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6.春の訪れ

***


「エイデン!」


 青年が自主鍛錬をしていると、聞き慣れたお嬢様の声がした。エイデンは手を止めて振り返る。


「――お嬢様」


 春の少し冷たい風が、柔らかく赤い髪をくすぐる。彼は八年ですっかりと様変わりしたが、髪は相変わらず、燃える炎のような鮮やかさを保っている。


 エイデンは存在感のある、精悍な若者に成長していた。


 少年時代、特に伯爵家に来たばかりの頃の彼は、背も低く、儚げとすら言えそうな線の細さをしていた。吹けば飛びそうな見た目の割に、奇妙な目力だけがあって、それは人によっては不気味な印象を抱くものだったらしい。


 しかし、その体の細さは、どうやら元々の体質というわけではなく、孤児院でまともな食生活を送っていなかったことが原因のようだった。


 成長期、少年は伯爵家でよく食べよく寝て、誰よりも働いた。彼の体は貪欲にあらゆる栄養を吸収をし、結果、今や初対面の相手が大概怖じ気づくほどの身長と体格までに育ったのだ。


 もう彼が赤毛だからと、安易に手を出す愚か者はいないだろう。エイデンは相変わらず、自分からはさほど話さずじっと相手の出方を窺う性格をしていたから、その慎重な態度がますます静かな威圧感を放つ。


 ユリアはエイデンが自分の背を追い越すと多少戸惑ったようだが、無邪気に腕にぶら下がってみたりもして、これはこれで気に入ったようだ。

 彼女は彼女で、子ども時代のあどけなさを残しつつ、美しい女性に育っている。そして相変わらず、エイデンのことが好きで好きでたまらない、という風情だった。


 ユリアはエイデンの邪魔はしないように気をつけていたが、遊べる隙を察知するとすぐに飛んでくる。今もそうだ。あっという間にエイデンの隣までやってくると、得意げな顔で、ぱっとハンカチを広げた。


「ねえ見て! 前と比べて、どう!?」


 ユリアはエイデンの所に、刺したばかりの刺繍を見せに来たらしい。エイデンは汗を拭ってからのぞき込み、しばし硬直した。


「……ええと。これは、くま……?」

「猫よ! でも、今度はちゃんと動物だってわかったのね。わたくし、確実に上達しているのだわ」


 誤答に一瞬むっとしたように見えたユリアだが、すぐにまた満足そうな顔に変わる。


 お嬢様は最近、熱心にお裁縫を練習しているらしい。どうもオリジナルの図柄を発明したがっているのだ。このところ、正体不明の何かを作り上げては、エイデンに答え合わせを求め、困惑させていた。


 まったく、ちゃんとお手本通りに仕上げることだってできるはずなのに。お菓子作りといい、この人はどうしていちいち独自路線を開拓しようとしては、エイデンの所に持ち込んでくるのだろう……そろそろ八年の年月を共に過ごすエイデンでも、ユリアのこの性癖については不思議に思うばかりで、ちっとも理解が進まない。


「見本通りに刺せばよろしいでしょうに……いいのに」


 いつもの癖で丁寧なしゃべり方をしてから、すぐに今はユリアと二人きりだと思い出した。訂正が素早かったから、ご機嫌を傾けずには済んだようだ。


「だめだめ! 今度はね、服とは違うのよ。誰かの図案だと効果が薄れるの。エイデンにはもっとちゃんとした、御利益のあるものをあげるんだから」


 エイデンは思わず苦笑いした。

 ユリアは結構なプレゼント魔である。エイデンは既に何度も、お嬢様から身につける布製品あれこれを賜っていた。お手本通りの図柄だったが、何しろ一介の従者が身にまとうには豪華すぎる色やら模様やらのせいで、結局はお蔵入りになりがちだ。


 それでも贈られた初日は必ず一度袖を通すため、事情を察した周囲の人間にニヤニヤと居心地の悪い目を向けられる。


 さて、今回はどんな仕上がりになるのか……なんだかんだ、お嬢様がせっせと手を焼いてくれることが嬉しいエイデンは、無自覚に柔らかな笑みを浮かべている。


「色々考えたけどね、獅子がいいと思うのよ。たてがみの赤い獅子にするの! かっこいいでしょう? オオカミもぴったりだけど、赤は少し違うものね」

「……そういう柄の、ハンカチをくれるのか?」

「ただのハンカチじゃないわよ。でも、何ができあがるかはないしょ!」


 ユリアはこれで、厳しい教育係を唸らせるほど、完璧に淑女教育をこなせるらしい。実際、ふとした瞬間に垣間見る彼女の仕草は、非常によく洗練されていた。家庭教師と勉強している所も見たことがあるが、澄ました顔をしていると実に貴人らしく、威厳すら感じそうになる。


 けれど相変わらず、彼女は誰をも魅了する明るく屈託のない笑みの持ち主でもあった。エイデンの前では特に、ユリアは何を気負うこともない、ただの女の子になる。贈り物についてうきうきと野望を述べ立てている様子は、実に愛らしい。


 エイデンは目尻にわずかに皺を寄せている。いつも気難しそうな顔ばかりの彼が、こんなに穏やかな表情になるのも、ユリアお嬢様の前だけだ。


 ふと、さらなる訪問者の気配にエイデンが顔を上げる。


「おおい、エイデン! 伯爵様が、お話があるそうだ」


 使用人の一人が、何やら呼びつけに来たらしい。おしゃべりの時間に水を差され、ユリアはむっとした顔になった。


「お父さま、どうしても今じゃないとだめって言ってるの? わたくしがエイデンと話しているのよ!」

「お嬢様。旦那様のご用事ですから」

「まあ、冷たい! エイデンはわたくしより、お父さまと一緒にいる方がいいって言うの?」

「いや別に、そういうわけでは……その、わかりました、終わったらすぐ、戻ってきますから……」


 エイデンはすぐ呼び出しに応じようとしたが、ユリアは彼の未練なく去ろうとする様子に憤慨しているようだ。黙ってにらみつけるだけでお嬢様に近づく不届き者を散らせる男が、今は困ったように眉を下げ、しどろもどろに言い訳をしている。


 使用人はいつも通りな二人のやりとりを笑って見守っていたが、こほんと咳払いする。


「お嬢様にも、奥様からお話があるそうですよ」

「お母さまが、わたくしに……?」


 そう言われてしまえば、ユリアも母のもとに向かうしかない。


 二人で顔を見合わせ、なんだろう? と首を傾げた。



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