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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

欠損

作者: 吟醸 樹

スプラッタやグロテスクな描写がお嫌いなら引き返して下さい。

  欠損


 腕が落ちていた。

 この頃疲れ果てており明らかに仕事が捗っていなかった。体の一部が気に食わないというふざけた理由で捨てられたのだ。胸の痛みが治まらぬ中、能率は下がる一方で、傍から見ればいつ倒れてもおかしくない状態であったことだろう。

 だからと云うわけではないが、夜の帷もすっかり降りた中、何の変哲もない帰り道の辻で私は出会ってしまった。

粘りつくような闇の先に似つかわしくない白色が地に伏している。丸みのある輪郭は、紛うことなき女のものであった。

 私がそれに近づくと、雲間から顔をのぞかせた月が舌先で腕を舐めていった。月光を一身に浴びたそれは、文字通り腕を伸ばし私の右腕に絡みついた。

 ゆるりと一輪の手のひらが開く。まるであの月が欲しいと言わんばかりに。

 柔らかそうな指先から肘に至るまでの艶に焦がれた。噛みたくなるようなきめ細やかな肌に憧れた。あの腕が私のものであれば良かったのに。私の右腕はまだ鱗が残っているし、左腕は前々から鉤爪が伸びている。あの腕が殊更羨ましい。

 彼女は私から離れようとしなかった。特に困ることもないだろうと、そのままアパートへと足を運ぶ。扉を開けて玄関を潜ると、それがさも当然のことであるかのように彼女は忽然と姿を消した。所詮疲れ目の悪戯に過ぎなかったのか。

 固形状の栄養食が味を変えるに至るまで、この先どれ程待たねばならぬのか。半分ほど残してしまったが、冷蔵庫が代わりに食べてくれた。シャワーを浴びて、そのままベッドへと倒れた。今日こそは熟睡できるであろうと云う確信に全身で浸されていた。

 喪失感で胸一杯の目覚めを迎えると腹の中が空になっていた。胃袋の中どころか、胃袋をはじめとする内臓一式が見当たらぬ。道化の被る南瓜よろしく、腹が見事にくり抜かれていた。辺りを見渡せば、かの麗しい腕が私の横隔膜をストール代わりに首筋に巻いている。彼女の周りには見覚えのある内臓が散らばっていた。

 返しなさいと声に表わそうにも横隔膜は件の通り。諦めて辺りに転がっている内臓たちを一つ一つ拾い上げて腹の中に納めていく。元々あった場所に戻すだけなので造作も無い。

 そこで妙案が浮かんだ。冷蔵庫から昨夜の栄養食を取り出し胃袋に詰める。先に中身を入れておけば良いのだ。こうすれば不快な味と再会することはないし、歯磨きも楽になろう。

 手早く胃袋を片づけて彼女を探す。どうやらベッドの下がお気に入りのようだ。覗き込んで手を伸ばしたが、すげなく撥ねのけられてしまった。結局彼女から横隔膜を取り戻すことは叶わなかった。

 普段より一本遅い列車に乗った。たった十分の差でこんなにも密度が変わるものなのか。人込みに酔い息が詰まりそうだった。そこで気が付く。横隔膜がないのだから息が詰まって当然である。悪戯とばかり思っていたがもしや機転だったのか。他人の吐いた空気や汗の匂いを吸い込まなくて済む。

 何事もなく出社した。息も絶え絶えで声も出ないと知るや否や、上司や同僚の目の色が変わった。腫れものを触るかのような扱いを受け、貯まりに貯まった有給を消化してくれと職場から締め出された。

 アパートに帰ると部屋一面が紅葉で飾られていた。見通しの良いワンルームが、特有のむせ返るような匂いで満たされていた。鍵が壊されていた。腕前のない空き巣が出るとは世も末である。空き巣はしっかりと腑分けされていた。彼女が腕によりをかけて楽しんだのだろう。

 空き巣の成れの果てについて警察には知らぬ存ぜぬで押し通した。そもそも声が出せないので何を聞かれようとも縦横に首を振るばかりである。駆けつけた巡査がしきりに気遣ってくれた。失語症とでも誤診されたのか。缶コーヒーを渡してくれる手の逞しさ。鱗や鉤爪などとは無縁の腕が羨ましい。

 彼女の手が私のものより一回り程小さかったのが幸いし、私の容疑は白になった。鑑識は皆青ざめていた。まったくの第三者、それも女が腕一本で大の男を弄んだ後、残骸を律儀に整頓し、部屋に装飾を施して立ち去る。身の毛がよだつのも無理はない。

 と、勝手に同情していたのだが、どうやら違うらしい。巡査に報告する鑑識官の声が心なしか震えていた。

 ――横隔膜が余るんです。

 さすがに返却を願うことはできなかった。



 大家が用意した新しい部屋は同じ二階の北東であった。日付の変わらぬうちに移り住む。引っ越しは金目のものを持ち出すだけで事が済む。あまりの手際の良さに大家もあきれ果てるばかりで空き巣への転職を勧められた程である。今の仕事に見切りが付けばそれも良いのかも知れぬ。

 殺風景な部屋の居心地は何物にも替え難い。掃除を終えたばかりのフローリングがあらん限りの疲れを吸い込んでくれた。前の部屋の床板は黄ばんでささくれ立っていた。私の疲れを吸い過ぎた挙句許容量を超えてしまっていたようだ。ヒトの手で創られたものが朽ち果てるのは、ヒトの代わりに疲れ果ててしまうからである。

 まだ若いフローリングを伝って、閑寂を打ち破るように水音が聞こえた。どうやら風呂場のシャワーが音源らしい。蛇口の栓でも緩んでいるのだろうか。

 風呂場の取っ手を握った瞬間曇り硝子に白い手が貼り付いた。彼女の濡れ姿を目の保養にしたいと云う衝動に駆られたものの、機嫌を損ねるのはあまりよろしくない。内側から扉を必死に抑える彼女の姿が微笑ましいのもあって引き下がった。湯けむりの中、ほのかに赤らんだ肌や首筋を撫で行く水滴が目に浮かぶ。

 シャワーを終えた彼女は一糸纏わぬ裸形であった。無理もない。今朝方巻いていたストールは警察に押収されたのだから。

 買い物に行かねばならぬ。彼女に似つかわしいものを見繕わなくては。

 財布を手に部屋を出ようとすれば彼女に引きとめられた。連れて行けとねだる姿も愛おしい。だが、素肌露わな彼女を連れ出すのも気が引ける。ぐずぐずと逡巡している内に、彼女に左腕をもぎ取られてしまった。そのまま彼女が袖に潜り込んでくる。実に得意げである。諦めて外に踏み出す。

 買い物でしたたか手を焼いた。彼女は気位が高く手渡された装飾類を軒並み払いのけた。鬱憤を晴らそうとマネキンの首を圧し折るつもりだったようだが、生憎どの店にもトルソー以外見当たらぬ。代わりに、煩く世辞を囀る店員の頭の螺子を片っ端から緩めていた。目の前で幾重にも貼り直されていく値札には大層困惑させられた。

 十二軒程回ったものの、彼女のお気に召すような掘り出し物には行き当らなかった。知らぬ間にカゴの中に欲しいとも思わない物を放り込まれるのは御免蒙りたいものだ。彼女の頼みを断れる筈もなく袖無の服ばかり買う破目になった。と云っても全て倍額還元のサービス付きであったのだから、文句の付けようが無い。

 あらゆる買い物から帰宅すると左腕は干乾びていた。せっかくうってつけの冷蔵庫を注文したというのに無駄になってしまった。届いたところで、もはや使い道がない。用無しの冷蔵庫なぞ彼女が嬉々として分解するだろう。

 両足のむくみを彼女が揉みほぐしてくれる。鱗や鉤爪の生えたものとは段違いの腕前である。とうとう骨抜きにされてしまった。あとで骨を元に戻しておかねば。

疲れすぎた為か、右腕が言う事を聞かぬ。彼女がほぐしてくれるのだが、嫋やかな指が触れれば触れる程増々動かなくなる。ひたすら拳を固めるばかりで、仕舞いには勝手に悶え始めた。鱗の分際で彼女に心寄せるとは小癪な。

 胃袋に無理やり物を詰め込んでシャワーを浴びる。右腕の届かぬところは彼女が流してくれた。お返しのつもりか、右腕が勝手に彼女を愛撫していた。鱗が当たって痛くはないかと気が気でなかったが、彼女はまんざらでもないようだ。

 充実感で腹一杯の目覚めを迎えると両腕が手に手を取って駆け落ちしていた。

 昨夜までの気持ちが嘘に思える程未練は無かった。有りがたいことに彼女に対する執着は右腕が丸ごと持ち出してしまったらしい。本来なら彼女を失って開いている筈の胸の穴すら跡形もなく盗まれていた。

 思い返せば、初めから右腕の恋に当てられていたのかも知れぬ。もしや、左腕と競い合っていたのではないだろうか。対になるのが望ましいのだから、左腕が枯れたのも右腕への配慮であったのだろう。

 彼女の見立てに間違いはなかった。今の私にとって袖なぞ無用の長物である。昨日買った姿見の中には見違えた私が立っていた。

 さて、いったい誰から手玉に取ろうか。

 そう言えばまだ何も腹に納めていない。冷蔵庫は完膚なきまで分解されていた。

 糧を求めて部屋を出たら、階段で巡査に出くわした。私に気付いた彼は、踊り場で道を開けてくれている。先に降りようとしたら勝手に脚がもつれた。右腕の次は左脚かと思いきや、崩れる際に白色が見えた。世話焼きな腕もいたものだ。傾く視界の中、足元で揺れる彼女が見えた。言葉に表わさずとも私の気持ちは伝わるだろう。

 伸ばされた腕が近づく。

 彼は既に落ちていた。

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