XX.聖女の伝説
――エイデンが単身、すべての罪を受けるために闇に去った、少し後のことである。
ユリアは馬を進め、大協会に無事たどり着いた。
そこには確かにエイデンの言う“協力者”が待機していて、ユリアを支え、世話をしてくれた。
ユリアは汚れだらけの体を清めてもらい、怪我の手当を受け、衣服を協会の簡素なものに変えてもらう。
今日はもう疲れたでしょうからと部屋の扉が閉じられて、ようやく見知らぬ小部屋で一人になれた。
どこか遠くで、雷の音が鳴っている。嵐がやってくるらしい。
暗い夜だったのに、エイデンはよくここまで自分を連れてこられたものだ。彼は今もまだ、闇の中にいるのだろうか。ユリアを安全な場所に残し、一人冷たい雨風に晒されるのだろうか。
ベッドに腰掛けたままじっと寝台脇の炎を見つめ、しばし回想する。
ユリア=トゥイリスは、さる伯爵家の一人娘として生まれた。
艶やかな黒い髪に愛らしい顔立ち、小柄で華奢な体つき。
伝説の聖女とよく似ている、と小さな頃からうんざりするほど言われた。
実際、ユリアのご先祖様には聖女の血が流れているという説もある。
伝説では、異界をわたってきた聖女は王子と相思相愛で、赤髪の一族を打倒した後にめでたく結ばれる。
だが実は、彼女には他に恋人がいた可能性があるのだ。
その男は騎士ですらない従者の一人で、聖女の身の回りの世話をするうち、自然と想いが通じ合うようになったらしい。誰よりも側にいて、見知らぬ土地に一人で泣いてた少女を、何も言わず抱きしめてくれる人だったから。
けれど彼は、聖女を巡る争いの中であっけなく死んだ。敵対する赤髪の一族の凶刃に倒れたのか、あるいは邪魔に思う誰かに亡き者にされたのか――真相は今では闇の中だ。
いずれにせよ、その話を信じるのであれば、聖女は王子と結婚した直後に、人知れず女の子を産み落としたのだ。婚前に結ばれていた、本当の恋人の子を。
その子はさる貴族家の養女に迎えられ、脈々と聖女の血を継いでいった。
もし本流に何かがあった時のための保険として、密やかに。
――そのさる貴族家こそが、トゥイリス伯爵家なのだという。
ユリア自身は、さほどその話を信じていなかった。似たような話は別の家にもある。
人は貴種に弱い。事実がどうであるかより、信じられる真実があるか――きっとそういう問題なのだろうと受け止めていた。
とはいえ、事実として、ユリアはどうも不自然なほどに他人をよく魅了する。
聖女と呼ばれることは嫌いだった。このやっかいな性質がもし本当にご先祖様から継がれたものだとしたら、恨めしいと思った。ありがたがって拝む他人が憎らしかった。
――好意はいともたやすく敵意に変ずる。どちらも接近欲求をはらんでいるためだ。
家族は恐ろしくない。父と母は、ユリアを無条件に、見返りなく愛してくれると感じることができた。
だが他人は? 特にユリアを聖女と呼ぼうとする人。
他人は聖女に見返りを求める。どれほど口で綺麗な言葉を並べ立てようと、その下にある本当の欲求はこうだ。
愛してくれ、聖女よ。素晴らしいお前の愛で、自分を価値ある人間と思わせてくれ。私を高めるために、お前を捧げてくれ。
――それが見えてしまうのが、何より嫌だった。
何気ない所作やたった一言のせいで、他人を劇的に変えさせてしまうことも恐ろしかった。
ユリアは赤の他人だから関係ないと切り捨てるほど非情になれなかったが、会う人すべての責任を取れるほど強くもなかった。
だから聖女扱いなんて嫌だった。
――けれど。
ある時、安心できる他人ができた。見返りを求めない、ユリアを害する可能性のない他人。
エイデン――燃える炎のような鮮やかな髪を持つ少年は、いつもじっと、ハシバミ色の目でユリアを見つめた。
実のところ、彼の名は単純な頭の色というより、瞳の奥に宿る光を示しているのだとユリアは度々感じた。
その目はまだほんの子どもだった頃から、いつもずっと静かだった。凪いでいる所をのぞき込んでいると、時折静かに瞳の奥で感情が揺れ動く。それでも彼は、けしてユリアに無体を働かなかった。
ユリアは少年の内にある炎の輝きを好ましいと思った。
――魅了されたのだ。はじめて、彼女の方が。
だから共にいてくれと願った。
守ってくれと言ったのは、その方が彼が彼女の側にいる理由ができるのではないかと感じたからだ。実際に自分の盾となることを望んでいたわけではない。
側にいてほしかった。あの輝きを、消えさせたくなかった。ただそれだけ。
本当は何をしてくれなくてもいい。エイデンがユリアに、何も余計なことを望まないのと同じように。
けれど彼は、予想外に成長し、やがて本当にユリアを守る立派な騎士となった。
彼自身の力で、逆境を乗り越え、居場所を勝ち取ったのだ。
誰よりも努力家で、誰に対しても誠実。
――自分のまやかしの誘惑などよりも、よっぽどしっかりとした、人としての魅力。
その輝きにこそユリアは惹かれ、共に在ることを願った。
それでも彼は本当の騎士にはなれない。
赤い髪は聖女の天敵の印。密やかな影となることはできても、隣に立たせることはできない。
ユリアは物わかりのいい女だった。そしてエイデンも、分別のある男だった。
――結ばれないなら、せめて同じ人のいなくなる世界を作ろう。
そう思って、王家に嫁ぐことにした。
王太子は実のところあまり好きにはなれなかったが、他者に自分をよく見せようとする性質はわかりやすく、同時に危うさも感じた。ユリアには、時折調子が良すぎる彼の舵取りを任せられる、しっかりした王妃としての役割を望む声もあった。
そうだ、臣下として、この国の民を導く存在を支えよう。
最近、最盛期に比べて権威が少々不安定になってきている王室は、ユリアの聖女の力か、そこに惹かれる人の力を求めている。
それらを持参金に嫁ぎ、王妃としてこの国を変えよう。王太子は乱暴な所もあるが、紛れもなきかの慈悲深き聖女の血を引く一族の一人――言葉を尽くせば、理解してくれるはず。
そんな風に、考えていた。結果がこれだ。
なんだかんだ、ユリアはずっと大切に守られてきた。あんな風に、物みたいな扱いを受けるなんて――どこかでそんなこと自分に起こらない、と感じていたのではないか。
自分のせいだ、とユリアの心は自身を責め苛む。
愛する人は自分を守るために死のうとしている。
なのにこの手は無力だ。
世の中すべてが、彼に死ねと、殺せと言うだろう。
相手が正しき王族で、彼が卑しき赤い髪の悪魔であるがゆえに――。
――光が、走った。
雷が落ちた。
あるいはそれは、天啓が下った瞬間。
正しき王族。卑しき赤い髪。
誰がそれを決めた? 誰が今の世を形作った?
人は今でも、この世をお造りあそばされた創造の女神と、彼女がこの世に与えた聖女を信仰している。
この際、神の実在の有無はどうでもいい。
聖女は今でも信じられている。
この世を救い、人を正しさに導く存在として。
赤い髪である。たったそれだけの理由で、彼は幼い頃理不尽な境遇に堕とされた。そして今も同じ所にいる。
そう、間違っているのは世の中の方だ。世の中が相手ではどうしようもない。ほんのわずか前までは、そう思っていた。
――けれど、聖女であれば。
世界を変えられる。聖女は世の中を変えられる。
実際に、悪だと断じられた赤い髪は、今この日まで悪のままなのだから!
赤髪の一族は、聖女を魔女と断罪し、排除しようとした。あれはある意味正解だった。
聖女と呼ばれた女は、この世界の人間を惑わす不思議な力を持つ。人々を魅了し、扇動することができる。
それを敵と恐れたのが赤髪の一族で、取り込んでものにしたのが今の王族なのだ。
歴史は常に、勝者が描くもの。
だから、同じことをすればいい。聖女として立ち、人の群れを導くのだ。
今度はたった一人の赤い髪の青年を救うために。
――それは同時に、扇動者に付き従う飢えた犬の群れに、襲う相手を指名するということ。
直接手を下すわけではない。だが指さした相手の破滅は、確かにユリアが招くのだ。
……それでも、やるしかない。
王太子を廃する。彼に黒を打ち、貴族に、そして民衆にそれを認めさせる。
できなければ、エイデンは死ぬ。
そしてエイデンを失った世界を……きっとユリアは愛せない。
ユリアは男に殴られて、何もできないような弱い女だ。
自分が原因で人を傷つけたくない――要は加害者になりたくない、ずるい人間だ。
だが、弱いと思われていることが、相手の隙を生み、同時に協力者との縁へとつながる。
ずるいからこそ、どうやったら被害者らしく立ち回れるか、彼女の後に付き従う従順な群れに標的を襲わせられるか、考えられる。
思い出せ。残された時間はわずかしかなく、可能性は限りなくゼロに近いかもしれない。それでもできないことはないはずだ。きっとどこかに、状況をひっくり返せる手が残っている。
エイデンは自分を生かすために道を敷いてくれた。王宮にたった一人で忍び込み、そこからユリアを救い出すという離れ業をやって見せた。
彼に奇跡が起こせるなら、自分にもできる。絶対にできる。
雷の音が遠くで鳴る。
ユリアは何かに導かれるように――否、自分自身の意思で歩みを進め、やがて協会内の聖堂へと至る。
そこにはすべての子らを、博愛で人を包み込む女神の像がある。
偶像を見上げ、ユリアは胸に手を当てた。
(神様。主よ。今日よりわたくしは、聖女となります。人類への愛ではなく、ただ一人の人への愛のために。御許に至れずとも、たとえこの身を最期は地獄の炎が包むのだとしても、それが彼と共に歩く道なら、喜んで焼けただれた道を進みましょう。そしてもし、この望みが叶えられず、一人生きながらえたなら――そのときは魔女になって、あなたもろとも世界をことごく焼き尽くしてやる)
燃えよ命。熾れよ心。
どうか炎よ、愚かで弱く、今も足の震えが止まらないこの身に力をください。
伯爵令嬢の青い瞳が、激情に燃え上がっていた。
――そして彼女は、聖女となった。