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1日目(1)

 足元を注視し、つまずかないように気をつけながら、放射状にひび割れたアスファルトの上を歩く。漂う錆びた鉄の臭いのせいで、ここに来てからずっと頭がずきずきと痛んでいる。無駄だと思いつつも、俺は手の甲で鼻の下を拭った。

 白い岩の塊に飛び乗る。どこぞの国の一枚岩みたいに見える板状のそれは、倒れて割れた壁のようだった。見上げると、自身を囲むようにして茶色の鉄骨がそびえ立っていた。道どおりに進んでいるつもりだったが、柱だけになったビルの中に入り込んでいたらしい。

 柱の間取り的に中央と思われる場所には、脚が折れて傾いている机がある。木製かと思いきや、近づいてみると汚らしく錆びたオフィスデスクだった。天板に指を這わせる。人差し指の腹が茶色に汚れた。

 ――瓦礫と錆と煙に覆われた舞台。こんな荒廃した世界までリアルに再現する必要があったのだろうか。エリアに足を踏み入れたばかりだが、既に好奇心よりも帰りたい気持ちの方が強くなっていた。俺はズボンで手を拭った。


 道草を食っている間に、先頭の二人から遅れてしまっていた。一人だったら迷わず移動アイテムを使って立ち去っていただろうが、パーティーを組んでいる以上、そんな身勝手なことはできない。がちゃがちゃと装備を揺らしながら、小走りで男女に追いつく。振り返らなかったが、後ろからも同じように小走りでついてくる足音が聞こえていた。


 ビルの跡地から抜け出した先は、比較的建物の原型が残ったエリアだった。荒れた道路の両脇に、塗装が剥がれ、所々欠けた壁が並んでいる。壁から垂直に突き出した看板は色あせているが、辛うじて文字を読み取ることができる。雀荘。焼き鳥。居酒屋。スナック。ラインナップは駅前の飲み屋街を思わせる。荒廃する前がどういう街並みだったのかを、ようやく理解した。

 辺りは薄暗いので、両端の黒ずんだ蛍光灯が幾つか点滅しているのが目立って見える。ゲーム中の時刻はまだ正午を過ぎたばかりだが、空を覆うスモッグのせいで、まるで夕方のような光景になっている。


 かつてこの国の住人は鉱物からエネルギーを生み出す、魔法とは異なる原理の技術を持ち、便利な生活を送っていた。しかし鉱物からエネルギーを生み出す際に発生する汚染物質により土壌や大気が汚れ、生活環境は徐々に悪化していった。やがて無限と思われていた鉱物も枯渇し、国は急激に荒廃してしまった。

 ……そういう設定だ。

 ここはチェインサーガと呼ばれるMMORPGの中。BCIケーブルという、脳とコンピュータ間で情報をやりとりするヘッドギアを用いた、究極のバーチャルリアリティの世界だ。

 俺達は今、ガーディアンと呼ばれるボス級モンスターの討伐に向かっている。ガーディアンとは、本日のアップデートで追加された四体のモンスターのことだ。守護者という大げさな名前に相応しく、ゲーム中に一体ずつしか存在せず、一度倒されると出現しなくなってしまうらしい。多くのプレイヤーが我先にと討伐にチャレンジしているが、まだ倒されたという報告は入っていない。


 宙に指を這わせてジェスチャーでコンソールを開く。コンソールには『アイテム』や『ログアウト』といった行動や、時刻や現在地、HPやMPといったゲームの情報が記載されている。パーティーの欄には、自分を含めて四名の名前が表示されている。


 先頭を歩いている男女は、パーティーマスターのユータと、その友人のサクラだ。このゲームが運営を開始した当初から活躍している、有名な古参である。共に三十歳くらいだろうか。時折からかい合ったりボディタッチを交わしたりしていて、親密そうな関係のようだった。

 サクラは、フードのついた白いポンチョに身を包んでいる。短いポニーテールと少し横広い口が印象的で、とびきり美人というわけではないが人懐こそうな顔をしている。手にしている二匹の蛇が巻きついた杖は、カドケウスとかいう白魔導士の上級武器だ。

 ユータは、線のように細い眠そうな目をしているが、地毛と思われる若干茶色がかった髪を跳ねさせていて、辛うじて快活そうな印象を与えている。肩と胸に黒光りするプレートをつけ、刃が複雑に波打った剣を担いでいる。テンペストブレードとかいう、これまた入手困難な剣士の上級武器だ。


 パーティー欄の上から三番目に表示されているのは、モトハルという俺の名前だ。街でガーディアンを討伐するパーティーを探していたところ、ユータから声をかけられた。


「調子悪そうだな。大丈夫か?」


 埃っぽく鉄臭い空気のせいで、ひどい顔をしていたのかもしれない。振り向いたユータが歩み寄ってきた。俺は慌てて表情を取り繕った。


「ご心配なく。シミュレーションがリアルすぎて、少し気持ち悪くなっただけですよ」

「確かに、このエリアはやりすぎな気がするよな。さっさと倒して街に戻ろうぜ」


 討伐が中止になることを心配していたのか、ユータはほっとした様子だった。


「辛くなったら無理せずに言ってね」


 サクラが顔を覗き込んできた。ユータの言葉は、体調よりも目的を重視していると受け取られ、相手によっては心象を悪くさせる。彼女はそこまで計算してフォローしているのか分からないが、いい関係だと思った。

 俺は口端を上げ、笑顔を浮かべて頷いた。しかし、あいつに頬を引っ張られたような気がして、口を押さえた。


「抜け駆けなら心配いらないぜ。どうせ、お前がいないと攻略できないからな」


 ユータが豪快に笑い、再び歩き始める。

 全然知らなかったのだが、ユータの話では俺は状態異常スキルの使い手としてそこそこ有名らしい。なんでも巷では「状態異常ディザスターのモトハル」とか呼ばれているとのことだ。巷がどれだけの人数を指すのか分からないが、こちとて中二病は卒業していて恥ずかしいので止めて欲しい。

 状態異常スキルとは、弓使いだけが使えるスキルで、混乱させたり、視界を悪くしたり、能力や速度を低下させる効果を攻撃に付加することができる。状態異常を与える確立は全体的に低く設定されており、戦闘ではあまり当てにされていない。クリティカル率を高めたり、スキルを強化することで確立を上げることはできるが、100%には程遠い。

 ……実は俺は状態異常スキル使いではない。あまりこのスキルを強化していないのだ。だが不思議と弓を射ればボスですら一発で状態異常にかかり、二発でザコ並みの戦闘能力と化してしまう。もっとも自分ではバグだと思っているので、他のプレイヤーや運営を含めて誰にも話していないのだが。

 矢筒を背負いなおした。俺の装備は弓使いらしく、移動性の高い軽い服だ。いつ戦闘になっても対応できるように、左手には金属製の小型の弓を手にしている。


 パーティー欄の一番下に表示されているのは、サク。このパーティーに入るまで聞いたことのない名前だった。

 後ろからついてくる小柄な少女の方を振り向いた。黒いマントを頭から羽織り、ずっと俯いているので顔がよく見えない。

 彼女もユータと同じく剣士のようで、シャムシールと呼ばれる湾曲した刀身の短剣を二本腰に差している。二刀流のスキルは攻撃力が0.4倍になる補正がかかり、手数が増えても肝心の攻撃が通らなくなってしまうので、ボス戦で使う装備ではない。ましてやシャムシールは攻撃速度のみに秀でた短剣で、クリティカルにも期待できない。

 要するに、なぜ彼女がパーティーに選ばれたのか分からなかった。パーティーを組んだ際にユータから作戦はだいたい聞いているが、彼女には特別な役割が与えられているわけではなかった。単なる人数合わせなのかもしれない。


 ピコンと電子音がした。開きっぱなしになっていたコンソールに、メッセージが届いたことを示すアイコンが表示されていた。

 コンソールを操作してメッセージを表示する。送信元はサクだった。


『どうしたの?(^―^)』


 ご丁寧に笑い顔の顔文字までついている。コンソールからサクに視線を移すが、メッセージの口調とは裏腹に、相変わらず彼女は地面を見つめていた。


「なんでもない」


 コンソールを閉じ、素っ気なく口で返事をした。

 こんなに近くにいるのだから、メッセージを使わずに直接話しかけてくればいいと思うのだが。やはりネトゲをやっている人間は変な人が多いのかもしれない。


 ぱらぱらと壁の破片が落ちる。ユータとサクラが会話を止めて足を止めた。

 どすん。今度は地面を伝わる振動を捉えることができた。どすん。どすん。地響きが続いている。俺達は壁に背中をつけた。

 ユータが壁から顔を半分出して、路地裏を覗く。唾を飲み込み彼の喉仏が上下するのを見た。


「いた。デッドロックだ」


 今回挑むのは、ガーディアンのうちの一体、土のデッドロック。俺達もユータに近寄り、壁から顔を出した。


 西洋の庭園に置かれている屋根と柱だけの建物、ガゼボみたいな構造物が道路の真ん中に置かれていた。五本の柱は中央付近で外側に屈曲している。黄色掛かった半透明のクリスタルで作られており、屋根の上には黒い正八面体の飾りが取り付けられている。

 柱のうちの二本がさらに折れ曲がり、地面から離れた。アスファルトに埋まっていて分からなかったが、柱の先は鋭く尖っていた。

 ガゼボが傾き、屋根が地面と平行に移動して重心を移す。二本の柱が地面に突き立ち、地響きが起きた。続いて、先程とは別の二本の柱が地面から離れた。

 ガゼボは動いていた。もはや建物というより、クリスタルでできた五本足の蜘蛛みたいな生き物に見えた。


 両脇には飲み屋街のビルが立ち並んでいる。それぞれのビルに視線を移し、階数や窓枠の位置を確認する。


「モトハル、ちょっといいか?」


 ユータが声をかけてきたので、壁から顔を引っ込めた。


「後衛のお前に、蘇生アイテムを預けておく。よく考えて使ってくれ」


 彼の手には、青色の液体が入った銀の器が握られていた。イシスの涙。死んだ状態から回復できる唯一のアイテムで、これ一つで上質な装備が揃うくらい、とても高価なものだ。


「――分かりました」


 両手で受け取り、インベントリに入れる。高価なアイテムを貸してもらえるほど、信用されているのは嬉しい。しかしずっしりと荷物が重くなった気がした。

 よく考えるまでもなく、使い方は決まっている。白魔導士も魔法を使って蘇生することができる。ユータの友人でもあるため、後々の不要ないざこざを起こさないためにも、いざという時はサクラに使うのが正しいと思う。


「作戦は頭に入ってるな? 行くぞ!」


 勇ましく声を上げ、ユータが路地裏へと駆け出す。その後にサクラとサクが続いた。対して俺は、隣の路地裏へ向けて駆け出した。

 立ち並ぶ建物のうちの一つに駆け寄り、ドアのない裏口から中に入る。設備は風化して崩れているが好都合、階段はすぐに見つかった。一段飛ばしで階段を駆け上がる。二階――足を止めずにさらに上階を目指す。先程確認した感じでは、五階建ての建物だった。三階。四階。

 出しっぱなしにしたコンソールには、パーティーの四人の体力が緑色のゲージで表示されている。サクの体力がガンガン削られていき、失われたことを示す灰色のエリアが広がっていく。サクラが回復を試みているようで時折緑色のゲージが伸びるが、間に合わない。すぐに死んだこと示すドクロマークが表示された。攻撃も防御も紙なのかと、俺は呆れた。

 さらに階段を駆け上がり、蝶番が崩れて形だけ残っていたドアを蹴破った。開けた景色は、痛んだコンクリートの地面に灰色の空。屋上だ。

 金属音が響いている方向へと駆け寄る。柵がないので、ぎりぎりまで身を乗り出して眼下を覗いた。

 テンペストブレードを構えたユータがデッドロックと対峙している。彼の少し後ろでサクラが詠唱を行っている。壁際には、ドクロマークを頭上に浮かべて倒れているサクの姿も見える。


 デッドロックがユータ側の三本の足を高く振り上げ、残りの足で地面を蹴った。半透明の巨体が彼を飛び越して宙を舞う。狙われているのはサクラだ。サクが倒れたので、回復魔法を連発していた彼女にターゲットを移したらしい。

 五本の足を傘みたいに折りたたみ、尖った足先をサクラに向けて急降下する。防御力の低い白魔導士にとって、即死級の攻撃であることは明らかだ。


「サクラさん避けて!」


 ここから矢を放ったとしても、攻撃中の敵を止めることはできない。身を乗り出して叫ぶがどうしようもない。

 凄まじい金属音が耳をつんざいた。衝撃で風が巻き起こり、屋上まで土煙が吹き上げた。俺は思わず目を閉じた。


「モトハル、今だ!」


 ユータの声が耳に届く。俺はとっさに目を開き、流れるような動作で矢筒から矢を引き抜き、弓につがえた。

 サクラは無事だった。デッドロックの槍のような足は、ユータの腕を覆う小さな盾によって遮られていた。攻撃を受ける直前、剣士のスキルで身代わりになったに違いない。装備している盾は土属性の攻撃を無効化する特殊なものであり、まったく被害はなかったようだ。

 構えた矢の矢尻から黄色の泡が立ち上る。スキル名、パラライズアロー。麻痺の状態異常を攻撃に付与し、3パーセントの確立で攻撃速度と移動速度を半減させる。

 ワンテンポ置き、成功した光景をイメージして気持ちを落ち着かせる。これは攻撃には不要な動作だが、いつも行っているジンクスだ。

 引いた右手を離す。ビルから地面へと黄色の閃光が走る。放たれた矢が側面を穿ち、着地したばかりのデッドロックが体勢を崩した。

 デッドロックの頭上には雷のマークが表示されている。成功だ。

 矢が食い込み、ひび割れていたクリスタル製の胴体が塞がっていく。瞬間回復――攻撃を受けるのと同時に全回復するという、ボスが持つには相応しくないふざけた能力だ。デッドロックが瞬間回復持ちだというのは、事前情報通りだった。


 デッドロックがこちらを振り向いた。より多く攻撃したプレイヤーに対して攻撃するという、ヘイト値を用いたアルゴリズムを踏襲しているようだ。

 足先を壁に突き刺して、一歩一歩着実にビルをよじ登っていくる。地形を無視して移動してきたのには驚いたが、移動速度が半減しているので亀のようにのろかった。


「リインフォース」


 サクラが魔法を唱えると、ユータの足元に赤い魔方陣が現れ、剣の紋章が浮かび上がった。攻撃力を増加させるスキルだ。彼女ほどのレベルになれば、攻撃力を倍にすることもできる。


「リインフォース、リインフォース、リインフォース。……リインフォース!」


 後衛でひたすら、連続で詠唱する魔法を使っていたようで、魔方陣の数が一気に五個に増えた。


「これで攻撃力は32倍。風属性のテンペストブレードは土属性に対して2倍の有効打だから――ッ!」


 ユータが勝ち誇った顔で剣を振りかぶる。さらには、背面からの攻撃に、風属性の攻撃スキルによる補正もかかるはずだ。攻撃と同時に全回復するのだとしても、一撃の攻撃力を増やしてHP以上のダメージを与えれば、瞬間回復を破ることができる。ユータの作戦通りになった。

 アスファルト上の塵や埃が剣に向かって吸い寄せられていく。集められた風が圧縮され、テンペストブレードに纏われる。ユータがデッドロックの背面に向けて剣を振り下ろした。風が開放され、巨大な風の刃が壁面と地面を抉る。表示されたダメージは五桁の9。カウントストップだ。クリスタルの体が砕け散る。半透明の足や頭が、狂ったようにアスファルトの上を転がり回った。


 からんからんとデッドロックの破片の転がっている音だけがビルの間に響いていた。しばらく俺達は言葉を失っていた。


「やったな!」

「カンストだよ、カンスト!」


 飛び跳ねて子供のようにはしゃいでいる二人の姿を見て、ようやく勝ったことを実感した。あんな化け物をよく倒せたものだと思う。二人と合流するため、階段に向かおうと振り返った。


 足を止める。からんからんと音が鳴り続けている。何かがおかしい。再び屋上から身を乗り出して、眼下を覗く。

 音はだんだんと大きく多くなっていく。時間を戻したかのように、飛び散ったクリスタルの欠片が一点に集まっていく。五本足の蜘蛛を形作っていく。破片間のひびが埋まり、デッドロックは元の姿に戻った。

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