無人の駅
夏。山間の田舎の無人駅。
時刻表をみた夏帆は次の電車が来るまでに2時間以上かかる事を知って、古い木製のベンチに落ちるように腰掛けた。
跳ねて落ちたクリケットラケットを拾う。
今ならそんなに待たなくても良いから運が良かったね、とか町で言われたな。
別に恨むわけじゃないが、人のよいおばさんの笑顔が少し憎らしく感じた。
2時間もあるのならしばらく商店街で時間を潰せたのに。
駅舎のひさしの外を見上げると、太陽がさらに上り一段と眩しく強くなっていた。ここは日陰になっていて、森の中を抜けた冷たい風が線路に沿って流れ込んでくる。
そう悪くもないか。
2時間もあるから駅で待っているのがよい。そういう意味だったのだろう。
そう思うことにした。
この日差しの中歩き回っていたら熱中症になったかもしれない。
蝉の声が聞こえる。よく知った都会の蝉ほどうるさくない。ジジジ……。冷たい風も流れて来た。
しかし何もすることがなかった。じんわりと滲み出てくる汗、替えの下着がない。
周りに誰もいないことを念のため確認した。
素早くスカートの下のショーツを脱いで丸め、カバンにしまう。
練習の後、疲れてシャワー浴びたくないとき更衣室で良くやる。蒸れずに気化熱を奪って気持ちが良い。太ももを少し大きめに広げた。これは更衣室でも出来ない角度。スカートの裾も少したくし上げる。線路に運ばれた冷たい空気が、少しくすぐったい。
だいぶ時間を過ごせたなと思って、スマホをカバンから引っ張り出し時間を確認すると、まだ2時間もある。スマホは圏外。
森林浴を思いつき線路の向こうの雑木林に入ってみると、さまざまな木々が生い茂り、また朽ちて次の世代の養分となっていた。太陽の熱も光も何重もの木の葉で遮られ、その内側に蓄えられた新鮮な空気が、美味しい。ただ足場は悪く、虫が多く、落ち着ける所ではない。
樹皮が腐り、剥き出しの白い肌の見える木の枝を見つけ、手にする。戻ってベンチに静かに腰かけ、待つことにした。
ハァ……。
指を伸ばした。次に指を折った。スカートの生地が指に巻き込まれる。
伸ばし、折る。ゆっくりと数分同じことを繰り返した。
暇つぶしに、同じリズムを繰り返していたら、スカートがその仕事を果たすことが不可能になるまで短くなった。
退屈な時間を『あること』で潰すことができる。
「フゥ。」
声にして、大きなため息を出し、もう一回伸ばした所で、指が動かなくなった。
蝉が鳴き止んだ。
自分の鼓動が聴こえる。
視線はそのまま、顎を少し上にあげ、静かに決行。
指を折り、『不意に』見えてしまったものは、他の人のものかのようで、あったのは背徳感と支配感だった。
今この時空の価値は私に委ねられている。
指を伸ばし……
汗だ。
いや、もう少し粘性がある。
微電流が全身に流れ痺れる。試合に負けちょっと居づらくなった地元、勝たなきゃという重圧からの解放、4年間の努力は何の意味もなかったこと。
ここには、なんの意味もない2時間という完全な自由がある。それを楽しみに変えるのも自由。
「………、あ…。ぁ、」
何度かの後、スマホを取り出した。まだまだ時間がある。いつもの動画サイトを開きたかったが、やはり圏外。スマホを眠らせ、代わりに拾った木の枝の端を手にして引っかかりが残らないようにコンクリートに擦り付け、削って丸くし、最後はざらついた石を使って綺麗に磨いた。
バスタオルを床に広げ、両膝を下ろす。荷物の詰まったバッグを枕にして頭を沈める。両手を膝と膝の間に潜らせる。
時間はある、ゆっくりと……今度は枝。
(本物みたい……。)
指で軽く棒を叩いてみる。振動が新たな刺激を生んだ。
湧き出した汗も、蝉の鳴き声も心地よい。
「大丈夫ですか?」
男性の心配そうな声がした。
その声が幻のように思えたが、足音が近づいて来た。
男性は身を屈め、そして、一歩飛び退いて弁明のようなことを言い出した。
「すみません、私は電車に乗ろうとここにきたのですが、早めにくることを習慣にしているのです。ここは静かで良いところだから。あなたもそう思って過ごしてらしたのですね。邪魔をしてしまってすみません」
手には本を持ち、水色のシャツに白い麻のスーツを着ていた。彼は後ろを向くべきか後退りに歩むべきか混乱して、躓きながら今来たゲートに戻ろうとした。狼狽の仕方を見て誠実そうな人に思えた。
私も立ち上がった。
落ちた木の枝を慌てて拾う。
「私こそすみません、お気遣いなく。退屈で時間を潰していただけですから。ここは良いところですよね、潮の匂いのする冷たい空気が、流れ込んできます」
そう言って線路の消失点のほうに視線を流し、精一杯爽やかな雰囲気を演出した。
しかし『潮の匂い』などと、私は何故言ったのだろう?ここは山の中だ。海などない。
男は落ち着きを取り戻して目を閉じ、大きく鼻で息を吸った。
「本当ですね」
彼はそう応え、隼人と名乗り握手を求めてきた。
スカートに指先をサッと触れ、私も名乗って握手した。
彼は優しい口調で聞いた。
「一人旅ですか?」
「はい。1回戦で負けてしまいました」
詳しいことは言わなかったが、彼はそれ以上詮索するようなことはなかった。
「それは…寂しかったですね」
黙って頷いた。
そしてもう一方の手に持っていた枝を彼に見せた。
彼は受け取って胸のポケットにしまった。
「まだ1時間あります」
「ありますね」
―完―