1日目(2)
からんからんと音を鳴らして黄色の欠片が集まっていく。半透明の体をした五本足の蜘蛛、デッドロックは傷一つない元の姿に戻った。
「……まじかよ」
ユータとサクラがだらしなく口を開けてデッドロックを見つめている。
このモンスターは瞬間回復だけではなく、自動蘇生まで身につけている。つまり、攻撃を受けるのと同時に全回復し、倒されても全回復して生き返るのだ。
一度死んだせいか、頭上から雷マークが消え、麻痺の効果がなくなってしまっていた。デッドロックが足を振り上げ、ユータに向かって突き出す。ユータは腕に装備された盾を構えて攻撃を受けた。鋭い金属音が路地裏に響く。受けきったものの、耐久力がなくなり盾が砕けた。
ユータが慌てて代わりの盾をインベントリから取り出した。盾の中では最強クラスの防御力を誇るタワーシールド。さすがに土属性を無効化する盾は一個しか持っていなかったようだが、攻守のバランスに定評のある剣士がタワーシールドを装備すれば、数ターンは持ち堪えて体勢を整えられるはずだ。
「レジスト!」
サクラが防御力を増加させる魔法を詠唱し、さらにユータの守りを固める。
デッドロックが再度突きを放つ。黄色の槍は轟音を立てて、盾ごとユータを突き飛ばした。ビルの壁に激しく背中を打ちつけ、白目をむくユータ。体力ゲージが一瞬にして緑色から灰色に変わり、ドクロマークが表示された。
俺は目を疑った。ユータのいた場所に表示されているダメージは、ほとんどカウントストップしている。攻撃力まで尋常ではない。
デッドロックが足を交互に上下させて、猛スピードでサクラに迫る。
「ごめん、後はよろしく」
サクラがとびきりの笑顔を浮かべて、おどけて敬礼をして見せた。トレードマークのポニーテールが横に揺れる。
デッドロックが彼女を巻き込んでビルに突っ込んだ。壁が砕け、両者の姿が見えなくなった。
コンソールには三つのドクロマークが表示されている。とうとう一人だけになってしまった
ドスドスとコンクリートの抉れる音を立てて、俺にもゲームオーバーが近づいている。猛スピードで壁を這い登り、ビルの屋上まで最短ルートでデッドロックが迫っている。
高レベルの剣士が一撃で倒されるような相手と近接戦闘なんてできるわけがない。さらにはその異常な攻撃力に加え、瞬間回復と自動蘇生まで保有している。いっそバグかRPGの負けイベントではないかと疑ってしまいたい。ずるずると階段の前まで後退した。
デッドロックが迫ってくる!
このまま大人しくやられるしかないのだろうか。デスペナルティを回避するなら、移動アイテムを使って街まで逃げるという手もある。いや、そんなことをすれば、パーティーの面々に合わせる顔がなくなってしまう。そういえば戦闘の始まる前に、ユータから渡されたものがあった。
デッドロックが迫ってくる!!
インベントリからイシスの涙を取り出した。取っ手が二つついた銀の器には、一人を蘇生することができる青色の液体が入っている。自分の顔が映ったそれは、とても頼もしく見えた。
状況から判断して、使うのは回復役のサクラが相応しい。俺がデッドロックに倒されている間に、地上の二人を蘇生させて少しは戦況を戻すことができるはずだ。
半透明の足が屋上の縁を捉え、巨体が姿を現す。五本の足が屋上のコンクリートに突き立つ。抉られた破片が四方に弾き飛ばされた。
視界が流れ、俺は地面に背中を打ち付けた。
突然のことで、何が起きたのか理解するのに時間がかかった。飛ばされた瓦礫が太ももに当たり、足をすくわれて倒れたらしい。コンソールを確認すると、たかが石が当たっただけなのにHPが半分も削られていた。
激痛の走る太ももをさすりながら上体を起こす。ふと、手の中から銀色の器がなくなっていることに気づいた。落として壊したのかと慌てたが、アイテムは使うまで壊れることはないはずだ。コンソールのパーティー欄に目を通す。
ドクロマークは二つに減っていた。ただし、サクラは蘇生していなかった。代わりにドクロマークが消えていたのはサクだった。タイミング悪く倒れたせいで、蘇生アイテムを間違えてサクに使ってしまったのだ。
「終わった……」
半目で灰色の空を見上げる。死んだプレイヤーの音声は届かないはずだが、ユータとサクラの罵声が聞こえる気がする。
視界の中で黒いマントが翻った。彼女はデッドロックの頭だと思われる黒い正八面体を踏みつけ、無駄に高い跳躍を見せ付けて着地した。頼りない小柄な背中が、俺の前に直立している。
『ありがとう(^―^)』
俺の気持ちなんてお構いなしに、サクからメッセージが届いた。礼を言われる筋合いなんてない。正直なところ、できることなら返してほしい。
「戦えそうなのか? なんなら逃げても――」
彼女はデッドロックによって真っ先に倒されている。こんな二人が共闘したところで勝ち目はないので、俺は退却を提案した。
サクは返事をする代わりに、シャムシールをそれぞれの手に構えて前傾姿勢をとった。
足が地面を離れる。風が吹き抜けたかのように、軽やかなステップでデッドロックとの距離を詰める。一度こっぴどくやられたというのに、まったく恐怖の色は見られなかった。
そういえばコンソールを見ていたので何とも思っていなかったが、彼女はユータやサクラが一撃で倒された攻撃を、何度も耐えていたのだった。
デッドロックが振り下ろした足を軽々と避け、背中を合わせて軸にして回る。勢いをつけて、振り向き様に両手のシャムシールで斬りつける。浮かび上がった数字は共に五桁。
腕力だけでダメージの上限を超えるなら、上級武器のような攻撃力の高い武器を使う必要はない。むしろ低級武器のシャムシールを装備して、単純に手数を増やした方が総ダメージ量は大きくなる。もっとも、そんなステータスになった人間を俺は見たことがなかった。
『今度は本気出す』
サクは素人なんかではない。……ネットゲームにすべてを捧げた廃人、廃神だ。
左の斬撃。続けざまに繰り出される右。交差させた刃を開放させた斬撃。急所を的確に狙った突き。デッドロックが次の攻撃に移る前に、目にも止まらぬ速さで連続攻撃を放つ。
デッドロックの欠けた体が直ちに元に戻っていく。瞬間回復――。凄まじい攻撃を繰り返したところで、一度にカウントストップ級のダメージを与えられなければ攻撃は通用しない。
存分に時間と金を費やして鍛えてきた彼女が強いのは分かる。だがそれでも、ゲームバランスを崩す強さを持つこの敵は倒せない。
黒いマントがはだける。苦々しい顔をした少女の顔があらわになった。
*
カーテンが引かれドアも閉じられたその部屋は、じめじめした臭いが漂ってきそうなほど真っ暗で、壁際に置かれた白く光るモニタだけが光源だった。冬真っ只中だというのに、エアコンがつけっぱなしになっている。部屋の隅では長細い直方体がウーウー唸っている。ここは、とあるマンションの一室。
二つの影がモニタの前に座り、映し出されている少年を一心に見つめていた。
「心配か?」
男が尋ねた。モニタが明るくなる度に顔に陰影が浮かび、端正な顔立ちがあらわになる。
「別に。私の息子だもん、心配なんてないよ」
女が答える。言葉とは裏腹に、ぼさぼさの髪を指に巻きつけて絶えずいじっている。
「むしろ期待してる……のかな。あの子は生まれたときからネット世界に触れて、息をするようにネット世界に慣れてきた」
「俺が言うのもなんだが、望ましい教育とは思えないな」
口を挟むんだ男を、女は目を細めて睨んだ。
「英才教育って言ってほしいな。赤ん坊の頃から外国語を聞かせる教育だってあるじゃない。まぁそれはともかく、私みたいになるには慣れるのが一番の早道なんだよ」
技術とは慣れだ。例えば本。日本語の一文字一文字を素直に読み取っていたら、本一冊を読み終わるのにとんでもない時間がかかってしまう。しかし年数を経て日本語に馴染むことで、文字の集合をフレーズとして理解し、素早く読み取ることができるようになる。音楽のコードも同じだ。楽譜に記載された一音一音をドレミと数え、鍵盤や弦を押さえる指を確認してやっと音を出すことから始まり、やがて黒い丸の位置関係と指先が結びつく。
「あの子なら、私が諦めた場所に、きっと辿り着ける――」
モニタの中の少年が驚いたように視線をさまよわせているのを見て、女は口端を歪めて笑った。
*
灰色の空に染み付いた黒い丸が急速に大きくなる。振り下ろされる鋭い足先。
俺は地面を蹴って前方に転がり、急降下してきたデッドロックの攻撃を命からがら避けた。
起き上がりながら、頭部と思われる黒い正八面体に向けて弓を射る。矢が触れた瞬間、デッドロックの体は黒い霧で包まれた。命中率が大幅に下がる、暗闇の状態異常。あれを倒す一手にはなりそうにないが、考える時間稼ぎくらいには使える。
俺に向かって突進を始めたデッドロックの体を、サクが横から蹴り飛ばした。双剣を振りかぶりながら距離を詰め、平行した剣撃の閃光を浴びせる。体に飛び乗って突きを真下に繰り出し、地面に叩きつける。突き出された足を避け、交差させた刃で斬り落とす。前方宙返りで勢いをつけ、起き上がろうと踏ん張ったデッドロックの足を叩き斬る。
サクが隣に立った。肩を上下させて荒い息をしている。デッドロックの足が元に戻るまでの短い時間で、呼吸を整えているようだ。
はだけたマントから横顔が覗いている。鼻は低いが、鼻先、口、顎を辿るラインが真っ直ぐで、顔立ちはバランスが取れている。無造作に鎖骨まで伸ばした、染めた経験のなさそうな艶がかった黒髪。垂れた前髪に隠されているが、垂れがちな一重の目。ほんのりと赤く染まった頬。戦闘中は大胆に振る舞うことが分かったが、顔からは大人しそうな印象を受けた。
最強のプレイヤーを味方につけながら、何もできない自分の無力さを痛感する。せめて状態異常スキルで瞬時回復や自動蘇生を阻害することができれば、勝機はあった。だが、弓使いに限らずどんなスキルを使っても実現する方法は思いつかない。
『やっぱ無理ぽ_| ̄|○』
サクからメッセージが届いた。横顔をまじまじと見ても、目は合わせてくれなかった。これだけ切羽詰った状況で、これだけ近い距離にいても、直接話すことはできないらしい。
「いや、お前すごかったよ」
声をかけると、サクは戦闘で火照った顔を一段と赤くして、マントの襟に顔を埋めた。
どんなスキルを使ってもデッドロックを倒せないとしたら、どうして運営はそんなモンスターを作り上げたのだろう。ゲームに設けられた以外の何かを持ち込むことを望んでいるのだろうか。俺の母親だったら魔術師のように、モンスターどころか世界を作り変えてしまうだろうに。
幼い頃に彼女から聞いた言葉を思い出した。初めてバーチャル世界を体験したときのことだ。俺は急に居場所が変わったことに不安を感じ、泣き出していた。
『なんで泣くかなぁ。ほら、大げさに考えることなんてないよ。たかだか0と1しかない電位の世界じゃない』
当時は余計に泣き声を荒げたらしいが、今は彼女の言いたかったことが少しだけ分かるようになった。ここは、物質も、生物も、現象も、法則も、すべてが人の考えの中で作られた世界。すべて人の頭で説明がつき、人の頭で解決できる世界。
デッドロック? たかだか数キロバイトのプログラムだろう。
黄色掛かった半透明の蜘蛛がコンクリートの地面に横たわっている。色が薄れていき、目に映るのはモノクロ写真みたいに白と黒だけになってしまった。よくよく目を凝らすと、それらは点の集合で構成されているのが分かった。視力を超えてさらに解像度が上がる。デッドロックを構成しているのはただの点ではない。0と1。密度の違いで濃淡があるように見えていただけだったのだ。
俺は驚いて視線をさまよわせた。空も、ビルも、弓も、すべては数字の羅列から構成されている。サクがいた場所に顔を向けると、人型をした数字の塊が見えた。裸を見ているような錯覚を起こして、気恥ずかしくなって目を逸らした。
再びデッドロックを見据える。常に0の部分。常に1の部分。呼吸をするようにゆっくり0と1が交互に切り替わる部分。足も胴体も同じ半透明の物体からできていると思っていたが、こうして見ると異なっているのが分かる。この数字の羅列に意味はあるのだろうか。起き上がったデッドロックの上部に、一際目立つ、ひし形の部分があった。確かあの位置は、頭部と思われる黒い正八面体だった。脈動するように頻繁に0と1が切り替わっている。
数字から構築された人間が、数字の塊を持ってデッドロックへと斬りかかる。ひし形の部分から0が1へと順に切り替わり、傷を負った場所へと繋がる。まるで数字の小川だ。正八面体から何かが伝わり、欠けた胴体を直ちに元に戻している。
瞬間回復と自動蘇生の仕組みを理解した。
俺は矢筒から一本の矢を引き出し、顔の前に掲げた。大量の0と1――高濃度のパケットを矢というプログラムの中に押し込む。見た目には変化がないが、視界を切り替えると小さな棒の中で数字が無数の蟻のように駆け巡っているのが分かる。
矢をつがえ、弓を頭の上まで持ち上げて引く。
最大まで引き絞った右手が離れる。放たれた矢が、コンクリートの地面と水平に疾走する。矢尻が黒い正八面体に突き刺ささり、矢羽が上下に揺れた。
待っていたかのように、矢尻を通って大量の0と1がデッドロックの体内へとなだれ込む。周囲に不自然な白い線が浮かんでは消え、動作が途切れてカクカクして見え始めた。処理能力以上の負荷を与えたせいで、デッドロックを描写する処理が遅れているのだ。
サクも尋常ではない様子に気づいたようだった。攻撃すべきかどうか決めあぐねている。
「サク、頼んだ!」
俺の声に反応し、シャムシールを一度収め、柄に手を添えて腰を落とした。このモーションは剣士最強攻撃、全方位からの15連撃。いや、双剣の彼女が放つのは30連撃か。
「……!」
おそらくスキル名を口にしたであろうと思われるが、ただでさえも小さな声なのに、剣戟に飲み込まれて一切聞き取れなかった。
抜刀したシャムシールによる二閃。体表を削りながら背後に周り、斬り下ろしてからの突き。突き刺さった剣を支点にして自身の体を持ち上げ、抜いた反動で斬りつける。回転して何度も斬撃を浴びせながら側面へと飛び降り、双剣を振り上げて体勢を崩す。切っ先を天に向け、足元へ滑り込んで傷跡を残す。刃を斜めに突き上げ重心をずらして、屈みながら振った双剣で軸足を刈り取る。倒れこんだ巨体に対して唐竹、袈裟斬り、横一文字の剣撃を浴びせる。一瞬にしてデッドロックは全身に深手を負っていた。
切り落とされた足が元に戻らず、コンクリートの上で砕ける。落下した頭部が弾け散る。デッドロックの体が崩壊していく。
瞬間回復も自動蘇生も行われる気配はない。弓矢を通して情報の塊を食らわせることで処理落ちさせ、瞬間回復や自動蘇生の判定処理を遅らせたのだ。デッドロックの体はみるみる細かくなり、塵と化した。
屋上に積もった黄色の砂が、風に巻き上げられて灰色の空へと散っていった。
デッドロックの頭部が落ちた場所に、何か小さな光るものを見つけた。凝った細かい装飾がなされた銀色の輪で、周上に黄色い宝石が埋め込まれている。近寄って拾ってみると、それは指輪だった。
デッドロックが落としたものだろうか。普通のアイテムドロップならコンソールにアイテム名が表示されるはずだが、名前が表示されないどころかインベントリに入れることもできなかった。
とまぁ、そんなことは些細なことだ。俺は久しぶりに感じる興奮で満たされていた。
「やったな!」
この感情を共感したいと思い、共に戦った仲間に駆け寄る。三歩近寄るとサクは三歩下がった。ピコンと、メッセージが届いたことを示す電子音が聞こえた。
『やりました(//∇//)』
コンソールから顔を上げると、マントから覗く、ぎこちない笑顔が見えた。