皆様、本日はお足元の悪い中、私たちの婚約破棄披露宴にお集まりいただき誠にありがとうございます
「セシリア・フォン・ローゼンベルク!貴様との婚約を、今この場で破棄する!」
王立学園の卒業記念夜会。王宮の大広間。シャンデリアの真下で、エドガー殿下が私を指さしている。その腕には、ふわふわの金髪をした男爵令嬢マリアベル様がぶら下がっていた。
殿下の頭上にだけ、魔導灯の光が細く落ちている。東の扉の前には、なぜか赤い絨毯。楽団は、いつでも悲しい曲を弾けるように構えている。
全部、殿下が手配なさったのだと思う。
「……おめでとうございます」
「は?」
「失礼いたしました。つい」
口が勝手に動いた。前世の癖だ。
私には前世の記憶がある。名前は三枝さくら。職業はブライダル司会。担当した披露宴は千組を超えた。三年前に階段で転んで頭を打ち、全部思い出した。思い出した瞬間に分かった。
この婚約は、絶対に長続きしない、と。
殿下が、懐から巻物を取り出した。
ばらりと広げる。床まで届いた。
「聞け、セシリア!これは貴様の罪状だ。皆の前で読み上げ、貴様の悪行を白日のもとに」
「殿下」
「なんだ」
「本日のようなおめでたい席で『破棄』という言葉は、お控えいただけますか」
「おめでたくない!」
「『別れる』『切れる』『終わる』も同様です。忌み言葉ですので」
「では何と言えばいいんだ!」
「『新たなる門出』でお願いいたします」
「貴様との婚約は、新たなる門出にする!」
本当に言うんだ、この人。
大広間のあちこちで、扇の陰から妙な音がした。笑いをこらえ損ねた貴族の皆様の、鼻から抜ける音である。
私は会場を見回した。
招待客はおよそ三百名。正面には楽団。奥の玉座はまだ空いている。陛下と王妃様は、毎年遅れていらっしゃる。
そして伝令官の手には、拡声魔道具。
まずい。
体がうずく。
三百人の客。楽団。照明。そして、たった今、人生の門出を迎えた私。
これは宴だ。
私の婚約破棄の、披露宴だ。
足りないのは、司会だけだった。
「伝令官様。そちら、少しお借りしても?」
「え?あ、はい」
拡声魔道具を受け取る。握った感触が、前世のマイクとほとんど同じだった。手のひらに吸いつくようだった。
軽く叩く。ぽん、ぽん。よし、入っている。
『皆様、本日はお足元の悪い中』
殿下が窓の外を見た。
「晴れているが」
『殿下のおつむとお足元が、少々悪い中』
「どういう意味だ!」
『お集まりいただき、誠にありがとうございます。ただいまより、セシリア・フォン・ローゼンベルクとエドガー・フォン・アルヴェイン殿下の、婚約破棄披露宴を執り行います。本日の司会進行は、破棄される本人が務めさせていただきます』
頭を下げる。角度は三十度。
「司会を頼んだ覚えはない!」
『誰にも頼まれておりません。どうぞよろしくお願いいたします』
ここで間を置いてはいけない。
『それでは皆様、新たなる門出を迎える二人に、盛大な拍手を!』
ぱち、と誰かが手を叩いた。
つられて隣が叩いた。その隣も叩いた。貴族というのは周りに合わせる生き物である。三秒後には、大広間に拍手が響いていた。
「待て!なぜ拍手が起きる!今夜は貴様が泣き崩れる場面だろ!」
「殿下、すごい!みんなお祝いしてくれてます!」
「マリアベル、喜ぶな!」
殿下が巻物を握り直した。
「いいか、罪状を読むぞ。ひとつ!貴様はマリアベルの教科書を隠した!」
『ありがとうございます。ここで殿下より、私たちの思い出をご紹介いただきます』
「思い出ではない!」
「ふたつ!階段でマリアベルを突き飛ばした!」
『学園の階段。たくさんの思い出が詰まった場所でございます』
「みっつ!マリアベルの靴を中庭に捨てた!」
『中庭。私も大好きな場所です。殿下、よく覚えていてくださいました』
「覚えていたのではない、告発しているんだ!」
殿下が一つ読むたびに、会場から「ほう」と和やかな声が上がる。罪状の読み上げが、思い出のスライドショーになっていた。
前世で何度もやった。新郎の上司が、乾杯の挨拶で余計なことを言う。司会はそれを、全部いい話にして返す。
「もういい!」
殿下が巻物を投げ捨てた。
「こんな茶番に付き合えるか。マリアベル、行くぞ」
殿下がマリアベル様の手を引いて、壁際の柱の陰へ歩き出した。
魔導灯の光が、ついていった。
殿下が右に寄った。光も右に寄った。
殿下が柱の裏に隠れた。光が柱の裏を照らした。
「なぜついてくる!」
魔導灯の係が、気の毒そうに天井から答えた。
「殿下のご命令です。『今夜、光は常に私を追え』と」
会場が、どっと沸いた。
殿下は東の扉へ向かった。赤い絨毯の上を早足で進み、取っ手に手をかけた。
開かない。
扉の前に、黒い騎士服の男性が立っていた。背が高い。眉間に、深いしわが一本。騎士団長のアルフレッド・ヴァイス様だ。
「殿下のご命令です。『断罪が終わるまで、誰もこの扉から出すな』と」
「私は出ていいんだ!」
「例外は伺っておりません」
殿下が、扉と光と私を順番に見た。
ご自分で作った舞台に、ご自分で閉じ込められている。
アルフレッド様が、こちらへ歩いてきた。
「レディ・セシリア。何をなさっているのですか」
「司会です」
「なぜ」
「宴には、司会が要りますので」
「宴ではありません。断罪です」
「断罪も宴も、人が集まって一組の男女を見守るという点では同じです」
「全然違う」
ああ、いい。
この方、ちゃんと突っ込んでくださる。
「騎士団長様。では、断罪が終わるのはいつでしょう」
「……殿下が、終わりだとおっしゃったときでは」
「宴の終わりは、司会が『お開き』と申し上げたときです」
「それは宴の話でしょう」
「同じですので」
アルフレッド様は、何か言いかけて口を閉じた。
「お開きのあと、殿下はあの扉からご退場になります。扉を開けるのは、殿下が三歩手前に来たときにしてください。早すぎると間延びしますので」
「……三歩手前」
「はい。三歩手前」
アルフレッド様は扉の前に戻って、部下に指示を出していた。
「扉は三歩手前で開ける。早すぎると間延びする」
なぜ従うのか。たぶん、指示が具体的だったからだと思う。仕事のできる人は、具体的な指示に弱い。
壁際のニナに目配せする。
ニナは二十二歳。私の侍女で、表情というものが顔に出ない。手には、いつもの古い革の鞄。魔法の鞄である。中身は、ニナにしか分からない。
「赤い糸と、ハサミを」
「どうぞ」
頼んで二秒で出てきた。
『それでは殿下!お二人による、最後の共同作業のお時間でございます!』
殿下の頭の上で、光がぴかぴかしていた。
逃げ場は、どこにもなかった。
糸の端を、殿下の小指に結んだ。もう片方を、自分の小指に結んだ。
『本来でしたら、ここはケーキ入刀でございます。ですが本日は婚約破棄披露宴。こちらは、殿下と私をつないでいた運命の赤い糸でございます』
「破棄だの、断ち切るだのは忌み言葉じゃないのか!」
『今回は、破棄する事も断ち切ることもおめでたいので、例外です』
「都合がいいな!」
殿下が小指をぶんぶん振った。糸は取れない。ニナの結び方は、軍の結び方だ。
「誰がそんな茶番に付き合うか!」
「殿下」
私は地声で言った。
「婚約を破棄して、新たなる門出にしたいのですよね」
「……したい」
「私もです」
「……」
「では、切りましょう。皆様の目の前で。いちばんきれいな形で」
殿下が、口をぱくぱくさせた。
婚約を終わらせたいのは、殿下ご自身なのだ。止める理由が、どこにもない。
ハサミの柄を、二人で握った。
殿下の手を握ったのは、婚約してから初めての気がする。三年間、殿下の手はたいてい手鏡でふさがっていた。
楽団長のギルベルト様に、目で合図した。六十一歳。この国で一番腕のいい指揮者で、一番選曲がおかしい人である。
ギルベルト様は深くうなずいた。指揮棒を上げた。
ジャーン。ジャーン。ジャーン。
葬送行進曲だった。
「誰が死んだ!」
『婚約が亡くなりました。ギルベルト様、ありがとうございます』
ちょきん。
赤い糸が切れた。私の小指から、はらりと落ちた。
すがすがしかった。三年ぶんの肩こりが、まとめて取れた気がした。
『ご覧ください。今この瞬間、私と殿下の縁は、きれいさっぱり新たなる門出を迎えました!最初で最後の共同作業でございます!』
拍手が起きた。さっきより大きい。
殿下は小指に残った糸を見下ろして、呆然としていた。
「……セシリア。お前、本当に私のことが好きではなかったのか」
『続きまして、ファーストバイト、もといラストバイトでございます』
「答えろ!」
「どうぞ」
ニナが、半分に切ったレモンを差し出していた。まだ何も頼んでいない。
『元婚約者より殿下へ。最後のひと口でございます』
「レモンだぞ!」
『人生の酸いを、存分に』
「食べるか!」
「殿下、私も!」
横からマリアベル様が割り込んだ。もう半分を、満面の笑みで殿下の口に突っ込む。
「あーん!」
「マリアベル、待っ」
ぐしゃ。
殿下の顔が、中心に向かって縮んでいった。目と鼻と口が、ぜんぶ真ん中に集まっていく。
魔導灯の光が、その顔を、くっきりと照らし出した。
ご命令どおりに。
一国の王子の顔が、梅干しになった。
◇
大広間が揺れていた。
宰相閣下が腹を抱えている。辺境伯夫人が扇を落とした。壇の脇では、記録係が水晶玉をこちらに向けている。夜会の様子を王家の記録に残すための、記録映像魔道具だ。水晶玉の中で、梅干し顔がきらきらしていた。
殿下が、それに気づいた。
自分の顔を見た。笑い転げる三百人を見た。
梅干しの顔のまま、拳を握った。
「……いいだろう」
殿下が、伝令官の腰から予備の拡声魔道具をむしり取った。
「セシリア。貴様の茶番はここまでだ」
レモンの汁で、声が少しかすれていた。
「皆に見せてやる。今夜の主役が誰なのかを。真実の愛というものを」
殿下はマリアベル様の前に進み出て、片膝をついた。胸に手を当てた。顎をわずかに上げた。
光が、殿下だけを照らした。
知っている。これは、鏡の前で練習した角度だ。
『僕の太陽。いや、太陽すら君を見て目を細める。君の瞳は夜空の星。いいや、星のほうが、君の瞳を真似ているのさ』
会場が、しん、とした。
悪くない。声はいい。角度も完璧だ。殿下は、ゆっくりと立ち上がった。会場を見回した。前髪を、指で一度だけ払った。
勝った、という顔だった。
ただ、私はこの詩を知っていた。
『殿下、ありがとうございます。なお、こちらの詩は、三年前に私もいただいたものと、一字一句同じでございます』
「あっ」
マリアベル様が手を挙げた。
「私もこの詩を先月もらいました!湖で!今日が二回目です!」
会場が爆発した。
「使い回したのか」
「使い回したな」
「三年越しの再放送だ」
「ち、違う!この詩は完成された詩だから、何度使っても」
『名作は何度読んでも名作。殿下の、ものを大切になさるお人柄がうかがえます』
「そういうことにしておいてくれ!」
『記録係様。そちらの魔道具、過去の映像も映せますか』
「え、ええ。十年分ほど」
『では、殿下十四歳の春のものを、少しだけ』
「やめろ!」
水晶玉から光が伸びて、大広間の白い壁に映像が浮かんだ。
十四歳の殿下が、自室の大きな鏡の前で片膝をついていた。手には一輪の薔薇。
『僕の太陽。いや、太陽すら』
鏡の中の自分に向かって、言っていた。
「三人目は鏡だ」
誰かが言った。それが、とどめになり、会場は笑いに包まれた。
「何がおかしい!」
殿下が叫んだ。
「鏡に映っているのは私だぞ!練習相手として、これ以上の相手がいるか!」
会場が、もう一段沸いた。
殿下は、なぜ沸いたのか分からない顔で、マリアベル様を見た。
「……マリアベル」
「はい!」
「皆に言ってやってくれ。私たちの愛が本物だと。私がどれほど誠実な男か、お前の口から」
「はい!任せてください!」
マリアベル様が、拳を握って胸をどんと叩いた。
殿下の目に、光が戻った。魔導灯の光ではない。
私は、拡声魔道具を握り直した。
知っている。この流れは、知っている。
『皆様、たいへん長らくお待たせいたしました。本来でしたら、ここで殿下のご友人代表にスピーチをお願いするところでございます。殿下のご友人の方は、いらっしゃいますか?』
誰も手を挙げなかった。
さっきまで殿下の後ろで「さすがです、殿下」と言っていた令息たちが、一斉に床を見つめた。
『……いらっしゃらないようですので、マリアベル様に、ご友人代表を兼ねていただきます』
「余計なことを言うな!」
でも、殿下は笑っていた。
前髪を払って、腕を組んで、勝利を確信した顔で、マリアベル様の背中を見送っていた。
この先で何が起きるのか、私には分かっていた。
千組の披露宴で、私は学んでいる。友人代表スピーチで一番危ないのは、新郎を愛している人だ。
◇
マリアベル様が、壇の前に立った。
両手を前で重ねて、ぺこりとお辞儀をする。頬が真っ赤だった。緊張しているのではない。うれしくて、真っ赤なのだ。
私は拡声魔道具を持ち上げ、マリアベル様の口元へ向けた。
友人代表スピーチは、インタビュー形式に限る。話し慣れていない方ほど、質問されると止まらなくなる。
『それではマリアベル様。まずは、お二人の出会いからお聞かせください』
「えっと、半年前です!私が学園の階段で転んで、靴が片方脱げて、教科書をばらまいちゃって」
「マリアベル?」
「そこに殿下が通りかかって、手を差し伸べてくださったんです!光が差して見えました!殿下のお顔から!」
『素敵な出会いですね。ちなみにその日、私は』
「殿下のお隣にいらっしゃいました!それで、教科書を全部拾ってくださって、中庭まで飛んでいった靴も取ってきてくださいました!」
覚えている。
あの日、私は婚約者として殿下と廊下を歩いていた。殿下は手を差し伸べた。マリアベル様は殿下の顔に見とれた。私は散らばった物を拾った。
三人とも、それぞれ一番得意なことをしていた。
「殿下はずっと私のお顔を見てくださってたので、気づいてなかったと思います!」
殿下が、床に捨てた巻物を見た。
教科書。階段。靴。中庭。
「……では、セシリアがお前の教科書を抱えていたのは」
『拾ったからでございます』
「靴を持って中庭から戻ってきたのは」
『私に返しに来てくれたためでございます』
「階段で突き飛ばされたと言っていただろう、マリアベル!」
「転んだって言いました!自分で!」
罪状の三つが、全部そこに落ちていた。
『殿下は、マリアベル様のお話を、たいへん情熱的に聞き間違えていらっしゃいました』
「では私は何のために罪状を書いたんだ!」
『思い出のご紹介のためでございます』
「思い出のためか……」
納得しかけている。この方の素直さだけは、本当に美点だと思う。王族としてはどうかと思うが。
『続いて、お二人の仲が深まったきっかけは?』
「殿下が『もう婚約者とは何年も心が通じていない』っておっしゃったんです!」
会場の何人かが、私を見た。
私は、にっこりした。
心が通じていなかったのは本当なので。
『まあ、それは』
「だから私、言ったんです。『ご安心ください!これからは私が毎日、殿下のお顔を褒めます!』って!」
「マリアベル、その話は」
「はい!そうしたら殿下、『一日三回では足りない』って!」
「事実だ!」
『愛情表現にも、定期的な確認が必要なのですね』
「そうなんです!朝、昼、晩と、寝る前です!」
「うむ。足りている」
来賓席から、こらえきれない笑い声が漏れた。
殿下は、満足そうにうなずいていた。会場が笑っている理由が、まったく分かっていない顔だった。
『お二人だけの、特別な思い出はございますか?』
「はい!毎月、セシリア様とのお茶会の日があったんですけど」
マリアベル様が、ぱっと私を見た。
「殿下はその日、セシリア様には『公務で行けない』って言って、温室で私と会ってくださってたんです!」
会場の笑い声が、半分になった。
「マリアベル、そういうことは言うな!」
殿下が叫んだ。
マリアベル様が、はっと口を押さえた。それから、申し訳なさそうに眉を下げた。
「あっ、ごめんなさい殿下。そうですよね。そこ、恥ずかしいですよね」
「そうだ、だから」
「温室って言っちゃいましたもんね!本当は温室のさらに奥の、物置です!殿下が『ここなら誰も来ないし、誰にも見られない』って!」
会場の笑い声が、ゼロになった。
三百人の顔が、少しずつ殿下の方を向いていく。
殿下の顔から、満足の色が抜けて、灰色になった。
私は拡声魔道具を握ったまま、笑顔を崩さなかった。
ここで司会が顔色を変えたら、会場が凍る。凍らせるのは私の仕事ではない。
『物置。人目を忍ぶ、小さな愛の巣でございますね』
「はい!ほうきがいっぱいありました!」
『掃除の行き届いた、清らかな愛でございます』
隣の辺境伯夫人が、扇の陰で肩を震わせていた。笑っているのか、怒っているのか、もう本人にも分からない顔だった。
『では、殿下の素敵なところを、ひとつ教えていただけますか』
「全部です!」
『では、特に』
「努力家なところです!」
殿下が、灰色のまま顔を上げた。
すがるような目だった。そうだ、それだ、と言っている目だった。
「殿下、毎朝、鏡の前で愛の言葉を練習してるんです!私に言う台詞を、ちゃんと準備してくださるんです!」
「マリアベル……!」
殿下の目が、うるんだ。
「でも、練習しすぎちゃって」
「マリアベル?」
「この前、本番で私の手を握って、『愛しているよ、エドガー』って!」
一秒、誰も動かなかった。
「鏡に言いすぎて、ご自分の名前が出ちゃったんです!かわいいですよね!」
大広間が、もう一度爆発した。
さっきの爆発より、ずっと大きかった。宰相閣下が床に膝をついていた。近衛騎士が何人か、壁を向いて肩を震わせていた。
「何がおかしい!鏡の中の私に、毎朝言い慣れていただけだ!」
『最も愛するお方のお名前が、自然と口からこぼれたのですね』
「そうだ!それの何が悪い!」
『悪くございません。殿下が誰を一番愛していらっしゃるか、ここにいる全員が理解いたしました』
「理解したなら、なぜ笑う!」
私は、マリアベル様に向き直った。
マリアベル様は、きらきらした目で殿下を見ていた。会場が笑っているのは、殿下のかわいさが伝わったからだと信じている顔だった。この方は、本気だ。本気で、殿下を世界一素敵な人だと思っている。
最後の質問だ。
友人代表スピーチの締めは、いつも決まっている。
『では最後に。今夜のこの日のために、殿下がどんなふうにご準備なさっていたか、教えていただけますか』
「はい!殿下、すっごくがんばってたんです!」
殿下の顔から、灰色すら消えた。
「照明の人に『光は常に私を追え』ってお願いして、楽団には『悲劇の英雄の曲』をお願いして、扉の前に赤い絨毯を敷いて、終わったら廊下に皆さんを並ばせて、拍手で見送ってもらう段取りなんです!」
「マリアベル、待て」
「明日の朝の号外も、もう頼んであるんです!『王子、真実の愛を貫く』って!」
「待てと言っている!」
殿下が、予備の拡声魔道具を放り出して駆け寄った。
その前に、黒い騎士服がすっと割り込んだ。アルフレッド様だった。殿下の肩を、片手で止めている。
「殿下。壇の前での揉み合いは危険です」
「どけ!」
「どきません」
私はアルフレッド様を見た。
アルフレッド様は、私を見ずに言った。
「警備です」
マリアベル様が、殿下の腕の届かないところで、にこにこしていた。
「あっ、そうですよね殿下!ここ、一番大事なところですもんね!」
「違う!」
「陛下には、まだ内緒なんです!殿下が『父上にも宰相にも相談する必要はない。婚約破棄は、全部私一人で決める!』って!」
マリアベル様は、両手を胸の前で組んで、うっとりしていた。
「かっこよかったです!」
大広間の温度が、三度下がった。
「――ほう」
声は、大広間の奥から聞こえた。
王族専用の大扉が、いつの間にか開いていた。
国王グスタフ三世陛下が、立っていた。
隣には、エレオノーラ王妃様。
「余に相談する必要は、なかったか」
◇
殿下が、ばっと振り返った。
「ち、父上!違います!相談すれば反対されると思ったのです!」
「分かっておるではないか」
ひとことで終わった。
いけない。
陛下の入場が、完全に放置されている。主賓の入場に拍手がないなど、あってはならない。
『国王陛下、王妃陛下のご入場です!皆様、盛大な拍手でお迎えください!』
拍手が沸き起こった。
陛下の顔が、ぱっと明るくなった。
グスタフ三世陛下は、拍手が大好きな方である。演説の途中で拍手が起きると、話の続きを忘れて同じところをもう一度言い直すぐらいである。
「うむ、うむ」
陛下は手を振りながら、奥の玉座へ歩いていった。怒っていたことを、半分くらい忘れている顔だった。
王妃様が、その背中をじっと見ていた。
宰相閣下が、膝の埃を払いながら玉座の横に進み出た。
「陛下。私も相談されておりません」
「宰相は黙っておれ」
「はっ」
陛下が腰を下ろした。それから、思い出したように殿下を見下ろした。
「して、エドガー。何か申し開きはあるか」
殿下は玉座の前に進み出て、片膝をついた。胸に手を当てた。顎を上げた。
光が、ついていった。
「父上。これは真実の愛なのです。僕の太陽。いや、太陽すら君を見て目を細める。君の瞳は夜空の星。いいや、星のほうが」
「あ、それ!」
マリアベル様が、ぱっと顔を輝かせた。
「朝、鏡の前で三回練習してたやつですよね!」
殿下が、角度をつけたまま固まった。
ところが、陛下の反応は違った。
玉座の上で、懐かしそうに目を細めていた。
「その詩は……余も若い頃、王妃に贈ったものだ」
王妃様が、すっと首を横に向けた。
「陛下?」
陛下の笑顔が、固まった。
三百人が、一斉に陛下と殿下を見比べた。あの詩は、殿下の作ではなかったのだ。王家伝来の使い回しだったのだ。
陛下が、ごほんと咳払いをした。
目を閉じた。長い沈黙だった。
私はその間に、そっと拍手の準備をした。こういう沈黙のあとに来るのは、締めの言葉だ。前世で千回聞いてきた。
「エドガー。お前には、北の離宮で頭を冷やしてもらう」
殿下が膝から崩れ落ちた。
「北の……離宮……」
「期間は、余が良いと言うまでだ」
北の離宮。王都から馬車で十日。一年の半分が雪に埋もれる。暖炉の薪は自分で割る決まりがあると聞いた。
誰も笑わなくなった。
さっきまで笑っていた皆様が、どういう顔をすればいいか分からなくなっている。
司会の仕事は、予定を守ることではない。予定が壊れたときに、次の予定を作ることだ。
『――皆様。ただいま、国王陛下より、殿下の新しい門出が発表されました』
「門出じゃない!」
『本日の披露宴は、ここからプログラムを一部変更いたしまして、エドガー殿下の送別会として進行いたします!』
「送別会にするな!」
『皆様、旅立つ殿下に、盛大な拍手を!』
拍手が起きた。
陛下がうっかり「うむ」とうなずいた。
「拍手するな!父上もうなずかないでください!」
崩れ落ちた殿下の隣に、マリアベル様がしゃがみこんだ。
「北って、雪、ありますか?」
目が、きらきらしていた。
「は?」
「雪です!私の村、雪が降らなかったんです!雪だるま、作ってみたかったんです!」
「マリアベル、お前……ついてくるのか」
「当たり前じゃないですか。殿下が行くところなら、私はどこでもついて行きます」
殿下が、マリアベル様を見た。
なんだか、初めて人の顔をちゃんと見たような顔をしていた。
「殿下、雪だるまに名前つけましょうね。名前、何にします?」
「……私の墓標でいい」
「ボヒョウ!かっこいい!」
会場のあちこちから、すすり泣くような笑い声がした。
北へ行く。十日の馬車旅。
マリアベル様のドレスは、肩も背中もあいている。殿下は夜会服一枚。
「ニナ」
「どうぞ」
ニナの鞄から、毛皮の帽子と外套と手袋と長靴が、二人分出てきた。サイズまで分かれている。
「……なぜ入っているの」
「北の離宮行きになる方が、今夜出ると思いましたので。三か月ほど前から」
この子だけは、本当に分からない。
『それでは旅立つお二人、この場でお色直しでございます!』
ニナが毛皮を広げた。マリアベル様が、自分から両腕を突っ込んだ。殿下は抵抗した。ニナは抵抗を無視した。
十秒後、シャンデリアの下に、毛皮の塊が二つ立っていた。背の高いほうが殿下で、跳ねているほうがマリアベル様だ。
光が、毛皮の塊を照らしていた。
大広間には三百人ぶんの熱気がこもっている。殿下の帽子から、湯気が上がりはじめた。
「暑い……」
『殿下は、北に着く前にすでに汗をかいていらっしゃいます』
さて、お見送りだ。
私は東の扉を見た。赤い絨毯が、扉までまっすぐ伸びている。殿下が、真実の愛を貫いて颯爽と去るために敷いた絨毯だ。
『騎士団長様。花道を』
アルフレッド様が、ため息を一つついた。片手を上げた。
「整列」
近衛騎士が、絨毯の両側にざっと並んだ。剣を抜いて、頭上で交差させる。剣のアーチが、扉までずらりと続いた。
騎士の花道。本来は、凱旋した英雄を迎えるためのものだ。
『旅立つお二人の、門出の花道でございます!』
毛皮の塊が二つ、剣のアーチの下を歩きはじめた。マリアベル様が殿下の腕を引っぱっている。殿下は引っぱられている。光が、その後ろを律儀についていく。
殿下が夢見ていた退場だった。行き先が十日ぶん遠いことと、服が毛皮であることを除けば。
『ギルベルト様、門出の曲を!』
勇ましいラッパが鳴った。太鼓が打ち鳴らされた。
出陣の行進曲だった。
「戦に行くのか私は!」
扉まで、あと五歩。
ばん、と東の扉が開いた。
アルフレッド様の部下が、開けていた。
アルフレッド様が、扉を振り返った。
「……早い」
小さく舌打ちをしていた。
三歩手前の教えを忠実に守ろうとしてくれたようだ。
でも、ちょうどよかった。
送り出す宴には、最後にもう一つ、大事なものがある。
『恐れ入ります。扉を、一度お閉めください』
ばたん。
殿下の目の前で、扉が閉まった。毛皮の帽子に、扉の風が当たった。
「なぜ閉める!」
『殿下。お見送りの前に、もう一つだけ』
私はニナに手を差し出した。
ニナが、鞄から一枚の紙を出した。真っ白だった。表も白い。裏も白い。
『最後に、わたくしから元婚約者のエドガー殿下へ、感謝のお手紙を読ませていただきます』
◇
殿下が、ゆっくり振り返った。
湯気の向こうで、目が少し大きくなった。
「……私への、手紙?」
『はい』
「感謝の?」
『はい』
殿下が、毛皮の帽子を脱いだ。前髪を、指で一度だけ払った。光の真ん中に、きちんと立ち直した。
まんざらでもない顔だった。三年間、殿下は誰かから感謝の手紙をもらったことがない。私が知る限り。
ギルベルト様が、指揮棒を静かに上げた。
ゆったりとした弦の音が流れ出した。やさしい曲だった。子守唄のような、帰り道のような。今この場に、これ以上ふさわしい曲はなかった。
私は白紙を広げた。
拡声魔道具を、口元に寄せる。
『――エドガー殿下へ』
会場が静かになった。
『初めてお会いした日のことを、昨日のことのように覚えております。殿下は、わたくしに多くのものを与えてくださいました』
殿下が、小さくうなずいた。
そうだろう、という顔だった。
『初めてのお誕生日には、殿下ご自身の、等身大の肖像画を。翌年には、殿下の横顔を描いた絵画を。その翌年には、殿下の後ろ姿を描いた絵画を。おかげさまで、わたくしの部屋には、わたくしより多くの殿下が暮らしておりました』
くす、と誰かが笑った。
殿下が、会場をにらんだ。
「なぜ笑う!私の肖像画を贈られて、喜ばない者がいるのか!」
『そして先月、王宮の彫刻家の方が、わたくしの部屋の寸法を測りにいらっしゃいました。台座の置き場所を確かめたい、とのことでした』
「待て!胸像はまだ贈っていない!」
『まあ、失礼いたしました。では、来年の贈り物だったのですね』
「なぜ知っている!」
『寸法を測りにいらっしゃいましたので』
笑いが、さっきより広がった。
殿下が、私と会場を交互に見た。褒められているはずなのに、なぜ皆が笑っているのか。それだけが、どうしても分からない顔だった。
『殿下は、いつもわたくしの話を聞いてくださいました。お会いするたびに、「今日はどんな一日だった?」と尋ねてくださいました』
殿下が、ほっとした顔をした。
少しだけ、胸を張り直した。
『わたくしが「今日は」と答え始めると、殿下はすぐに、ご自身の素晴らしい一日を、三十分ほどお話しくださいました』
「私は一応、聞いていたぞ!」
『はい。お返事はいつも、「それはそうと、私の今日の前髪だが」でございました』
大広間が沸いた。
弦の音は、まだやさしく続いている。やさしい音楽の上に、笑い声が乗っていく。
『そのおかげで、わたくしは、人のお話を途中で遮らずに最後まで聞く大切さを学びました』
「止めろ!この手紙を止めろ!」
殿下が、楽団に向かって叫んだ。
ギルベルト様は、目を閉じて指揮を続けていた。この方は演奏中、何も聞こえない。
『三年前の婚約式の日。宮廷画家が、二人並んだ記念の一枚を描いてくださいました。殿下は今も、その絵を寝室に飾ってくださっていると伺っております』
「そうだ。飾っている」
『わたくしの部分を、額縁で隠して』
「隠したのではない!私の顔が一番美しく見える幅にしたのだ!」
『額縁屋さんに、幅をご指定なさったと伺いました』
「指定したとも!職人が三回測り直した!」
『その職人さんが先日、わたくしに謝りに来てくださいました』
来賓席のあちこちで、人が崩れ落ちていた。
殿下だけが、胸を張っていた。額縁の話は、殿下の中では自慢話なのだ。
私は、白紙を一枚めくるふりをした。
弦の音が、少しだけ低くなった。
『殿下。それでも、わたくしは感謝しております』
殿下が、こちらを見た。
『二年前の冬、わたくしの祖母が亡くなりました。殿下は、お悔やみに来てくださいました。何もおっしゃいませんでした。たぶん、何を言えばいいのか、分からなかったのだと思います。殿下は、練習していない言葉を、お持ちにならない方ですから』
笑い声が、すっと引いた。
『それでも殿下は、帰りませんでした。一時間、わたくしの隣に座っていてくださいました。一度も、鏡をご覧になりませんでした』
殿下の口が、少し開いた。
何か言いかけて、やめた。
『そして今夜。殿下は、皆様の前で、わたくしとの婚約を新たなる門出にしてくださいました。わたくしが言い出せなかったことを、殿下が先に、こんなにも大きな声で言ってくださいました』
白紙を、両手で胸の前に持った。
『殿下。長い間、本当にありがとうございました。殿下のおかげで、わたくしは今日、自由になれました。どうか北でも、お元気で。セシリア』
白い紙を、そっと畳んだ。
大広間の三百人が、泣いていた。
笑いすぎて泣いている人と、本当に泣いている人と、どちらなのか自分でも分からない人が、三分の一ずつ混ざっていた。宰相閣下が泣いていた。近衛騎士が、剣のアーチを掲げたまま泣いていた。マリアベル様は毛皮の袖で顔をごしごし拭いていて、袖の毛がほっぺたに張りついていた。
王妃様が、玉座の横から降りてきた。
毛皮の塊の前に立って、息子の頭をなでた。
「北でも、ちゃんと食べるのですよ」
陛下が、一人で拍手を始めた。
誰も合図をしていないのに。拍手の好きな陛下が、自分から、誰よりも先に手を叩いていた。目が真っ赤だった。
それにつられて、会場中が拍手に包まれた。
そして、殿下が叫んだ。
「なぜ私の婚約破棄が、こんなに感動的な私への公開処刑になっているんだ!」
毛皮の帽子を、床にたたきつけた。湯気がぶわっと上がった。
「肖像画も、前髪も、額縁も、全部私の美点だろう!なぜそれを笑いながら泣いている!なぜ私まで、少し泣きそうになっている!」
『殿下、感極まっていらっしゃいます』
「極まっていない!母上も、なぜ私をなでる!」
「寒くなったら、すぐに手紙を書くのですよ」
「まだ出発もしていません!」
「父上は拍手を止めてください!」
「すまん、止まらん」
殿下が、私の手から白紙をひったくった。
裏返した。表を見た。光に透かした。白い紙が、魔導灯の光で真っ白に光った。
「……わざわざ出て行くのを止めてまで、あの日のことを話す必要があったのか」
「わたくしにとって、大切な思い出でしたので。だから、お送りする前に、それだけは伝えたくて」
殿下は、何か言いかけてやめた。
前髪を払おうとした手が、途中で止まった。
「……鏡を見なかったのは、あの部屋に鏡がなかったからだ」
「はい。それでも、一時間はいてくださいました」
殿下は、もう何も言わなかった。
曲が終わると、ギルベルト様は満足そうに一礼した。私は小声で尋ねた。
「ギルベルト様。今のは、完璧でした」
「そうですか」
「狙ったのですか」
「いえ。楽譜を逆さに置いておりました」
聞くのはやめた。
◇
私は花道の入り口まで下がった。
剣のアーチの向こう、閉じた扉の前に、毛皮の二人が立っている。扉の横には、アルフレッド様。
目が合った。
何も言わなかった。アルフレッド様が、小さくうなずいた。部下を下がらせて、自分で取っ手に手をかけた。
『皆様。名残は尽きませんが、そろそろお開きの時間となりました』
殿下が、床の帽子を拾ってかぶり直した。マリアベル様が、その腕に自分の腕をからめた。
『北へ旅立つエドガー殿下とマリアベル様に、今一度、盛大な拍手を!』
拍手が起きた。陛下が、誰よりも大きく手を叩いていた。
二人が、扉へ歩きだす。
一歩。二歩。
三歩手前。
扉が、音もなく開いた。
完璧だった。
私は合図をしていない。アルフレッド様は、私を見ていなかった。
扉の向こうから、夜の冷たい風が入ってきた。殿下の帽子から上がっていた湯気が、ふっと横に流れた。
殿下が、敷居の上で振り返った。光の真ん中で、毛皮の帽子を少しずらし、前髪を指で一度だけ払った。
「セシリア!覚えていろ!北でも私は美しいからな!」
『殿下。どうぞ、お足元にお気をつけて。北は、本当にお足元の悪いところだそうですので』
「最初も最後も、足元の話か!」
扉が閉まった。
光が、閉じた扉を照らしていた。
魔導灯の係が、困ったように天井から私を見た。追うべき人が、いなくなったのだ。
光が、ゆっくりと消えた。
『――以上をもちまして、婚約破棄披露宴、お開きでございます。皆様、お気をつけてお帰りくださいませ』
頭を下げる。角度は三十度。
拍手が、長く続いた。
顔を上げると、伝令官がおずおずと手を出していた。
私は、拡声魔道具を返した。
手のひらが、急に軽くなった。
◇
客が帰りはじめた大広間で、近衛騎士たちが剣を収めていた。
アルフレッド様が、水のグラスを持ってこちらへ来た。
「どうぞ。喉が」
「ありがとうございます」
冷たくて、おいしかった。司会者に水を持ってきてくれる騎士団長は、前世を含めて初めてだ。
「騎士団長様も、お見事でした」
「警備です」
「剣のアーチも?」
「警備です」
「扉の三歩手前も?」
「……警備です」
アルフレッド様は、少しだけ目をそらした。
それから、咳払いを一つした。
「レディ・セシリア。ひとつ、お伺いしても?」
「なんでしょう」
「次に私があなたをお誘いする場合、何日前までに予定をお伝えすればよいでしょう」
「通常は三か月前でございます。お日柄にもよりますが、招待客が五十名を超える場合は半年前、会場の下見を含めるのでしたら」
そこまで言って、止まった。
アルフレッド様は、仕事を頼んでいる顔をしていなかった。
「……そちらは、どのような催しでしょうか」
「私と貴女、二人きりの食事です」
アルフレッド様が、少しだけ笑った。
初めて見る顔だった。
困った。
二人きりの宴の段取りは、千組の中にも一つもなかった。
「……では、乾杯の音頭は、わたくしが」
「二人しかいないんですが、ね」




