【4】月と願い
『お茶を頼まれている』と祖父に言い、先に仕事を抜ける。
祖父は、
「嫌なことは無理しなくていいんだからな」
と言ってくれた。
『ありがとう』と返したが──きっと祖父は、留の気持ちに気付いている。
客間に行く手前で、廊下から外へと出る。
非常口と表示されているが、離れに行く道でもある。
夜空に月が浮かんでいて、きれいだなと見上げる。瞬く星の光が、何百年も前の光とは信じられない。
月を眺めて歩いて、時折お茶に視線を戻す。
お茶はふたつ。
持っていく数は、ずっと変わらない。
庾月と麗人の分──だったが、麗人は一度も口にしていない。
初めて留が部屋を尋ねたときから、麗人はすぐに立ち上がって──庾月が『座って』と、留に着席を促した。
持ってきた二つ目のお茶は、自らの分になって──。ある日を境に、麗人は門番かのように、部屋の前で留が来るのを待つようになった。
──また部屋の中には、こないんだろうな……。
祖父も麗人も、留の素行に問題がないと判断しているのか。
ありがたいことだが、今日はこれまでと少し違う意味合いで、庾月に呼ばれた気がしている。
──それにしても……。
さっきの庾月はかわいかった。
料理をテーブルに置いたあと、留は庾月を横目で見た。
照れ笑いをしていた。
一気に空気が体中を巡って、体温が急激に上がったような気さえした。
あれから、何度も庾月の笑顔を思い返してしまう。
留の顔だって、似たものになっているのだろう。
──でも、どうしたって……。
自身の気持ちに気付いてしまったら、切り替えようがなかった。
離れの奥まで行くと、案の定、麗人が扉の前にいた。
並ぶほど近くまで行けば、長身と感じていた麗人と、拳ひとつ分ほどしか変わらない。
短髪──というには襟足も、前髪も長い。
髪の色も、前髪の間から見える瞳も、同じ色かと思っていたのに──艶めいて見えるのは、どうしてだろう。
入室の前に足を止め、麗人に頭を下げる。
「お願いしますね」
ポソリと声が降ってきた。
「え……」
留が頭を上げれば、麗人の姿はなく。振り返れば、背は遠い。
──『何』を、『お願い』されたんだろう……。
疑問で埋まりそうになるが、お茶に意識が向く。あくまでも『客人』に頼まれた物だ。冷めきる前に飲めるよう、テーブルに置かなくては。
ノックをすると、中から『どうぞ』と庾月の声が返ってきた。
「失礼します」
入室後すぐに一礼し、庾月の前に湯飲みをひとつ置く。
「留も座って」
留は人に出すようにもうひとつの湯飲みを置き、その席に着席する。
庾月は正面ではなく、留の左側に座っている。こうやって、L時になるようになったのは、そういえばいつからだったか。
庾月は必ず留に着席を求め、『一緒に』お茶を飲むよう勧める。
毎回変わらない。
一口お茶をコクンと飲んだ庾月が、コトリと湯飲みを置いた。
「いつもありがとう。このお茶、とっても心が落ち着くのよ」
「うん……よかった」
だから本当は、お茶をひとつだけ持ってくれば、それで終わったのだ。
「元気だった?」
わかっていたのに、毎回お茶をふたつ持ってきていた。
「元気だったよ。庾月は?」
「飛んできたいくらい元気だったわ」
その時点でもう、留は──。
「ねぇ……」
庾月の大きなクロッカスの瞳が、ジッと留を見つめる。
続く言葉がハッキリ聞こえたはずなのに、留には言語化ができなかった。
庾月と話す、この時間がずっと続いてほしいと、いつから望んでいたのか。
同年代の子たちと同じように過ごしてみたいと願いながらも、手に入れられなかった時間とは違う。初めて体感している時間だ。
『一生の思い出くらい』なんて、すでに望んでいたから──言われるがまま、お茶をふたつ毎回持ってきていた。
『嫌なことは無理しなくていいんだからな』
あの祖父の言葉は、『無理に諦めるな』という解釈でいいんだろうか。キュウっと胸が締め付けられて、何だか苦しい。
『この間の返事を聞かせて』
体感でずい分時間が経って、ようやく言語化できた庾月の言葉。
『俺でよければ』と答える。
すると、喜びに満ちた庾月が抱きついてきて。唐突な事態に、留は半ばパニックになる。
支える手の置き場にアワアワと困っていたら、
「あら、こういうときは抱き締めてくれるものではないの?」
と促され──オズオズとぎこちなく庾月を包み込む。
──これは、いわゆるハグで。ハグには癒やしとか安らぎとか、そういう効果があって……。
何とか冷静になろうと留は努めていたが、今度はふわっと何かが頬にあたった。
未知の事態に驚き、留は思わず姿勢を正す。
けれど、すぐさま庾月の甘えるような、寂しいような視線に捕まった。
「恋人の証。……ねぇ、私にはくれないの?」
またクロッカスの大きな瞳にジッと見つめられ、心が騒がしくなる。
思考が停止しているような、何もかも脳が処理をできていない感覚がある。
いいも悪いも、選択肢が浮かんでこない。
それなのに、庾月の甘えるような視線がずっと留に訴えてくる。
庾月の頬におそるおそる唇を触れさせ──た瞬間に、想いは高まって。
スッと顔の距離を取り直し、やはり年齢は大事だと聞いてみれば。
「あと……しばらくすれば十五になるわ」
と聞き、留は血の気が引いた。
即座に『庾月が成人するまでは、いくら互いの同意があろうがこれ以上はしない』と心に決める。
だが今後、庾月に誤解をされては困ると思い直し。留にしては珍しくハッキリと宣言をした──が。
「あら……年齢って、そんなに大事?」
なんて庾月があまりにもふんわりと言うものだから、
「とっっても大事!」
留は成人男性として断言した。
しかし、その後。留にとっては想定外なことが、連続して起こる。
幕開けは、
「私も綺で働くわ」
と庾月が言い出したことだった。
『ずっと一緒にいたい』と庾月が言い、留は『綺を出ない』と返したからだ。
実に庾月らしい発想に、『それは無理でしょう』と留は現実的な返答をする。
留が流したと受け取ったのか、
「わかったわ。私が説得する」
少し怒ったように庾月は言い──次に来たときには、綺に住み込みで働けるようになったと言った。
天地がひっくり返った。
庾月と一緒にいられるのが、『現実』になってしまって。
毎日顔を合わせて、あいさつを一日に何度もして。更には忙しくても、なるべく一緒に食事をするようになり。
『現実』が、『非現実』へと変化していくのを、留は日々体感するようになっていく。
庾月はよく笑う。毎日毎日楽しそうに。
それに、仕事終わりに手を繋いできたり、ハグを要求してきたり、頭をなでてと言ってきたりする。
その度に、留は時間が止まる。
庾月のこれまでの生活は知らない。
そうであっても、暮らしたことのない場所で暮らし、しなくてもいいような労働をしている──というくらいは、わかる。
──ここまでして庾月は、一緒にいたいと思ってくれているんだ。
付き合うようになって半年以上が経過し、自惚れを恥じたころ。庾月の発した言葉が、留の頭の中で強く響いた。
「結婚してほしいんです」




