表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

キャラバン

作者: ヒトリヨガリ

 1


「ゆうき、おまえたちももうそろそろいいかげんに新しい車に買い替えた方がいいんじゃないか?」


 その夜、僕ら家族は奥さんの実家で夕飯をご馳走になっていた。奥さんの実家は僕らが住んでいるアパートのすぐ近くにあることから、日頃からよくこんな風に夕飯に呼んでもらうことが結構あるのだ。夕飯の時間ももうそろそろ終わりで、奥さんとお義母さんは立ち上がって後片付けを始めていた時だった。そんな時にふとお義父さんが僕に言ったのだ。僕はグラスにまだ残っていたビールをひと口飲み、それから、


 「そうっすね…」


 と曖昧な返事をした。お義父さんの顔を見ると、お義父さんはいつになく真剣な顔をしているようだった。車かあ。僕はシンプルにそう思った。


 「凜も、來ちゃんも大きくなったんだし、とくに凜なんてこれから卓球の試合で県外に行く機会がもっと増えるだろう。()()()()もう何かと不便だろう」


 とお義父さんは重ねるように言った。


 たしかに。それはお義父さんの言う通りだった。長男の凜は五年生になったし、長女の來ちゃんは年長になった。長男の凜は卓球をやっていて、上級生になった最近では県外に試合に行くことが実に増えたのだ。荷物も沢山あるし、今乗っている()()()()()()()()では正直色々とキツく感じていたのはたしかだった。僕は夕飯を食べ終えてソファの上で遊んでいる、そんな大きくなった二人の姿をぼんやりと眺めた。


 「あのスイフトに乗ってもうどれくらい経つ?」


 とお義父さんは尋ねた。


 「えーっと、凜が年長の時にお義父さんにもらったからもう6年ぐらい経ちますかね」


 と僕は答えた。


 「となると、俺がたしか5年は乗ったからもう10年目か…」


 僕らが今乗っているそのスズキのスイフトは元々はお義父さんが乗っていた車だったのだ。お義父さんが違う車に乗り換えるからということで、僕らにタダでくれたのだ。つまりは『お古』。けれども距離数はまだ全然乗っていなかったし、特に何かの不備があるというわけではなかった。むしろ今でも具合が良いくらいで、ただ車がちょっと狭いというのと、トランクにあまり荷物が積めないという、そのことだけが少し難点だったのだ。でも車を買い替えようとまでは僕は思ってもいなかった。


 「さすがにもう買い替えてもいい時期だな。おまえたちもそれなりに蓄えもできたろ?」


 「いや~蓄えなんてまさか」


 と僕は首を振りながら言った。

 

 「まぁでも、本当に買い替えた方がいいぞ。車なんてローンで買えるんだし、もしならウチで立て替えてやってもいいんだから。とりあえずちょっと考えてみなさい」


 「はぁ」と僕は曖昧に返事をした。「少し考えてみます」


 「でだ、」とお義父さんは語尾を少し強めて言った。「もし本当に買うんなら早く頼まないとダメだぞ。今はコロナのせいでこんな状況だから、半導体の生産数が少ないとかで、納車するまでにだいぶ時間が掛かるんだから」


 奥さんの実家は専業農家で葡萄を作っているのだけれど、ここ近年はその売り上げがかなり好調で、お義父さんは少し前にも新しい車に乗り換えたばかりだったのだ。でもやっと納車したのは注文から半年以上が経過したあとだった。だからお義父さんはその辺のことはよーく知っているのだ。


 「はい」と僕は返事をして残っていたビールを飲み干した。


 家に帰った後、子供たちが眠ったあとで奥さんと晩酌の続きをしながらその『新車』について少し話し合ってみた。

 

 「どうする、車?さっきの俺とお義父さんの話聞いてただろ?」


 と僕は奥さんに言った。


 「あぁ~なんだかお父さんに色々言われてたね」


 と奥さんは笑いながらそう言って枝豆をヒョイと口の中に入れた。


 「でもお義父さんが言った通り、もうあのスイフトだとキツイっちゃキツイよな」


 「まぁ〜ね。凜の卓球で県外に行くことも増えたからね。この前の神戸に行った時もたしかにキツかったもんね」


 「よく言うね〜。俺の知る限りだと君たちはずっと寝てたような気がしたけどな」と僕は笑いながらそう言い、「それは運転してた俺の台詞だからね」


 「寝てる方も狭くて結構キツかったのよ。体はあまり動かせないし、あちこち痛くなっちゃってチョイチョイ起きちゃってたんだから」


 そう言うと奥さんは笑いながらビールを飲んだ。僕はもうそれについては何も言わないことにした。


 「まぁそれはともかくとして、新車を買うとすればやっぱりミニバンになるよな?」


 と僕は恐る恐る尋ねた。


 「そうね。ヴォクシーとか、ノアとか、アルファードとか」


 「俺、正直あんまりああいうタイプの車は好きじゃないんだよなあ。いかにもファミリーカーです、って感じがさあ」


「そんなこと言ったら私だって嫌よ。私だってもっとカッコイイ車に乗りたいよ。でも子供のこととかを考えるとそんなことも言ってられないでしょ。見た目より実用性でしょ。人が多勢乗れて、荷物が沢山積めれて、」


 「まぁ」


 その意見にはやはり同感せざる得なかった。重点を置くのはやっぱり実用性か。職場の僕よりも二回りも上の大先輩もたしかそんなことをいつか言ってたっけ。


 「子供がまだ小学生、中学生のうちは好きな車になんてまず乗れないよ。俺もわりに車好きな方だったから乗りたい車は色々とあったけど、仕方なく我慢してたもんな。子供がまだそのくらいのうちは家族で色々と出掛けるだろうし、習い事なんか始めると余計に色々と行かないといけなくなるし、荷物も増えるしな。高校生くらいだよ。そのくらいになればやっと好きな車に乗れる。それまではただひたすら我慢だね」


 なぜそんな話をしたのかはさっぱり覚えていないけれど、人生の先輩の金言として心の中の秘密の箱に一応しまっておいたのだ。どうやら僕もそういう時期が来たのかもしれない。


 「でもさ」と僕は言った。

 「ぶっちゃけ言うと、SUVがカッコイイとか、ファミリーカーはダサいとか、そういう風に漠然とは思ってるんだけど、具体的に乗りたい車とかは特にないんだよな。というかどんな車があるのかそもそもわかってないし」


 「ゆうき君は別に車好きってわけじゃないもんね」


 「そうだね。お義父さんに言われてなかったら車を買おうかなんてまず考えなかったろうね」


 「どうして?普通、男の人は大体みんな車好きなんじゃないの?」


 「どんな偏見だよ」と笑いながら僕は言った。

 「車好きじゃない男だっていっぱいいるだろう。俺が前に働いてた工場のブラジル人なんて、車ではないけど、サッカーが嫌いで、ワールドカップの時期になると毎日反吐が出そうになるって言ってたぞ。テレビを点ければサッカー一色で目がチカチカするって。ワタシはベースボールの方がスキね、って言ってたよ。それと同じだよ」


 「野球好きのブラジル人てすごい嫌」と奥さんは真顔で言った。


 「まぁよくはわからんけど、たぶん少なくとも俺の場合は、小さい頃からあまりにも車に囲まれ過ぎていたせいかもね」


 と僕は言った。


 「ゆうき君の家は車の板金屋さんだもんね。そりゃあ子供の頃から沢山の車に囲まれてるだろうね」


 「うん。なにしろ遊び場が工場(こうば)だったり、車がいっぱい停まってる駐車場だったり、トラックの荷台だったりしたからね。でも、どこか遊びに連れてってやるよって言われて、連れていかれたのが車の部品の展示会だったのにはさすがに驚いたけどね。というより子供ながらに引いたね」


 「えー、何それ?」


 「すごい馬鹿デカい会場で色々なメーカーが集まって、部品の紹介をする展示会っていうのがあるんだよ。車のパーツなんてそれこそいっぱいあるじゃん?それを色々なメーカーがそれぞれに出すんだからもうすごいのよ。連れてかれたのはたしか年長くらいだったと思うけど、衝撃的過ぎて今でもその光景覚えてるもん」


 「へぇーそんなのがあるんだね」と奥さんは言った。

 「でも、ゆうき君のお父さんはなんで子供のゆうき君をそんな場所に連れてったのかな?」

 

 「さぁわからん。子供ならどこに連れてっても喜ぶと思ってたんじゃない?なにしろやばい父親だったから」


 僕らはそれぞれにビールを飲んだ。そうしてそれからはしばらくお互いに無言で点けていたテレビを観ていた。


 「私、まだ新車乗ったことなーい」


 しばらく経ったあとで思い出したようにまた奥さんが言った。


 「俺もだよ」と僕も言った。

 

 「新車ってどんな感じかな?」


 僕はしばらく考えた。なにしろ僕だってこれまでの人生、新車になんて乗ったことないのだ。でもなんとなくその感覚はわかるような気がする。それはおNEWのスニーカーを履く時のあの感覚に近いんじゃないだろうか?


 「きっと乗るたびにテンションが上がるだろうね。新しく買った服や、スニーカーを初下ろしする時みたいにさ。だから妥協だけはしたくないよね。デカい買い物になるわけだし、買ったら当分はそれに乗ることになるんだからさ。心の底から本当に満足したものを買いたいね、俺としては」


 奥さんと僕はこれまでの人生で新車を購入したことは1度もなかった。これは余談なのだが、僕らが住んでいる山梨県では『車』はかなりの必需品になってくる――。というのもこの山梨県というところは、都心などとは違って交通の便が非常に悪いため、何をするにも車がないと全く不便な場所なのだ。つまり、典型的な『車社会的土地』。だから高校3年生になってもう卒業間際になると、みんながみんな教習所に通い、そうして1人1台、車を所有するというのがこの山梨県の基本ベースなのだ。

 

 免許を取ったそのタイミングで車はどうするのか?という問題になるわけなのだけれど、まぁ大抵の場合は『親』が買ってくれるということになる。新車を買ってもらう奴もいれば、とりあえずは中古車を(あて)がわれる奴もいる。そのようないわゆる中古車組は、社会人になってある程度自分でお金を稼げるようになったら自分で新車を買うのだ。


 奥さんも、僕も大まかに言ってしまうとまぁ後者の方のタイプで、でもそれは買い与えられたのではなくて、正確に言うとその時もまたお互いに『お古」をもらった形だった。奥さんの方は4つ上のお姉ちゃんが乗っていた日産のキューブを。僕の方は家の板金屋で代車として使っていたスズキのワゴンRをそれぞれもらった形だった。奥さんも、そうして僕も、そのままいけばおそらくはお互いに自分で稼いだお金で新車を購入していたことだろうと思う。しかし僕らは付き合って2年目に奥さんの妊娠が発覚して、それでだいぶ若いうちに結婚をしたのだ。つまり、みんなが自分で稼いだお金で新車を購入するといったそんな時期に僕らは結婚したのだ。だから早い話、新車を買う余裕なんて僕らにはなくなってしまったのだ。まぁ結婚してからでもその気になれば()()()()として買うことできたのかもしれないけれど、まだ年若い僕らにはその後のリスクを考えると、とてもそんな気にはなれなかった。結局、そのタイミングでお義父さんに新たにスイフトをもらい、僕も2代目の車として実家で余っていた割かしまだ綺麗な軽自動車をまたもらい、そうして今の今までそのままずっとダラダラ乗り続けているいった具合なのだ。


 そんなこんなで少なくとも僕の場合は、『自分には全く関係ないことだ』と言わんばかりに車のことは頭からほとんど追放してしまって、ただでさえ車にあまり興味がなかった上にそれに拍車を掛けるように一層車に対する興味を失っていったという形だった。車のことは僕の中で湧くことすらなかったのだ。


 お互いにほしい車を調べてみよう――。結局、そんな話に落ち着いてその日の話し合いは終了した。けれどもその日を境に、僕は自分でも驚くくらいに『車』のことを考えるようになっていったのだった。


 

 その翌日から僕は仕事の休憩中や、ふと手が空いた時や、そんな時にスマートフォンを使って色々な車を検索した。各メーカーのファミリーカーを調べ、でも色々と調べてるうちに何か色気みたいなものが次第に出てきて、結局S U Vを調べたり、それでもまだ飽き足らず外車なんかも調べたりした。初めての新車、初めての大きな買い物、どうせ買うなら100パーセント自分が満足したものを買いたい。そんな欲みたいなものがやっぱりどうしても出てきたのだ。しかし色々な車を見れば見るほど、どれもこれも良さそうに見えてきたし、またどれもこれも良くなそうに見えてきたりした。奥さんと最初に話した『実用性』という観点から、ちょっとずつその重点がズレていった形になった。けれども色々な車を見ることは、とても楽しかった。車についてこんなにも考えるのはおそらく初めてのことだったけれど、それは僕の中で新たな発見だった。


 最初の話し合いから1週間ほどが経った頃、夕食の時にまたその話題になった。僕は未だにどんな車が良いのか絞りきれていなかったから僕からその話題を切り出したわけではなかった。奥さんの方から切り出したのだ。


 「あれからなにか調べてみた、車?」


 「うん、一応調べたよ」と僕は言った。

 「でも逆に色々見過ぎちゃって、どれも良く見えてきちゃったし、どれも微妙にも見えてきちゃって、全く絞りきれてない。そっちは?」


「私も色々調べてみたんだけどね、色々なことを考えるとやっぱりヴォクシーが良いんじゃないかなって」


 と奥さんはハッキリした口調で言った。


 「えっ、もうどれが良いか決まったの?」


 と僕は言った。僕は奥さんのあまりの早さに面食らったのだ。しかし奥さんは僕のその言葉には何の反応も示さず、どうしてヴォクシーが良いに至ったのかの説明を力込めて続けた。


 「値段もお手頃だし、もちろんファミリーカーだから広くて荷物も沢山積めるし、それにちょっと前にモデルチェンジしたらしくて見た目も結構カッコ良くなったんだよ、ほら」


 奥さんはそう言うと自分のスマートフォンを僕に向け差し出した。そこにはたしかにモデルチェンジした新型のヴォクシーが写っていた。顔が変わり、高級感と重厚感が増したような印象があった。


 「本当だ。ちょっとカッコ良くなってる」と僕はそれを認めた。


 「ね、カッコ良くなってるでしょ。どう?良くない?」


「うーん、ヴォクシーね」と僕は言った。「たしかに前のヴォクシーよりかはカッコ良くなってるけど…」


 「えっ、ダメ?」と奥さんは不満そうに聞いた。

 

 「いやあ、たしかに前のヴォクシーよりかはカッコ良くなってると思うよ。でもやっぱりファミリーカー感が抜けないというか…」


 「あっそ」と奥さんはぶっきら棒に言った。明らかに怒ったのが僕にはわかった。

 「じゃあ、ゆうき君も早く決めてよ。お父さんが買うなら早く頼んだ方がいいって言ってたから、買うとなれば私は今月中には買うつもりでいるからね。スイフトも来年の5月には車検が切れちゃうんだから早く頼まないとそれに間に合わなくなっちゃう」


奥さんは語気の強い口調で捲し立てるようにそう言った。それで僕は少々尻込みしてしまった。その捲し立てるような口調にももちろんだけれど、それよりも僕が驚いたのは奥さんのその決断力にだ。僕が知っている普段の奥さんは、何百円の物を買うか買わないか散々迷って、挙句やっぱり買わない。というようなかなりケチなタイプのはずだった。そんな奥さんがこんなにも変貌するのかと僕は驚いたのだ。正直な話、僕は未だに本当に新車なんて買うんだろうか?、と半信半疑なところもあったというのに。


 「わかった、わかったよ。今週、今週中までにはちゃんと探すからさ。もしそれでもほしい車が見つからなかった場合は、その時はヴォクシーでいいよ」


 僕は半ばヤケクソだった。奥さんのその並々ならぬ圧力が僕を惑わせたのだ。僕がそう言うと奥さんは黙って頷いた。どうやら奥さんの中ではもうほとんどヴォクシーで決めてしまっているらしいことが僕にはなんとなくわかった。奥さんのその頑なな表情がそれを静かに物語っていたのだ。あれを覆すことは並大抵のことじゃないな、と僕は心の中でそっと思った。


                     

 2 

 

そんなこんなで僕は昨日にも増して車探しに精を出さなければいけなくなった。自分で言ったことではあったけれど、なんだか妙にダルかった。無意識に何度も溜息を吐いてる僕がいた。でも少なからず昨夜のそのひと悶着は、ある意味では僕を真剣にさせてくれた。それで僕は『本当に新車を買うんだな』と、改めて真剣になれたのだ。でもその状況が僕にはなんだか妙にダルかったのだ。


 本当のことを言えば、1番良い解決策は僕にもちゃんとわかっていた――。つまりこんなにも労力を使って、でもダメで、そうしてそのせいで奥さんとの仲が多少なりともギクシャクしてしまうくらいなら、僕が妥協の1つでもして奥さんの提案に『うん』と軽く応じてしまえば良いということくらいは、僕にもちゃんとわかっていたのだ。そうすることが1番ベストで、事がスムーズに運ぶということは僕にもちゃんとわかっていたのだ。でも僕はそうはしたくなかった。なぜなら僕にはもう1つわかっていたことがあったからだ。それは、奥さんの提案を呑んでこのままヴォクシーを買ってしまったら、後々僕は後悔する、ということが手に取るくらいはっきりと僕にはわかっていたのだ。そうしてその後悔は、自分の影のようにこの先ずっとずっと僕自身に付き纏うような強烈な後悔になるということも僕にははっきりとわかっていたのだ。


 僕は基本的には特になんのこだわりもない人間ではある。結婚して新生活を始める時もそうだった。テレビは何がいいとか、洗濯機は何がいいとか、ベットカバーは何がいいとか、カーペットは何がいいとか、カーテンは何がいいとか、今住んでいるアパートだってそうだった。それらのことはほとんど奥さんの意見を尊重してきた。でもそんな僕でもごく僅かのことにだけ限り、こんな風にものすごくこだわりたくなることが時々あるのだ。そうしてそうなると僕は絶対に一歩も引きたくない。これは僕の一種の癖みたいなものなのだろう。この新車の車に関しては完全にそれだった。だから僕はそれが例えどんなに労力を要することであろうと、またなかなか決められなくてそのせいで奥さんとの仲が多少なりともギクシャクしてしまうのであろうと、僕は一歩も引きたくなかったのだ。


 しかしそうは言うものの、どれだけ色々な車を見てみても結果はやっぱり同じで、僕の心を本当にときめかせてくれるような車には僕は1台もありつくことができなかった。そんな感じでまた2日が音もなく過ぎた。それで僕は無言のプレッシャーのようなものをさすがにどこか感じた。奥さんと約束した『今週中まで』という期日は残すこと後1日になっていた。けれども3日目。奥さんとの約束した期日の日だ――。僕はたまたまの偶然から、僕の心をときめかせるそんな1台の車に出会うことになった。いや、正確に言うのならそれは出会ったのではない。以前に僕の心をときめかせた、そんな1台の車の存在を僕は思い出すことができたのだ。それは本当にたまたまの偶然からだった。いや、もしかするとそれは何かの導きみたいなものだったのかもしれない。


 それは良く晴れた気持ちの良い日曜日のことだった。奥さんと約束した期日の日はそんな日曜日だった――。その日奥さんと下の娘は、奥さんの友達の家に遊びに行くとかで午前中から出掛けてしまい、また長男も朝から卓球の練習に行ってしまって、家には僕1人だけだった。僕は朝食兼用の少し早い昼食を食べ終えると、例によってはまたソファに座りながらスマートフォンで車探しをしていた。


 僕はしばらくはそんな風に根気強く車探しに集中していたのだけれどさすがに疲れてきてしまって、なにせ色々なメーカーがあるといってもそれほどまでに車の種類があるわけでもなく、僕がやっているのはただの()()()みたいなものだったのだ。もう何回、何十回と見たはずの同じ車を、やっぱりこれが良いんだろうか?と、その日の自分に向かってまるでなだめるように検分しているだけなのだから、そこに新たな発見でもあればまだしも、そうではないからあっという間に僕は疲れてしまうのだ。


 僕はハァと溜息を吐いてスマートフォンをテーブルの上に荒っぽく放った。そうしてソファに横になりそのまま目を瞑ってしまった。スマートフォンの画面と長い時間睨めっこをしていたせいで酷く両目が重かった。そのせいなのか目を瞑ると、目を酷使した時に時々現れる、あの微生物みたいな不思議な何かが瞼の裏側で奇妙に踊っているのが見えた。僕は考えることは完全に放棄してしまって、そのまま半ばヤケクソな気持ちでしばらく目を瞑っていた。


 その日は絵に描いたような素晴らしい天気だった。山梨特有のあの蒸せ返るほどの強烈な夏の残暑もあらかたどこかに消え、開け放してある窓からは春先のような涼しい秋の風が吹き込んで来ていた。素肌に当たる風はサラサラしていてどこまでも気持ちが良かった。僕は特に眠かったわけではなかったけれど、一応朝6時頃から起きていたし、昼食を食べ終えたばかりで腹も満たされていた。昼寝をするのには最高なシュチュエーションがまぁ揃っていたのだ。僕はいつの間にかまどろみ、そうしていつの間にか眠ってしまったようだった。けれどもそれは熟睡というほどの眠りではなく、熟睡と仮睡のちょうど中間のような眠りだったのだと思う。そのせいなのか僕は夢を見たのだ。とても短い、至極断片的な夢だった。まるで僕の記憶の中のワンシーンをそっくりそのまま切り取って流しているような、あっ実際にこんなことあったな、と改めて僕に思い出させてくれるような、そんな不思議な夢だった。


 その夢の中では僕は小学校4年生くらいに戻っていた。僕は車の助手席に乗っていて、後部座席の2列目、3列目シートには、当時のサッカースポーツ少年団で一緒だった友達たちが数人乗っていた。車を運転していたのは僕の父親で、それは僕の家の車だった。そうしてその車は、当時実際に乗っていた車とそっくりそのまま一緒だったのだ。


 きっと僕らはどこかの試合会場に向かっている途中だったのだと思う。当時も時々そんなことが実際にもあったのだ。僕らのスポーツ少年団にも一応所有のマイクロバスがあったのだけれど、時々何かの理由でそんな風に各家庭が代表して車を出して試合会場に行くということがあったのだ。僕の家は一応自営業だったということもあり、色々と融通も効くし、人が多勢乗れる車を持っていたから代表して車を出したことが何度かあったのだ。


 僕はしきりに後ろを振り返り、友達たちの反応ばかりを伺っていた。友達たちは何かの度にいちいちそれに反応し、「すげー」とか、「うわー」とか口々に言っていたのだ。僕は友達たちのそのリアクションが嬉しく、とても鼻を高そうにしていた。友達たちがそんなにもなっていたのは、僕の家のその車には珍しい機能が色々付いていたからだった。車は3列シートということもありとても広々していたし、天井にはサンルーフがあり、カーテンはボタン1つで自動で開閉し、運転席にはナビがあり、運転席と2列目シートとの間にはテレビまで付いていた。今聞くとそれらの機能は特に珍しい機能でもなんでもないだろうけれど、その当時なら間違いなく珍しい機能だったのだ。


 僕が何やら自信満々に「そのスイッチ押してごらん」と言う。1人の友達が僕に言われた通りにそのスイッチを押してみる。するとウィーンという音と共にサンルーフが開く。友達たちは「すげー」と口を揃えて叫び、代わりばんこでサンルーフから顔を出す。強烈な風のせいで友達たちの顔や髪はモミクチャになっている。僕はそんな友達たちを尻目に今度はふとリモコンを手に取る。僕はまた自信満々に何気なくそのリモコンのスイッチを押す。すると今度は音もなく運転席と2列目との間にあるテレビが点いた。サンルーフに夢中になっていた友達たちはそれに気付き、またひとしきり歓声の声を上げ、それからはテレビの画面に夢中になる。僕は友達たちのその反応を見て大いに得意で、とても満足だった。とても気持ちが良かった。この高揚感と、優越感は他にない。誇張じゃなしに僕はそこまで思う。そして僕はふと横を見る。そこにはハンドルを握り、しっかりと前を見て運転している父親がいる。父親も満足気に微かな笑みを口元に浮かべていた――。


 僕が見た夢はそんな夢だった。そうしてその光景は実際にもあったような気がした。もうすっかり忘れていた、遥か昔の遠い記憶だ。僕の中で何かがカチンと静かな音を立てたような気がした。それはあるいは僕の中の()()()()()()()の音だったのかもしれない。


 目を覚ました時、僕は自分が寝ていたことに初めて気が付いた。痺れにも似た心地良い感覚が僕を包んでいた。時計を見るとそろそろ14時になるところで、僕はどうやら2時間ほど眠ってしまっていたようだった。家の中には相変わらず僕1人だけで、白いレースのカーテンが風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。


 寝起きだというのに僕の頭は不思議とクリアだった。いや、そればかりか『キャラバンだ』と真っ先に僕は思った。そう、僕は思い出したのだ。その昔、僕の心をときめかせ、そうして僕を気持ち良くしてくれた1台の車の存在を。そう、それはキャラバン。日産のキャラバンだった。そういえば、将来、自分が大人になった時にキャラバンに乗りたいと僕は密かに思っていたのだ。カチン、と僕の中でもう1度音が鳴った。それはさっきよりももっとはっきりとした音だった。


 それからの僕の行動は迅速だった。僕はスマートフォンでキャラバンを調べることはあえてしなかった。それよりも久しぶりに実家に行こう、まずそう思った。色々と聞いてみたいことができたのだ。僕はすぐに身支度をして、奥さんに「ちょっと実家に行ってくる」とLINEを入れ、それからいつものオンボロな軽自動車に乗り込んこで早速実家へと向かったのだった。


 片道40分ほどのその道中、僕はさっきの夢のことを考えていた。当時のあのキャラバンが徐々に僕の中に浮かび上がって来る。付いていた機能や、シートの質感や、内装、それから外装。それらがありありと鮮明に僕の中に浮かんで来た。機能や内装などは申し分なかったのに、車のカラーだけが不満だったことも僕は思い出した。そのキャラバンのカラーは、いかにもおじさんというような、かなりダサいツートンカラーをしていたのだ。上半分は錆びのような薄茶色をしていて、下半分はベージュに近い白色だった。今思い返してみてもお世辞にもカッコイイとはちょっと言えない。僕はそのカラーだけが唯一不満で、なぜこんな色を選んだのか全く理解不能だったのだ。もうちょっとカッコイイ見た目だったら良いのになぁ…、と子供ながらに僕は思っていたのだ。ウチは板金塗装屋だったのだから、もっとカッコイイ色にだってすることもできただろうに。


 それから僕は父親のことを考えた。夢の中とはいえ、僕は久しぶりに父親の顔を見た。こうして父親のことを考えるのも実に久しぶりだった。父親との良い思い出なんてほとんど何もないけれど、唯一あるとすれば、それはあのキャラバンだったような気がした。


 40分ほどの時間を掛けてようやく僕は実家に辿り着いた。同じ県内に住んでるとはいえ、最近ではほとんど僕は実家に帰っていなかったのだ。久しぶりに見る実家は『時代の終わり』を僕に連想させた。それで僕はいつものように物悲しい気持ちになった。僕が実家にあまり帰らないのは、それも理由の1つだった。生まれ育った実家を見て、こんなにも悲しい気持ちになるのはどうしたって僕には辛い。僕はその少し離れた場所からしばらくそんな実家の姿をぼんやりと眺めていた。


 実家と、それから実家の横に建てられた鉄筋造りの工場(こうば)…。それらは一見、昔となんら変わっていないように見える。いや、実際にはほとんど何も変わってはいないのだ。でも僕には変わってしまったことがよくわかる。これはあくまでも形而上の変化なのだ。そうしてその変化に気付くことができるのはおそらく僕だけなのだ。雰囲気――。建物が微かに醸し出す雰囲気のようなものが昔とは明らかに違うのだ。()()()()()()()といった方があるいは当たっているのかもしれない。きっとそのことが僕をこんなにも悲しい気持ちにさせるのだ。


 僕の家は板金屋をしていると言った。けれどもそれは以前の話なのだ。というのもこの板金屋は、僕の父親と、それから僕の父親の兄、つまり僕の叔父と、その2人で営んでいたものだった。けれども今から4年前に僕の父親が亡くなり、それ以降は板金屋はもう畳んでしまったのだ。一応、今でも暇を持て余した叔父が、常連だったお得意さんの要望にだけ限り、新古車の販売や、簡単な修理などはたまにやったりしているのだけれど、それは特にやることもなく暇だから、といった感じで、そこには以前のような活気はなく、はたから見ればもうやっていないも同然な感じなのだ。僕はそんな現状に接するとなんだかとても悲しい気持ちになってしまうのだ。


 家の中には母、工場(こうば)の方には叔父がいた。僕が連絡もなしにいきなり帰って来たものだから2人は驚いた様子だった。ちょうど15時だったということもあり、家の中でみんなでお茶をすることになった。


 「珍しいな、帰って来るなんて。どうした?」


  叔父はお茶を啜りながら僕に言った。


 「ちょっと聞きたいことがあってね」

 

 と僕は言った。


 「何よ、聞きたいことって」


 饅頭を頬張りながら母が言った。


 「今度新しく車を買おうと思ってさ。その相談なんだけどね」


 「おぉ、じゃあカタログだな」と叔父は言い、「今でも新しい車が出る度にメーカーからカタログが送られて来るんだよ。今取って来てやるから待ってろ」


 叔父はそう言うと椅子から立ち上がろうとした。しかし僕はそれを制止した。


 「いや、もう何が良いかは決まってるんだ。俺、キャラバンが良いなって思って。だからキャラバンのことを聞きに来たんだよ」


 「おぉ、キャラバンか」


 叔父は意外だというような感じでそう言い、上げ掛けた腰を再び椅子に下ろした。母は何も言わず僕の顔を不思議そうに見ていた。


 「昔、ウチもキャラバンに乗ってたでしょ? 俺もいつか乗りたいなって思ってたことをふと思い出してさ」と僕は言った。「ところでなんでウチはキャラバンに乗ってたの?何か理由みたいなものはあったんだろうか?」


 僕は2人に尋ねた。


 「さあ。特に理由なんてないわよ。気が付いたらあれに乗ってたのよお」


 母は饅頭をもぐもぐしながらぶっきら棒にそう言った。


 「そうなの?そんなことある?」


 と僕は笑いながらそう言い叔父の顔を見た。叔父にその答えを求めたのだ。しかし叔父はそれにはすぐに答えなかった。叔父は、どこかの空中の一点をジッと見つめ何かを考えているようだった。まるで自分の中の記憶の糸をゆっくりゆっくり辿るように。僕は叔父が何かを思い出そうとしているというのがなんとなくわかったから、辛抱強くそれを待った。叔父が口を開くまでにはしばらく時間が掛かった。


 「あのキャラバンはたしか人から安く譲ってもらったんだ」


 しばらく経ってから叔父はそう言った。


 「新車じゃなかったんだ」と僕は言った。


 それは初めて知った事実だった。まだ幼かった僕には車のあれこれなんてとてもわかってはいなかったのだ。母の話じゃないけれど、気が付いたらあのキャラバンに乗っていた――。それもあながち間違ってはいないのかもしれない。


 「誰だっけなあ~、誰から譲ってもらったんだっけなあ~、それはさっぱり思い出せないけど…」と叔父は頭をポリポリ掻きながら言った。

 「でも、あのキャラバンはたしかもう車検切れになるとかで、距離もそこそこもう乗ってたし、新しい車に乗り換えるって言うんで、じゃあそれなら、って言ってウチで安く譲ってもらったんだよ。キャラバンとかハイエースっていうのは、元々は商用目的で作られてるから、普通の乗用車とは違って結構距離が乗れるんだよ。あのキャラバンもまだまだ乗れるだろうって言って安く譲ってもらうことになったんだ。たしか」


「それはおじちゃんの意向で?」


 と僕は尋ねた。叔父は一応この板金屋の社長なのだ。


 「いや、明(父親の名前)だよ」


 「えっ、オヤジの?」


 「そうだ。あいつがこれからゆうきもサッカーで色々行くだろし、家族で使うにもあれくらいデカい車があれば色々と便利だろうって言ってな。ほら、あのキャラバンは1番良いグレードだったから機能も色々付いてたし、3列シートの8人乗りだったからな。譲ってもらってからエンジンやら足回りやらを一応一通りチェックして、クタってる所は部品を取り替えたり修理したりして、それからあいつがテレビなんかを取り付けたんだよ。ほら、ゆうきもあのテレビよく観たろ?」


 「うん、観てた。それはよく覚えてるよ。テレビも観れたし、ビデオも観れた」


 と僕は言った。


 「あいつもさぞ嬉しかったんだろう」


 「ん?キャラバンが手に入って?」


 と僕は尋ねた。


 「違う違う。キャラバンにゆうきを乗せることがだよ」


 「俺を?」と僕はちょっとびっくりして言った。


 「そうさ。あのキャラバンにゆうきを乗せると、ゆうきがえらく喜ぶからって言ってな。あいつもそれが嬉しかったんだよ。ほら、あいつにしては珍しく、よくサッカーの試合とかに乗せてってくれたりしたろ?」


 「まぁ」と僕は曖昧に答えた。

 「でも、例えそうだったとしても、俺の前では1度もそんな素振りはしなかったよ」


 「うん、まぁそうだろうな。知っての通り、あいつはああいう性格だからな。そりゃあ、息子や女房の前ではそんな素振りは見せないさ」


 僕は母の顔を見た。母は相変わらずもぐもぐと饅頭を食べながら黙っていた。どうやらなんの意見もないらしい。


 「でもな、」と叔父は言った。

 「俺と2人でいる時は、たまにそんな話をあいつもしたんだよ。少なくともその時はあいつも父親らしい顔をしてたなあ」


 「へえー。あの人にもそんな一面があったんだ」


 と僕は何食わぬ顔で言った。


 「でもなんだか感慨深いな」と叔父は口調を改め言った。


 「えっ?」


 「だってよ、父親が乗ってた車を気に入って、まぁその当時とはモデルチェンジして姿形はだいぶ変わっちゃってはいるんだろうけどよ、その息子が同じ車に乗りたいって言うなんてよ。あいつもこれ聞いて上で喜んでるんじゃないか?」


 叔父はそう言うと上の方を指さして愉快そうに笑った。


 「そんなことで喜ぶの?」と僕は苦笑しながら言った。


 「親ってもんはな、特に父親ってもんは、我が子に真似をされるっていうのが、ことのほか1番嬉しかったりするんだよ。認められたちゅうか、なんちゅうか、まぁざっくり言えばそんな感じだ。それが息子なら尚のことさ。男っちゅうのは、いや、父親っちゅうのはそういうもんなのさ」


 叔父はそう言うとまた愉快そうに笑った。僕はそれに対してはもう何も言わなかった。叔父の指さした上の方を僕もちょっと見ただけだった。もちろん叔父が指さした先には天井があるだけだったけれど。母は相変わらず黙っていて、二つ目の新しい饅頭に取り掛かっていた。


 結局、僕は叔父から今現在のキャラバンのことをカタログ付きで詳しく教えてもらった。今現在のキャラバンには『バンタイプ』と、『ワゴンタイプ』の2種類があること。バンタイプは5人乗りで、主に商用に重きを置いているということ。ワゴンタイプは10人乗り~12人乗りでマイクロバスとしても使えるということ。ファミリーカーとして乗るには少し手に余るけれど、ファミリーカーとして乗る人も多い。またキャラバンや、ハイエースはその多様性から様々な場面で活躍できるとあって今では大変な人気で、専門のカスタムショップなどがあること。それらの店でカスタマイズすればより一層使いやすくなるし、もちろんファミリーカーとしてもグッと使いやすくなる。叔父は力を込めてキャラバンについてのそれらのことを熱心に僕に教えてくれた。


 今現在のキャラバンは、僕も日常的によく見るから知っていたけれど、特に意識をして見ていたわけではなかったから改めてカタログで見てみると、あの当時よりもかなり外見がカッコ良くなっていた。車の機能性については、あの当時にあった機能が無くなっていたり、あの当時になかったものが追加されたりしていた。でも総合的に見るとあの当時より一段と良くなっていることは一目瞭然だった。それで僕はほとんどもうそれで決めてしまった。いや、もうほとんど最初から決めていたのだけれど、僕の背中をより押してくれたような形になった。2時間あまりを実家で過ごし、「また来るよ」と言って僕は実家を後にした。


 帰りの車の中、僕はとても清々しい気持ちだった。それは、あれほどまで悩んでいた車がようやく決まったから――。キャラバンは、まるでずっと見つからないでいたパズルの最後の1ピースがやっと見つかったみたいに、そのくらいキャラバンという車はストンと綺麗に僕の中で腑に落ちた。これで自信をもって僕は奥さんにキャラバンを提案できる。このカタログを見せて、叔父が僕にしてくれたように今度は僕が奥さんにこのキャラバンの説明をする。そうすればきっと奥さんも納得してくれるはず。ヴォクシーからキャラバンへと心変わりをしてくれるはずだ。僕には確信めいた自信のようなものがあった。でもこの清々しい気持ちの要因はそれだけではなかった。


 それは父親のことだ。いや、もしかするとこれは清々しい気持ちとは違う、また別の感情なのかもしれない。自分でもそれはよくはわからない。でもあえて1つ言うとすれば、それは春のようなパァっと明るいそんな感情…のような気がする。いや、言葉ではイマイチ上手く表現できない。でも、決してネガティブな感情ではないことはたしかだ。僕にはそれがわかる。僕はそのような普段とは明らかに違う感情が、自分の身の内にあることをはっきりと感じることができるのだ。


 僕は父親のことが嫌いだった。それは父親が亡くなった今でもその気持ちは変わっていない。父親が死んでしまったからと言ってその気持ちが覆るようなことは決してなかったのだ。前にも言ったように父親との良い思い出なんて僕にはほとんど何もない。なぜなら僕と母は、父親にはだいぶ苦労させられてきたからだ。


 父親のことを少し話す――。


 僕の父親は、父親らしい所が全くない人だったと言っても過言ではなかった。僕は父親に可愛がられたという記憶は1度もないし、それこそ僕と母のことなんて二の次だった。性格はまるで低学年の子供のようで、何かとすぐに機嫌を悪くしたし、とにかく自分中心の人だったのだ。でも僕と母が1番苦労したのは、父親の酒癖だ。父親はとにかく酒が好きな人で、()()()()()()()()()()、というような、もうかなりたかが外れた酒飲みだった。酒を飲んでも害がなければまだ良かったのだろうけれど、それでいて父親はかなりの酒乱だったのだ。


 酒を飲めばよく暴れたし、物も飛んで来た。殴られたこともあったし、金属バットを持って追いかけられたこともあった。とにかく酒を飲んだら最後、全く手がつけられない人だったのだ。僕も母もそんな父親の顔を伺いながら、それこそ毎日怯えるように過ごしていた。僕はともかくとしても、母が泣いているところを僕はよく見たものだ。それが僕には堪らなく辛かった。


 きっとそんな日々がずっと続いていたならば、僕も母もさすがにそこから逃げ出していたことだろうと思う。でもそういったことは僕が高校生になった頃にはほとんど無くなっていた。父親が歳をとって丸くなったから、とその言葉だけで片付けてしまうのは僕にはどうも納得できないけれど、まぁたしかにその要素もあったにはあったのかもしれないけれど、僕が思うにそれは僕と母が家にいることが極端に少なくなったからというのが1番の理由だったんじゃないかと思う。


 僕は部活のサッカーを割に本気でやっていたから家に帰って来るのがいつも21時過ぎだったし、もちろん土日も練習や試合でほとんど家にはいなかったし、また母も母で家にはいたくないからということでほぼ毎晩友達がやっているという居酒屋に手伝いに出掛けていた。だから早い話、父親がいくら酒に酔ったからといっても、以前のように当たる対象を手近なところに父親は見つけることができなかったのだ。


 晩年になると、父親は酒量もめっきりと減って、あの手に負えなかった昔の父親の面影はもうどこにもなくなっていた。父親から恐怖を感じることはもう完全になかったのだ。僕はなんだか父親がものすごく小さくなってしまったように感じられた。しかしだからといって昔のことをなかったことになんてもちろんできる訳もなく、僕と母は父親とは一定の距離を置いてずっと接していた。必要最低限以外の会話はほとんどしなかった。僕らにとってはそれはもうごく普通の当たり前のことになっていたのだ。そのことについて誰も何もしようとはしなかった。


 結局父親は、昔からの酒が(たた)ったのか、内臓を悪くして今から4年前に死んだ。その1年前に癌が見つかり、闘病も虚しく1年であっという間に死んでしまったのだ。実にあっけない最期だった。これまで浴びるように酒を飲んで来たのだ。僕と母からすればそれはもう完全に自業自得としか言いようがなかった。闘病中は母も最低限の看病はしたけれど、それは誰も他にしてくれないから仕方なくといった感じで、父親が死んだ時には母は涙も流さなかった。僕も涙なんてこれっぽっちも出なかった。どんな感情さえ湧かなかった。でも唯一、納骨の時に、あんな人だったけれど、ちゃんと骨は白いんだ、と思っただけだ。


 こんな風に父親に対しての想いなんて僕には何もなかった。僕が家の板金屋を継がなかったのも、また僕が車に対してほとんど興味を示さなかったのも、あるいはそれらは全部、父親に対しての当てつけみたいなものだったのかもしれない。でも今日、叔父から父親の知らなかった一面を聞いたのだ。それはたしかに世間一般から考えると、特に大したことでもなんでもないのかもしれない。父親が家族のためを考えるなんて当たり前のことだし、習い事に子供を連れてくなんて当たり前のことだ。どこの家庭の父親ならみんな普通にやっている当たり前のことだ。でもあの父親、しかもあの当時の1番酷かった頃の父親を考えると、僕には少なからずそれはかなりの驚きだった。叔父にその話を聞いた時、僕は何食わぬ顔をしてへぇーと平静を装っていたけれど、内心僕はかなり驚いていたのだ。


 あの父親が。しかもあの頃の父親が。家族のためを想ってキャラバンを買った?僕をキャラバンに乗せると僕が喜ぶ?まさに寝耳に水だった。


 それだったら――と僕は思う。それだったらもっと、もうちょっと、そういう一面を、不器用でもいいから不器用なりに、ほんの少し、ほんの少しでもいいから、僕と母に見せてほしかった。そうすればもう少し、ほんの少しかもしれないけれど、もうちょっとだけ明るい未来になっていたかもしれないのに…。 


 思うことはいっぱいあった。しかし、ひとかたならず僕は満足だった。むしろその気持ちの方が大きかったのだ。

 きっと今日、叔父からその話を聞いていなかったら、僕はおそらく一生父親のことを嫌いのままで終わっていただろうと思う。なんなら父親のことなんてその内に忘れていただろう。でも今日はなんの導きか、叔父から父親のそんな話を聞いたのだ。僕は少し救われたような気がした。いや、本来ならこれはもう死んでしまった父親の方の台詞なのかもしれない。でも、それでも僕は満足だったのだ。僕は父親のことがほんの数ミリだけ嫌いじゃなくなったような気がした。線香でも上げてくれば良かったかな?と、僕はふと思ったりもした。


 

 僕が家に着いた時には辺りはもうすっかり暗くなっていた。家にはもう全員が帰って来ていて、どうやら僕が1番最後だったようだ。もう18時を過ぎているのだからそれはまぁ当然だ。玄関でみんなが僕を迎えてくれた。


 「実家に行くなんて珍しいじゃん。どうかしたの?」


 呑気な顔をして奥さんは開口一番そう言った。僕は少し嫌な予感がした。


 「車だよ」と僕は少し呆れ気味に答えた。「今日が約束の期限の日だろ?だから車のことを聞きに行って来たんだよ」


 「あぁ、そっか。そんなことすっかり忘れてた」


 やっぱり。僕の予感した通り、奥さんは期限のことなんてすっかり忘れていたのだ。通りで呑気な顔をしていると思ったのだ。でも奥さんはすぐにガラリと口調を変えた。


 「で、どうなったの車?」


 僕は待ってましたと言わんばかりにニコッとひとつ微笑み、それから貰ってきたカタログを奥さんに「はい、これ」と軽く手渡した。


 「なんの車?」


 奥さんはカタログを裏返したりしながら怪訝そうに眉をひそめた。僕は自信満々にはっきりと答えた。


 「キャラバン」




    

                   ―おわり―


 


 


 

 



 



 





 


 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ