2.偶然? 必然?
***
「エイデン! やっぱりまたここにいたのね。お気に入りの場所なの?」
ところがユリアは約束通り、もう一度エイデンに会いに来た。
二度目の訪問の時、孤児院の人間はユリアが今度も来るとは聞いておらず、完全な不意打ちであった。しかも彼女は騒がれないよう、こっそり隠れて裏庭に入ってきた。
エイデンが固まっていると、ユリアは心配そうな顔になる。
「……まさかわたくしのこと、忘れてしまったの?」
「いいや。きみは……ユリアだ」
エイデンが慌てて返せば、少女はぱっと花のような笑顔を浮かべ、またあれやこれやとおしゃべりを始める。
「エイデンは、お花が好き? だからお庭にいつもいるの?」
「べつに……ここは人が来ないから」
「そう……? お花のことにくわしいなら、聞きたいことがあったのだけど……」
「……どんなこと?」
エイデンはそわそわする気持ちを抑えようとして、素っ気ない態度になる。それでもユリアを無視し続けることはできない。彼から水を向けると、途端に彼女はしゅんとした顔から一転し、きらきら目を輝かせた。
「わたくしもね、この前小さなお花をいただいたのよ。毎日水やりをして、鉢植えを日当たりのいい場所に置いているのに、最近はあまり元気がないみたいなの。何がいけないのかしら」
「それは……水をあげすぎなんじゃ、ないかな」
「本当!?」
「花の種類にもよるけど――」
他愛ないやりとりの合間、エイデンは何度か、ユリアに質問しようとして口を開いた。
――どうしてわざわざここに来るのか。
――自分のことを不気味だとは思わないのか。
――赤い髪の子と話してはいけないと、言われてはいないのか。
けれど結局、それらの言葉は出てこなかった。
ユリアの微笑みを見ると、彼女の言葉をもっと聞きたいと思ってしまう。どうせいつかはわかることだとしても、ここでわざわざ自分の口で説明する必要はないじゃないか――エイデンはそんな風に考えたのだ。
日が傾くと、ユリアは帰りの時間だと立ち上がる。
今度の別れ際、彼女はエイデンの手をぎゅっと握った。
「クールな表情もすてきだけど、次はあなたの笑っている顔も見たいわ」
そんな言葉を最後に、彼女はまた去って行った。
エイデンはその日の寝る前、握られた手を顔の前に持ってきてみた。
……これは土くれの匂いだろうか。ユリアはもっと、花のようないい香りがしたのだが。
夢のようなユリアの気配が残っていないものかと試していると、他の子のうるさいいびきがして、はっと我に返る。
自分は一体、何をしているのだろうか……。
きっと今度こそ、ユリアとの“次”はない。
わかっているはずなのに、二度あることはと思ってしまうと、一度目の時よりそわそわする気持ちがなくなってくれそうになかった。
***
ユリアは三度目も、こっそりとエイデンに会いに来た。
今度は雨の日だったのに、やっぱり裏庭に探しに来てくれた。
エイデンは彼女を倉庫に連れて行った。埃とカビの匂いのする薄暗い場所だが、ユリアは躊躇なく、楽しげにエイデンの隣に腰掛けた。
「あなたの言う通りね、お水をあげすぎないようにしたの。花は前より元気になったわ。エイデンって物知りなのね」
小さな燭台の頼りない明かりが、幸せそうに話すご令嬢を仄かに照らしている。
エイデンは期待と不安で心がぐしゃぐしゃになるのを感じた。
――今日こそ、聞かなければ。
からからの喉から勇気を絞り出す。
「きみはどうしていつも、おれに会いに来るんだ? きみと話したい人間は、他にいくらでもいる。おれの所に来ても、そんなにいいことがあるとは思えない」
頭でわかっているつもりでも、どんなに押し殺しても、エイデンの心は感じることを思い出していた。目の前の少女が、消えたと思っていた火をまた灯して、そしてたきつけている。
一度だけであれば、ただの思い出。
二度目があれば、幸運な再会。
もう三度目ともなれば――これ以上を期待してしまう。
最初から希望なんてなければ、裏切られることもない。
そして今がたぶん、手を離されても諦められるぎりぎりの期待具合なのだ。
エイデンがぐつぐつ煮えたぎる感情を抑えて喋ると、ぶっきらぼうで、冷たく聞こえるだろう。
ユリアはさほど気分を悪くした様子もなく、膝を抱えてくすりと笑った。
「そうね。わたくしと話したい人はいっぱいいると思う。でも……」
「……でも?」
「あなたはただわたくしを見て、わたくしの言葉を聞いてくれるでしょう? ここに来ると、ほっとして話ができるの。あなたは喧嘩もしないし、口汚く友達の悪口を始めることもないし、ぶつことだってないから」
エイデンはユリアの言葉に驚いたが、少し腑に落ちた部分もあった。
確かに、彼女は子ども達の中で、常に微笑んで話を聞いている側だった。ユリアを前にすると、皆自分のことを知ってもらおうとして、口数が多くなるようなのだ。そしてそれが加熱すると、口論や取っ組み合いが始まる。孤児院でも、そんな光景を見た。
一人きりのエイデンであれば、喧嘩は起こりようがない。会話は基本的にユリアが主導権を握っているから、誰かの悪口の話題になったことはない。そして暴力にいたっては、エイデンがユリアに行う理由が何一つとして存在しない。
(そうか。おれみたいな奴は、案外ユリアの周りには少ないのかもしれない)
「それにね。みんなはわたくしのこと、聖女様だって言うでしょう? それって、わたくしに聖女様として振る舞ってほしいってこと。……本当はね、好きじゃないの。“聖女の再来”なんて、言われるのは」
エイデンは更に目を丸くするが、ふっと苦笑を漏らした。今度はユリアがいぶかしげな顔になる。
「……なに? エイデンもわたくしが聖女様らしくないと……がっかりする?」
「いいや。聖女様なら、きっとこんなことはなさらない」
――赤毛の悪魔と倉庫に二人きりになる、だなんて。
もっとも、彼女はそれを知らないだけかもしれないけれど。
皆まで言わずとも、エイデンとこうしていることが聖女らしからぬ行動だ、と言いたいことは伝わったらしい。ユリアはきょとんとしてから、いたずらっぽい表情を浮かべる。
「そうね。聖女様は正しいことしかなさらないのだもの。わたくし、今、悪い子だわ」
「……かもね」
「エイデンは……悪い子のわたくしは、きらい?」
「いいや」
「それじゃ、ね……あのね。わたくしに会いに来られるのは、めいわく?」
しとしとと、外の雨音が響く。
「エイデンはわたくしといると困るから、こういうことはもうしない方がいいの……?」
ユリアはけして天真爛漫なだけの箱入りお嬢様ではない。エイデンが距離を置きつつも、決定的には拒絶しないから、自分の好奇心を優先させていたのだろう。けれど彼から明確に拒絶されたなら、無理強いをするつもりはないのだ。
これはユリアのわがままなのだから。
さて、一方のエイデンはハシバミ色の目を瞬かせ、考え込む。
ユリアが好ましいと感じたのかもしれないエイデンの“独り”は、けしてほしくて手に入れたものではない。
エイデンもかつてはユリアのように、屈託ない笑みを浮かべる子どもだった。
けれど無条件に愛してくれる両親は消えた。信頼していたはずの人たちから、こぞってお前が裏切ったのだと責め立てられた。
たぶんもう、あの頃のように、無邪気に他人を信じることはできない。エイデンは常に人と距離を置き、相手の出方を探っている。社会の最底辺、赤毛であるがゆえに。
――でも、もしあの頃の自分のままだったなら、きっとユリアはエイデンを選ばなかった。
幸せは人を無神経にする。そして、当たり前のことに人間は敬意と謝意を感じない。
たぶん、幸せなだけのエイデンは、他の人間と同様に、ユリアに聖女のイメージを持って接したのではなかろうか。そして彼女から話を聞く前に、まずはこちらの話をして、なんとか気を引こうとしたはずだ。自分は幸せで当然の立場の人間なのだと思っていたら……。
期待と願望の押しつけは、似て非なるもの。
エイデンだって、ユリアのことは綺麗な子だと思っている。そんじょそこらの綺麗じゃない。唯一無二の美しさだ。女神様みたいに見えることもある。
だけどエイデンは、ユリアに聖女であることを求めない。ユリアに自分を幸せにしてもらおう、救ってもらおうとおごり高ぶることはない。期待と違うからと失望することもない。
これはきっと偶然の積み重ね。
けれど確かにここにある一つの縁。
絶つのか、それとも――。
「めいわくじゃ、ないよ。むしろ……」
「むしろ?」
ユリアが促すように繰り返したが、その先は続けられなかった。
――迷惑なのは、きみの方。だっておれは、悪い赤毛なんだから。
「……花の話、もっと聞かせて」
かわりに、彼女の大切な世界のことを教えてくれるように水を向ける。
ユリアは目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに、話を始めてくれた。
「エイデン、また今度ね」
「……また」
今度の別れ際、エイデンは小さくも、確かにその言葉を返した。
ユリアはとびきりの笑みで応じる。
もう、“次”を疑うことはやめにした。仮にもし“次”がなくなったとしても、裏切りではないと思えたからだ。
エイデンは世界のふとした冷たさに震える女の子の、ささやかな日だまりなのだ。エイデンがいらなくなったなら、それはきっと、彼女が安心して世界の暖かさを感じられるようになったということ。あるいはもっとしっかりした、別の熱源を得られたということ。
だから“次”がなくなる日は、彼女にとって喜ばしく、またエイデンにとってもそのはずなのだ。
『――すてきなお名前ね。髪の色とぴったりだわ』
『だってそうでしょう? “エイデン”は、燃えさかる炎って意味を持つ言葉だもの』
ユリアはエイデンの凍えた心に、温かな火がまだ残っていたことを思い出させてくれた。だからエイデンも、もらった温もりを返している。ただそれだけのこと、そのための時間。
もし彼女が赤毛のことを知る時が来て、騙された、卑怯者とエイデンをなじる日が来たのなら――その時は甘んじて受ける。黙ってこの小さな火を守ると決めたのは、エイデンなのだから。
けれど二人の“次”は、それまでの三度と全く異なるものになった。