傷害事件が起きていたことも判明し、発売中止を求めるデモにすら進展した。しかし、キーボードやマウスといったユーザインタフェースを介することなく情報伝達を行えるこの技術には、それすら覆せるほどの魅力があった。技術の向上や法律の整備により、多くの年数はかかったが一般家庭にも普及することになった。
考え込んでいるうちに、ログイン前のキャリブレーションが終了していた。脳波パターン認証によってログインが行われ、真っ暗な視界の中にチェインサーガのタイトルが浮かぶ。現実での処理はここまで。体が浮かぶような感覚と共に、仮想空間へと没入する。
椅子に座っていた感覚が消え失せ、いつの間にか膝を伸ばして直立している。机やモニタや戸棚といった俺を取り囲んでいたモノは気配を消し、パソコンの起動音も聞こえなくなっている。
青い空と白い雲、赤い屋根、白いレンガの壁、タイルの敷き詰められた地面、構成される町並み。俺はヨーロッパの古都を思わせる路地に立っていた。
リードタウン。ゲームにログインした際や、ゲームオーバーになった際に転送される、始まりの街である。BCIケーブルの発売と共に真っ先に運営が開始され、何度もサービス終了の危機にさらされながらも続いてきたMMORPGとして、LEAD(先導)することを願って名付けられたという噂話もある。
担いだ剣や槍をがちゃがちゃ鳴らして歩くプレイヤー。パーティーを募集して歩き回るプレイヤー。レアアイテムをオークションするプレイヤー。学校や会社の終わった人間が集まってくる時間なので、町の中はそこそこ人が多かった。
耳を澄ませて、パーティー募集の声を聞き取る。弓使いは聴覚が鋭く設定されているので、こういう時にも役に立つ。かなりの数の勧誘があるようだが、アップデートで追加されたモンスターの討伐パーティーが多いようだった。
土のガーディアンが倒されたことは、既にゲーム中に伝わっていた。火、水、風のガーディアンの討伐パーティーが募集されており、残りの三体は依然健在のようだった。
昨晩はデッドロックを倒した直後にログアウトしてしまい、パーティーから脱退していなかったことを思い出した。コンソールを開くと、四名の名前が表示されたパーティー欄が表示された。まだ解散されていなかったようだ。
蘇生アイテムを間違って使ってしまったことや、いないときにデッドロックを倒してしまったことを謝りたかったが、ユータとサクラは、少なくともデッドロックを倒した時には既にログアウトしていた。今も名前が灰色で表示されていて、ゲームにログインしていないことが分かる。パーティーを脱退すると彼らのログイン状況が分からなくなってしまうので、謝罪するまで残っている方がいいのかもしれない。
俺の他にも、現在ログインされていることを示す白色で表示された名前があった。――サク。パーティーを脱退していないということは、彼女もユータとサクラを待っているのかもしれない。彼女と会っても、顔文字の入ったメッセージを送りつけられるだけで、まともな会話をできる気がしない。しかし、何もせず待っていても時間がもったいないので、合流しよう思った。
インベントリからマップを取り出す。メルカトル図法で描かれた大陸の上に、サクと書かれた赤い円が表示されていた。
巨大な円筒のタンクが墓標のように何列にも渡り、灰色の空に向かって突き立つ。銀色の壁面は、雨水の流れた跡が赤茶色に錆びている。タンクの周りを、何段かに分けて取り囲む網状の作業床。
タンク間をつなぐパイプラインが、地面の上を上下左右に這い回る。その何箇所かは腐敗して穴が開いているが、幸いパイプの中には何も流れていないようで、噴出すものはない。施設の中央には、特に太いパイプが四本組み合わさってできた一番高い煙突がそびえ立っている。
俺はサクを追って、廃工場もとい廃コンビナートに来ていた。金網が施設全体を囲んでいたが、倒れている箇所を見つけて工場内へと踏み入った。パイプに括りつけられた「高さ制限5m」「安全第一」の看板の下をくぐる。
「お前、昨日もログインしたんだろ。どうだったんだ?」
「スンマセン、実はまだ最深部まで辿りつけてないんすよ」
上級装備に身を包んだ二人組の男が後ろからやってきたので、道を譲った。
あちこちから声が聞こえるので見渡してみると、パーティーを組んだプレイヤーの姿がところどころに見えた。これだけ多いと、ガーディアンの前では順番待ちをしているかもしれない。
視線の端に、マントをすっぽりと被った小柄な後姿を見つけた。歩いていたかと思えば人を避けて柱の裏に隠れ、右往左往しながら進んだり戻ったりしている。間違いない、サクだ。
「よう。結構プレイヤーが来てるな」
後ろから静かに近づき、パーソナルスペース外から、無難に見たままの光景を話題に出してみた。現実世界なら天気の話題でも振るところだが、仮想世界では天気が変わらないのでマヌケな会話になってしまう。
サクがびくりと体を震わせて足を止めた。恐る恐るこちらを振り返り、マントの隙間から覗かせた目を見開く。初対面よりもひどい対応だった。
「驚かせちゃったかな? ごめん」
口角を上げて作り笑顔を浮かべる。世界共通のジェスチャーであり、もっとも親しみを覚える表情である、笑み。しかしサクは一歩後ずさりした。
『こんにちは…… |x・`)』
コンソールに届けられたメッセージも若干引いていた。
今までの仕草や言葉の中に、彼女を怖がらせるような内容が含まれていただろうか。そんなはずはない――と思う。何が悪かったのか心配になり、彼女の表情を探る。人は表情を隠しても、口端といった注意を払いにくい箇所から感情の一端が見えてしまうものだ。
しかし、サクは怯えた顔をしていた。どんな視点から見ても、怯えた顔をしていた。その理由はさっぱり分からなかった。
こんなことは初めてだったので、俺は彼女に対して少し興味が沸いてきたのを感じていた。
「何してたの? ひょっとして、ユータさん達を待ってた?」
無反応や逃げられることすら覚悟していたが、意外にもサクは頷いた。
『うん。あの人達のメールアドレスとか知ってる?』
「悪い、分かんないわ」
メッセージに対して直接返答した。確かにメールアドレスを知っていればゲームにログインしていなくても謝罪できたのかもしれないが、この前は偶然出会ってパーティーを組んでいたので、連絡先は分からなかった。
「俺も謝ろうと思ってたところだし、一緒に待つよ」
サクは俯いている。今回はいくら待ってもメッセージが返ってこなかった。
「ごめん、迷惑だよな」
昨日はガーディアンを倒すという目的があってパーティーを組んでいたが、人を待つのは一人でもできる。彼女のように極度に人との接触を避ける人間にとって、無駄に誰かと一緒に過ごすというのは苦痛なのかもしれない。きびすを返して立ち去ろうとした。
「……っ」
ノイズと聞き間違えそうな小さな声が耳に入り、足が止まった。いや、袖を引っ張られて、足を止められていた。振り返ると、サクが必死に首を振っていた。
『迷惑じゃない。よろしくお願いしますm(_ _)m』
メッセージを確認してコンソールから視線を戻すのと同時に、サクは視線を合わせるのを避けるみたいに頭を下げた。フードが外れ、艶のかかった黒髪が上下に跳ねた。
廃工場の中を進む。サクは人目を避けてずいぶんと遠回りをしていたようだ。俺の後ろに隠れたことで、渋々まっすぐ歩き始めた。
このコンビナートにはガーディアンの一体、風のイテレータが住み着いている。昨日デッドロックの元へと向かう途中、ユータとサクラはイテレータについても攻略方法を話し合っていた。ここで待っていれば、きっと彼らが現れるはずだ。
アップデートから一日経過したこともあって、各ガーディアンの詳しい情報も寄せられている。出現ポイントが分かっているので、最短距離で向かうことができる。
足元に配管が這っているのを見つけ、大股でまたいだ。人目ばかり気にしていて障害物を見れていなさそうな後続が気にかかる。振り返って声をかける。
「足元、気をつけろよ――デッ」
俺は配管を越えた先で、天井から突き出ていた看板に頭をぶつけていた。表面には注意なんて書かれているが、注意を促す看板がこんな低い位置にあったら危ないだろうと、逆ギレしたくなった。
『モトハルさんて面白い方なんですねo(*^▽^*)o』
サクからメッセージが届く。モトハルさんてドジなんですね、という裏の意味まではっきりと読み取れた。顔が赤くなるのを感じながら、隠すために大股で歩き始めた。
他のマップと同じように、新規追加された荒廃エリアにも敵は出現する。他のエリアのボス並にステータスが高く設定されているので、腕の立つプレイヤー同士でパーティーを組んでいなければ進むのは困難だ。廃工場の中央へ向かうにつれて、明らかに周りのパーティーの数が減ってきたのが分かる。
とはいえ、俺はリードタウンに送り返される気がしなかった。後ろには最強のプレイヤーが控えているのだ。
噂をすれば影が差す。正面から黒い球体が一直線に向かってきた。地球を公転する月のように、周りを三枚の湾曲した板が回っている。
サクやユータといった、やり込んだプレイヤーとは違い、俺はまだ制覇していないエリアもある新参だ。サシで戦っても勝てないので、サクの助力を願うことにした。
「サポートはするけど、よろしく!」
振り返ると、――そこには誰もいなかった。
宙に浮かんだ球体から、赤色の太い光が放たれた。柱の周りを這うパイプの束を、射程のない刃で切り裂く。レーザー。パイプを転がし、柱を薙ぎ倒し、アスファルトを貫きながら、こちらに照準が合わさっていく。
まだ崩壊していない工場の奥の方へと走り出す。弓使いの直感が、これ以上ないほどの危険信号を全身に伝えてくる。地面を蹴って前方に跳び、腕を体の前に巻き込むようにしながら前転して受身を取った。
レーザーは俺の頭があった位置を薙ぎ払い、灰色の空へと吸い込まれていった。黒い球体の前に浮かんでいた赤い光が消え、攻撃が止んでいた。
行動を起こすチャンスだが、こちらから攻撃するだけ無駄だ。立ち上がって、全力疾走で逃げ出した。
後ろを振り向くが、追ってきているかは分からなかった。マップを取り出してサクの位置を確認する。彼女を示す赤い円は、ここより少し後方で止まっていた。大股で歩いたせいで距離が離れてしまっていたようだ。
声をかけてくれれば良かったのにと思いかけ、彼女の性格では無理だったことに気づいた。気遣いが足りなかった。
灰色の空へと吸い込まれる赤色の線。前方にそびえ立っていたタンクの上部だけが急激に大きくなる。レーザーで切断されたタンクの一部分が、こちらに向かって滑り落ちていた。
「追って来やがった……」
背中の矢筒から一本の矢を引き抜き、弓を頭上に構えながらつがえる。目を凝らすと、円筒形の錆びたタンクは0と1の集合に変わった。狙うのは、一際高い密度で数字が集まり、濃く映った一点。
引き絞った右手を離す。銀の光が一閃し、タンクの底面を穿つ。タンク全体へとヒビが広がり、細かく砕けて、金属の粉になって辺りに降り注いだ。
振り向くと、黒い球体はすぐ側まで近づいてきていた。弓使いの射程よりだいぶ内側で、攻撃モーションの長さが仇になる距離だ。
球体の周りを回っていた三枚の板が倒れ、地面と平行になった。高速で回転し、丸ノコみたいな凶悪な形状に姿を変えている。
矢筒から三本の矢を抜き、まとめて羽の方を持って、剣のように正面に構える。安くない矢なのでもったいないが、この際仕方がない。
「毛利さんも言ってたみたいに、脆い矢も三本あれば!」
けん制の軽い攻撃を受けただけで、あっけなく三本とも折れてあちこちに飛ばされた。デッドペナルティを覚悟した。
猛スピードで回転する丸ノコが風と音を立てて迫る。飛び散る火花。転がる球体。
助かったのだと理解するまでに時間がかかった。
十字架の断面をした槍頭が地面に突き立てられる。少女は銀色の柄に寄りかかり、気だるそうに首を回していた。頭の向きが変わる度に、工場の中でも色を失わない明るい茶色の髪がさらさらと流れる。揺れるポニーテールは、背中まで届くほど長い。腰の位置が高いので、短いスカートから覗く脚は驚くほど長く見えた。
少女がこちらを振り向いた。開ききっていない活力のなさそうな目。半開きになった口。細かいことを気にしなさそうな、さばっとした印象を受ける。
「だいじょぶ? 横殴りするけど、いいよね」
「あ、はい」
発せられた声は、見た目よりも大人びて聞こえた。俺は慌てて返事をした。
黒い球体が浮かび上がり、眼前に赤い光を浮かべる。少女は槍を地面から引き抜き、一直線に駆け出した。発射された光線が正面から少女を射抜く。そのように俺の目には見えていたが、彼女は光を片手で受け止めていた。腕を突き出しながら手を握り締め、シャクナゲの花弁みたいに八方に赤い光を発散させた。窮地を楽しむかのように、少女が口元を大きく歪めて笑う。
突き出された大きな槍頭は、球体を貫通して破片を辺りに散らした。周りを回っていた板が止まり、地面の上に落下する。穴のヒビが広がり、球体全体が蜘蛛の巣みたいに線だらけに変わる。
少女は敵に背中を向けると、槍を頭上で振り回し、刃先についた欠片を落とした。その背後で黒い球体が地に落ち、割れて砕け散った。
「ありがとうございました」
槍を肩に担いでこちらに向かってきた少女に対し、礼の言葉をかけた。目が上向きの半円状になり、口が一文字に結ばれ、やる気のなさそうだった顔が一気に変化する。これはあれの兆候の表情だ、もっとも親しみを覚える世界共通のジェスチャー。
少女は豪快に唾を飛ばして、笑い出した。
「あはははは! うけるから止め、止めて! その、真面目な顔――」
人の顔を指差し、体を反らせ、目に涙を浮かべて、物凄い勢いで笑っている。彼女の反応には不思議と不快感を覚えなかったし、どういう訳か懐かしさを感じていた。
どこかで会ったことがあっただろうか?
いけないと思いながらも目を凝らす。爆笑している槍使いの姿が、0と1からできたシルエットに変わった。シルエットの奥に、微かに別のシルエットが浮かんでいる。
この少女はおそらく、仮想空間で自分の代わりに使う3Dモデル(アバター)を用いて見た目を偽装している。ネットゲームやチャットルームといった犯罪を助長する恐れのある仮想空間では、アバターは法律で禁止されていて、素顔を使用しなければならない。もちろん、ゲーム自体もアバターを使えないように作成されているのだが、非公認のパッチを使うことでアバターを使用できるという噂話も聞いたことがある。
本当はどんな顔をしているのだろうか――。目を凝らし、裏のシルエットに焦点を合わせる。ポニーテールの女性像の上に、別の女性像が浮かび上がる。顔が認識できそうなくらい陰影が濃くなってきた。
突然、腕を掴まれたような衝撃を感じた。
「ぐっ?!」
鋭い痛みを感じ、頭を押さえた。数字の顔は消え、代わりに真っ暗な視界の中を火花が舞っていた。平衡感覚があやふやになり、膝をつく。
「あたしにアクセスするっていうのは流石だね。でも、ルートキットの使い方は拙い、ログの消し方は甘い、根本的なことができてない」
見下ろしている少女の顔を見る。まるで俺が数字の世界を見ていたことを知っているような口ぶりだった。
「あんた、一体……?」
「ただの、しがないハッカーよ」
俺の質問に対して、少女は口端を歪めて笑いながらそう答えた。