【7】幸せの報い
父はまたある程度の距離を保って、今度は庾月の斜め後方にいる。
──何が始まるんだろう。
懐迂は婚礼の儀式だと、手紙に書いてあった。婚約の儀式は──。
──何だっけ?
書いてあった気もするが、どうにも鈍くなっている頭では思い出せない。
「座って」
庾月の言葉に従い、留は後ろの段差に座る。
周囲にある白い花たちが風に揺られ、ふしぎな気持ちになる。
──まるで……花たちも知っているのに、俺だけ知らないみたいな……。
異空間にいるような、どこか落ち着かない気持ちでいると、ふんわりと髪に庾月の手が触れてきた。
「留、少しの間……目をつぶって」
ふわり、ふわりと包まれるような感覚は安らぎになり──留はまぶたを閉じる。
光が遮られ、何かが覆ってくるように影になって──。
──鼻……以外にも、触れたような……。
戸惑いつつ目を開け、留は違和感を覚えた。
──あれ?
日の光を背負う庾月の照れ笑いが、降ってくるようで。目をつぶる前は、そうではなかったはずで。
──そういえば、懐迂が『清い』と認めるのは……。
『何』が起きたのか気付き、ハッと息を吸う。
途端、火が付いたかのように顔も、体も、一気に熱くなった。
パン!
弾けたような音が聞こえて視線を向ければ、父が手を叩いていて。
「はい。婚約は、確かに見届けたからな」
なんて言葉で。『婚約の儀式』が、『何』だったかを理解する。
心臓がうるさくて適わない。
──初めてだった。
いや、たぶん庾月もそうで。
──それなのに、あんなにかわいらしい笑顔を向けられたら……。
恥ずかしさが限界を超え、庾月を直視できなくなる。
「あ、ありがとう……その、大事な儀式を、きちんと、終わらせてくれて……」
父に何とか言葉を紡げば、
「鴻嫗城の裏口から出れば、すぐに鐙鷃城がある。今はそっちが俺の家だ。明日の昼……顔出しな?」
と、信じられない言葉が返ってきた。
背筋が伸びた気がした。
喜びと驚きが同時に湧き上がり、声にならないでいると、
「なぁに、心配はいらない。誄姫……ああ、妻には前から話しているし、子どもたちにも朝までには、きちんと話しておくさ。あとは……」
チラリと父の視線が、庾月に動いた。
「服装はそのままでも構わないが……庾月、『旦那』らしく面倒みてやれ」
庾月は笑みを父に返す。
だが、留には、父と庾月を交互に見るしかできなかった。
父が家族のもとへ戻るのを見送り、妙な緊張感は抜けていく。
傍らには庾月がいる──と思えば、よりかけがえのない人に思えて──。
「きれいだね」
花に負けないくらい──とまでは、言えなかったけれど。庾月がうれしそうに笑ったから、意味は通じたらしい。
ジワジワと結婚への実感が湧いてきて、高揚感に包まれている。こんなに気持ちも初めてだ。
うれしいとも、楽しみとも言葉にならなくて。おずおずと、庾月の手に触れれば。
『ふふふ』と、庾月もどこかフワフワとしていて。キュッと、留の手を握ってくれた。
そっとその手を、庾月は頬へと持っていく。
「私、幸せだわ」
留が言語化できなかったことを言ってくれた。
でも、どこかで似たようなことがあった気がする。いつだったか考えてみても、答えを導けない。
どこかぼんやりしていても、庾月を見ていれば──照れたような表情で留を見ていたから、
──きっと俺も、同じような表情をしている。
なんて、何だか鏡を見ているような感覚に陥った。
少し散歩をして、庾月が『そろそろゆっくりしましょう』と言った。
何度か通ったからか、中庭から出入り口までは何となくわかるようになった。ただ、最高位の城はさすがに広い。
まだ通っていない道と気付いたときには、もう来た方向さえわからなくなっていて。でも、どんどん内部に来たということだけは、何となくわかる。
中庭からどれくらい歩いただろう。辺りを覆う、絨毯の色が変わっている。
──濃い紫色……。
色に目を取られていると、
「ここよ」
と、庾月が言った。
庾月に続いて立ち止まる。そのまま庾月は扉を開き、進んでいく。
留も一歩踏み込めば、見たことのないような広さだ。
「広い部屋だね」
部屋──と言ったが、間違っていないだろうか。入った先は『一部屋』ではなく、二部屋も三部屋もありそうだ。
それに、立っているところだけでも、綺の離れにある部屋より広いかもしれない。
「よかった。ゆっくり休んでもらえそうね」
庾月は慣れたように、更に奥へと留を連れていく。
テーブルとソファが見えてきた。導かれるまま、ふたりで座る。
ソファの座り心地も、テーブルの作りも、どれも最上級なんだろう。
知らない価値の物たちに留は囲まれたが、庾月といれば場所も、置いてある物も、何でもいいと思えてきた。
ほどなくして、夕飯が運ばれてきた。
きれいな食器に、ていねいに盛り付けられた料理の数々。留は呼吸を忘れそうになる。
「食べましょう」
『いただきます』と言う庾月に続く。だが、目の前に置かれた上部をパイ生地で包んだ料理は、見たことがない。
庾月が食べるまで待とうかと、対面のパイ生地を見たが、
「ねぇ……これ、どうやって食べるの?」
と、庾月に教えを乞う。
これは一種の甘えで──庾月もそうとわかっているかのように、楽しそうに教えてくれる。
「留よりお姉さんになったような気になれて……ちょっとうれしいわ」
照れてそんな冗談を言う庾月もかわいくて、笑いが絶えない。
夕飯を食べ終わり、気がゆるんできたのか。
──今日は俺、どこで寝るんだろう……。
留がこんな呑気な思考になったころ。
庾月が、留の手を両手で包んだ。そのまま庾月が立ち上がる。
──あれ? ……どこかに行くのかな?
流れるままついていけば──着いた先は、すぐとなりの空間で。
ここが、庾月の部屋だったと気付いた。
きれいに整った大きなベッドを前に、留の視線が逸れる。
じんわりと手に汗を感じて、動悸がしてきた。
「『初めて』は、ここでしたいの」
ふたりで鴻嫗城に来ることはない。それはもう、決定事項だ。
留が鴻嫗城に今回来られたのは特別で。結婚してからもそれは変わらない。
庾月は鴻嫗城の後継者で──それは覆せない。
留は綺にいると決めている。これも、覆せない。
結婚したいと互いの気持ちを確認したとき、庾月が『妥協案』を出した。
『鴻嫗城を継ぐまで、綺で暮らす』と。
ふたりは、期限を定められないほど離れて暮らすようになる前提で、この恋を選んだ。
庾月がそこまで留と結婚したいと言ったから、大人たちは可能な限りの譲歩を──せざるを得なかったのだろう。
『継がない』と、庾月に放棄させないために。
あと数日で、結婚する。
あと数日──これまでの一線を、保っておきたい。
『せめて庾月が成人するまでは』──これは、留が勝手に決めていた、『庾月と付き合う条件』だった。
でも、庾月の立場になって考えてみたら、今、その条件を守るのに、どんな意味があるだろう。
何もかもを削ってでも留と結ばれたいと、庾月はできる限りのことを譲ってきた。
その庾月に、報うには──。




