7.別れの予感
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「ああ、エイデン。……どうも困ったことになりそうだ」
伯爵は執務室に呼び出したエイデンの顔を見るなり、そんな風に切り出した。エイデンは目を細める。
「……困ったこと、とは」
「ユリアももう、十八歳だ。じき、社交界に出て、淑女となる。それは知っているな」
「はい」
エイデンは行儀良く立ったまま、ついに身の振り方を決める時が来たのだろうかと、ぼんやり考えていた。同時にユリアが伯爵夫人に呼び出されたのもこの件だな、とピンと来る。
この八年間、エイデンは伯爵家に従者として仕えてきた。
皆彼の並々ならぬ努力を知っているし、成果を出していることも理解している。
孤児の平民だとしても、もうそろそろ正式な騎士に迎えられてもおかしくはない。
――だがそれは、普通の平民であれば、の話だ。
エイデンは赤髪だ。貴族は赤い髪の騎士を連れ歩くような令嬢を、ひいては伯爵家を、けして快くは思わないだろう。
伯爵家の領地経営は安定しており、困窮している名ばかり貴族というわけではない。とはいえ、華やかな実績や莫大な財産がある、大貴族とも言えない。
つまり、未だ偏見の目にさらされる立場のエイデンを騎士として連れ歩けるほどには、強い家ではないのだ。
そしてユリアは伯爵家の一人娘である。別の家に嫁ぐことになるのか、それとも家に婿を迎えるのか。彼女の結婚相手によって、伯爵家の今後の方針も大きく異なってくることだろう。
(……覚悟はしていた。もともと、いつ見放されてもおかしくはない身だ)
衣食住は与えられている分で充分まかなえたため、八年間もらい続けた給金は貯め込まれる一方だ。急に放り出されても、次の職を探す余裕ぐらいは充分あるだろう。
とは言え、赤毛の人間の再就職に、伯爵家の従者をしていた経歴が吉と出るか凶と出るかは、完全に未知数だが……。
問題は、自分は納得しているとして、ユリアがどう考えるか、だろうか。
エイデンのことでは無理でも通そうとしがちな所があるが、さすがに嫁ぎ先まで彼を連れて行くとは言わないだろう。……だろうと思うが、断言できないのが怖い。そしてさすがにそのお願いは、ユリアのお願いならなんでも叶えてあげたいエイデンとしても、個人的な難題となる。
ああ、もしかして。既にご縁の相手が見つかったから、ユリアを円満に嫁いでくれるよう宥めろという話なのだろうか。
エイデンはつらつら予測しながら、言葉の続きを待っていた。なんだか非常に言いづらそうなことのように、伯爵は重たげな口を開く。
「……王宮から、催促が来ているんだ。ユリアを早く出仕させろと」
「……? はい」
「縁談の申し込みも、既に結構な数来ている」
「…………。それは、まあ」
ユリアの美少女っぷりは、昔から有名だった。それこそエイデンが伯爵家にやってきたばかりの頃から、王宮仕えをしないかという話は度々持ち込まれていたようだ。
けれど伯爵夫妻は、娘が成人するまではと粘った。ユリア自身も、伯爵領で気ままに過ごす方が性に合っているらしい。
「せっかくだから、人生で一度ぐらいは見てみたい気もするけど、それで充分だと思うわ。だって王宮には目がくらむほど人がいるのでしょう?」
というのが本人談だ。
子どもの頃よりは、ユリアは自身の微笑みに惹かれてやってくる人間のあしらい方を覚えている。エイデンも忠実な番犬らしく仕事をしているため、伯爵領で彼女の意に反して無茶な言いよりをする人間はいない。
だが王宮に行けば、またユリアは様々な人間に、本人の意思に反して取り囲まれることになるのだろう。しかも王宮からは、成人の年になったのにまだ顔を見せないのかと、せっつく手紙が連日送られてきているらしい。
どれほど出世に無関心だろうが、貴族であるなら最低限、成人の挨拶には行かねばならない。予想はできていたし、覚悟もしていたはずだ。
そこで気になるのが、伯爵がこの話題を出してからこちら、ずっと浮かない顔をしていることだ。彼は何度もため息を吐いてから、憂鬱そうな目でどこかを見つめている。
「それがな……どうも、王太子殿下がユリアを望んでいらっしゃるらしい」
エイデンははっとハシバミ色の目を見開いたが、すぐに平静を装う。
「とても光栄なことです。お嬢様であれば、王太子妃も立派に務められることでしょう」
「……そうか? 実に模範的な優等生の回答だな」
伯爵は皮肉交じりの笑みを浮かべてから、疲れたように息を吐き出した。
「そう、とても光栄なことだ。愛妾ではなく、正式な妃――可もなく不可もなく、凡庸な貴族である我が家には、これ以上ない栄誉といえる。断るなどもってのほかだし、ユリアであれば、公務もきっとこなせると信じている。ただ……」
「ただ?」
「……王太子殿下はとても、遊び慣れたお方と聞いていてな」
エイデンは何とも言えず、無言になった。
なるほど、玉の輿話に乗り気でなさそうだった原因はこれか。伯爵は結構わかりやすく、愛娘を溺愛している父親である。そして娘の夫には、華やかで権力と金を持った男より、誠実で堅実な男の方が好ましいと感じそうな御仁であらせられた。
――しかしなぜ、わざわざ自分を呼び出して、今この話をしているのだろう?
話は見えてきたがいまいち意図が読めないエイデンが困惑した。
「お前はかつて、自分とユリアを守るためにここに来たと言ったな。そしてその通り、この八年間、誰よりも研鑽を積んできた。……エイデン。今改めて、お前に問おう」
伯爵は、初めて会った日のような鋭いまなざしでエイデンを射貫いた。
「お前はこれからもユリアの隣で、ユリアを守りたいと思うか」
――お前はうちの娘の婿として、名乗り出るつもりがあるのか?
今までにない、直接的な問いかけだった。緊張をはらんだ沈黙が落ちる。
赤い髪の青年は伯爵を見つめ返していたが、そっと目を伏せた。
「……おれの両親は。赤い髪の子をこの世に生み出した罪人だと、死後に糾弾されました。頭を染めて、髪色を隠していたから……おれも彼らが死ぬまで、自分が赤毛だと知らなかった」
やがて下に視線を落としたまま、ぽつぽつと小さく語り出す。
「いい子だとおれを可愛がって撫でてくれた大人達が、その手で両親の墓をめちゃくちゃにしました。一緒に手を取って遊んでいた子ども達が、その手でおれの生家の窓を割りました。家族がおれに遺してくれたものは、全部誰かが持っていきました。おれはあまりに世界が変わってしまったから、夢でも見てるのかと思った。……気がついたら、孤児院で。むしられた髪が赤かった。それでようやくわかりました。そうか、間違っていたのはおれだったんだ、と」
エイデンが孤児院育ちだったことは、伯爵家の者は皆知っている。だがどういう経緯で孤児院に来ることになったのか――ある日家族と共にすべてを失った経験を話すのは、きっとこれがはじめてだ。
伯爵は言葉を失い、呆然とエイデンを見つめる。
「何もかも失ったと思っていた。死にたいまでは思わなかったけど、生きてていいことがあるとも思えなかった。……だけどユリアお嬢様が、おれの名前の意味を教えてくれた。おれが殴られていると知ると、伯爵家に来いと言ってくれた。ユリアお嬢様にも、この家の人達にも、とても多くの物を貰いました。だからもういらないと言われるまで、お仕えしようと思っています。ただ――」
エイデンはふと、ハシバミ色の目を窓に向ける。春の陽光が柔らかく差し込む様子に、眩しそうに目を細めた。
「もし、たとえユリアお嬢様がいいと言ってくださっても。伯爵家の皆様が、見て見ぬふりをしてくださっても。おれ自身が、お嬢様から何かを失わせる原因になるのなら……その時はここを去ります。大切な人を、あんな目に遭わせたくないですから」
――どれほど我が身を磨いても、隣には立てない。立とうとは思わない。
それがエイデンの答えだった。
伯爵は――一人娘の父親は、長い間黙っていた。
何かの言葉を、別の選択肢を探すように。
けれど結局、そんなものはないとわかっていたのだろう。
エイデンがユリアの隣まで上がってくることはできない。
ユリアをエイデンに託せば、彼女は一生赤髪の家族として共に地獄を歩むことになる。
わかりきっていたからこそ、改めて口に出して確認したのかもしれなかった。
「そうか……なら、もう私から言うことはない」
伯爵は急に老け込んで見えた。一方のエイデンは、どこかすがすがしい表情でいた。