3.運命を決める言葉
***
ユリアはいつも通り孤児院にやってきたが、今度はいくら探し回ってもエイデンの姿が見当たらない。裏庭も倉庫もがらんとしていて、寂しげだ。
……なんだかいつもと違う、嫌な空気を感じた。居心地の悪さを感じつつもきょろきょろしていると、不意に人の気配がして、ユリアははっと立ち止まる。
よそいきの微笑を取り繕うと、小太りの少年が近づいてくるところだった。
「お嬢様。赤毛なら、今日は会えませんよ」
名もわからぬ少年は笑っているのだが、どうにも嫌な雰囲気だ。目つきも揉み手する仕草も、品がなくいやらしい。ユリアは形のいい眉を顰める。
「……なんのこと? だれかから、なにか聞いたの?」
「そりゃあ、まあ……」
小太りの少年は言葉を濁し、ユリアの不信感はますます強まっていく。
ユリアは秘密のお友達のことを、家族にしか打ち明けていない。孤児院に通うなら、母の協力は絶対に必要だった。外出するとなれば、父にも黙ったままとはいかない。
だから二人には、エイデンのことを既に話している。そして二人とも、むやみやたらに言いふらすような大人ではない。
では、エイデンがだれかに自分たちのことを打ち明けたのだろうか? それも不可解な話だ。
何しろあの少年は、ユリアが会いに行く時いつも一人でいる。それも決まって、誰も来ない寂れた裏庭に――まるで何者からも姿を、隠したがっているかのように。
「会えないというのは、どういうこと? お出かけしているの?」
「いやあ、その……出てこられる状態ではありませんで、はい」
「病気なの? それともけが? お見舞いがしたいわ。それとも会わない方がいいような状態なの?」
ユリアが様子を見ながら質問を重ねると、へらへら愛想笑いを浮かべようとしている少年の表情は次第に引きつっていき、目に冷酷な光が宿ったように見えた。
「お嬢様……なんでそんな、あなたみたいな選ばれた人が、わざわざあいつに拘るんです? 他の普通の子が、いくらでもいるじゃないですか。みんなあなたと遊びたがっているのに……!」
このでぶっちょの軽率な一言は、ユリアを憤慨させるのに充分過ぎたと言える。
外れくじ? 真逆である。エイデンはユリアに取っては、唯一無二の当たりだ。
エイデンみたいな子は他にいない。同じ目線で、ただユリアの話を聞いてくれる彼だからいいのだ。彼でなければ駄目なのだ。
普段は無欲で、聞き分けの良すぎるぐらいの伯爵令嬢は、このときはじめて執着するものを見つけていた。こうなったら絶対に、エイデンの顔を見るまでは帰らないと決め、本気の懇願を始める。
聖女の再来と評される美少女に泣き落としされれば、たかが孤児院の大将程度、否と言い続けることはできなかった。
「あんな奴に構い続けたら、人生損するだけだと思いますがねえ」
最後にそう、負け惜しみのように釘を刺し、渋々エイデンを呼びに行く。
まもなくユリアの前に、エイデンが連れてこられた。
彼女は変わり果てた友達の姿に、ぎょっとしてしまう。
エイデンは頭にも腕にも足にも、体のそこら中に包帯を巻いていた。歩いてくるときも杖にすがり、足を引きずっている。
ユリアは慌てて彼を座らせたが、その時にも、一瞬痛みで表情がわずかに変わったのが見てとれた。
「どうしたの!?」
「……転んだ」
相変わらず口数の少ない彼は、ぽそりと簡潔に説明する。
ユリアは唖然と口を開いていたが、はっと今日の孤児院のおかしな雰囲気と、先ほどまでのやりとりを思い出す。
「ねえ……あなた、ここの人達に、いじわるをされているの?」
ユリアはこっそり聞いてみたが、エイデンは珍しく、目を細めただけで何も言わない。だが沈黙が答えているようなものだ。
ユリアは怒りで顔を赤くしたが、直後にすぐ青くなる。
「そのけがって、わたくしのせいなの? さっきね、あなたとはもう話すなって、ここの人が言ったのよ。……わたくしがあなたとお話をすると、あなたが酷い目に遭うの?」
――エイデンは答えられなかった。ユリアの言ったことは、間違いではなかった。
エイデンはもちろん、ユリアと会っていることを誰かに話したりはしない。けれど、何しろ閉鎖的な孤児院という場所、どこかで誰かが、二人のことを見かけでもしたのだろう。
先日、子ども達のリーダー格である、太った少年に呼び出された。いじめっ子の彼はにやついて、エイデンにこう言いつけた。
「なあ。おまえ、お嬢様に気に入られてるんだろう? 紹介してくれよ」
結論から言えば、エイデンは要求を拒んだ。
ユリアを独り占めしたかったからではない。いや、多少はそういう部分もあったのかもしれないが、何よりこのいじめっ子のろくでなしっぷりを知っていたためだ。
でぶっちょは前に、女の子を泣かせたことがある。エイデンはそれを知っていた。でぶっちょに泣かされた女の子が、今度はエイデンを鬱憤のはけ口にしたからだ。彼女はでぶっちょへの恨み言を口にしながら、エイデンの服をびりびりに破き、何度も何度も殴りつけた。エイデンはだから、別に知りたくもなかったけど、大体何が起きたのか察してしまっていたのだった。
ユリアはエイデンにとって、大切な友達で、恩人だった。そんな彼女を、このクソ野郎に紹介する? そんなことは、たとえ嘘でもおべんちゃらでも、口にしたくなんかなかった。
――そしてエイデンは、お嬢様の前に出られないぐらい、殴られた。
でも今回はやられっぱなしではなく、急所に一発強い蹴りを返してやった。
今までエイデンはずっと大人しかったから、いじめっ子は予想外の抵抗にちょっとビビったようだ。あれ以来エイデンの手の届く範囲に近づいてこようとしない。
……まあ、しかし。そんなことは、ユリアに言う必要のないことだし、言えるはずがない。
だからエイデンは口をぎゅっと引き結び、それ以上何も言うつもりがない意思を示す。
ユリアはしばらく、彼が何か言うのを待っていた。エイデンの酷い有様に涙が出たせいだろうか、ハンカチを取り出して、行儀良く鼻をかむ。その間もエイデンの態度はかたくなに変わらない。
ユリアは自分を落ち着かせるように大きく深呼吸すると、凜とした顔になり、エイデンをあの湖面のような青い目で見据えた。
「エイデン。あなた、うちに来なさい。わたくしの従者に迎えます」
エイデンは最初、きょとんとした。ユリアの言葉を理解すると、自嘲のような表情に変わる。
「……無理だ、そんなこと」
「どうして!? わたくし、この場所にあなたを置いていけない。お母さまはね、人のいいところを見なさいって言うわ。わたくしもそう思ってる。でもそれは、悪いことをしていても無視しなさいって意味じゃない、そうでしょう? あなたは悪いことをされているわ。それを見ないふりをするのは、とても悪いことだわ」
エイデンは、ユリアの大好きな思慮深いハシバミ色の目を伏せ、そっと小さく言った。
「でもおれは、赤毛ですよ?」
「……だから、なに?」
「赤い髪の人間は、産まれながら罪人なんだそうです。だから――」
「ひどい扱いをしてもいいんだ、ですって? あなた、わたくしがそんなことを言う人間だと思っていたの、エイデン!」
激高するユリアを前に、エイデンは目を丸くする。朗らかで穏やかで、争いとは無縁の人間――そう思っていたお嬢様が、肩を怒らせ、声を荒げ、憤怒の目でエイデンを見据える。
「あなたは赤毛だから、わたくしと遊んじゃいけない? ええ、知っていたわ、知っていましたとも。そう言う人がいるってこと。でも、だから……なんなの? なんだっていうの?」
エイデンは孤児院の子達に気絶するまでボコボコにされた時よりも、衝撃を受けた心持ちで立ち尽くしていた。
知らないから、彼女は親切で優しいのだと思っていた。だって昔、エイデンの“真実”を知った人は、全員がその掌を返した。彼女もどうせ同じだと、心のどこかで諦めていた。
だけど違った。彼女はとっくに、エイデンが何ものか知った上で、会いに来てくれていたのだ!
「あなたの髪は、だれよりもきれいだわ。あなたの目は、だれよりも澄んでいるわ。百年も前のおとぎ話を皆していつまでも、なによ! あなた自身を知らない人達だから、悪魔だとか魂がないとか、好き勝手言っているのだわ!」
エイデンの心は、とっくに彼女といたいと感じている。
同時にエイデンの思考も、彼女と一緒に行った方がいい、と考え始めていた。
無気力な子どもでいた頃は、最底辺ではあっても、脅威とは認識されなかった。エイデンは孤児院の最底辺だったが、一方でその立場に甘んじることで、ある意味平和を保ってもいたのだ。
けれど今回、エイデンはいじめっ子に抵抗した。その気になれば反撃できる、と示してしまった。今後、エイデンが孤児院で過ごしていくなら、選択肢は二つ。戦って支配する方に回るか、それともまた元の立場に戻るか――前者を選ぶには彼には敵が多すぎたし、後者を選べば苛烈な制裁を避けられない。
――つまり、このまま別れたら、この手を振り払ってしまったら、本当にもう二度と、ユリアと会えなくなるかもしれないのだ。
「あなたと一緒にいたら、わたくしがひどい目に遭う、ですって? じゃあ、あなたじゃなくて、わたくしをぶてばいいのに。わたくしにはおべっかを使って、あなたのことは陰で叩いて……そんな人しかいない場所に、このまま置いてなんかいけない」
エイデンの気持ちは揺れていた。
頷かなければ、自分の命はないかもしれない。だが頷いてしまえば、確実に自分はユリアに迷惑をかける。どちらにしろ、恐ろしいことだった。
ユリアは迷う少年の手をしっかり握り、力強く重ねて言う。
「もう一度言うわ。エイデン……いっしょに来て。あなたといるわたくしが心配なら、ずっと側で守って!」
――守れ。その言葉で、彼の心が、そして運命も決まった。
エイデンはユリアの手を握り返し、「はい」と静かに答える。
互いに手を取り合う子ども達の姿は、将来を誓い合う夫婦の姿によく似ていた。