第二章:2013年、秋 (1)
昔、コンパルソリーというものがあった。今のフィギュアスケートは、どの競技も、ショート、フリーの二部構成だ。でも、その昔はショートプログラムがなくて、コンパルソリーフィギュアとフリースケーティングだけだった。その後、コンパルソリー、ショート、フリーの三部構成となる。
コンパルソリーは、規定、またはスクールフィギュアとも呼ばれる。つまり、滑りの基本的な技術のみを見る競技だ。決められた図形をいかにトレースで描き出すか。いかに正確にトレースをなぞるか。そういった技術が評価の対象となる。
今はもう廃止されていて、僕が生まれた頃にはなくなっていたのだけれど、今でも練習にコンパルソリーを取り入れる人はそれなりに多い。特に僕のコーチは、そういう練習を良く入れてくる。
夏から秋にかけて、僕は例年より多めにコンパルソリーの練習をした。
スケートなのだから、基本の滑りは大切で、当然ながらすべての要素の基になる。滑りが良くなれば、当然ステップも歯切れ良く正確になるし、スピンやジャンプに関しても、前後の流れがスムーズになり、それにより無駄なく安定して実行することが出来る。すべての要素は、スケーティングの延長なのだから。
…いや、偉そうに言ったけどこれは全部受け売りでした、はい。
まあとにかく、せっかく世間は四年に一度のシーズンを前にしてにわかに熱し始めているのだから、僕も少し心機一転してみようと思った次第。それは初夏から僕の胸の奥にあるしこりを一時忘れさせてくれもした。
十月に入り、北海道は残暑もそこそこ、冷たい風が吹き始めていた。
「どうだ?」
「変わったような、そうでもないような」
「おい」
「冗談だよ、やっぱり違うなあ」
僕はコーチとそんなことを言い合う。最近、何となくジャンプの調子が良い…気がする。ステップは前から結構好きな要素だったけど、ステップも、一蹴りで滑る距離が伸びて、一度振付の手直しもしてもらった。スピンは…ノーコメントで。
「そうだろうそうだろう」
偉そうに胸をそらすコーチに、何となくむかむかしたので、今日の晩御飯にはコーチの嫌いなブロッコリーを出してやろうと思った。
「でもコンパルソリーは疲れるよ。その割りに地味だし」
「馬鹿言ってんな。俺が現役だった頃はコンパル出来なきゃ世界で戦えなかったんだぞ」
だから練習の三分の一はコンパルやってたんだ。
そんなコーチの言葉にげんなりしながら、片足でゆっくり図形を描く。確かに、地味だけれど滑りのコツみたいなのはつかめる気がする。滑らかに、確実にトレースを描く。ブレードの一点だけを使って。
この一点だけを使うというところがミソだ。この一点が後ろにずれたらバランスが崩れるし、前にずれたら、つま先のトウピックが引っかかってしまい、流れが阻まれる。
この動きをプログラムの中でも出来たらいいのだが、一朝一夕ではそうもいかない。
「練習あるのみ、だな」
コーチのにやけ面に、今日の晩御飯はブロッコリーだけじゃなく、セロリもつけてやろうと、僕は密かに決意した。
「おい、今何考えた」
「え、別に」
「ほう、余計なことを考える余裕があんのか。今日は気合入れて指導してやんねえとな」
ひ、ひいいい。
もういつものパターンと化しているやり取りを繰り広げつつも、僕は練習に精を出した。そろそろ追い込みをかけたほうがいいかもしれない。
夏からの練習で、トリプルジャンプが安定し始め、以前はなかなか決まらなかったフリップやループも、曲をかけた練習でもそこそこ降りられるようにはなってきていた。
でも、肝心のジャンプが、まだ安定しない。
今の時点での、トリプルアクセルの成功率は、単なるジャンプ練習で2~3割。曲かけ練習では1割に届くかどうかだった。
「そこでもっと腕を引き寄せろ! 左腕の引き寄せ方が甘いから軸がぶれるんだっ」
言われなくても分かってるよ! 文句をどうにか飲み込む。
本当に大雑把な分け方だが、ジャンプを跳ぶ選手には二つのタイプがある。
まずは、ジャンプ力を生かし、滞空時間を稼いで回るタイプ。滞空時間が長いので、余裕をもって回りきることが出来、勢いもあるので着氷もよく流れるため、決まると評価が高い。ただ、その分しっかりコントロールできないと降りるのが難しい。勢いがついているため、ともすると派手に転倒してしまう。ちなみにこのタイプは筋力に勝る男子選手に多い。
一方で、回転軸を細くし、高速回転で回りきるタイプの選手。こちらは先述のタイプと比べて、質の面では劣るものの、コンパクトに跳ぶので大失敗につながりにくい。ただ短い時間に回るので、転びはしなくても、回転不足をとられやすいという面もある。こちらは体格の小柄な女子選手に多い。
ちなみに、この両方を併せ持った選手が四回転なんぞを跳んだりするのだ。
僕は、それほどジャンプ力に恵まれなかったので、二番目のタイプになる。出来るだけ軸を細くしてコンパクトに回るタイプだ。
でも、それだけじゃトリプルアクセルは跳べない。アクセルジャンプ、特にトリプルは、半回転多く回るので、他のトリプルジャンプと同じように跳んでいたら、絶対に降りられないのだ。
僕の場合は、それまでよりジャンプに高さを出さなければならなかった。だが、それが難しい。
ただ単に高く跳ぶだけではない。これまで通りの回転速度を保ちつつ、高さを出さなければならない。でも高く跳ぶとそれだけコントロールが難しくなり、より繊細な技術が求められる。その弊害として、たとえば跳ぶタイミングであったり、軸の作り方であったり、そういった部分でより高いレベルを求められる。
基本の滑りにも力を入れたためか、昨シーズンと比べて、良くはなってきている。でも、まだ全く足りていない。
本日16度目のトリプルアクセル転倒の後、もう一度跳びにいこうとしたところでコーチが言った。
「今日はもういい。帰って休め」
少し頭を冷やせ。そんな表情で僕を見つめるコーチに、しかし僕は焦りを抑えることが出来ない。
もう二週間後に迫った、東北・北海道地方のブロック大会。勝負の季節が始まろうとしていた。
作中での技術的な解説は、作者の想像の部分が結構ありますので、間違っていたらすみません。