悪役令嬢、剣を取る
エレオノーラ・レーヴェン公爵令嬢は剣を取り王太子の喉に向けた。磨かれた剣先と白い皮膚の間には指一本ほどの隙間しかなく、アーネスト殿下が息をするたび喉だけがわずかに動いている。
私は決闘場の白線から三歩外で両手を握りしめていた。彼女にその突きを教えたのは私である。あと半歩でも深く踏み込めば王太子を傷つけると承知したうえで止まり方まで叩き込んだ。それでも実際の光景を前にすると膝から力が抜けそうになる。
観覧席から声は上がらず鐘の余韻だけが決闘場に残っていた。殿下は右手の剣を下げたまま動けず、エレオノーラ様の剣先は狙った位置から逸れていない。これほど明らかな勝敗を疑う余地は誰にもなかった。
少なくとも剣の規則だけを見てくれる者ばかりなら、あそこで話は終わるはずだった。
一か月前の私は王立セレスタ学院の冬季講堂で壁際に立っていた。午後の講義を終えた生徒が残るなか王太子殿下が壇上へ上がり、隣には目元を赤くしたセシリア・マーレン男爵令嬢を伴っている。
「皆にも聞いてほしい。セシリア嬢は半年にわたりレーヴェン公爵令嬢から卑劣な嫌がらせを受けていた。教本を捨てられたばかりか礼装を切られ、先週には西回廊の階段から突き落とされかけたという」
講堂にいた者たちの視線が最前列のエレオノーラ様に集まった。彼女は背筋を伸ばしたまま立ち上がり、壇上の二人を順番に見ても驚きや怒りを顔には表さない。その態度が反省の欠如に見えたらしく周囲から早くも非難のささやきが漏れ始めた。
「告発の内容は理解いたしました。私が命じたと証言する者と物証をこの場で示していただけますか」
「君はまだセシリア嬢を疑うのか。脅迫に使われた手紙は君の紋章紙に書かれており、君の命令を聞いた者も三人いる。彼女の礼装を切った小刀まで委員会室にある君の机から見つかった」
殿下が掲げた紙には遠目でもレーヴェン家の青い獅子が見えた。証言者だという令嬢たちは壁沿いに並んでいたが、誰もエレオノーラ様の顔を正面から見ていない。証拠の正しさを判断できる位置にはいなかったため、私は沈黙したまま一人ずつの立ち方だけを眺めていた。
「紋章紙は秋の慈善会で学院委員に配布しております。小刀も備品として同じ机に置いていたものです。三名からは個別に日時と場所を聞き取り、そのうえで私の行動記録と照合してください」
「言い逃れはもうよい。君は家の権勢を使って弱い立場の者を傷つけた。私は次代の国王として見過ごすわけにはいかない」
殿下は事実関係の調査を命じる代わりに自分の結論を述べた。セシリア嬢はうつむいて肩を震わせ、その背後にいた友人たちは彼女を守るように距離を詰める。エレオノーラ様の周囲からは反対に人が離れ、床板一枚分だった隙間がたちまち数歩分に広がった。
「では次代の国王としてではなく告発者としてお立ちください。私エレオノーラ・ディ・レーヴェンは誓剣裁定を請求いたします」
ささやきが途絶えた直後に誰かの鞄が床へ落ちた。誓剣裁定とは告発した者と告発された者が剣で戦い、その勝敗によって告発の扱いを決める古い制度である。請求された告発者は裁定を受けるか告発を撤回するしかない。女性は代理人を立てることも認められていた。
裁定用の剣で相手を傷つけなくても、致命傷を与えられる位置に先に剣先を止めたと審判が認めれば勝敗が決まる。告発された側が勝てばその告発は取り下げられる決まりだった。制度自体は廃止されていないものの実際に使われることはほとんどない。まして婚約者が王太子に剣を向けた記録など百年以上残っていなかった。
アーネスト殿下は一瞬目を見開いたあとで口元に笑みを戻した。エレオノーラ様が代理人を立てると考えて本人が戦うとは思わず、レーヴェン家の誰が王太子に刃を向けるのか見てみたいと思ったのだろう。殿下は一か月後の正午を指定し、婚約の扱いは裁定が終わるまで保留すると言い渡した。
その日のうちに学院中へ話が広がり、翌朝には王都の各家も裁定を知っていた。公爵家と縁の深い家の子弟でさえ病気や家命を理由に代理を断り、学院の剣術履修者はエレオノーラ様が近づくだけで別の廊下へ逃げる。王太子に勝てば恨みを買い、負ければ公爵令嬢の悪行に加担したと見られるのだから無理もなかった。
私はどちらの家からも声をかけられておらず普段どおり北練武場へ通った。誓剣裁定が行われるなら見届けたいとは考えたものの、自分が関わる可能性までは想像していない。春季剣技会で殿下と打ち合ったことはあっても挨拶を交わしただけであり、エレオノーラ様とは同じ学院にいながら一度も話したことがなかった。
告発から三日目の早朝に北練武場の扉が開いた。供も連れずに入ってきたエレオノーラ様は稽古着ではなく濃紺の学院服をまとい、私が木剣を下ろすまで入口から動かない。公爵令嬢が自分を待っていると理解するまで私は随分と間の抜けた顔を見せていたはずである。
「ハルトナー伯爵令嬢。あなたに剣を教えていただきたく参りました」
「代理人をお探しなら父の許可が必要です。おそらく私個人の判断ではお受けできません」
どうにか答えながら私は断ったあとの処罰まで考えていた。しかしエレオノーラ様は気分を害した様子もなく、最初から予想していた答えを確認するように一度うなずく。
「代理をお願いするつもりはありません。戦うのは私です。一か月で私を王太子に勝たせてください」
今度は木剣を落としかけたが辛うじて柄をつかみ直した。一度も剣を学んだことがない者と十年間訓練を続けた殿下では一か月どころか一年を使っても差は埋まらない。公爵令嬢が現実を知らないのかと思ったものの、彼女の目に根拠のない期待はなかった。
「率直に申し上げます。一か月では勝てません。殿下は学院の男子生徒の中でも上位五人に入る腕前です。今から通常の試合を成立させることさえ困難でしょう」
「承知しています。それでも告発を撤回させる可能性が零でないなら、私ができることを教えてください。代理人を探す時間はもう使いません」
頼み方は丁寧でも断る余地をこちらに与えていなかった。私は政治に関わらないという家訓と剣を求める者には教えを惜しまないという家訓を頭の中で並べ、どちらを優先しても父から叱られる未来まで思い浮かべる。それなら自分で納得できるほうを選ぶしかない。
「勝利は約束できません。殿下と剣を交える保証もいたしません。それでもよろしければ基礎からお教えします」
「十分です。よろしくお願いいたします」
私はエレオノーラ様が無実だと知っていたわけではない。剣で過去の事実が決まるとも考えていなかったが、調査を拒んだ告発者だけが有利な裁定は公平ではない。私は彼女の主張ではなく自ら白線に立つ覚悟に一か月分の技術を貸すことにした。
初日の稽古では剣を振らせる前に立ち方だけを直した。エレオノーラ様は姿勢こそ美しいものの体重がかかとに偏っており、片手に木剣を持たせると肩まで一緒に上がる。足幅を直して十数える間も保てず、三度目にはふくらはぎが震え始めた。
普通なら恥ずかしさを隠すため言い訳の一つも出るところだが彼女は何も言わなかった。私がつま先の向きをわずかに内側へ直すと彼女はその位置を床に記し、膝の角度まで確かめてからもう一度構える。昼の講義が始まる直前まで続けても自分から休憩を求めなかった。
二日目には手のひらに豆ができて三日目には皮が破れた。薄布を巻けば柄が滑ると教えると彼女は薬だけを塗り、翌朝には乾いた血を残した手で木剣を握る。公爵家の侍女が止めても聞かないらしく、稽古場の外から私に何度も恨めしそうな視線を送っていた。
私は五日目から時計代わりの水桶を用意して休憩を強制した。底の小穴から水が落ち切るまで剣を置かせなければ、エレオノーラ様は腕が上がらなくなるまで動き続ける。執念は上達を助けても壊れた手首までは治してくれない。
「どうしてそこまでなさるのですか。裁定に負ければ婚約も社交上の立場も失うでしょう。しかし公爵家から追放されるわけではありません」
「私だけの問題なら負けを受け入れる道もあったでしょう。ですが私が命じたと認定されれば侍女と委員会の令嬢たちも共犯者として調べられます。無実の者を守れなかった私が領地の裁定に署名しても、今後は誰もその公正さを信じません」
家の名誉を守りたいと答えるほうが簡単だったはずである。彼女は自分の評判より自分の権限で働く者に疑いが及ぶことを恐れており、その説明にも同情を求める響きはなかった。私は水桶が空になっても稽古の再開を許さず、その日は予定より長く休ませた。
一週間が過ぎるころには足の動かし方と正面への攻撃が形になった。二週間目には私の遅い攻撃なら木剣で受けられるようになり、痛みに驚いて目を閉じる癖も消えている。初めて剣を握った者としては異様な速さだったが、アーネスト殿下と比べれば勝負と呼べる段階ではない。
試しに本来の速さの半分で打ち込むと剣を三度打ち合わせたところでエレオノーラ様の木剣が飛んだ。拾わせて同じ条件でもう一度始めれば今度は二度目で手首を押さえる。さらに続けようとする彼女を止め、私は隠しても変わらない事実を伝えた。
「正面からは無理です。殿下が油断して片手だけで応じたとしても、十回も剣を打ち合わせる前に負けます。力と速さだけでなく次の動きを選ぶ経験が違いすぎます」
「では正面から何度も剣を打ち合わせなければよいのですね」
負けを告げたつもりだった私は返す言葉を失った。エレオノーラ様は落ちた木剣を拾い、握りの位置を確かめて私の次の指示を待っている。落胆する時間まで稽古に使うつもりらしい。
「最初の一度だけなら可能性があるとお考えですか」
「一度でも剣を打ち合わせれば負けます。殿下が最初の一撃を放つ前に終わらせるしかありません」
春季剣技会で対戦したときのアーネスト殿下は私より明らかに強かった。それでも開始の鐘が鳴った直後には剣先をわずかに外へ開き、相手がどう出るかを待つ間がある。格下に最初の攻撃をさせてから鮮やかに制することを余裕の見せ方だと考えているためである。
誓剣裁定の開始位置は通常の試合より一歩近く定められている。礼を終えたあとで審判が鐘を鳴らすため、合図と同時に三歩前へ出れば剣先が届く。殿下がエレオノーラ様を完全な初心者と見ていることまで利用すれば、一度だけ喉元に剣先を届かせられる可能性があった。
ただし一歩でも遅れれば殿下の剣が動き始める。勢いを恐れて剣先を遠くで止めれば致命傷を与えられる位置とは認められず、止まれなければ王太子の喉を刺して罪人になる。勝率という言葉を使うことさえためらうほど細い道だった。
「失敗した場合はそのまま剣を捨ててください。二度目の攻撃を考えてはいけません。これは剣術と呼べるものではなく、殿下の思い込みに賭けるだけの手段です」
「構いません。私に教えてください」
それからの稽古では他の技をほとんど捨てた。開始線にかかとを合わせて鐘の音と同時に右足を送り、続く二歩で剣が届く距離まで身体を進めて腕を伸ばす。最後には前足を曲げて腰を落とし、剣先を喉の高さで止める。その一連の動作だけを朝と放課後に繰り返した。
壁際に木製の輪を吊るして中心に細い糸を張った。剣先で糸に触れても切らず、輪そのものに当ててもならない。最初の十回は一度も止まらず輪を跳ね飛ばし、次の十回では届かない位置に剣先が残った。
エレオノーラ様は失敗のたび開始線へ戻り、自分の歩幅と剣先の位置を私に尋ねた。私が右足の着地が指二本分長いと答えれば床に新しい印をつけ、肩が先に動いたと答えれば剣を置いて足だけを百回動かす。単調さに耐えられない者なら三日で投げ出す稽古を彼女は十一日間続けた。
稽古を始めて二十五日目に初めて剣先が糸に触れたまま止まった。偶然ではないと確かめるため位置を変えて十回試し、成功したのは四回に留まる。翌日は六回となり決闘前日には八回まで増えたが、残る二回が本番に出ない保証はどこにもなかった。
「今なら勝てますか」
「殿下が予想どおりに待てば届きます。殿下が最初から打ち込めば負けますし、観覧席の物音に反応しても足がずれるでしょう。私に言えるのはそれだけです」
「では十分です。一か月前には届く方法すらありませんでした」
決闘当日の正午には学院の観覧席が埋まり、座れない者は回廊の窓から身を乗り出していた。王太子の勝利を見るために集まった者がほとんどであり、エレオノーラ様に声をかける者はレーヴェン家の侍女一人しかいない。私は剣の指導役として白線の近くに立つ許可を得たものの、周囲から向けられる視線は歓迎とはほど遠かった。
アーネスト殿下は王家の青い決闘服をまとい、切れないよう刃を潰した裁定用の剣を軽く振って調子を確かめていた。対するエレオノーラ様は装飾のない白い上衣と革手袋を選び、私が渡した剣を抜いて重さを確かめる。肩の高さも足幅も昨日までと変わらなかった。
「最後に確認します。鐘だけを聞いてください。殿下の目も観覧席も見ず三歩目で喉元に剣を止めます。外したなら剣を捨ててください」
「承知しました。ミレーユ先生には一か月もの間ご迷惑をおかけしました」
「終わったような言い方はおやめください。礼なら剣を返してから伺います」
審判を務めるオルテンシア学院長が二人の剣を調べ、刃が規定どおり潰されているか、手を守る鍔に不正がないかを確認した。誓剣裁定の規則が読み上げられる間も殿下は余裕を崩さず、エレオノーラ様に告発を認めれば今からでも許すと声をかける。彼女は返事をせず定められた開始線に右のかかとを合わせた。
二人が剣を構えて互いに礼をしたあとで学院長が片手を上げた。観覧席から咳払いが一度聞こえたが、私は足を踏み出したくなる衝動をこらえながらエレオノーラ様の肩だけを見る。
鐘が鳴ると同時にエレオノーラ様の白い上衣が前へ飛び出した。最初の一歩で殿下の笑みが消え、二歩目には外へ開いていた殿下の剣が戻り始める。三歩目でエレオノーラ様の腰が落ち、伸び切った剣先が殿下の喉から指一本の位置で止まった。
鐘の余韻が消える前に勝敗は決まっていた。
「動かないでください。私にも二度目は止められません」
エレオノーラ様の声は普段と変わらず剣先にも震えはなかった。殿下が半歩退けば追う技術はなく、剣を払われれば抵抗する力も残っていない。それでも規則に照らせば勝敗は動かなかった。
オルテンシア学院長は二人の位置を横から確認し、右手をエレオノーラ様に向けた。
「致命の間合いを確認しました。アーネスト殿下は剣を下ろして敗北を認めてください。これをもって告発は撤回となります」
「認めない。今のは決闘ではない」
殿下の返答によって止まっていた観覧席が一斉に動き出した。卑怯な不意打ちだという声が上がり、女性が礼を欠いたと叫ぶ者もいる。鐘のあとに動いたことも禁じられた技を使っていないことも全員が見ていたはずだが、規則より王太子の不機嫌を恐れる者のほうが多かった。
「開始の合図は成立していました。最初にどう動くかを選ぶ権利は双方にあり、レーヴェン公爵令嬢に違反はありません」
「私は構えていなかった。審判の説明が不十分だったのだ。今の勝負は練習として仕切り直す」
アーネスト殿下は喉元の剣を左手で押しのけようとした。エレオノーラ様が剣先をわずかに引くと皮膚は傷つかなかったものの、もう一度同じ位置へ戻す余裕はない。私は白線を越えて止めるべきか迷いながら学院長を見た。
学院長は再戦を認めていなかったが王太子はすでに自分の開始線へ戻ろうとしている。観覧席からは今度こそ正々堂々と戦えという声が重なり、エレオノーラ様だけが剣を構えたまま取り残された。二度目には殿下も待たないため私たちの戦法は使えない。
「お待ちください」
高い声が観覧席の最前列から決闘場まで届いた。セシリア嬢は椅子から立っていたが隣の令嬢に腕をつかまれ、振りほどこうとした拍子に帽子を床へ落とす。泣き腫らした顔は告発の日と同じでも、その涙が演技かどうかはまだ判断できなかった。
「もうやめてください。殿下の負けです。エレオノーラ様は何もしていません」
「セシリア。君は彼女に脅されているのか」
「違います。私が嘘をつきました。慈善会のあとで紋章紙を委員会室から持ち出し、脅迫の手紙を自分で書きました。礼装も私が小刀で切りました。その小刀をエレオノーラ様の机に戻し、三人には殿下に口添えすると約束して証言を頼みました」
自白の一つごとに観覧席から音が消えていった。壁際にいた三人の令嬢のうち一人が座り込み、もう一人は顔を両手で覆う。残る一人が何も知らなかったと叫んだため、約束が実在したことまで自ら示す結果になった。
「西回廊のことはどうしたのですか」
学院長が尋ねるとセシリア嬢は観覧席の手すりにつかまりながら決闘場へ下りた。足取りは危うかったが誰かに支えを求めず、エレオノーラ様から数歩離れた位置で膝をつく。アーネスト殿下が止めようとしても彼女は顔を上げなかった。
「階段では誰にも触れられていません。エレオノーラ様が後ろを通ったときに私から転び、殿下がいらっしゃる場所まで声を上げました。怪我をするつもりはなく数段だけ落ちるつもりでした。全部私が仕組んだことです」
「なぜ今になって覆す。彼女に何を約束された」
「何も約束されていません。私はエレオノーラ様が代理人を見つけられず裁定を諦めると思っていました。決闘になっても殿下がすぐ勝って終わると思っていたのです。それなのに殿下は負けても終わらせず、今度は本当にこの方を傷つけるおつもりでしょう」
殿下の顔から怒りが消えたあとには理解できないものを見る表情が残った。守っていたはずの令嬢から自分こそ恐れられていると気づいても、すぐには受け入れられないらしい。差し伸べかけた右手を宙で止めたまま言葉を失っていた。
「セシリア・マーレン嬢の自白を記録します。証言した三名を含めて学院評議会が直ちに調査し、結果が出るまで関係者の外出を禁じます。誓剣裁定は先ほどの勝負をもってエレオノーラ・レーヴェン嬢の勝利とし、告発には根拠がないものとして撤回させます」
学院長の宣言を聞いてエレオノーラ様はようやく剣先を下げた。勝利を喜ぶ様子もセシリア嬢を責める様子もなく、学院長が剣を預かりに来るまでその場から動かない。革手袋を外すと治りかけた豆が破れており、柄には細い血の筋が残っていた。
学院長の宣言に異議を唱える者はもういなかった。つい先ほどまで不意打ちだと叫んでいた生徒たちは互いの顔を確かめ、誰が最初に黙るかを競うように口を閉じている。剣で決まった勝敗より自白によって変わった空気のほうが彼らには重要らしかった。
アーネスト殿下は何かを言おうとしたが学院長から発言を止められた。告発者として虚偽の証拠を精査せず裁定後も敗北を拒んだ事実は学院評議会と王宮へ報告される。婚約をどう扱うかも王家と公爵家の協議に委ねられ、少なくとも殿下がこの場で結論を言い渡せる立場ではなくなった。
私は預けていた鞘を受け取ってエレオノーラ様のもとへ向かった。彼女は私の顔を見るとようやく肩を下げ、血のついた手袋を隠そうともせず剣を差し出す。預かった刃には欠けが一つもなく喉に触れた跡も残っていなかった。
「お返しします。鐘以外は聞かず三歩目で止めました」
「見ていました。二歩目が予定よりわずかに長くなりましたが、最後に腰を落として修正できています。殿下が動かなかったから成功したのです」
「最後まで評価が厳しいのですね。しかしその評価だったから私はここへ立てました。ありがとうございました」
私は返された剣を鞘へ収めてから乱れ始めた周囲の様子を見た。昨日まで彼女を避けていた生徒が声をかける機会をうかがっており、レーヴェン家の侍女は泣きながら替えの手袋を抱えている。セシリア嬢は学院職員に伴われて退場し、アーネスト殿下は近衛に囲まれて審判台の前へ残されていた。
裁定から七日後に学院評議会はエレオノーラ様への告発を正式に無効とした。三名の証言者はセシリア嬢から王宮への推薦を約束されていたと認め、持ち出された紋章紙の残りも彼女の寮室から見つかる。セシリア嬢には退学と王都での監督処分が下り、アーネスト殿下は学院内での裁定権を停止された。
婚約はレーヴェン公爵家からの申し入れによって解消の協議が始まった。事情を知らない者は今でもエレオノーラ様を悪役令嬢と呼ぶものの、その呼び名を本人の聞こえる場所で使う者はいない。剣先が喉元へ届いた速さだけは噂の内容が変わっても正確に伝わっていた。
私はようやく平穏を取り戻した北練武場で一人の稽古を再開した。裁定に関わったことで父からは長い手紙を受け取ったが、叱責の最後に決闘で選んだ足の動かし方は悪くないと書かれていたため家の名を汚したわけではないらしい。代理人にならなかったという言い訳も辛うじて通った。
扉が開いたのは朝の水桶を満たし終えたときだった。エレオノーラ様は以前の濃紺の学院服ではなく自分の稽古着を用意し、治りきっていない手に新しい革手袋をはめている。裁定まで使っていた借り物とは別に、自分に合う長さの木剣も用意していた。
「本日から改めて剣を教えていただけますか」
「裁定は終わりました。もう一つの動作だけを繰り返す必要はありません」
「だからこそお願いします。一度目は殿下の油断とあなたの知恵で勝ちました。同じ相手と二度戦えば私は負けます。今後も剣を取るなら次は自分の技術で立っていたいのです」
勝てないと告げても諦めなかった人が一度の勝利で満足するはずはなかった。私は木剣を一本渡して彼女の足元を示し、まず一か月かけて染みついた突進用の立ち方を直すと伝える。エレオノーラ様は決闘を申し込まれたときより険しい顔をしたが木剣を返そうとはしない。
「明日は日の出から参ります」
「通常の稽古は日の出のあとです。今度は一か月という期限もありませんから、まず私の開始時刻に従ってください」
「承知しました。では日の出から半刻後に参ります」
開始時刻について交渉できたのは結局のところ半刻だけだった。私は水桶の栓を確かめながら、次は底の穴をもう少し小さくしておこうと決めた。




