第一章:2013年、夏 (2)
さて、僕が通う北城大学だけど、もちろん他にも何人ものスケーターがいる。そして大学内にリンクがあるくらいだから、当然世界レベルの選手を何人も輩出している。スター選手だっているし、リンクには往年の名選手が描かれた垂れ幕が掛かっていたりする。
現役の選手にしても、グランプリシリーズの優勝者だったり、世界選手権のメダリストだったりが普通に練習している。
それに混じって僕も練習しているわけだけど、そういったトップ選手たちと、僕のようなアレな選手の間に溝があるかと言うと、そうでもない。
まあ確かに実力には差が開いてしまったけど、スケートリンクの数に限りがあるため、選手たちは皆子供の頃から…つまり実績も何もない頃から知り合いなわけで、普通に幼馴染として一緒に育ったような感じだったりする。それにジュニアの下のノービスの頃から、スケート連盟の強化合宿に参加している関係で、ほとんどの選手が最低でも顔見知り、気の合う選手も多く、シニアになった今でもそれなりに続いている。
大学での練習に関しても、上手い奴の様子を見ると「くそー…(orz)」みたいにはなるけど、それで仲が悪くなるということはなく、普通に遠慮なくそれを言える程度には、仲の良い選手ばかりだった。
だが気の置けない仲というのは、それはそれで良かったり悪かったりするものである。
「亮平! 亮平ー! リョー…長いわね、ヘタレ! おいヘタレー! どこだヘタレ!」
ロッカールームのドアの向こうから何やら変な声が聞こえ、僕はため息を押し殺した。
「あー、うん、ドア一枚向こうにいるわけだから叫ばなくても聞こえるんだけど、たった二文字短縮するためだけに根拠もなく変な言葉を代名詞にしないでね?」
「根拠ならあるじゃない。目をしっかり開けて、鏡を見て、十秒そのままにして。…ほら、どこからどう見ても立派なヘタレがそこに!」
「立派とヘタレって意味が矛盾してるよね? 全く意味が分からない。分かりたくない」
「脳細胞が足りないところもヘタレ」
「ろくでもない言葉ばかり垂れ流す脳細胞は要らない」
僕と毒を吐きあっているのは、僕と同い年の選手。いわゆる幼馴染だ。しかし、どちらかというと、困った部類に入る幼馴染である。
まず、口が悪い。どんな育ち方をしたのか気になるくらい…というか僕が見る限り普通に育っているはずなんだけど、口が悪い。
そして言い返すためには相対的に僕の口も悪くなるわけだが、これがまた分が悪い。
なぜなら、この幼馴染は厄介なことに、どこからどう見ても美少女だからである。どちらかといえば小柄だが、黒い髪、大きな目、整った唇に、滑らかな肌。美少女である。小さな頃はあまり気にならないが、この年になると僕も男の子なので、色々と思うところがある。
何より、整った顔を近づけられると、無駄に圧力を感じてしまうのは男の子の特性上仕方の無いことだと思います。
そして、彼女に関してもっとも厄介な事実は――
「で、いつ帰ってきたの?」
「昨日。先生が何だかこだわっちゃって、予定より長引いたの。海外の振付師って芸術家肌なところあるし…」
「へぇ」
「もう顔真っ赤にして気合入れるもんだから困っちゃったわよ。何があったのかは知らないけど、『絶対オリンピックで金メダル取れ!』だって。英語でまくし立てるもんだから疲れるわ。まあ、当然狙うけどさあ」
そう、僕の横でペラペラと毒を吐くこの美少女は、昨シーズンの全日本チャンピオン、そして三月に行なわれた世界選手権で初優勝を果たした、現世界女王、如月明乃その人なのだ。
美少女フィギュアスケート女王が幼馴染。聞く人が聞けば泣きながら僕を呪い殺してくれそうな関係だけど、口から出る言葉が全てを台無しにするのだった。
「で、あんたはどうなのよ?」
「は?」
「練習よ練習」
「ああ…」
何となく答えづらい。まあ、いまさら遠慮とかする仲でも無いんだけど、こと明乃とはあまりスケートの話はしない。
はっきり言って、明乃は女子選手ながら、僕より上手い。練習ではトリプルアクセルをぽんぽん跳んでいるし、競技会でも五種類のトリプルジャンプを安定して決めることが出来る。つまりルッツとフリップの跳び分けが出来る。これが難しい。
ルッツジャンプとフリップジャンプは、どちらも右足のつま先を突き、左足で跳び上がるジャンプ。二つのジャンプの違いは、跳び上がる前の助走の仕方にある。ジャンプの回転する方向とは逆の軌道で助走するルッツは、跳び上がる際に左足が外側に倒れた状態になる。
一方、前向きで助走して、跳ぶ直前にジャンプの回転と同じ方向にターンするフリップは、ターンするときの勢いをジャンプに利用する。その際左足は内側に傾いた状態となる。
しかし似たようなジャンプなだけあって、この二つの違いを出すのが難しい。どちらも同じような跳び方をしてしまうことが多いのだ。
ルッツなのに、跳び上がるときのエッジがインサイドだったり、フリップなのにアウトエッジだったり。間違ったエッジのジャンプにフルッツ、リップという通称が付いてしまうほど、多くの選手が跳び分けに苦労している。
ちなみに僕はルッツが得意なので、フリップのエッジが怪しくなることがある。明乃はそこのところを完璧に跳び分けるのだから、なかなか凄いと言わざるを得ない。
さらに明乃が凄いのは、コンビネーションのセカンドジャンプにトリプルループを跳べることだ。
ちなみにセカンドジャンプに付けられるジャンプは、トウループとループの二種類。ジャンプは全て右足で降りるので、続けて二つ目を跳ぶには、右足で跳び上がらなければならない。つまり右足踏切のジャンプであるトウループとループのどちらかしか跳べないわけだ。
そしてトウループはその名の通り、左足のつま先を跳びあがる際の補助に使えるのに対し、ループは右足のみでそのまま跳び上がらなければならないので、格段に難度が上がる。
ダブルならまだしも、トリプルになると、一つ目のジャンプを完璧に降りられる自信がなければ二つ目にループを持って来ることはできない。男子ですら試合で跳ぶ選手はほとんどいない。当然僕も跳べない。
それを軽々試合で決めて見せるのだから、明乃は実は世界チャンピオンなだけあって凄い奴である。言ってることは意味分からんのに。世界の半分は不条理で出来ています。
「何ぶつぶつ言ってんの? もいであげようか?」
「段々言うことが生々しくなってるよね。っていうかもぐって何を?」
「…首とか?」
「もはやその発想が恐ろしいよ…!」
僕には出来ない発想です。
「で、練習は?」
「昨日は普通に練習した。一回トリプルアクセル降りた。帰ってからカレーを作るのが地味に面倒だった」
「何でカレー?」
「父さん…コーチがご所望で…」
「なるほど」
「で、僕も明日から振付」
「今回も嵯峨コーチが振付けるの?」
「うん、まあ…」
「なら安心、かな?」
見た目アレな僕の父だけど、どういうわけか振付も出来る。しかも外見に反して(失礼)優雅で流麗なプログラムを作ると評判であり、振付の依頼もちょくちょく入っている。
スケジュールを管理する僕の身にもなって欲しいなんて、別に思ってないよ?
少ししか。
「まあいいわ。明日からあたしもここで練習するからね。浜名コーチもよろしくって言ってたから」
「ああー、うん…」
「ちゃんと嵯峨コーチにも言っといてね?」
ニヤリと笑う明乃。僕はと言うと、それを伝えたときの父の反応を考えると、何となく沈うつな気分になるのだった。
美少女投入。
ちょっと説明が多いかもしれないと思ったり。読みづらかったらすみません。
<追記>ちょっぴり修正。